こわいくらいの篠突く雨が降った翌朝、嘘のように晴れあがった。あまりにも気持がよさそうだったので、朝食後すぐ、名ばかりの庭に出てみる。
 思い切って、水をたっぷりと含んだ芝生に入って、重い車椅子をころがし冒険する。
 花壇の紫陽花が先日よりいっそう色を濃くして水滴を光らせていた。表面を覆うおおかたの花弁は今が盛りと鮮やかな色を競っているけれど、丸い株の下方には、まだまだ赤ん坊のような肌をしたみずみずしい白い花片がいくつも待機していた。隣のガク紫陽花はアクアマリンのネックレスだ。何万もの時をかけて厳選した一粒一粒を研磨し、台座に埋めこんだ計り知れない時価を有する珍宝。目を足下に転じると、芝生のあいだからは、名も知らない小さな小さな黄色い花がいくつも咲いている。イヤリングにしたら、誰にでも似合いそうな優れたデザインだ。ブランドデザイナーくそ喰らえ。それにしても昨夜の豪雨によくもまあ耐えたものだと思う。花のおおきさは、昨夜の雨だったら一滴にすぎないだろう。それほど花は小さく、茎はか細い。自分と同じくらいの大きさの水滴を一夜でどのくらい直撃されたかしれないのに、今朝はもう何事もなかったかのように蜜蜂を誘い、その訪問を受けている。その強さしたたかさには、ただただ脱帽するしかない。
 それに比べ、僕は何とひ弱なのだろう。世間から隔離された生活を強いられているからというだけで、すっかり明日を諦めてしまっている。怠惰に息をするだけの日々。ひっきりなしに生じてくる苦に目を閉じ耳を塞ぎ、できるだけ意識を霧の奥深くに押しやって日常をやり過ごそうとしている。聞きたくもない部屋の共同テレビの轟音。館内を突き走る怒声、叫声。起床、食事、就寝をメインに繰り返される昨日と同じ何もない今日。そして規則、規則、規則。
 苦は自然である。最近そう思えるようになってきた。この世に滞在しているかぎり、この施設を取り巻く壁のようにそこから一歩も外へは逃れられないのだ。そのほとんどは、馬鹿な己がつくりだしていることではあるけれど、どう謙虚に考えてみてもそうは思えない事例の数々、たとえば同室のNくんのように、生まれながらにして全身動かせず声もだせず、といったような場合、これはもう、神の不当の仕打ちというよりは、自然としかいいようがないと思えてならない。陽光を浴びて蜜蜂の訪問をうけている花もあれば、そこからほんのちょっと外れてしまい紫陽花の株の下に着地した種子もあるだろう。一日中陽をさえぎられ、もし芽を出したとしてもひょろひょろと、今日一日生きながらえるのが精一杯というまま花をつけられずに枯れていったに違いない。一見気持ちよさ気にさんさんと陽を浴びている足下の花にしたって、実は芝生との日照権、領土権争いで生死をかけた熾烈な戦いを繰り広げている最中だし、小さな小さな虫たちにもう根はぼろぼろにされているのかもしれない。昨夜のような突然の豪雨にいためつけられることだってあるし、気まぐれな車椅子に踏みつけられて、すでに枯れるのを待つだけになっているのかもしれない。
 生きるって悲しい。何の保証もないのに、あしたにはきっといいことがあるなんて、漠然とそんなこと夢見ながら今を苦しんでいる。
 自然とは、おのずからしからしめると書く。辞書を引くと、本性という文字があった。人間を含むあらゆる生物や物質、この世に存在するすべてのものが、生まれながらにして有している性格、とでも訳せばその言葉の持つ意味に少しは近づくのだろうか。自と然を、それぞれ別々に繰ってみると、ひとりでにそうさせる、あるいは、そのような結果にいたらしめる、となった。しかし、誰だったか昔の偉いお坊さんが、自然のことを、自ずから、ではなく、己ずから、と解いていらっしゃったように記憶する。つまり己からそのような結果にいたらしめているのだ。
 生きているかぎり苦はつぎつぎと生じてくる。それは逃れようもない。借金苦などという明らかな事象だけでなく、たとえば同じ傷害仲間の多くがそうであるように、たまたまその車に乗りあわせてしまったばっかりに事故に遭ってしまった、というような場合、だれだって運が悪かったというだろう。しかし、そこには運だけでは片付けられない何かが介在しているとしか思えてならない。そのような結果に導き、いたらしめる何かだ。その何かとは、おそらくその人が生まれながらにして有している何かなのだろう。己の何かがその車に乗りこむよう誘導しそのような結果にいたらしめたのだ。
 苦は自然である。自然という意味は、一般によく使われる、人の力が加わらないそのままの状態という意であるし、この世のあらゆるものの生成と営み、という意でもある。そして、己からそのような結果にいたらせる、ともう一行加えることにする。よって枕を並べた同室のいびきに寝付けずとも、流れ作業のような気のない介護をされようとも、それは僕自身の選択の結果なのだから、受け入れてやり過ごすしかないのだろう。
 まあ、前向きに、前向きに――。
 足下の花より僕の方が決定的に恵まれていることだってある。幸か不幸か僕は外観が人間の形をしているので、生き延びる努力をしなくても、今後も生かされつづけられるだろうと言うことだ。

                                              '86/初夏