鉄の歴史
隕 鉄
鉄器文明は人類が隕鉄を手にした時から始まったといわれています。
隕鉄は星の爆発や衝突などで生じたもののうち、鉄を主成分とするものが地球に飛来してきたものでが、その大部分は、地球の大気圏に突入した際に大気との摩擦で消滅してしまうため、地球に到達するのはごくわずかな数となってしまいます
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隕鉄は以下のような種類に分類することが出来ます。
(1)ニッケル含有率が非常に高いアタキサイト(Ni12%以上)
(2)落下例 の比率が高く、ニッケル分も多いオクタヘドライト(Ni6%〜16%以上)
(3)ニッケル分の少ないヘキサヘドライト(Ni4〜6%)
これまでに発見された古代の鉄製品を化学分析すると、ニッケル分を多量に含んでいるものがあり、これらは隕鉄を素材として鍛造加工されたものと推測されています。
こうした隕鉄製品の中でもっとも古いものにエジプト先王朝代のゼルゲの墓から出土した鉄の首飾りがあり、これにはニッケルが多く含まれていると言われています。
この他イラク・ウル遺跡508号墳出土の短剣に10.9%、トルコ・アラジャホユクA号墳出土のピンに3.44%、C号墳の飾板に3.06%のニッケル分がそれぞれ含まれており、これらはいずれも紀元前2000〜3000年頃まで遡る古いものです。
このように世界各地から隕鉄を利用したと推測される鉄製品が出土していますが、化学分析されたものは出土物のごく一部にとどまります。これは出土物のほとんどが文化財としての原型維持が義務づけられているためで、化学分析が実施されることは極めて少ないのです。このため現段階で初期の鉄器文化の全容を解明することは難しく、今後の進展を待たなくてはならないでしょう。
日本に到達した隕鉄
(1)田上隕鉄(滋賀県大津市田上山) 重量171kg
(2)白萩隕鉄(富山県中新川郡上市川町上市川上流:かつての白萩村) 22.7kg 明治23年
明治31年、岡吉国宗によって鍛刀され大正天皇の佩刀となり、流星刀と銘文される。
(3)第二白萩隕鉄(富山県中新川郡上市川町上市川上流切理谷) 10kg 明治38年
(4)天童隕鉄(山形県) 10kg
(5)岡野隕鉄(兵庫県) 4kg
(6)坂内隕鉄(岐阜県) 4kg
隕鉄の加工
地球に飛来する隕鉄は大気圏に突入時に、ガスの影響と空気抵抗による高熱にさらされます。このため隕鉄内部のガスホールに不純物が生成されます。また比較的リンの含有量の多いものは(0.1〜0.2%位)鍛造加工時に「割れ」を発生することがあります。これまで研究者達が行った実験鍛造では、950度で十分な鍛造がなされたにも関わらず、これらの不純物が製品肌に黒色のキズを残す原因になっています。したがってリン分が極度に多い隕鉄の場合は、鍛造による加工は不可能だといえます。
なお隕鉄を原料に鍛造加工された製品の表面には針状の三角や四角形を押しつぶしたような美しいウィドマンスッテテン組織が肌全体に現れます。また隕鉄の場合は含有炭素の量が極めて低く、硬度という観点から見ると極軟鋼の部類に入り、焼き入れによる硬化は望めません。しかしながらニッケル含有量が多い関係上、硬化しているため切れ味の必要な刃物としての使用に耐えないわけではありません。
製鉄の起源
人類が鉄を作り始めた年代は、紀元前1180年頃トルコ領黒海沿岸の地方部族・ネオヒッタイトの時代まで遡ると言うのが主な説です。しかし年代については諸説入り乱れており、いまだに特定されてはいないもようです。
鉄を作る原料
現在、高炉製鉄用の原料は、赤鉄鉱・褐鉄鉱が主体で、我が国では主にインド・アフリカ・オーストラリア産出のものが使われています。
一方、我が国の鉄鉱石は埋蔵量が少なく、その上貧鉱というのが定説です。しかしそれは現代の大量生産を目的とした観点から見た埋蔵量であり、例えば、近年操業を停止した岩手県の釜石鉱山より産出される「餅鉄」は、含有量70%という高品位な鉱脈です。この「餅鉄」は純度の高い磁鉄鉱ですが、磁鉄鉱は工房くろがねの付近では土佐清水市伊佐の山中や、四万十市の金ヶ浜一帯の海浜に砂鉄として埋蔵されており、たたら実験操業に使用する程度なら磁石を使用して簡単に採集することができます。
現に山内家が土佐一国を治めた時代、富国事業の一環としてこの砂鉄を利用し、岩見国(現在の島根県)より工人を呼び寄せ、四万十市の周辺でたたら製鉄を実施していました。現在でも四万十市楠島にはその遺跡が残っています。また近年では第二次大戦および朝鮮戦争の際に、四万十市双海の海浜から大量の砂鉄が採掘されています。
日本の鉄
