会報28号  巻頭論文
―宥玄・宥中に供えたわたしー
「放哉」南郷庵友の会 副会長 瀬尾哲命

老人は孤独

 台風続きの九・十月は自然の営みにもてあそばれ、各地でその被害が続出した。
 そんなある日、古い友人から電話が繁って
「私○○です、急にこの頃淋しくてたまらないので、少し話したいんです。」
 二・三日後、訪ねてくれた。 彼が語るに「家内が逝去して二十五年になり、年令も八十五歳、老人は孤独……やっぱり淋しい」 と言って帰った。

庵を開いて台湾落ちを留める

 放哉は「やっぱり台湾行かな」とキメて居たのです。処が、全く偶然に西光寺の和尚さんから夜、オソクなつてから、「庵一ツアク見込」′と言う電話…
(大正十四年八月二十四日小沢武二宛て書簡)
 私の師僧杉本宥玄は、放哉来島から三日後の晩に彼を客殿に招いて酒食を共にしてもてなした。その時の印象を玄々子は句帖に残していた。

外はあらし先生のコップのビールの泡  玄々子

山の和尚の酒の友とし丸い月ある    放哉

 筆者はこの句を見て二人は対座して酒を楽しみ、俳句を語り大いに談笑したことであろう。而して、放哉は親切な良き理解者に巡り逢えたのだった。

『之デモウ外二動カナイデモ死ナレル』    (九月二日井泉水宛)

 流転の旅にすっかり疲れた放哉は、南郷庵が気に入ったのだろう…天涯孤独で全くの無一文の身、それでいて自由に振舞えて束縛のない住み処は、彼が願っていた正に「安住の地」を得たのであった。

温厚親切な宥玄の曙好

 放哉の酒好きは別物として、師僧宥玄も大の酒好きだった。師が晩年、座右にした「陳眉公多小之箴」(ちんびこうたしょうのしん)に、酒はほどほどがよろしく…云々≠ニ言っているが、その実、とっくにほどほどを越えた酒量であった。
 宥玄は、灘の生一本「瀧鯉」 二級酒を好んでいた。宥玄の妻、文枝ご令室(わたしは、いつもこの方をおばあちゃんと呼んでいた)は、もっと良い酒を、量を少な目にしては、と進言していた。酒の肴は自己流で自家産、紫蘇の菓と実、唐辛子を少々の味噌で煮たもの、油揚げを焼いて醤抽を付けて、飲酒するのを楽しみにしていた。
 実際に宥玄老師は、彿道のことは詳しく、書物を愛し、俳句に励んでいた。柔和な人格者であった。その反面、自分自身に厳しい人だった。
 小説「海も暮れきる」 の著者、吉村昭氏は、宥玄の息子宥尚に宛てた年賀状の中で「宥玄という方の偉さが、書き進むうちにあらためて感じられます。」とペン書きしている。また色紙に「凄乎」と毛筆揮毫、名前と落款「昭」と認めている。
 師匠は「去る者は追わず、来る者は拒まず」を人生訓としていた。私は、落ちこぼれの最後の弟子だった。

放我と吽亭とのかかわり

 放哉を私淑していた宮本宥中(私の義父)は幼名赤木忠治、岡山県苫田郡富村出身、十歳で杉本宥玄の室に入り、得度して法名が宥中である。
 放哉が南郷庵に入って一ケ月過ぎた頃より「風と放哉先生」の中で、宥中が強い文学への誘いを受けていたことをうかがわせる箇所がある。夜ごと庵を訪れ俳句の教えを受ける。放哉より排号を「吽亭」と授かっているが、経本から取り出した一字、弘法大師空海の著書「吽字義」より引用と私は推察している。
 吽亭は「風と放哉先生」(昭和三年十二月十日記)と題して彼を偲んだ文章がある。
 「併し哀しいことは、先生が逝かれたことだ。風が何處かへ逝った頃、先生の霊魂も遠く此の地上から何處ともなく逝ってしまったのだ。一番先生の嫌いな〈風と共に逝かれてしまったのだ。アゝ私は風が恨ましい、怨んでも憎んでもあきたらない…」云々
 放哉の句には「淋しい」が多い、南郷庵で作った句に

とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた  放哉

淋しきまゝに熟さめて居り 放哉

猫の足音がしないのが淋しい  放哉

淋しい顔した二人で道で逢って居る 放哉

 四句日の淋しい顔した二人とは、放哉と吽亭ではなかろうか!
 「私の句作にむち打って下さるのは先生です。風が吹くと先生を思ひ出す。先生を思ふと精進せねばならない。」

