夢について語れということであるけれど、その内容についてはここでは語れない。それはあまりにもバカバカしいから、あまりにも現実感に乏しく赤面ものだから。けれどそんな夢を持てたからこそ、わたしは今ここにいる。こうして至福の日々を過ごすことができている。ときとして「夢」は「目的」と重なっている。しかし「夢」の方がより曖昧模糊とした希望や願望がまじっているために、なかなか叶えられないのかもしれない。「夢」に一歩踏み込んで分析し、思い切って取捨選択し「目的」にまで引き寄せられれば、より身近なものとなって眼前に立ち現れてくれるものなのかもしれない。

 ちょうど10年前、わたしは独り奈落の底でのたうちまわっていた。障害者施設に入居して、3,4年が経過したころのことである。生来が奔放なわたしに、6:30起床、7:30朝食、自由時間、12:00昼食、自由時間、17:00夕食、21:00消灯、という日課を休むことなく周回させられる人生に疲れはじめていた。周回途中には自由時間という耳心地の良い時間が組み込まれてはいるけれど、あいにくその施設は民家から遠く離れた傾斜地に建てられていたため外へも出られず、実際は軟禁状態の放置という自由だった。入居者は50人、居室は6人部屋。24時間周囲にはつねに誰かいたけれど、わたしは独りだった。ニュースでもいい、テレビ番組でも、あるいは身近な誰かのうわさ話だっていい、そんな雑談のできる人が一人としてわたしの周りにいなかったからだ。しだいに周囲の人は迷惑の対象でしかなくなっていった。日々吐きだされる野放図な音や叫び、くりかえされるトラブル。当時わたしはまだ若く、それらを聞き流せるほど神経がすり減ってはいなかった。それらから少しでも距離をおくにはヘッドホンをして音を消し、部屋の自分のテリトリーから出ないことだった。わたしは強要される起床や一斉の食事以外は自分の中にいた。本の中に、ワープロの中に逃避した。けれど読書にだって息抜きは必要だった。無性に外へ出たかった。足許の名もない草花と話がしたかった。しだいにわたしは得もいわれぬ焦燥感に囚われていった。それは知らずに食べさせられていた農薬のように、わたしの体内に蓄積されて身体を蝕みはじめていた。ベッドで横になっていると得体の知れない何かが足許から這い上がってきて、心臓を圧迫してじっとしていられなくなった。暴れたくなった。絶叫したくなった。理性が負けて壊れていく自分のおぞましい姿を見た。わたしは否が応でもそれらと対峙しなければならなくなった。原因は分かっていた。まだ半分は残されているであろう人生を他人に預けたまま息をしているだけでいいのかという焦燥だ。具体的な夢を持っていないのも一因だった。私は夢を捻出した。現実的な夢は、ここから脱出すること。たとえ先にどんな苦労が待っているとしてもここよりましだと考えた。失って初めて思い知った自由という平凡な貴重品。それを取り戻すためならどんな手段でもとろうと決意した。けれど万が一、万事を尽くしてもなお不可能だった場合の保険として、資金的に自立する手段を獲得する方策を創出した。それは結果として脱出につながるからだ。わたしは一人で生活しなければならなくなった場合の明日に備えて、全面介護だった日常をひとつひとつ自立していった。あらゆる機関に嘆願書を送った。外の友人と偽装婚約して、県営、市営住宅を模索した。それらがすべて空振りに終わってまた迷宮に戻りかけていたとき、今のケア付き住宅の公募を知った。藁にもすがる思いで応募し必要さを訴え運良く当選した。現在の住居に入居できて早6年になる。全室個室、生活上のルールが何一つないという天国のようなところだ。強く願い、そこへ向かって進み続ければどんなことだっていつか必ず実現する。そう信じられるようになった。

 わたしは計画的に夢を捻出し実行し運良く具現できた。もう一つの夢 それは恥ずかしいのでここでは語れない。けれどそれも、今も少しずつチャレンジしつづけている。もう一段上がるために。

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隣室にけっこう性格のよい30を過ぎたあたりの女の子がいる。 その人から「私が参加しているグループの機関誌に、夢、というテーマで 原稿をかいてもらえないだろうか」と頼まれた。 最近は、ほとんど断ることにしていたのだが、その子の人柄から受けてしまった。 まあ、魔が刺したのだろう。期限内に原稿を書き(上の文章)その子に手渡した。
それから2ヶ月、忘れていた頃に「載っちゅうぜ」と、その機関誌を見せられた。以下の文章である。

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みんなのねがい 1998年1月号 No.359

 ちょうど10年前、私は独り奈落の底でのたうちまわっていました。障害者施設に入居して、3,4年が経過したころのことです。生来が奔放な私は、毎日決められた日課を休むことなく周回させられる生活に疲れはじめていました。その施設は民家から遠く離れた場所に建てられており外へも出られません。入居者は50名、居室は6人部屋。24時間周囲にはつねに誰かいたけれど、わたしは独りでした。 私は、一人暮らしをするという「夢」を「目的」にし、わらにもすがる思いでケア付き住宅の公募に応募して、運良く当選しました。入居して早6年になります。強く願い、そこへ向かって進み続ければ、どんなことだっていつか必ず実現する。私は、そう信じられるようになりました。今も少しずつ夢にチャレンジし続けています。もう一段上がるために。 (男性・高知)

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何の断りもなかった。私は意識して「である」にしていた。所詮は素人の駄文である。 文章に固執しているわけではなかった。私の文章と比してずっと簡潔で分かりやすい。けれど私は憤慨した。 一言でよかった、変更の何らかの連絡が欲しかった。 私は「みんなのねがい」とやらの本部に抗議のメールを送った。それに対して書面が送られてきた。 しかしそこには謝りの一言すらなかった。短い文章だったが、そこにあったのは逆に 「掲載してあげたのに」感謝されこそすれ苦情を言われるとは遺憾だ、というニュアンスのものだった。私は唇を噛んだ。 障害者を扱う団体とあらば、普段から人権とか心の有り様には特に敏感な専門家集団だと思っていたのが 全国組織ぐらいになると、どうもそうではなくなっているらしい。著作権とかで、徹底的に争うこともできたが、 私は止めた。私がかつて身を置いていた身障者施設の実体とダブって思い描いてしまったからだ。 それは・・組織がデカくなり、新たに湧きはびこる「飯の種、障害者」的人種には何を言っても通じないからだ。 勝っても空しさが残るだけと分かっているから。
                         ー'98.3ー