同棲時代の終焉  私事になるが、愛する「にゃあ」が死んだ。今思えばこれこそ愛していたという感情に近いのだろうと思い知らされた。私もかつてはたくさんの女の子に恋をし失恋もしてきた。けれども、今回ほどのダメージをうけたことはなかった。つまり、恋は知っていたが愛というものを知らなかったということになる。何てことだ! 「にゃあ」は、たかが猫なのだ。猫に教えられるなんて。
 「にゃあ」が死んで、そろそろ1ヶ月になる。けれども「にゃあ」は今でも私の中にあって、私が動く度に、何かする度に、気配!を主張してきている。たとえば、目覚める。「にゃあ」は必ず私の車椅子の上で寝ている。これはこの半年、変わらぬ事象だった。私が目覚めの水を飲む。この段階では「にゃあ」は薄目を開けて私が目覚めたのを確認するが無関心を装う。次の私の行動を知っているからだ。次に私は必ずたばこを吸う。ゆっくりと。たばこを吸いながら、低血圧の頭がゆっくりと目覚めていく。10分か、20分か、30分か。私は着替えるべくベッドから起きあがる。「にゃあ」がたちまち寄ってくる。ズボン、靴下を足に通している十数分の間、私の顔に身体を押しつけるようにしながら伏せて待っている。ときにはチャチャを入れることもある。足を通したズボンを腰上まであげるために再度仰向けになると、私の肩の辺りまで来て同じように伏せの体勢になって私を待つ。私が着替えを終えて上半身を起こすと、「にゃあ」は、私の車椅子の上に一旦戻る。私が車椅子に移り始めると、私の尻に挟まれる寸前まで居座った末に、ベッドの方へスルリと移る。私が座りや靴下を直して車椅子のブレーキを解除するまで、ズボンに爪を立てたり靴下を噛んだりして遊ぶ。しかし私が車椅子を移動させると私の膝の上に乗り移ってくる。こんなパターンが二人のあいだに出来上がっていて、たとえそれがトイレであろうと入浴であろうと、パソコン、食事、飲酒のお楽しみ時間に至るまで、二人の日課になっていた。
 「にゃあ」が車にはねられていなくなってから私は本当に参ってしまった。秤にかけてはいけないが、彼女を失うよりずっとずっと辛いことだったのだ。生とは、命とは? そんなことを知らずに考えていたこの1ヶ月だった。今「にゃあ」の左上の牙が私の手首にブレスレットとしてあるのがせめてもの心の癒しとなっている。

                ―'97/12―