〜記憶論〜     by


「お前の今の状況は俺が担当した患者に似てる。
 要するに精神病患者だな」
 僕が?
「いや、別にお前が精神病なんて言うわけじゃない。
 ただ、自分の行動に責任を取りきれていない、それだけだ」
 自分の行動に……。
「昼に俺がお前に言いかけたこと、覚えてるか?」
 僕は答えることが出来なかった。
 その沈黙を利用して主任はまた酒をあおる。
 教授が眠ってしまったので手酌だ。
「答えられんか……。
 俺はな、ラットの脳に電流を流したときの行動パターンの解析結
果について言ったんだが、それでも思い出せんか?」
 僕は言われてやっと思い出すことが出来た。
 確か、あの時は考えがまとまらないとか言って……。
「その顔は思い出せたか。
 そう、俺は個体差がある生物の行動パターンを解析しても参考に
しかならんと思った。だが、それを克服する方法を思いついたんで、お前にアドバイスしようと思って今日の飲みに誘ったんだ」
 僕は主任の真意が分からないまま、問い直した。
「あー、つまりだな。
 記憶をするのは脳じゃないって事だ」
 ???
「そんな不思議そうな顔をするな。
 確かに行動に基づくモデルは小脳に発生するだろう。
 だが、それはあくまで神経回路をスムーズに動かすための補助シ
ステムにすぎん。
 大脳も似たようなもんだ。
 司令電流を出すための一器官だ。
 記憶を司っているわけじゃない。
 脳幹にいたっては身体の渇望を感じたとき、本能として大脳を刺
激するだけだ」
 あれ? でも教授は……。
「それは教授の考えだろう?
 考え方にだって個人差はある。
 確か、教授は小脳にこそ本能は宿るって意見だったかな?
 俺は細胞一つ一つにこそ記憶が、本能があると思っている」
 そんなもんですか……。
「まだ疑っているな。
 まあ仕方ない。医学界じゃあまりにも異端的な説だからな。
 だが、俺には根拠がある。ま、実証はできんが……。
 というのもヒトの細胞一つをとことん突き詰めると、実際に使用
されているのは全体の5%にすぎん。では残りの95%は何か?
 その内、染色体やミトコンドリア等の正体の分かっているものが
また5%だ。
 残りの90%は全く分からない。
 だが、最近の研究ではある種のシナプスが確認されたそうだ」
 ある種のシナプス?
「驚け。
 そのシナプスには小脳のようにモデルが発生しているらしい」
 モデル……細胞に?
「早い話が、細胞が集まって伝達機関……つまり、モデルになるわ
けだ。同じように物質の最小単位、原子でもモデルが形成されてい
る。分子ってやつがそうだ」
 なるほど、そういった解釈も出来る。
 むしろそれこそが物質形成の基本だ。
「そうだ。しかも、老若男女問わずときたもんだ。
 これがどういうことか分かるか?」
 老若男女問わずに……となると……。
「つまり、人間として類似する以上はありとあらゆる記憶を持ち合
わせて生まれている。それぞれ同様のいや、勿論これにも個人差は
あるかもしれん。
 だが、解析が終了してそれを第三者に応用できたなら……」
 どうなります?
「第三者は君のような症状に陥る予定だ。まあ、仮定にすぎんがな」
 僕は驚いた。当然だ。
 医学的に画期的、革新的な話だ。
 だが、一つだけ気になったことがある。
「ところで主任、それは実験したことはあるんでしょうか?」
 そう、僕のような症状に陥るというなら僕はどうなんだろう。
「ん? 自分のことを疑ってるのかい?
 心配しなくても人体実験はまだ出来ない段階だ。
 何しろ細胞一つ一つを事細かに調べる作業なんでな。
 生きてる人間じゃないといけないんだが、調べてる間に細胞が壊
死しちまう。だから、まだ解析段階だ。ラットのな」
 だとしたら僕は……?
「第一、仮説にすぎん理由に、現実とのギャップを感じる事だ。
 まさしく精神性のノイローゼ、最悪なら精神異常を起こす。
 今の段階なら夢を共有すれば記憶の差し替え成功とみていいくら
いさ」
 まだその程度なら僕はその犠牲者じゃあるまい。
 僕は一安心した。すると疑問がまた沸き上がる。
「どうして夢を共有することが成功なんです?」
「今更何聞いてやがる。
 夢ってのは記憶に基づく映像だろうが!
 脈絡の無い自然な記憶群が夢として表れるんだよ」
 そう言えば教授もそんなことを言っていたような……。


