〜記憶論〜     by


 そう、事故にあった。
 そこまでは覚えている。
 助かったのか?
 身体を動かそうとしたが、激痛が走るので諦めた。
 だが、痛みを感じるということはまだ生きている証拠だ。
 今日は何日だ?
 事故からどれくらい経った?
 研究の方はどうなっている?
 考えれば考えるほど答えのなさに空しくなる。
 とりあえずここが何処か確認したい。
 そう思って瞼をあげようとしたが、それすらもかなわない。
 だが、嗅ぎ慣れた匂いがする。
 この匂いは確か……。
 そう、病院だ。
 それも職場の精神科じゃないのか?
 事故にあって一番近くの病院がここだったのか。
 だとしたら誰か知り合いがいるはず……。
 声に出して呼ぼうとしたが、口が動かない。
 まだ、後遺症で麻痺しているのか。
 いや、しばらくすれば治るだろう。
 それまではおとなしくしているのがいい。
 痛みを忘れて。
 何もかも……。
 全てを……わす……れ……。


 やあ、お目覚めかね? 久しぶりに意識を戻したようだ。
 体調に……。


 ここは精神科所長室。
 二人の男が何やら楽しそうに話をしている。
 一人は副所長の渡瀬、もう一人は所長の藤井といった。
「人権問題が相手ではお前も今の研究テーマはうまくいかんだろう」
「ああ、確かに。
 だが、偶然にも活きのいい患者が届いたからな」
 渡瀬の目は狂気を帯びている。
「彼のことかい?
 まあ、事故でここにきたことが不幸の始まりだな」
 藤井には部下の事故を悲しんでいる様子はない。
「で、結果の方はどうだい?」
「私の方法じゃうまくいかなかった。
 奴らと飲んでたときに奥谷君が面白いことを言ってたんでな、そ
れを試したんだ」
 藤井は、ほうと詳しいことを聞きたがる。
「まあ、詳しいことは報告書に書いてあるよ。これだ。
 勿論、他言は無用だ」
 分かっている、とさっそく報告書に目を通す。


「ほう。これを読む限りじゃ成功はまだ目に見える形ではないよう
だ」
「そう、それが欠点だ。だから、それを本人に直接問いたいんだが
知っての通りだ」
「精神異常……か」
「だから成功しているなら、今頃誰かになった夢を見ているはずな
んだ」
「しかし、ここまで人道に反すると世間には公開できんだろう?」
 渡瀬はその言葉を聞いて笑いだした。
「公開? 興味ないね。
 私はただ趣味でこんな事をしてるのさ。
 お前もよく知ってるだろう?」
 藤井はそれを聞き冷静に答える。
「そうだな。お前はその執着心がなければ所長になれたほどの男だ
からな。
 むしろ、若い連中がお前について行くことが信じられんよ」
 渡瀬はほめことばとして薄ら笑いを浮かべる。
「彼には感謝と同時に同情するよ」
「同情かい?
 奥谷君が聞いたら喜ぶよ。研究テーマにヒントをくれたばかりか
自ら被験者になってくれたんだからな!」

 

 BACK TOP 小説広場へ戻る