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原稿は、全部で6本です。
放送では、ニュアンスや表現方法が少し変わっておりますが、
この原稿元をスタジオに持ち入っての収録になりましたので、
ここではその原稿元をそのまま公開致します。

放送は、
 FMとくしま 80.7MHz 毎週土曜日 午前10時55分〜(5分番組)
 番組タイトル 「むすんでひらいて」(徳島県広報番組)
  私だけで構成されているものではなく、劇団のみなさんによる「人権劇」や
  イベント広報・活動報告など様々な角度から、
  人権・同和・差別問題について放送されます。
どうぞ、機会がありましたらお聴き下さい。

 

原稿元《1》

 私は人権についての講演などで、
『言葉のトリック』
について、よく話すことがあります。
 落語のオチやシャレなんかも『言葉のトリック』なんですが、
楽しい使い方じゃなく、誤解を招きそうなトリックもたくさん存在します。
 その1つとして『普通』という表現。
「昨日何してた?」
「え?普通…」
 とか、
「どんなお仕事ですか?」
「普通のOLです」
 というような会話はありふれたものですよね。

 『普通』を辞書で調べると、
「自然な、ありふれた」
 と載っています。
 ごくごく普通に『普通』と言ってますよね?
 別に大した意味など含めずに言ってますよね?

 じゃ、今度は、
『普通じゃない』
 という言葉を考えてみてください。
『普通じゃない人』
『普通じゃない仕事』
『普通じゃない家庭』
 かなり差別的な言葉・表現のように思えませんか?
 そう考えると、
『普通の人』
『普通の仕事』
『普通の家庭』
 という言葉にも、裏読みした時の差別的なものを感じてしまいます。

 これが『言葉のトリック』の1つです。
 先に『普通じゃない○○』というような言葉を出す事で、
『普通』という言葉の本来の意味を混乱させる方法。

 しかし、心の中に『○○じゃない…』という言葉を持ってしまっている場合…。
本来の『普通』という言葉にも違う意味合いが生まれてしまいます。
 私たちが気をつけなくてはいけない事。
 それは、心の中に『普通じゃない○○』というような気持ちを無くす事なんじゃないかな?

 こういうお説教のような事を語る私は、
『普通じゃない落語家』
 なのかも知れない…。

 

原稿元《2》

 10年以上も前の話になりますが、あるラジオ番組の取材で
『マッサージ師として仕事を始めてから30年』
という男性にインタビューをした事がありました。
生まれたときから全盲で、お父さんの、
「手に職・技術を持て」
 という勧めでマッサージの資格を取得したそうです。
 今でも現役で頑張っていらっしゃいます。

 放送本番前の打ち合わせのときに私は、その人に、
「目が不自由なのに凄いですね」
 と、特に何も気にすることなく話し掛けた。
 すると、その人は穏やかな口調の中にも厳しさを含めて、
「あなたもそういう表現を使われますか…」
 と、少し落胆したような表情でおっしゃられた。

 詳しく聞けば『目が不自由』という表現の『不自由』の『不』の事。
 その方がおっしゃるには、
「目が見えることが自由で、そうでなければ『不自由』と言われる。
 確かに世の中は目の見える人が暮らしやすいようになっているけれども、
 私は生まれたときからこの状態。
 不便だと思った事もある。
 受け止めなければならない苦労もあった。
 しかし、今ではこの状態で仕事もしている。
 収入もある。家庭もある。納税もしている。
 社会的な義務や責任は果たしているつもりです。
 だから、私は今の状態で自由を得ているつもりでいます。
 不自由という言葉は、目の見える人が、
 見えない人を見下した言葉のように思えて仕方が無いんです。
 何でも不自由という言葉でごまかさないで下さい」
 というような事を私に熱く語ってくれた。

 そして、その方の受け売りですが、私の心の中に深くきざまれているて、
心がけている事があります。
「放送などでの表現は難しいと思います。
 しかし、『不』を付けることで当り障り無くするのはどうかと思う。
 本来の『放送にふさわしくない表現や言葉』を隠してしまうのではなく、
 なぜ、使ってはいけないのか。
 なぜ、そのような言葉が生まれてしまったのか。
 ということは、ぜひ知っていて欲しい。
 そして、それは後世に伝えていくべきだと思います」

 この方がおっしゃった『なぜ?』をしっかり後世に伝えるためには
自分自身でたくさんの経験と勉強が必要な事を、今現在思い知らされています。

 私は出来る限り『不自由』というような言葉で、
曖昧にその場を通り過ぎるような話し手にはならないようにしたい。
 私自身の大きな課題でもあります。

 

