〜記憶論〜     by


 やあ、お目覚めかね? 久しぶりに意識を戻したようだ。
 体調に変化はないかい? 何かしらの違和感を覚えることは?
 無回答はこちらとしては困るのだが、それも仕方ないかもしれな
いな。
 こちらのやりたいようにやるさ。構わないかね?
 相変わらずの無回答だね。まあ、肯定の意味として取らせてもら
うよ。
 さて、とりあえず君の今の状況を説明させてもらおう。
 ただし、ある程度までにしか教えないことはあらかじめ言ってお
くよ。
 まず、君のいる場所は精神病院だ。私はそこに勤務している医者
だよ。ついでに言うと君の担当医だ。
 おっと、言いたいことはあっても少しの間でいいから待ってもら
えるかな。
 質問は最後にまとめて聞こう。
 むしろこっちが聞きたいぐらいなんだからね。
 なに、それに関しては君の質問と同時に答えてもらうことにする。
 では、引き続き状況説明をしようか。
 君がどうして精神病院にいるのかというと、たまたま近くだった
からだ。
 決して君が精神的に病んでいるわけじゃない。安心することだ。
 ああ失礼。何が近くだったかというと君の事故現場からさ。
 そう君は交通事故が原因となってここに収容されているわけだ。
 だから『体調に変化はないかい?』と最初に聞いたわけだ。
 さて、私が与える情報は以上だ。残りは君自信から言ってもらい
たい。
 いや、聞きたいことがあれば聞いてくれて構わないよ。答えられ
る範囲であればね。
 それはそうとして君には私の質問に答えてもらおうか。
 君が今いる場所はどこなのか?
 私は誰なのか?
 ああそうだ。体調はどんな状況かも聞いておこうか。
 そして、君は誰なのか?
 おや、変な質問だと思ったね?
 つまらない質問で悪いがこれは君の精神状態を調べたいだけだ。
 精神的に正常であれば精神病院、もっと正確に言うなら大学病院
の精神科だ。そこから一般病棟に移すには名目が必要なのさ。
 さあ、待たせたね。ようやく君が口を開く番だよ。
 思う存分に話してくれても構わない。
 おや、返事がないね? ああ、なるほど。
 まだ完全に意識が戻ってないんだね。
 なんだ、無駄な時間を過ごしたな。

「待ってください。帰らないでください。
 意識は戻っています。質問にも答えます。
 体調は良好といえます。ただ、妙な違和感がありますが原因は分
かりません。
 それとあなたに関しては、今のところ何も分かりません。
 だから答えられません。
 あなたが言ったことをそのまま鵜呑みにしていいのか分かりませ
ん。
 それというのも今の状況が恐いんです。ただ、恐いんです。
 あなたの説明とはまったくかけ離れたところに僕はいるからです。
 あなたは僕が病院にいるといいましたが、信じられません。
 僕のまわりにはただ黒しかありません。一面の黒です。
 何もないんです。あなたの姿も、僕自身の姿すらも……。
 こんな病院は見たことがない。
 まるで無限地獄にでも落ちたかのような気分です。
 いや、地獄だってここまでひどくはないかもしれない。
 だからこそ聞きます。ここは本当はどこなんですか?
 教えてください。
 それともこれが答えられない範囲の質問だというのですか?
 ……分かりました。もう結構です。
 いずれ分かるときもくるでしょう。
 でも、こんな私でも自身を持って答えます。
 僕は誰なのか。
 ボクハ……オレハ……イ……オ…………」


 ここで僕は目を覚ました。
『変な夢見たな』
 何だったんだろうか。
 とりあえず自分が現実世界にいることを確認するために辺りを見
回す。
 時計の針は六時四十五分を示している。
『なんだ、もうこんな時間か』
 僕は起き抜けのあくびをしながら布団から這い出た。
『冬場は布団から出るのが億劫になるのは僕だけじゃあるまい』な
どと自分に言い訳をしながら、洗面所に向かう。
 キッチンの近くを通ったとき、妻の康子が驚いた声を上げる。
「あら、佑介さんが一人で起きてくるなんて珍しいわね。結婚して
から初めてじゃないかしら?」
「あ、お早う。相変わらず早いね」
 あくび混じりに一通りの挨拶を済ませる。
「早く顔でも洗ってきたら?」
 康子は笑顔を見せながら朝食の準備に取りかかる。
 味噌汁の匂いとタマネギを刻む音を聞いていると不思議と幸せな
気持ちになった。

「ところで佑介さん。明日は?」
 唐突に話を切りだされて僕は戸惑った。
「何が?」
 その言葉に康子は腹を立てたようだ。
「だって、明日は……」
 だから、明日が何だというのだ?
 結婚記念日といってもまだ二ヵ月前に結婚したばかりだし、別に
祝日というわけでもない。だとしたら……?
「あっ、康子さんの誕生日!」
「そう、私の二十五歳のね」
 満面の笑みを浮かべながら康子が何かを訴えるような目で僕を見
る。
「はいはい、分かりました。明日は早めに帰ります」
「よろしい」
 康子の機嫌を直したところで時刻を確認する。七時三十分と時計
は表示している。
「そろそろ行くことにするよ」
「はーい、行ってらっしゃい」