夜びいて吹いて朝も吹いて師走の島はよ  吽亭

と放哉を偲ぶ句を詠んでいる。
 放哉の入庵食記の中には、十一月二十四日(旧七)オカユ(芋入り)…『山ノ檜ヲ』(吽亭氏)ヱ『一句カク事』紙アリとあり、大事に育成していた様子が窺える。
 赤木吽亭は昭和八年五月、岡山県児島部の中蔵院に入り、宮本秀禅の一子千鶴の婿養子となる。終戦後は小豆島で悟ったことを生かし、青年たちを集めて仏教青年学級を編成、農村の文化向上には「四Hクラブ」を組織して指導的立場に立っていた。その一方でも冠句会を開き文芸を楽しんでいる。

結びに

 瀬尾哲命こと、冒頭の老人は孤独…やっぱり淋しいと感じているが、放哉の淋しいとは随分と中身が違う。終りに放哉の辞世の句といわれている

春の山のうしろからが烟が出だした    放哉

 病に伏した彼は、火葬場の煙突から出ている「煙」を別の「烟」と置き換え、死を覚っ て詠んだ句だろうか…と勝手に私流に理解している。


井泉水と放哉(2) ―井泉水日記「放哉を島へ送る時」―
      日本放哉学会 小山貴子

編者注 小山子貴子氏の文章は先に
井泉水と放哉(1) ―井泉水日記「放哉を島へ送る時」をお読みください。

4 八月八日

 第一回では、大正十四年七月二十日、井泉水が京都での住まいを天得院から下京区今熊野剣宮町十六にある橋畔亭と名付けた小さな一軒家に移してきたこと。本誌で採り上げる日記は、八月六日から始まっており、大分別府温泉で働いていた女性「R」を京都駅で出迎えたことが書かれていることを述べた。別府の旅館「亀の井」には、二月から三月にかけて井泉水が長逗留していたのである。「R」という女性は、放哉の書簡の中では「れうちやん」として登場する。
 さて、その放哉が橋畔亭に転がり込むのは二日後の八月八日のことである。当日、放哉が来ることを知らない二人は京極に買物に出ていた。次は、二人が戻ってきたところからの日記である。
 「二人は十時頃戻って来た、すると卓の上にバナナの大きな一かたまりと置手紙がおいてあつた、初め北朗かと思ってみたがそれは放哉だった、出もどりだと書いてある、彼は龍岸寺の労役にたえきれなくて私の処へもどって来たのだった。封筒に金三円とかいて封が切てつかひかけにしたものが置いてあつた。私はRに放哉といふ人はかういふ人だといふ事を話しておいた。
 十一時になっても置手紙の主の放哉は来ないので多分、北朗居に行ってゐるのだらう、而して私の内に女か来てゐたことをそこできいて遠慮して戻って来ないのではないか、と思はれたので迎へに行ってやらうと門を出ようとした時、彼はかへつて来た。而して、Rがそこの□のこんろの前でお茶をわかしてゐる後姿を見てはいつて来た…こんな話をした。彼は私の留守としるとうどんやへ行ってビールをのんで私のかへりを待つてゐたのださうな。
 うどんやのかみさんがね…奥さんがいらっしやるというのだら、、…
 そんな筈はないといふたのだが、いやたしかに奥さんです、すばらしいべつぴんさんだといふのだ、何かの間違えたかと思つてゐたのだが…
 然し、あんたのまへのワイフによく似てゐるぢやないか…おどろいたね こりや…私はRを先に寝かした、それから放哉と話したが、Rが別府にゐた女で鉢花のモデルだといふ事を云つて、彼と私の干係(ママ)、彼に恋人がある事、などを話してきかした、彼はうなづいてゐた。」
 放哉は龍岸寺という寺で働いていたのだが、寺での労働に身体が続かず、寺を出た足で井泉水の住む橋畔亭にやって来たのであった。放哉が小浜の常高寺から京都に戻ってきたのはいつかははっきりしないが、七月十四日付の小沢武二宛葉書(『放哉全集』 第二巻) が京都から出されているので、十四日には京都に戻っていることがわかる。葉書の冒頭に、「井氏に面会して渡台したいと思ひます。」と書かれているので、放哉は井泉水に一日でも早く会いたかったようだが、井泉水は二度目の盆を迎える仏のために上京しており、京都に帰ったのが七月二十日であった。
 『層雲』 大正十四年九月号「京都より」によると、井泉水は二十日に帰洛し、新しい寓居である橋畔亭に移ったところへ早速放哉が訪れている。話が前後するが、この七月二十日から日記に見える八月八日までの二人の交流を『層雲』で見える範囲で整理しておきたい。記述したように先ず、井泉水の元に今後の相談に来たのが七月二十日である。翌日、二人で常称院に詫びをいれ再就職を頼みに行く。十四日に京都にいたのなら我が事ではあり放哉が先に一人で行けばいいようなものだが、詫びを入れたり頼んだりすることがひどく気がひけてできないのが放哉なのである。常称院の和尚と井泉水が知った仲であったことを心強く思ったこともあったと思われる。訪ねたところ、和尚は放哉の酒の上の失態を怒ってはいなかったが寺には人手が足りているからとて、その折に紹介されたのが龍岸寺であった。
 龍岸寺に行った放哉からはきつい仕事を嘆く葉書が幾度も来たようであるが、それでも暇が取れたのだろうか放哉は七月二十六日に橋畔亭で開かれた俳談会と句会に出席している。出席者は、京都の内島北朗を始めとして能勢より木戸夢郎、大阪より田中井児、澤田亨、それに米子の野阪青也、岡崎の酒井仙酔楼の他に、正雄、永井鬼太郎、漏(正雄・溝の名字不明)の名が見える。『層雲』十月号の北朗の一句会報の内容から推すと、正雄等三名が京都の俳人であろうか、この三名については詳しいことはわからないが、他はいずれも層雲の実力俳人である。当日は放哉と井泉水を入れて十一名の参加である。この俳談会は 『層雲』十二月号に掲載されている (「京都俳談」)。また、十月号北朗の句会報には、俳談後に行われた句会から九名の作品が掲載されている。放哉と井泉水の句は次のようなものであった。