 結局、僕の見た悪夢に対しての解答は見つかりそうに亡かった。
 そんな些細な事よりも、改めて主任を尊敬すべき人物だったこと
に気づき、今までの理由の見当たらない嫌悪感を振り捨て、謝罪の
意味をこめて敬意を剥き出しにした。
 主任はあまり気になってなかったようだ。
 そう言えば教授が僕が主任を嫌っているのはラボの皆、つまり主
任も知っていると言っていた。
 だが、そんなことなどお構いなしの態度を見るうちに、所詮デマ
だった。教授の悪い冗談だと信じられるようになってきた。
 長い長い討論(一方的に主任が喋っていただけだったが)が終わ
り、会話が途切れだした頃、教授が目を覚ました。
 まだ酔いは覚めないらしく、顔中を真っ赤にして大きな伸びをし
た。
 そろそろ帰らないと奥さんが心配するとの教授の配慮からようや
く解散となった。
 帰りの道は例によって主任の車だ。
 僕は教授に助手席を勧めたが、教授は酔い覚ましに歩いて帰ると
言い張る。
 幸いというか何というか、教授の自宅は「おたかさん」から十分
ほど歩いたところにあるアパートだ。
 そんなに遠いわけではないので、僕は教授にもう少し店で休んで
からと言った。
 女将さんもお得意様には弱いらしく、快く僕の提案を受け入れて
くれた。
 これで教授の心配はない。
 あとは主任の方だが……。
 こちらはそれほど酔っているようには見えない。
 だが、万が一ということもある。
 しかし、僕が運転手をします、と言えば頑として他人には運転さ
せないとの一点張り。
 そんな問答を繰り返すたびに時間だけが過ぎていく。
 だが、どうしても譲らない主任に負けて仕方なく助手席に座る。
 主任は満面の笑みを浮かべ、運転席へと潜り込んだ。


「ところで、一つ聞いてもいいですか?」
 主任は運転に集中したいためだろう、前を見たままぶっきらぼう
うなずいた。
「結局、僕の見た夢って何なんでしょうか?」
「またそれに戻るか……」
「推測で構わないんです。何か、安心の保障が欲しいんです」
「安心の保障ね……」
 車は赤信号で一旦停車した。その隙にと主任は車に備えていた煙
草を取り出す。
「さっき言ったよな。俺の患者に似てるって……。
 あれは今のお前が似てるんじゃない。お前の見る突拍子の無い、
それでいて自然な繋がりを持つお前の夢を言ったんだ」
 つまり、精神病患者の現実を僕は夢見ている……。
「ああ、言わんでもいい。
 言いたいことは大体分かる。お前が夢を見てるんじゃなくて、向
こうがお前の夢を見てるのかも……俺が言いたいのはそういうこと
だ」
 それはまるで……。
「つまり『胡蝶の夢』だな。それとそっくりとは思わんか?」


 無言のまま時が過ぎる。
 車内の空気が張り詰めたようだ。
 この重苦しさは単純に会話が無いことが原因とは思えない。
 何か、何か本能的に嫌な感じがする。
 僕の直感がまた主任を嫌い出す。
 どうして……何故?
 声に出して問える筈もない。
 だが、自分には答えをだせない。
 その沈黙を消したのは一台の十トントラックだった。


 最初に聞こえたのは左から聞こえる大型車特有の低いクラクショ
ンだった。
 慌てて音の方向を見ればもう二メートルもない距離にトラックの
バンパーが見える。
 死ぬ……。
 そう思ったとき全てが分かった気がした。
 ああ、こうなるのが分かっていたのだ。
 だから意味もなく主任を嫌っていたのだ。
 そうか……。
 明日は……確か……。
 康……子……。

 

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