 僕の職場は大学病院の精神科だ。精神病理学室で日がな研究論文
を書いている。
 こう言うといい身分のように聞こえるが、実際のところはしがな
い助手にすぎない。
 まあ、二十九歳の若造じゃ余程の論文発表をしないかぎりはこん
なものだ。
 今のところは教授の手伝いをして合同研究として世間に売り出そ
うとしている。
 その教授というのが少しマッドサイエンティストな人で、渡瀬教
授という。
 精神科の副所長を兼任し、内外で人望は厚い。
 今のところは『人体における記憶の差し替え』というテーマを研
究しているが、人権問題に発展しかねない内容なので、今一つ成果
はあがらない。
 今日も今日とて実験用ラットで脳構造の解析を続けている。
 ああ、一つ付け加え忘れた。
 この合同研究にはもう一人関わっている。
 奥谷主任といって、助教授だが精神病理学室の主任だ。
 僕はこの人が嫌いなのでこれ以上の説明を加えたくない。
 とにかく嫌な男だ。
 ただ、もしも論文が完成して発表するときに、渡瀬・奥谷・池田
と並んで書かれるのは我慢ならない。
 今日もラットの脳に微弱な電流を通してその都度に行われる行動
パターンをまとめあげている。新婚旅行から帰ってからずっとこん
な作業が続いている。
 数限りなく繰り返し、もはや類似パターンしか認められなくなっ
たところで、教授に報告する。
「教授、ラットの脳解析はほぼ終了です。解析パターンはこちらに
プリントアウトしてあります」
「ご苦労さま、昼休憩取ってきなさい」
 時計を見ると十二時二十五分だった。たしかに昼食時だ。
 休憩を取るため、ロビーの椅子に座って煙草をふかす。
 慌ただしかったためか、いつもよりも落ち着いた気がする。
 だが、僕に近づいてくる男がいた。
 主任だ。
「よう、池田。お前も休憩かい?」
 無視するわけにはいかないので、愛想笑いを浮かべて適当に相槌
を打つ。
「ところで子供はまだなのか?」
 どうしてお前にそんなことを言わなけりゃならない!
「お前も若いからなあ、今のうちだよ。うん」
 お前の知ったことか!
「ああ、それとさっきの解析パターンのことなんだが……」
「何か気づいた点でも?」
「いや、そうじゃない。あれは何なんだろうな?」
 何を言っているんだ。まだ、実験の主旨を踏まえていないのか?
「なんて言ったらいいのかな……。例えば人間だって一人一人が微
妙に、とはいえ構造が違うんだぜ。ラットだってそうだろう?」
「何が言いたいんですか?」
「いや、やっぱりいいわ。考えがまとまらん」
 だったら最初から声をかけるな!
「じゃあ、先に戻るから」
 全く、見ているだけで腹が立つ。
 脳構造に個人差があったら何だというのだ。
 腹立たしさを紛らわせるために腕時計を見る。
 休憩に入ってから十五分程度、十二時三十九分をさしていた。

 日々白き壁に向かひて、不変の時を過ごすとも、心麗らかならず。
 日々青き空に向かひて、不変の理を覚らふとも、心穏やかならず。
 眠るにあたり、不可思議なる夢ばかりを見けり。
 古人曰く、山野にありて麗らかなるおりに、蝶の舞い来るを見た
る。
 いずれか眠り侍りしに自らを眺む。
 「こは」と思ひて見れば、己が蝶となりて辺りを漂ひける。
 「面白し」とかなむ思ひやり、辺りを漂えば友の来るを見る。
 されど友は気づかずして、己が肩を叩きけり。
 幾分もたたずして己が身に戻れり。
 さてさて、己が夢こそ蝶なのか、蝶の夢こそ己が自身か。
 聞きて老子宣く、いずれ劣らぬ幻想なり。惑はず生きよとぞ。
 先に書きたるを『胡蝶の夢』とか人は云はむ。
 されど我思ふに、その夢が真たりうれば、その人と蝶は似た類ひ
のものなり。
 人と人とて、同じやふな事ありえたり。
 されも下郎の身にて愚かなること、この上無しか。

『何だ、今のは?』
 どうやら夢を見ていたらしい。ふと我に返ったとき、目の前に見
慣れた風景が広がっていたことに安心した。
 しかし、奇妙な夢だった。今朝がたに見た不思議な夢も含めて二
度続けて妙な夢を見たことになる。
『どうして僕が?』
 夢の中ではノートに向かって鉛筆で古文調で文章を書いていた。
 視界に写ったのは両手とノート、それだけだ。
 今までに古文に興味を持ったことはない。ましてや夢の中とはい
え、それを流暢に書き綴っているなどとは考えられない。だとした
ら何故?
 だが、何かに気づいたように時計を見やる。
 夢を見るほど寝入っていたのでは時間も経ってしまっただろう。
 そう思ってみた腕時計の時刻は十二時四十一分だった。


