昭和63年度
懇 談 会 に お け る 要 望 福祉とは、介護とは。 さまざまな専門家によって、すでに述べ尽くされているだろうけれども、そして、ここでも長年の会議で論議、習得されていると‘思っている’だろうけれども、再確認していただきたい。要は、理屈ではないはずである。それに直接携わる人の”心”のありようのはずである。 経験でも技術でも、ない。 私たち入所者は、たぶん、人間として至らぬ点が多いから、今こうしてここに居、他人の手を必要としているのだろう。しかし欠陥だらけとはいえ、幸か不幸か人間には変わりないのである。同じ人間として、いくばくかの意志を有し、喜怒哀楽もある。 福祉という仕事は、人間の、特に弱者の、持ちたくても持てない部分を介護するのを主としているはずである。米作りをしているわけでも車を作っているわけでも決してない。さらにいえば、倒れた稲を起こす作業をしているのでもなければ、故障した車を牽引しているのでもないはずである。 不自由な我が身さえ思うに任せぬのに、およそ50メートル四方足らずの、この空間に閉じ込められ、さまざまな規制に束縛された生活を、職員は良く理解したうえで仕事をしているのだろうか? と、故障した車を扱うがごとき職員の不条理な言動に触れるにつけ、考えさせられてしまう。知っている”つもり”になっているだけなのではないのか。 福祉という仕事は、特に他の職種とは切り離して考えるべき特別な位置にあると思う。 たとえば、何かの店を始めたとする。その店内でぞんざいな応対をすれば、客はたちまち寄り付かなくなってしまうだろう。店にとっては死活問題である。どんな横柄な客であろうと、腰をかがめ、笑みを絶やさず、応対せねばならない。それがサービス業というものである。福祉という仕事もサービス業の一種であると私は断言する。断じて公務員でも、匠を売り物にする技術者でもない。が、私は、サービス業と呼ぶには、立場が逆転しているように思えてしかたがない。 つまり、上記の、店に例えるならば、サービスを売る側・寮母は店員であり、サービスを受ける側・入所者は客、ということがいえる。が、あいにくと、客である入所者の多くは、口がきけなかったり、意志を充分に伝えられなかったりする。さらに悪いことに客である入所者は、店の店員が、どれほど横柄な態度をとろうと、そこで買い物をするしかないことである。ここ○△という店の替わりがないからだ。だから、店員は決して逃げることのない固定客に対し、仕事ということを忘れ、腰をかがめず、笑みを見せず、弛緩した対応をしてしまう、ということになるのだろう。客がいなければ、店がなりたたない、ということを職員全員が忘れている。 いまいちど、入所者の生活を”自分のこと”として思い至らせたうえで、仕事の厳しさを取り戻してもらいたいと切に要望する。 「担当」とは?
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