短時間で話したにもかかわらず覚えていることは正確に話したつ もりだ。 今朝がたの暗闇の中に響いた謎の問答。 先程のノートと両手、そして文章。 教授は唸っている。どう判断したらいいか迷っているのだ。 「いかがですか、教授」 まだ唸っている。額に指を当てて考え込んでいる。 「こんな不思議な夢を続けて見たら誰だって気味悪いですよね」 それでも唸っている。今回の沈黙は異様に長い。 「大体全部話しましたよ。今度は教授の番です」 言葉で教授を後押しする。ようやくに教授は顔をあげて今度は宙 を見つめる。 考え事をまとめるときの癖だ。 「そうだな。話だけじゃ分からない部分もあるけど、最初の夢は会 話の流れにしては妙に不自然だ。だが事故に遭ったという部分とま だ意識が戻ってないという会話からすると暗闇の中の自分の声は本 当に途中からしか聞いてないんじゃあないだろうか。 何か事故というのに心当たりは?」 『いいえ、全く』と首を振る。 「そうか。 夢というものは何の脈絡もないところから自然に繋がっていく。 しかもそれは自分の体験が見せるものが多い。 心当たりがないというのなら……予知夢かな?」 僕は驚いて教授に言い返す。 「そんな! 自分の体験から自分が事故に遭うことを予知するなん て不可能です。 事故なんて、それこそ何の脈絡もないから事故なんじゃないです か!」 「いやいや、そんなに興奮するなよ」 そうかそう考えると日常にも夢と類似したものがあるんだな」 そう言ってまた指を額に持っていく。 「考え込むのは後にしてもらえませんか?」 僕の言葉で我に返ったらしい。はっとして辺りを見渡した。 「あ、すまん」 全くこの人は……。 「でも、一つ気づいたことがある」 「え?」 「その前に次の夢から言っておこうか。 これは注目すべきところは一つだ」 僕は黙って聞くことにした。下手に口を出して邪魔をするわけに はいかない。 「さてさて・・・という文章があったが、これは私達の研究に類似 しているとも考えられる」 「記憶の差し替えにですか?」 つい気になって口をはさんでしまった。こうすると教授は話が長 くなる。 「人と蝶とが共通の体験を持っていたという事だ。 人が蝶を見て自分の身体だと思うかい? 思わないさ、普通はね。 だが、蝶は人を見て自分の身体だと分かった。 何か不自然な話だろう」 「でも待ってください。 つまり蝶が人間の記憶というか……体験を持っているということ ですか? だとしたらまさしく不自然です。 人と蝶では構造が明らかに違います。それがどうして?」 教授は宙を見つめていた視線を自分の足元に落とした。また悩み はじめたのだ。 だが、その状態で解答が返ってくる。 「大切なのは文章にあった部分さ。 人の見た夢が蝶になった夢。蝶の見た夢は人になった夢。 それらを相互対称すると共通点は夢だ。 そうか、そうすれば今の研究もうまくいくかもしれないな」 僕は呆れ果てた。こんな時でも研究のことを忘れてない。たいし た人だ。 「それで、こっちに対する結論はどうですか?」 「結論か。 研究に対して行き詰まりを感じた君の小脳が出した直感かな」 長大息を吐いて返事をする。 「それが教授の見解ですか」 「ああそうだ。文章を書くというのは夢判断的に、後世に有名を残 すとある。 文章はいつまでも残るからね」 「でも直感なんて、結局さっきの予知夢と一緒って事ですか?」 「私に聞くなよ。 それに小脳が感じるって事が重要なんだ」 「本能的な、ということですか?」 一連の会話に疲れたのか、教授は煙草を取り出した。 こういうときの煙草のうまさは喫煙者にしか分からない。 「君には今更説明を、とも思うが・・・ 大脳がニューロンに司令電流を出すことは、我々にとって常識的 だ。 そして小脳はそれに対して補うべくモデルを作り出す。 これによって各身体機能がタイムラグを生ずる事無くスムーズに 作動する。 また、脳幹が司令電流を各器官に送り出す交感機能だ。これらを 踏まえた上での話だが極論を言うと大脳は夢を見ない。 人間が安らぐ時に小脳が活動中の体験から様々なモデルを作り出 す。 それが脳幹を通るとき、夢となって発現する」 ああ、それはたしかに研究を始めるときに教授が皆に伝えたこと だ。 「そして、夢を見る器官が小脳ならインスピレーションを感じるの も小脳だ。 ある種の予知夢や閃きは大脳の支配から逃れたときに自らに与え る啓示かもしれないというのが私の研究の基礎だ」 そう、僕はそんな研究を手伝っている。 「だがインスピレーションをもっと簡単に言えば本能だ。 これは誰しも持ち合わせている。 そして小脳は経験によってモデルを作り出す。 だとしたら小脳に刺激を与えることによって、記憶モデルを第三 者に発生させることは理論上にすぎないが可能ではある」 理論上……。 僕はその言葉を頭の中で何度も繰り返した。 「ま、君には今更だがね」 教授はもう一度その言葉を繰り返し、締めくくった。 「そうですよね。 でも、最大のネックは個人差のある小脳の構造と、小脳ではなく 細胞、いやD・N・Aにこそ記憶があるという世論ですよね」 「そうだ。だが、私の研究が成功すれば世論が引っ繰り返る。 世間が変わるんだ。面白いとは思わんか?」 僕は返事をする事無く、ただ口の両端を歪ませた。 「ところで……」 「まだ何かあったか?」 教授は二本目の煙草に火をつけようとしている。 「いや、先ほど気づいたことがあったとか……」 「ああ、あれか。つまらん事だよ」 それでも聞いておきたい。 「夢にしては妙に現実的で、繋がりすぎているな、と思ってね」 意味が分からないまま、僕も煙草を取り出した。 その後もしばしの沈黙が続き、堪えきれなくなった教授が答えて くれた。 「最初の夢は恐らく目を閉じたまま話したときの状況に思える。 一面黒の世界なんてそれくらいしか存在しない。 次の夢はもっと簡単だ。ノートに文章を書くとき、下手に意識し なければ君の見た夢と同じ情景が見えるはずだ。だから現実的だと いったのさ」 なるほど! 現実の視界をそのまま持ってくれば(目を閉じてい て視界というのか?)、教授の言う通り、僕の見た夢と同様の視界 がもたらされる。 「それに現実的な理由に繋がりすぎたストーリーがある。 確かに状況的には何の脈絡もないかもしれないが、世の中にはさ っき言った条件を満たす人はいないわけではない。 あまりにも前後の繋がりがありすぎる。 寧ろ一個人の現実といってもいいくらいだ」 第三者の現実が僕の夢に……それは……まるで……。 『胡蝶の夢』という単語と、今の研究が僕の脳裏をよぎった。 *
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