「教授。
 少し相談したいことがあるんですが……」
 いそいでラボに戻った僕は真っ先に教授の所に向かった。
「ああ、私で構わないなら……。何?」
 と、僕の方を見ようともせずにぶっきらぼうに応じた。
「あまり人に聞かれたくないのですが……」
「じゃあ、あと三十分ほど待ってくれ。それからだ」
 これ以上は押しても無駄だった。三十分程度なら待った方がいい
と僕は判断した。
 そうして僕は自分の研究に戻る。
 今度は解剖し、摘出されたラットの脳を調べだした。
 先刻電流を流したラットの脳だ。これを通常のモデルと異変した
部分が無いかを事細かに調べようとしている。
 微弱な電流とはいえ、身体にとっては必ず何らかの影響を及ぼす。
 それはラットについても同様で影響を受けた脳が異変を起こし、
それが行動に結びつくようではこの実験は失敗なのだ。
 だが、結果は見事に失敗していた。
 大脳の部分に微小だが腫瘍が発生していたのだ。これが先天性の
物であれば勿論、最初からやり直し。そうでなければ実験の過程で
発生したものであるから、これらを改良して再び実験をやり直さな
ければならない。同じ脳モデル構造をしたラットがいるとは断定で
きないからだ。どちらにせよ僕の実験は振り出しに戻ったわけだ。
 これで四回目になる。いい加減に嫌気がさしてきた。
 しばらく放心状態を続けた僕の肩を後ろから叩く者がいた。
 首を捻って見れば、教授だった。
 もう三十分ほど経ったのだろう。
「待たせたね」

 僕は人のいないところなど心当たりが無かったので、仕方なく知
り合いのいないであろう工学科の広場が見渡せる銀杏並木に教授を
連れ出した。
 銀杏の季節は過ぎたが、地面の葉っぱはまだ掃除されきっていな
い。
 清掃業者の怠慢か、銀杏の生命力の賜物か、と根拠の無いことを
考えた。
 銀杏並木のベンチを見つけ、席をすすめる。
 教授が座ったのを確認して僕も腰掛けた。
 その途端に切り出された。
「相談ごとって?」
 そう、僕はそのためにここにいるのだ。
「まあ、若い君のことだからな。夫婦生活の事かな」
 少し苦笑しながら僕の方を向いた教授に対して、僕は首を横に振
った。
「あれ、違うのか? じゃあ、職場の環境かい?
 たしかに君は奥谷君とうまくいってないと評判だが……」
 そんな評判がたっていたのか、とさすがに驚いたが声に出して否
定する。
「違いますよ。どうしてそんな噂が……」
「ラボのみんなは知ってるよ。奥谷君本人も笑ってる」
 どうして僕が主任を嫌っている事が分かるのだ。
 僕は誰にも言ったことが無いんだぞ。
「どこからそんな噂が……?」
 その質問が教授の首を捻らせた。
「そう言えば、どこからだったかな?
 思い出せんな。まあ、君の普段の態度を詳しく観察した奴がいた
んだろう」
 僕は背筋が凍る思いだった。
 あれほどひた隠したつもりだったが、他人から見るとそれが分か
ったというのか?
 だとしたら主任はどうして平気な顔でいるんだ?
「教授、主任はそれを知っているとか?」
 足元を見つめたまま僕は問いかけた。
「たぶん知ってるはずだ。だが、それについて何か言ったことはな
い。驚くほどマイペースな奴だ」
 違う。主任は我儘な奴だ。自分が常に中心でいなければ気が済ま
ない迷惑なタイプの人間だ。
 なのにこのギャップはどういうことだ。
「別に君が悩むことじゃないだろう。
 それに相談事が別にあるんだろう?」
 そうだ、目的を忘れるところだった。
「ええ、そうでした。
 教授は確かカウンセリングもやっていましたね」
 問いかけるというよりは、確認の為の質問だ。
 教授が気のない返事をしたのを確認して続ける。
「心理学に基づいた夢判断はいかがです?」
 今度は返答に詰まったようだ。
 だが、中空を見ながら虚ろな目で答える。
「できん事も無かろう」
 さらに問いかける。
「ではその信憑性のほどは?」
「確証は……ない……」
 教授は再び目の輝きを取り戻す。
「私の人生の全てを注ぎ込んでいるのだ。夢こそが人間の本性であ
り、記憶を総合化した結果だ。そう信じているから今の私の研究が
ある。
 それを信じないなら君には今からでも研究から外れてもらっても
構わない」
 興奮のあまり両手を振って熱弁する教授をみて、僕は謝ることに
した。
「申し訳ありません。決して教授の研究を非難するわけじゃありま
せん。
 ただ、自分自身に研究結果を試されるのが恐かっただけなんです」
 ベンチに腰掛けながらではあったが、精一杯謝罪する。
「いや、いいんだ。各国の学者連中ですら明確な解答を出してない
分野だからね」
「僕は教授をこの分野では最高峰の人物だと信じています。
 だからこそ僕の見た夢に対して何らかの見地が欲しいんです」
 真剣な目を見せた僕を教授は理解してくれたようだ。
 ただ黙ってうなずいた。
 「まず、最初ですが……」
 

小説広場へ戻る TOP NEXT