  洋服の白い足折り曲げて話し込んでゐる  放哉

  橋脚高く梅雨晴るゝ水音       井泉水

 話は日記に戻るが、井泉水が京都に来た経緯を知っている放哉であったから、当然井泉水が一人住まいだと思い込んでいた放哉は、井泉水の元に女性がいると知ってさぞ驚いたことであろう。「R」について、放哉は亡くなった井泉水の妻桂子に似ているといい、また近所のうどん屋の女将は「すばらしいべつぴんさん」と評しているという。井泉水の日記にも美しいという言葉があるので「R」という女性は端麗な顔立ちであったのだろう。驚いている放哉に井泉水は「R」のことを「鉢花のモデル」だと説明しているが、これは、同年五月号に井泉水が書いた「別府竹枝」と題する作品の中にある、

 机に鉢花がある私は知らない

を指している。この句ばかりでなく、「別府竹枝」十三句には全て親密な女性の存在が暗示される。幾つかを挙げると、

 をんな身の上話して木の芽ほぐれる

 はっきり鷺鳴く日となつて別れる

 別れひもが春風の強さでは切れない

 潮に濡れてたぐりとつたる別れ紐だ

 のような句群である。また、八月号の「層雲社俳談」では「別府竹枝」の句を採り上げ、「鉢花」の句について二項に及ぶ自解を掲載している。特にこの句について井泉水は、「俳句の味は如何に人間の感情に切り込んで行つても、結局は自然にかへるべきものだといふ事をおさへてゐる点で、これは出発点であると共に帰着点だといふ気もする」という自然との一体化が芸術の極致であって、この句はそこから生まれた試みであり、新しい傾向を表現し得た作品として自信があったようだ。自解の中で、机に花を置いたのは「彼」 (R) ではないかと思い、そこに「愛や人情」を感じると述べている。更に、九月号の「関西俳談」の末尾にも「鉢花」の句を、

  恋  
  机に鉢花がある
   私はしらない

と二行詩にしてみて、全てを説明し尽くさずして暗示されるものがある点において、「恋」という題名は不要であり、(二行詩ではなく)これはやっぱり俳句であるという考察を行っている。こうした井泉水の試みは同人の注目を集めたであろう。一方で、傷心の師井泉水の心に火を灯した女性がいることを同人は読みとったであろうから、「鉢花のモデル」といえば放哉にもピンと来たものと思われる。
 その夜、放哉は橋畔亭に泊る。放哉の『入庵雑記』の「島に来るまで」にも「京都の井師の新居に同居して居りました事」が善かれているので御存じの方が多いと思うが、井泉水は日記にどのように記しているのかを見たいと思う。
 「それから、今夜は放哉とRの事から、Rが果してどんな気持をもつて私の所へ来てゐるのだらふといふやうな事から、女といふものゝ心理、女に就て、妻君に就て、性的生活に就てはなした。今夜はほんとうに今夜はほんとうに用意なく話した、学生時分にはよく話しに夢中になつて夜更かしするのを忘れる事もあつたが、今夜は丁度さういふ気持だつた、時計を見ると一時すぎてゐた。寝やうかといつたが陸たくはなく、又話して三時になり、それでも眠たくはなくて、なほ話して、とうとう布団を引いた時は四時だつた。全く時間を忘れてゐた、然し、時間を忘れるほどに話したといふ事はめづらしくて実にうれしかつた。此様な□会は人生のうちに数件もない事だらうと思つた。
 放哉は自分の妻君の事、それから彼が嘗て恋してゐた頃の話などもした。彼は自分の好きな女であつても、自分からあなたにほれましたなどゝいふ不見識な事をするのはいやだ、向ふからほれましてどうぞ私にほれて下さいといふて来れば、ほれてやるといふ事にしゐたといふ話をした。いかにも彼らしかつた。而して、お互にそれは悪い癖だね、つくづくと其非を知つたよ、然し、其非を知つた事が既に四十にしてはおそすぎたね、とも私は云つた。」
         (つづく)


