私は、一般社会に戻って暮らすことを希望しています。

 昭和六十一年九月十六日に、肢体障害者施設「○○」に入所しましたが、頚髄の六番を損傷し、行くあてもなく、自身では何ひとつ出来ないと思い込んでいた当時の私には、好むと好まざるとにかかわらず、施設というところに保護を求めるしかなかったのです。入所するにあたって私は、相当の覚悟をしてきたつもりでした。覚悟というのは、施設というところに一生涯住むのだ、我は捨てよ、と自分自身に言いきかせて入所したということです。と同時に、いつまでも居るわけではない、いずれは関東に帰るのだからという、何のあてもない自身をごまかす気持も確かに働いていました。好き放題してきた勘当同然の私ですが、母に頭を下げれば家に上げてもらえるかもしれません。しかし、もし帰れたとしても母はすでに年老い、すぐにまたこのような施設に救いを求めることになることは分かっています。私に逃げ道はなかったのです。
 初めの数ヶ月、さまざまな障害の人々との不慣れな生活にとまどい、そしてその中に身をおく自身のみじめさ情けなさに、心底から打ちひしがれてしまいました。私を取りまく環境を考慮すれば理性ではとっくに整理がつけられていたのに、どこかでまだ別の私があきらめきれないでいたのです。
 時間というものは人にどんなことでも慣れさせてしまいます。受傷当時の、一生指が動かない、歩けないという事実を知らされたときのショックも今はないように、それを当然のことのように受けいれているように、私もしだいに施設での生活に慣れてきていました。
 しかし、慣れるにしたがって、私の中のあきらめきれない何かが、またぞろうごめき始めていたのです。それは初めはっきりとした形としてではありませんでしたけれど、このままではいけない、という気持ちだけははっきりしていました。施設側が用意してくれる行事に参加し、あとの大部分を占める有り余った時間に本を読むことしか思いつかない人生、それがこれから先、二十年か三十年か分かりませんが続くのだと思うと、私の性分と考えあわせ、とても耐えられないことだということが分かってきたのです。
 私はいま四十歳ですが、四十歳という年令は、若いとはいえませんが若いといえなくもない年齢です。平均寿命は年々延びて、憂うつなことですが、もしかしたらまだ人生の半分に達したばかりなのかもしれないなどと考えると、日々実体のない焦燥にとらわれて、何をしていても、これでいいのか、とささやく別の私が常にあり、一時期、悶々と過ごしたこともあります。もう四十歳であるがまだ四十歳でもある、この中途半端な年齢は、施設内で日々提供される催しを淡々と受け入れて過ごすには、確かにまだ、若すぎるようなのです。
 県下の頚損連絡会という同じ障害の在宅の仲間たちから「今度セールスを始めた」「誰それも運転免許を取った」「長期のバザーをやるのだが手伝えないか」と、私より障害程度が重いにもかかわらず、生き生きとした生きざまを聞かされるにつれ、私も何かしたいという思いが強くなってきたのです。それはよくよく考えてみると、私も社会参加がしたい、いや社会参加をしているという意識のうえで生活したい、ということだったのです。今はただただ、たくさんの人の好意に庇護され、甘え、何から何までおんぶにだっこの生活ですが、それに慣れ、それを当然のことのように思い、知らず知らずのうちに自己中心的な苦情まで洩らすにいたっては、さすがに私も恥ずかしくなることもしばしばです。施設内の五十メートル四方の世界がいつのまにかすべてになっていたのです。気づくと何日も新聞を読んでいないことも度々で、持て余した日々をやり過ごすのには、考えないというテクニックを、私もいつのまにか身につけていたようです。
 誰にも平等に与えられた一日が二十四時間という時間、この時間というものが私に残された唯一の財産で、今後たいしたことも出来ないであろう私が、それをどのように過ごすか、いかに有効に消費していくかということが、とても大切だと痛感しています。その私の時間は私の責任で私に任されています。当たり前のことですが、その当たり前のことを今後しっかりと認識して生活していくかどうかで、そこには大きな違いがでてくるように思います。施設というところは、ある意味では温室のように至れり尽くせりで(真にそれを必要としているのですが)それは別の視点から見れば、そこにはどうしても甘えというものが出てきて、覇気、やる気、自立心、といったものをそぐことになります。私もご他聞にもれず、大いにお相伴にあずかって甘えてきたのですが、引き換えに大切な財産である時間を浪費してきたようにも思います。あまりにも楽なものですから知らぬうちにそちらに傾き、それを当たり前のように受け入れ、スポイルされ始めていたのに気づきます。私はこのままでは本当に駄目になってしまう。何の感慨も持てなくなってしまう。大袈裟なようですがそんな切迫した気持ちが常に私の脳裏を捕らえて離れないのです。