原稿元《3》

 最近私は、講演講師の『先生』などと言われて、調子に乗って人権について語ったりする。
 しかし、現実の生活の中で自分を戒めたくなるような出来事が時々起こる。
 以前、私の5歳になる息子と一緒に徳島市内の
あるショッピングセンターで買い物をしていた時の事。
 車椅子に乗った中学生くらいの男の子が、
母親らしき人に車椅子を押されて私たちの前を横切って行った。
 その時、私の息子は大きな声で、その男の子を指差しながらこう言った。
「お父さん、あのお兄ちゃんは、なんであんなお椅子に座っとん?」

 とっさに私が出来た事。それは、
「人を指差してはいけません!!」
 と、息子の手を払う事だけだった。

 この事が私自身悔やまれて仕方がない。
 5歳の子供に分かる・分からないは別として、
『車椅子がどういうもので、どういう立場の人にとって必要なのか』
 という事を説明できる言葉をとっさに思いつかなかった事を。
 恐らく息子の声はあの親子ににも聞こえているだろうし、
私の、父親としての対応の不十分さも気付いているだろう。
 きっと嫌な思いをさせてしまったに違いない。
 そう考えると悔やむ気持ちに加えて、自分自身への腹立ちも出てくる。

 自分の活動の中での矛盾も大きく見えてくる。
 そして、その出来事の後、徳島県内のある所で講演する機会があり、
私はこの事を参加者に話し、自分の気持ちを伝えた。
 すると、イベントの後1人のボランティア相談員の女性が控え室に来てくれて、
とても暖かな言葉で私を慰めてくれました。
「反省したり悔やんだりする気持ちを大切にして下さい。
 そして、決して忘れないで下さい。
 障害を持っている方々への無関心が1番の大きな差別につながるんです。
 人々の無関心が障害者を疎外することになりうるんです。
 反省したり悔やんだりする父親の姿を、隠さずに息子さんに見せて下さい。
 そうすれば息子さんも一緒に考えてくれるようになるはずです。
 『人を指差してはいけません』って言えただけでも十分かも知れませんよ。
 最近じゃ、それすら叱れない親もいますから」
 そう言って、大きく笑ってくださった。

 とてもありがたい言葉だった。
 気持ちがとても楽になりました。
 でも、
「無関心が大きな差別につながる」
 という言葉は肝に命じておかなければいけないと実感しています。

 

原稿元《4》

 滋賀県のある町で開催された、
「同和問題啓発フェスティバル」
 に私が講演講師として参加したときに出会った作文です。
 幼い頃に差別を受けている事から教育を取り上げられ、
学校へ通うことなく、文字の読み書きが出来ないまま、
現在60歳をこえるまでにいたってしまったオバアチャンの作文。
『識字学級に行くようになって』という題でその作文は始まる。
 フェスティバルの会場で、原稿用紙2枚がそのまま展示されていた。
 何度も何度も消しゴムかけたであろう跡。
 桝目一杯に濃い目の鉛筆を押し付けたように書かれた文字。
 失礼ながら、見た目のイメージは小学校低学年の子供が書いた作文のようだった。
 しかし、その作文の内容に私は衝撃のようなものを感じました。

 こういう作文です。

   『識字学級に通うようになって』
 私は字を知らん。よう読まんし、よう書かん。
 60年だれにも言わんかった。
 聞かれへんかったから言わんかった。
 それでええと思とった。
 けど役場からのお知らせが読めんのんよ。
 嫁の置き手紙とかメモが読めんのんよ。
 それでも恥ずかしいと思てだれにも言わんかった。
 でもな、孫に絵本読んでやりたいんよ。
 思い切って主人に言うた。
 びっくりした顔してたけど涙ぽろぽろ流して、
「気付いてやれんですまんかった」
 て泣くんよ。
 怒られると思てたから、私がびっくりしたわ。
 次の日、主人が役場から識字学級の本持って帰って私に
「行くか」
 てきいてくれたから
「うん」
 て言うた。
 そして主人が息子と嫁に識字学級のことと私のことを話した。
 息子は、
「そんなん行くな。はずかしい」
 て言うた。
 私もそうやと思た。
 けど嫁が
「お母さんががんばりたい言うてるのに何が恥ずかしい。
 応援するのが家族でしょ」
 て息子をしかってくれた。
 そして私は識字学級に行けるようになった。
 もう8年になる。
 はじめは恥ずかしい言うてた息子が
 雨の日や暑い日や寒い日は車で送ってくれる。
 みんなが応援してくれたから8年も行けてる。
 絵本読んであげたかった孫も9才になった。
 家では孫が私の先生や。
 学校で習った漢字をすぐ私に教えてくれる。
 まだ読んだり書いたりできん字はぎょうさんある。
 でも私は前よりずっと元気になった。
 老人会で発言もした。
 他にも字知らん人いっぱいおると思う。
 一緒にがんばらへんか。
 おわり。