―井上泰好さんを偲んでー
       「放哉」南郷庵友の会 山本照雪


 平成二十七年十一月二日午後一時半より、土庄町中央公民館で春潮吟社の一〇三一回日の定例句会をしていた。井上淳子さんより報せがあった。「昼前、井上泰好さんをお見舞いしました。とても、お悪そうでした」。
 淳子さんのご主人、井上武夫先生はお医者棟だった。土庄町文化協会の会長や「ひま わり福祉会」 の理事長もされていたが、先年亡くなられた。
 井上泰好さんとは、福祉関係のご嫁が深く、泰好さんの病状について、淳子さんの方へ、福祉会よりの連絡があったという。私は、その一ケ月ほど前の入院されている折りにお見舞いした。お元気そうで、間もなく退院するというお話だった。その通りに退院し、また入院されたのだ。
 句会の後の夕方、泰好さんが亡くなられたと、淳子さんより電話があった。
 井上泰好さんは私と同年配の昭和五年生れである。
 高松の俳誌、「紫苑」 への執筆を、小豆島時代の六年間と併せると、二十年間続けている。「小豆島文学散歩」が主流である。その中で、尾崎放哉関係の資料は、泰好さんより頂戴していた。脱稿の度、FAXして見て頂いた。電話が掛かる。「先生うまいわ」と先ず褒めて、細部のミスを指摘された。
 今後どれだけ書けるか分からないが、放哉関係の資料は頂けない。何よりも、長年の心友を喪った哀しみが、二年半後の今も深い。
 平成二十七年十一月四日の葬儀には、早目に斎場へ行った。受付の近くに座し、知人と故人を偲んだ。葬儀で「放哉」南郷庵友の会会長、岡田好平先生の懇ろな弔辞を拝聴した。  平成二十九年十月二十四日。地元紙に、井上泰好さんの、写真入りの記事が掲載された。泰好さんのお世話で十六回続いた「放哉大賞」が、大阪の結社に移った。泰好さんの思いが、自由律俳句結社「青穂」 の小山貴子先生に継承されると。
 新聞に載っている温顔を見ながら、井上泰好さんを偲んでいる。泰好さんの好きだっ た「テネシィー・ワルツ 」を口吟みながら。


―「放哉」南郷庵友の会の源―
         「放哉」南郷庵友の会 森克充


 尾崎放哉が亡くなって (大正十五年四月七日・四十一歳)五十五年の歳月が経っていた。杉本宥玄(玄々子)も井上文八郎(一二)も、彼の師匠荻原藤吉(井泉水)もこの世の人ではなかった。終絹布となつた庵は昭和九年の室戸台風に依って大破した。その翌年、新しい南郷庵に建て替えられていたが、その庵は白蟻の餌食にあって解体。「大於一本雀に与へ庵ある」と詠んだ「二夕抱えの大松」も捻くい虫の被害で枯れて切りとられてしまった。彼の句碑「入れものがない両手で受ける」は草で覆われ荒廃していた。その反面、小豆島の放哉は世間の人の批評が高まっていた。放哉全集(弥生書房)、放哉評伝(春陽堂)、吉村昭の小説「海も暮れきる (講談社)」などが発刊され、浪曲「小豆島の放哉(天中軒雲月)」にまでなってブームに沸いていた。秘かにNHK松山局の橘高幸三氏は放哉ドラマのシナリオハンティングに動いていた。
 ようやく地元でも、このままではよくないという声に、文化財保護委員会鎌田元徳会長が有志に語り腰をあげた。会合を重ね、(目的) 『すぐれた俳人としての放哉との縁を憶い、「その文化的つとめ」を果す。』 目的達成のため事業を行うとし、
@南郷庵跡の整備、保存。
A資料の収集、整備。(資料室の設置)
Bその他会報の発行等目的達成のための事業。
その規約ができて事業計画を立てた。会の趣旨に賛同し放哉に心をよせる人々のご協力を求めたようだ。
 而して、昭和五十五年十一月一日「放哉」南郷庵友の会が誕生し、ご理解を戴いた全国各地の方々からの心温まる浄財で南郷庵跡の整備を進められ、翌年の四月七日 (放哉の命日)午後二時から杉本宥尚(宥玄の子)西光寺住職、山脇利一土庄町長、鎌田元徳友の会会長ら十余名が参列して、鎌田会長揮毫の『俳人放哉易簀之地』の記念碑の除幕式を挙行されている。(この「易簀」とは俳聖松尾芭蕉の終焉の地に書かれてあり「身分のある、賢人の死」のときにつかう。詳しくは「曾子が死ぬ時に貴をとりかえさせた故事にならったもの。」)
 続けて放哉によせる人々の思いが、南郷庵の復元、記念館の建設等の声を聴く中に大きな「夢」を抱く会報「放哉」を創刊(昭和五十七年十月十日)。理想的な成果を収めたが、以後の活動は垣間見ることはなかった。