 もうひとつ大きな理由があります。それは純然たるプライバシーがないということです。私のいうプライバシーとは、心のプライバシーのことで、他人の視線という意味のプライバシーは私はあまり気になりません。共同生活なのですからそれは仕方のないことですが、私が苦と感じているのは、有り余るほどの時間があるにもかかわらず私の時間が持てないということなのです。居室は四人一部屋で、それは否応もなく二十四時間顔を付き合わせているということであって、話しかけられればそれに応え、四人のなかの誰かにほかの部屋から来訪者があれば聞こえ、テレビがかかれば内容を問わず聞こえ、通路をひっきりなしに人が通り、さざめき、そして施設のきっちりと決まっている食事や行事がこれに加わります。やっと静かになる九時には消灯です。一見すると個人の有する時間はたっぷりとあるのですが、ないのです。いえ、まるで初めて包丁を手にした人が刻んだ葱のように精神的時間がぶつ切りされてしまっているのです。こんな感じ方をする私の方が特異なのかもしれませんが、私はこのような私でしかありようがないので仕方ありません。
 入所して丸一年が過ぎた昨年の秋ごろには、持って行き場のないあいまい模糊とした焦燥はしだいに具現化し、私の目は外へと向けられていったのです。しかしまだ独居などということは思いもおよびませんでした。私個人をとりまく情況が許さないと漠然と思っていたからです。その独居という形をはっきりと教えてくださったのが、頚損連絡会のメンバーのひとりである
 △△さん(住所△△)という人の実践でした。
 彼は昭和三十八年に頚椎の五番を損傷といいますから私より重症で(一番違うと天国と地獄ほどの差になります)話していてもその歴史に深さがあります。たしか五十七歳という高齢だと記憶しているのですが、ヘルパーも付けないまったくの独居生活はすでに十三年になるといいます。私はこの△△さんからたくさんの話をきくことができ、私にも出来ると自信を持ったのです。四十歳という年齢は若くはないが、まだ若い。現在の△△さんの年齢まで頑張れるとしたら、まだ二十年近くもあるのですから。
 ちょうど年が変わり、私はまだ明けきらない元旦の闇に向かって「今年は独居を目指す」と声を出して自分に約束しました。そして△△さんの言葉を参考にしながら具体的な計画を立て、ともあれ自立への道を実行しはじめたのです。まずは有言実行、周囲に言ってしまって引っ込みがつかないようにして、自身にカセをかけることからはじめました。もちろん寮母さんにも協力してもらうという意でもあります。
 第一段階は寮母さんの手を煩わせないようになることです。△△さんに「何が一番大変ですか?」と質問したところ即座に「日々の着替え」という答えが返ってきました。私もそう想像していました。病院にいたころリハビリの一環として、短い期間でしたが経験して、広いマットの上ではなんとか着替えられたので感触はあったのですが、いざ始めるとまずは体力のなさに、それも不慣れなものですから必要以上に力をいれたりして、何とか着替え終えたときにはぐったりとしてしまったものです。服を「着る」と「脱ぐ」とに別けますと、着るほうが数段むずかしく時間もかかります。私は長期計画でまず、夕食後ベッドへ上がり服を「脱ぐ」ことのみに集中することにしました。
 私たちの怪我は自立神経が働かなくなっているので。体温調節ができず、外気温が低ければどこまでも体熱を奪われ、逆に高ければ体に熱がこもってしまうという厄介さを抱えています。たとえば真冬時、体温が下がり震えながらベッドへ入ったとしても、三、四時間ほどすると今度は適温を越えて熱を持ってくる、かといって掛け布団を薄くすればいつまでも暖まらずベッドのなかで震えていなければならないというジレンマです。ですから私は冬でも下着一枚で寝、暑くなったら布団をはぐって放熱するという方法で体温を調節しています。
 服を脱ぐということだけに関して述べるならば、初め、靴下を含んでも上下で五、六点の衣服にかかる行為だけで一時間以上かかっていたものが、一週間で半分の三十分ほどに短縮され、半月後には時間はさらに短くなり、夜寝るためにベッドへ入る、ということが苦痛ではなくなりました。この苦痛かどうかということはとても重大な要素で、一人暮らしをもし始めたとしたら、毎日毎日のことではあるし、誰が見ているというわけでもないので、きっと手抜きが始まるだろうと想像できるからです。誰しも楽なほうを選ぶし、それが当たり前になると、一着のものをいつまでも着たままでも平気になり、それは生活の乱れにつながっていくと考えられるからです。
 今日現在「たったの一人」ということを念頭においた疑似生活は五十日を越えました。まだ五十日なのですが、より困難だった朝の「服を着る」ということもクリアーし、私自身の計画よりもずっと早く多くのことが一人で出来るようになり(私の努力というよりも、むしろ能力がもともと残存していたということのようです)あと施設内で試行出来ることは、まだ試したことのない、排便というむずかしい課題ひとつとなりました。この施設に入所したとき、食事を摂ること以外自分では何ひとつ出来なかったのですから、いや、やっていなかったことを思えば今は昔日の思いです。