 最後の『一緒にがんばらへんか』という言葉。
 とても大切だと思います。
 頑張ろうと思ったときに、近くで頷いてくれるような人…。
 1人でも見つけることができたら、大きな支えになるんでしょうね。
逆に、頷ける立場として思ってもらえるような、そんな自分でありたいとも願う。

 

原稿元《5》

 落語家だからかも知れないけど、言葉に対して過敏に反応してしまう事がよくある。
 何気なく聞かれた、
「なんで落語家なんかになったん?」
 に対して、
「落語家『なんか』ってどういう事や、『なんか』って!!」
 と、以前の私は文句を付けたこともある。
 自分に落語家としての自信・芸・実力が備わっていれば簡単にはね返せる事なんだろうけど…。
 自分でも分かっている未熟さを、あらためて指摘されるような錯覚なのかも知れない。

 この『なんか』っていう言葉にはトラウマのようなものも私の中には存在する。
 私は家庭の事情で『母子家庭』で育った。
 自分自身の中では、取り立てて特別な思いは無かったけれども、
自分の周りの大人から嫌な言葉を聞かされた。
 同級生の母親が、わざと私に聞こえるように自身の子供に言い聞かせる。
「お父さんのおらんような子なんかと遊んだらあかん!!」
 と。

 私の母はスナックのホステスとして勤めて、私と妹との3人家族を養ってきた。
 その母親の事を、
「あの人はホステスなんかに行ってる」
 と。

 なんでそんな言い方するんだろう?
 母は頑張ってるのに…。
 僕は悪くないのに、なんで遊んだらアカンのだろう?
 私が子供の時にはそう思っていた。
 次第次第に職業差別や母子家庭への差別だと知った。

 周りの大人は何気なく使った言葉だろう。
 自分の子供を守るための方向の間違った指導だろう。

 今現在、以前の私のように感じている子がいるに違いない。
 以前の母のように頑張っている女性がいるに違いない。

 様々な差別は根強く残っている。
 言葉で傷ついてしまう事も多い。

 私の大嫌いな『○○なんか』っていう言葉もこんな使い方もある事を知った。
「差別なんかなくなってしまえ!!」

 

原稿元《6》

 人権とは直接関係ない話題かも知れないが、昨年徳島県内で大規模に開催された
「ボランティアフェスティバル」
 の、とある会場で参加する機会があった。
 そこで、ボランティア活動に励んでいる高校生の女の子達からこんな話しを聞いた。

「ボランティアをしてると、同級生とかから陰口言われるんですよ。
 『先生に良く見て貰おうと思ってやってる』とか
 『本当はイヤイヤやってるくせに』とか言われるんですよ。
 そんな気はないのに、嫌な気分になります」

 自分に思いがあって頑張っている活動なのに、変な偏見のような目で見られたり、
陰口を言われてしまうらしい。
 私にも思い当たる事がある。
 6年前の阪神淡路大震災の後、ある人が私にこう言ってきた、
「七福さんもチャリティー寄席やったらエエのに…。
 名前も知れるし、一石二鳥でよ」
 と。
 本気で怒るのも馬鹿らしい言葉。

 彼女たちと話しながら、その時に導き出した私の答えは、
「ボランティア活動に限らず、良いと思う事は『しない』より『する』方が良い。
 そのきっかけは『誰かに良く思われたい』という邪な考えでもいいと思う。
 ただ、本当に難しいのは続ける事だと思う。
 邪な考えのままに続けることは、とても難しいはず。
 続けることができれば、その邪な考えは無くなっていってるんじゃないかな?
 続けることに対しては大きい小さいはないのかも知れない。
 今自分に出来る事をする。
 毎日毎日何時間も頑張って活動し続ける人もいるだろうし、
 わずかな時間でも続けている人もいると思う。
 肩張って無理するんじゃなくて、できることを続ければ良いんじゃないかな。
 周りの陰口なんか気にすることないよ。
 例えば、点字ブロックの上にはみ出て止められている自転車を
 1台動かすのもボランティアだと思うし、
 自分が止めないように気遣うのもボランティアだと思う。
 自分が勝手にボランティアの大小やランクなんかの
 偏見や特別な思いを持たないようにすれば良いと思うよ」
 というもの。

 急に考えた事なので間違ってるような気もする。
 でも、そんなに大きくは間違ってないような気もする。

 確実に言えることは、これは彼女たちにというよりも
自分自身への説教だったのかも知れない。
 ボランティア活動に参加する事で
「桂七福の売名行為」
 と言われることを1番気にしている自分がココにいる…。
「売名行為が必要でないほど有名になって何かやってやる」
 みたいな私の意地こそ必要ないものだろうな…。