  放哉記念館構想

 平成三年十一月、香川県が「福祉のふるさとづくり」推進に来町。市町の個性を活かしたまちづくり展開を目論む話。(具体例は大分県の一村一品運動)当時、竹下内閣の「ふるさと創世事業」どんな小さい町でも一億円の基金を与えるから…と、その使途を考えさせられた…その余韻が残っていた。県の推進を受け容れて、小粒だがキラリと光る「放哉の南郷庵跡」 に塩本淳平町長はスポットをあてた。着手には起爆剤が要った。休眠中の「放哉」南郷庵友の会を起こすこととした。藤井豊(小豆島新聞社主)、三好晧(毎日新聞記者) 両氏に実情を伝えると理解を示したが、鎌田さんが故人となつており、十二月九日、新役員を調整(現・岡田好平会長)し、再び活動を始める。協力体制が整って、事業の副題を〜人にやさしいまちづくり〜とした。放哉と地元の一二、玄々子はもとより、荻原井泉水を顕彰する目標。「福祉のふるさとづくり推進事業構想」は、後方支援「放哉」南郷庵友の会の推進母体を得て、土庄町は予算案を議会に上程し議決を得た。

尾崎家墓参と資料調査で決起

 平成四年二月十一日、友の会は墓参と資料収集のため町が用意したマイクロバスに乗り込んで鳥取市へ調査研究旅行に向った。鳥取駅で放哉顕彰の第一人者、文芸協会富本純一(当時九十歳)氏と合流し輿禅寺の墓所へ、墓前に花を供え線香を手向けた。鳥取県立図書館には放哉の少年時代から数多くの写真が保存されていた。接写を許され早々と資料収集が出来て良かった。

はじめての放哉忌

 平成四年四月七日十時三十分から西光寺本堂で法要、西光寺墓所の中にある「大空放哉居士」墓参、西光寺客殿で自己紹介と情報交換、石井玄妙師の講和、場所を中央公民館に移して、「放哉の遁世を意味するもの」と題して、放哉研究家見目誠氏を迎えて記念講演。放哉の写真パネル展、座残会のテーマは〜人にやさしい町づくり〜「海も暮れきる」俳優の橋爪功氏、NHK橘高幸三氏、地元からは大村明美さん、見目誠氏、石井玄妙師らが登壇して満員の会場を"沸かした。  最初の放哉忌行事は多彩な催しで始って、以来今日まで定着。特筆すべきは「放哉忌」が俳句の季語となっていること。町文化協会には「放哉記念館」の開館(平成六年四月七日)後に井上武夫先生から、文化的発展のためにと示唆されて入会。しかし、今は友の 会の運営に衰えや陰りが見えている。その原因は会員の高齢化や牽引者の他界により、自然現象が著しく進行し、マンパワー不足から今後の活動が危うくなっている。

最近の主な活動

 放哉生誕百三十周年記念事業のバックアップ。鳥取県「放哉の会」と結ぶ交流事業。必要に応じて放哉記念館を訪れる人にガイド説明。マスコミ、雑誌社等の応対、それを具体的に示すとJR東海道・山陽新幹線のグリーン車内に配置して乗客に提供向けの
「にっぼん温故知新Cひととき、○特集行き着いた仙郷−尾崎放哉の小豆島−」
の取材協力がある。 
前ページへ戻る