我が国の鉄器文化は縄文時代の末期から弥生時代初期に農耕文化と一緒に大陸から導入されたものと考えられています。したがって今から約2300年程前には、すでに鉄器が我が国にもたらされていたものと推測することができます。
日本の製鉄技術はいつから始まったのか
太古の昔から我が国には「たたら吹き」と呼ばれる製鉄の技術がありました。これは「古事記」や「日本書紀」の神話や伝説の中にしばしば現れてくることでも明らかです。
そして1〜2世紀頃、朝鮮半島南部から鉄製品が我が国に持ち込まれた際に、製鉄や鉄加工の技術を持った人々が渡来してきたと考えられます。
近年の考古学調査から、鉄器片が北部九州の「曲り田遺跡(縄文時代終末期)」から、鉄斧が「長行遺跡」からそれぞれ出土されています。こうした萌芽期の鉄文化は渡来人によって我が国にもたらされたものと考えられますが、その後原始的な製鉄法が我が国で始まり、古墳時代から奈良・平安・鎌倉と長い長い歳月を費やしながら経験の蓄積や技術の進歩を経て、江戸の中期まで我が国の「たたら製鉄」の技術は発達を遂げてきたと言われています。
今日、その技法が海外の考古学者や冶金学者にまで注目されている大型の「永代たたら」の操業技術、その技術が完成したのはようやく江戸中期のことです。こうした技術の初期段階を世界の製鉄技術史という観点から見ると、我が国の「たたら技術」渡来説には異論もあります。
近年、我が国の遺跡からは極めて小規模な原始製鉄の痕跡が数々発見されていますが、もしこれらが渡来技術とするならば、その原始製鉄の技術とその時代に本来伝達されるべき技術との間には大きな隔たりがあるといえます。
つまり朝鮮半島を経て我が国に伝えられた製鉄技術が、中国の漢代(紀元前2000年以前)に確立されていた技術であるとするならば、我が国の初期の製鉄法も当然稚拙な原始製鉄ではなく、高い技術に裏付された「土構製鉄」の技術である筈である。言いかえれば、我が国の製鉄法は稚拙な原始製鉄法から始まる日本独自の出発点を持っていると言えるのです。
中国の首都製鉄公司による「中国古代高炉の起源と変遷」の結論には次のような一文があります。
─紀元前8世紀より以前に、世界最初の古代高炉が中国には出現している─。
しかし現代の考古学において「人間が地球上でいつから『鉄』を作り始めたのか」、または「我が国の製鉄技術はいつから始まったのか」、これらの起源に関して未だにはっきりしたことは解らないのが実情です。
9.古代の製鉄技術
世界的に見ても、また我が国においても、古代の製鉄技術に関する文献はほとんど残されていません。全くないと言っても過言ではないでしょう。
西アジア黒海沿岸の遺跡から出土した紀元前の粘土板に、ヒッタイト文字で書かれた古代文書があり、それには次のような文章が記されていました。
「それは銀のように光り、錆びないもので、川の砂を幾度も洗ってピリマコスという石と同時に炉の中に挿入して得られる、しかしほんの少量しか生産することが出来ない」
また「ピリマコスは同地でいくらでも採取することができる」とも記されていますが、これしきの表現ではあまりにも抽象的すぎて技術書としては役に立つものではありません。
一方、我が国にも鉄山秘書をはじめ、いくつかの製鉄に関りのある古文書が残されていますが、操業や加工のノウハウについては謎解きめいたものばかりで、これもまた技術書としては用をなすものではありません。
いずれにしても、古代から近代に至る過程の中で、鉄の生産は各々の国家にとって極めて重要な役割を担っていたものであったため、その技術が外部に漏れることを恐れたものか、それとも技術者が自らの生活の安定のために、その技術を秘匿したのかも知れません。
こうした技術は「一子相伝の技」として、口伝のみの門外不出の技術して一族の間でのみ受け継がれてきたものでしょう。
こうした秘匿しなければならない程の貴重な技から生み出されてきた「古代の鉄」も、近代以降の大量に生産されるコストの安い安価な現代鉄に押され、市場価値を失い、そして「一子相伝」の技として脈々と古代から受け継がれた古代製鉄技術は、時代の波に埋没してしまったのです。
しかし近年になって、我が国では古代の鉄生産技術を復活させ、そして後世に伝えるために、日本美術刀剣協会が島根県横田町に「日刀保たたら」築き、また吉田村の日本鉄鋼協会や和鋼記念館でも秘伝書の記述や伝承を復元実験しつつ、その技術の復活に苦心を払っています。
また近年は、個人的に研究を重ねてきた研究者や団体が大学や企業と合流して、製鉄の原点と言われる「小型たたら炉」を使った製鉄法の研究も進められています。
こうした研究者の合流は、古代製鉄技術の復活と、ひいては「たたら製鉄」のプロセスの中から、現代製鉄にはない新しい技術の発見につながってゆくことでしょう。
10.縄文人の造った古代鉄とはなにか?
