私は何もしていない。そのことは認識しよう。だが私は、
時間が過ぎゆくのを眺めている。時間を埋めようとする
のよりは高級なはずである。
シオラン「生誕の災厄」より
最近、脳味噌が腐ってきたらしい。集中力が極端になくなって、考えたりするのが面倒になってきた。時間の進みが遅い施設というところにいると、体内時計も自然とそれに併せてくるらしい。何かが摩耗しはじめているのかもしれない。
入所当時、目くじら立てて、しきりに生活改善をとなえたが、今やそんなことどうでもいいような気になりはじめている。ほら、昔の人が言ってるだろう「脳腐る鷹は爪隠す」って、きっと、それなんだと思う、俺の場合……。
円高がどうとか、竹下何がしがどうしたとか、ましてや、防衛費がGNPの1%を越えようがどうしようがまるで関係がない。新聞も読むことが少なくなくなった。興味がないのだ。どっかの国で飛行機が墜ちようと、フェリーが沈没しようと、ビルが全焼しようが、地震で街が全壊しようが、俺は日なが一日、前日となんら変わりなく、何をするでもないボーとした時をすごす。焦燥はなくなった。苦痛ではなくなった。けれど、施設内では俺に限らず似たり寄ったりの生活をしているのだ。まるで三谷友里恵の心境だ「郷に入れば郷にしたがえ」ってね。周囲を見まわせば、あっちでもボー、こっちでもボーだ。「犬も歩けばボーに当たる」ってなもんで、もうすっかり慣れっこになった。こんな俺たちのことをいうのだろうか「ボーの一族」って。
だが、もちろん俺たちにだって興味というものが全然ないというわけではない。まあ、たいしたことではないのだが、一応思いつくままに羅列してみると、自動販売機のコーヒーが売り切れになったままだとか、今日の昼飯は芋の煮っころがしだとか、今日の風呂は男が先だとか、今夜の泊まりは○△×▽さんだとか、まあ、そういうことだ。
人はどんなことにも慣れてしまう。人間という生き物は、それだけの耐久力を持っているとも考えられるが、俺はひそかに、何かが摩耗しているのだと感じている。その何かに恐れている。それは車のクラッチ盤のように少しずつ擦り減って、しまいには空回りしてしまうように、たとえ目と鼻の先で何が起ころうと、何の感慨も持てなくなってしまうような、そんな気がしている。そして車はスクラップ行きとなるのだ。
先日、ベッドの下のダンボールを引っぱり出してみると、雑誌やら衣類やらがたくさん出てきたので整理したのだが、こんな身動きのできない生活でも、生きつづけていれば、それなりに歴史のようなものが出来ていて、その折々の気持やら環境やらを思いだして懐かしかった。まだ七年半だがすでに懐かしいと思えるようになっている自分に驚いたりもした。車椅子の生活にも馴れ、精神が安定したということだろうか。それとも諦めきってしまったということだろうか。どちらにしてもクラッチの替えはない。 書きつらねた雑文も出てきて取捨選択がむずかしかった。薄くなったエンピツ書きのメモやら、変色したレポート用紙といった類いで、すべて夜寝ながら書いたものだ「歴史と子供は夜つくられる」か。荷物は少なくしたいし、捨てるのは惜しいような気がする。このことを言うのだろう「捨てる紙あれば拾う紙あり」と。生きてさえいればきっと、まだまだいいことだってあると思う。拾ってもらえることもあるに違いない。
春になれば……
'87.10
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