 私が試行の際、特に重要視していたのは、ひとつのことが出来たと認めるのはそのことで心に負担を感じなくなったときとしよう、ということでした。何度か出来たから良しとしよう、と自身ごまかしてもそれは何にもならないからです。後になって苦しむのは自分で、そのときにはもう助けてくれる人は周りにはいないのですから。一つのことを何度も何度も繰り返してやってみて、一番良い方法を探し当て、そして自信を得ないことにはやはり心のどこかに引っかかっているからです。
 今までは条件といったものを排斥して試行してきたのですが(たとえば、ベッドにやぐらを組めばずっと乗り降りが楽になる、軽い羽根布団にすればたたみやすい、といったことです)排便の際に便座に移るには、鉄棒のように横に渡した棒、あるいは上から吊した鎖のようなもの(これに腕をひっかけて上半身を浮かす)が必要となりそうです。あとは施設内で経験できそうもないこと、食事を作る際のさまざまな行為(包丁を持つ、ジャガ芋の皮をむく、湯の入った鍋を移す等々)も、自助具があればおおむね出来そうですし、あきらめていた湯舟に浸るにはリハビリ専門誌に載っていたものを用意すれば出来そうです。料理に関しては、健康だったとき一人暮らしを長くやっていたので、おおむね見当がつきあまり心配していません。
 もちろんいままで試してきた様々な事柄が出来たからといって、それで安心というわけではなく、△△さんのおっしゃていた「一日一日の積み重ね」という言葉が実感として分かりはじめたし「自分との戦いですよ」という言葉は今後も持ち続けなければ、恥ずかしい挫折ということにもなってしまうでしょうし、人がいない、もし何かあったら、という精神的なプレッシャーは常につきまとうでしょう。実際、すぐ頭に浮かぶのは病気になったらということですし、火を出したら、車椅子から落ちたら、物を落としたら等々、小さなことを考えだしたらきりがありません。もちろんその対策も頭のなかでは考えてはありますが、考えはどこまでも考えでしかありません。今まで経験した中にも、案外簡単に出来たこともありますが、意外なところで手を焼いたこともしばしばあったからです。しかし、四十にして立つ、という私のためにあるような諺もあります。まだ四十歳ですが、しかし、もう四十歳なのだから、今始めなければ二度とできないという切迫した気持ちが私を奮い立たせています。あとの長い半生を後悔したまま過ごしたくはありません。
 私はいま痛切に外で暮らしたいと希望しています。たくさんの人たちの善意にささえられて生活できている現在ですが、先日、冬雀が餌をさがして右、左とせわしなく飛び交う姿を、ガラス越しの暖かな日だまりから眺めていても、もう別世界のことのようにしか感じられなくなっている末期的私を発見しぞっとました。どうせ同じ長さを生きることになるのですから、もっと泣いたり笑ったりしたい。
 得意の卵スープを作りたい。雑草の生い茂った道を散歩したい。車の免許を取りたい。作業所でいいから働いてみたい。「プロ野球ニュース」を観てから寝たい。何時間でも心おきなくワープロに向かいたい。友人と手作りの料理でビールを飲みたい。ビートルズをスピーカーから流したい。ウインド・ショッピングをしたい。こまっしゃくれた子供と友達になりたい。外目からは、私には何ら変化がないように見えるかもしれませんが、これらの小さな願いは、私が求め、あるいはふと思い付き、私の責任で行動するという大きな違いがそこにはあります。
 先日NHKの福祉の時間という番組で自立している障害者の方が「わたしには物を生産するということが出来ないけれど、とにかく懸命に生きつづければ、もしかしたら、わたしの姿を見て勇気を持ってくれる人がいるかもしれない」とおっしゃっていたのがとても印象に残り、私はそこまで真摯には生きられないかもしれないけれど、私が健康な人々のなかで存在しつづければ、ご自分の健康について見なおしてくれる人がいるかもしれないと思い、不思議にうれしくなりました。
 福祉に関する知識はゼロに等しいので、現在私をとりまく法律的情況が、私の希望を許してくれるものかどうか分かりません。が、とにかく私は「独り」を前提にした生活をつづけています。すこしだけ自信もつきました。
 もし市周辺に住まうことができるならば、頚損会で知り合ったボランティアの人々や友人との交流ももっと容易になりますし、私の気持ちも今より支援を受けやすくなります。そして車椅子で行ける程度の距離にスーパーのある障害者用の市営住宅が理想であるなどと厚かましくも考えているのですが、場所、環境は特に選びません。「一人」がむずかしければ、男女、健常者、障害者を問わず気の合う同居人を探すことも、もちろんやぶさかではありません。一人で確かにやっていけるという手ごたえは、日々自信となって私のなかに積みかさなってきています。
 ご検証のうえご助力をお願いいたします。

           昭和六十三年二月二十三日 入所施設の一室にて

○×△様




 ** 県下の関係各所に送ったが、どこからも返事はなかった。
今こうして読み返してみると、無知で真摯でけなげだったのね僕って。