現在、製鉄は世界中で行われています。その方法は「高炉」という形状のものが主体で、熱源にはコークスが使用されています。
コークスは燃焼すると非常に高い温度を発生します。その温度で鉄鉱石を溶かしながら燃焼ガスで「還元」すると、鉄鉱石は溶融金属鉄(銑鉄)と不純物(スラグ)分離し、炉外に流出されます。この一連の操作を製鉄と呼びますが、銑鉄を流出させるまでの間に炉内では原料の鉄鉱石が高温にさらされて様々な反応が起こります。鉄鉱石は酸化鉄として含有される酸素が、コークスが燃焼する際に生成される一酸化炭素と結合することで「鉄」として生まれ変わります。また製鉄に使用される鉄鉱石には、通常30〜40%以上の不純物が含まれ、これらは溶融した際に比重差で分離しますが、反対に本来は分離させるべき物質が高温溶融した鉄の中に入り込んでしまう、と言う困った現象も起こってしまいます。リンやイオウがそれにあたります。ではなぜリンやイオウが鉄中に含有されてしまうかというと、熱源として使用されるコークスの中にこれらの物質が多く含まれているからであり、また原料の鉄鉱石の中にも少量含まれているのです。こうした物質を少しでも減少させるために、製鉄中の炉の中に少量のシリコンやマンガンを投入して除去します。しかし今度はシリコンやマンガンが鉄中に残留するため、完全な「鉄」にはなりません。しかしシリコンやマンガンが決定的に鉄の機械的な性質を低下させるわけではないので、許容される範囲まで再び転炉で精錬した後、鋼材として加工されて市場に出荷されます。
しかしより高い純度や機械的性質が求められる材料を生産する場合は、こうした高炉鉄では対応でいないため、冶金学者達は原鉱を加工したり、製鉄を違った方法でおこなう等して、より純度の高い鉄を得ようと日夜努力を重ねています。しかしそれでも現代冶金学では超高純度の鉄づくりは極めて難しいといわれています。
現在、我が国の冶金学は世界のトップレベルにあると言われています。
そこまで進んでいる我が国において、なぜ今更2000年以上も前の古代製鉄法が注目されるのでしょうか?
それはこの太古の昔に造られた「古代鉄」が、現代冶金学の粋を結集した製鉄法でも造り出すことのできない「鉄」だからです。現代の冶金学者達はこの「古代鉄」を分析して、そのあまりにも清浄で高い純度とその機械的性質の高さに驚き、そしてこうした鉄づくりの実験を試みました。しかし現代の製鉄技術でこのように清浄な「鉄」を採算ベースに載せて生産することはできないのです。
そこで時代を遡って古代の製鉄技術の研究が始まったのです。ところがこの古代製鉄は歴史の中に深く埋まる、とても難解な技術であり、目下研究はやっと端緒についたばかりといった状況です。
こうして我が国の冶金学に新しい分野として古代たたら製鉄の研究が始まったのですが、今まさにその第一歩が踏み出されたところです。この「たたら」の操業技術の中に、そしてそのプロセスの中に、新しい製鉄技術を発見するための「何か」が隠されているかも知れません。
11.むすび
これから皆さんと一緒に研究しようとしている課題は、この古代製鉄法です。古い名称は「たたら吹き製鉄」といいますが、これは別図に示すように山の土で簡単な筒型の炉を築き、木炭を燃料として操業するまことに稚拙な精錬法です。とても簡単な方法ですが、この方法でまともに古代の鉄(ケラ)を再現することのできる研究者は世界でもまだ数えるほどしかいません。
設備が稚拙で単純なほど、それを操る技術は困難を極めるものです。
そんな古代の鉄を皆さんと一緒に造り出せることができればいいですね。
※イギリスの研究者・プライオールは、隕鉄や石鉄隕石の数は、隕石到達数の12%〜14%程度であるとしています。
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