「家庭凶師」
順風高校封鬼委員会シリーズT−A by上山 環三
「それでは契約書にサインをお願いします」
その声で南雲 香代子は我に返った。 いつの間にか、テーブルの上に白い契約書が置かれている。 「あの・・・・?」 男は促す。 「あ、ごっ、ごめんなさい」 香代子は慌てて用紙を手に取った。 ――説明を、ほとんど聞いていなかった。しかし何故か、月謝の事だけはしっかり頭に残っている。香代子は頭の片隅で今後の家計のやり繰りを思ってやや憂欝になる・・・・。 一人息子の恭介の成績は、ひいき目に見てもあまりいいとは言えない。子供の話題は主婦仲間の間では二日に一度はあがる。 自慢ではないが、香代子は息子の事を他人に自慢した事がなかった。 恭介は今、高校二年生。進路の話がちらほらと出始める時期である。あそこの子があの塾に通っているとか、あの進学塾よりこっちの方がいいらしいとか・・・・。 もともと、香代子はそう言う話には疎かった。あまり興味もなかった。が、彼女は他の奥さんがスーパーの牛肉のパックを片手に熱く語るのを聞いて、すっかり洗脳されてしまった。要するに、『鉄は熱いうちに打て』と言う事らしい。 それでも――、香代子は息子を塾に行かそうとは思わなかった。塾は嫌いだった。彼女の知り合いにももちろん、息子、娘を小学生(あるいはもっと下)から塾に通わせている人はいる。が、それは彼女の教育理念に合わなかった(付け足せば夫の給料にも合わなかった)。 その点、恭介は、成績こそぱっとしないものの、真っすぐで正直な子に育ってくれたと言える。まぁ、『こう言う点』は他の奥さんに自慢できないものなのだが・・・・。 しかし、ここにきて香代子もさすがに不安になってきた。 このままの成績でいくと恭介は――。 息子の将来を思うと、居ても立ってもいられない。――そんな時、香代子はある主婦から家庭教師の話を耳にしたのである。 『うちの親戚の子の家庭教師をしてたのよ。その子はK大学に受かってねえ・・・・』 K大と言えば、この辺ではまずまずの大学だ。 『その家庭教師がなんでも凄腕らしくって、ここだけの話、結構いい男らしいのよ・・・・!』 と、――そんなに勧めるのなら自分の子供に付ければいいのに、何故かその話は香代子に回ってきたのである。 もっとも、すでに他の家の子供たちは手いっぱいだったのかもしれないが。 ――そんな事を思い出しながら、香代子は契約書にサインした。 「印鑑、お願いします」 家庭教師・薗田 俊雄は白い歯を見せて、爽やかに言った。 その笑顔に、香代子はドキッする。顔が赤らむのが自分でもよく分かった。 ――馬鹿。何を照れてるのよ・・・・。 薗田は思っていたよりも若く、たくましかった。背が高く、スマートな割に胸板は厚そうだ。そしてその声はテレビドラマの男優のように低く、甘く彼女の耳に響いた。 これから、彼がこの家にやってくる事になる。 そう考えた途端、香代子の胸は恋する少女のように弾んだ。 「あの、印鑑を」 ――薗田に見惚れていた香代子は、その声で更に赤面した。 |
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