どこに進めばいいのか分からない。
自分の体が眠っているのか、立っているのかさえままならない。以前リナが言っていたクレアバイブルに続く回廊に似ているのかもしれないが、違う気もしていた。
そこには大地がなく、己の存在も薄れそうになる。
『自分をしっかり持ちなさい』
蠱惑的な、と表現するしかない声が耳朶を震わせる。
(ここは?)
声を出したつもりだが、空間には響かない。口からこぼれる端から、どこかに吸い込まれて消えていく。
『ここは、あなたたちの言葉で言うアストラル・サイドの近く。精神が、心のありようこそがすべての世界』
(どうして、ここへ・・・・?)
『あなたが知りたいと言ったから』
その声が耳朶を打つと同時に、何かが流れ込んでくる。
自分と、他人を区別する境が浸食される。
自分以外の何かが流れ込んでくる。
(・・・・こ、れは・・・・?!)
自分が消えそうな感覚に戦慄が走る。それすらも呑み込まれて、黒く塗りつぶされていく。
『自分で確かめなさい。竜族の目的と、その仕事をね。百聞は一見に如かず・・・・・・・・人間もうまいこと言うわよねぇ』
喉の奥で笑うと、それっきり声も聞こえなくなった。
侵入してきた他人が、アメリアの意識と溶け合っていく。
自分が他人で他人が自分で。
どこまでもあいまいで、どこまでも相容れない感情。
それをはらんだまま、意識は、記憶は、強い想いを引き寄せる。
一瞬のめまいの後、彼女は大地に立っていた。
そこからは、夢のような、霞のような、儚く不確かで、けれども決して忘れられないものの始まりだった。
果たしてそれは、誰の記憶だったのか・・・・・・・・。
そこは、とくに特徴のある集落ではなかった。
どこにでもありそうな、牧歌的な光景。主要な産業は農業と酪農という、静かな暮らしのある町。
そこに、レゾは住んでいた。生まれた時からその両目は固く閉じられ、診察のために医師が診ようとしても、その瞼が開くことはなかった。そのためか、生後間もなく、この町の養護院のまえに捨て置かれていた。
眼球がないわけではないようだが、盲目のままの少年はそのまま成長していった。
何も楽しみのない小さな集落の子供たちにとって、その差異は決して見逃せるものではなかったようだ。
毎日、なんだかんだと小突かれ、からかわれていた。
同年代の子供たちになじめなかったレゾは、次第に一人でいることを好むようになっていった。そのことに対し、特に苦痛でもなく、むしろ孤独でいることのほうが楽だった。
とはいっても、目が見えないので本を読んだり書き物をしてこもる、ということもできなかった。
養護院の大人たちは、目も見えず、かといって愛想がいいわけでもないレゾを養育しながら遠巻きにその様子を眺めているだけだった。
彼は、いつも一人で院の周りの草原や泉で遊んでいた。
泉の冷たさや、草の色々な手触り、陽だまりのにおいや温かさ、動物たちの息吹などを感じていたのだ。
それが彼の世界のすべてで、とくに不満を感じたことはなかった。
ある日、いつものように泉の淵で、泉の中で揺れる苔のくすぐったさに戯れていた。
暖かい日差しを感じていたとき、不意にそれが遮られた。自分のそばにある人の気配に、思わず身を引く。
息遣いの高さや速さから、相手が自分と年の変わらない人だと気付いたからだ。
(また絡まれる)
そう思い、身構えた。水から引き揚げた手を、思っていたより幼い手に掴まれた。
「ねぇ、なにやってるの?なにがいるの?」
幼い好奇心に満ちた声が、耳朶に響く。
初めて聞く声だ。この近辺に住む人の声は、すべて記憶していたが、こんなに幼い少女はいなかったはずだ。
二の句が告げずにいるレゾに、少女が焦れたように言葉をつなぐ。
「ねぇってば、なにがいるの?魚?かに?それとも、もっと違うもの?」
「・・・・・・・・・苔」
息継ぎもしない少女の言葉に気圧されて、おもわず単語がこぼれおちる。
「こけ?なにそれ、うごくの?」
「・・・・いや、中に生えてる草だから・・・」
「くさ?そんなの触って楽しいの?」
「・・・・ふわふわしてて、きもちいいよ・・・」
圧倒されたまま、言葉を返す。ざばっと、水に何かが触れた音がした。
ざばざばと激しい水音の後、少女が嬌声を上げる。
「ほんとだ!!ふよふよして、くすぐったくて、変な感じーー!!」
濡れた手を引き上げて、レゾの手を握る。
「あなたおもしろいね!ほかにも教えて!!」
そういって、初めてレゾのほうをはっきりと見る。
「ねぇねぇ。どうしてずっと目をつむってるの?痛いの?」
遠慮のえの字もない、ストレートの問いに言葉を考える暇もなく、真実がこぼれ出る。
「見えないんだ。生まれた時からずっと」
「ふーん。そっかぁ。・・・・・・・じゃあ、わたしがおしえてあげるー!」
天真爛漫そのものだが、いったい何を教えてくれるというのだろう。やっと自分を取り戻し、少女の手を外す。
「いや、あの・・・・遠慮す・・・」
「あたしはレストゥリア。みんなはレスティって呼ぶわ。あなたは?」
「・・・・・レゾ。・・・・・・えぇっと、レスティ?」
「よろしくね、レゾ!」
ぶんぶんと両手を振りまわされながら、きっと喜色満面に違いない少女の声に、幼いレゾは内心ため息をこぼした。
「わたしが、いろをおしえてあげる!!!」
だれか、この少女に人の話を聞くことを教えてくれ
それが、彼女との出会いだった。
それから、彼女はその町に新しく引越して来た一家の一人娘ということがわかった。都市部にすんでいた一家は、父親が破産したとかスローライフに憧れて隠遁したとか言われていたが、その人柄ゆえか次第に周りになじんでいった。
彼らか素早く周囲に溶け込めたのは、明るく誰に対しても物怖じしないレスティの影響があったのは明らかだった。
けれど、彼女は一番初めに知り合ったレゾの元に一番足しげく通っていた。
「ねぇねぇ、レゾ。今日は本を持ってきたの!一緒に読みましょ!」
そう言っては、父親の蔵書をレゾに読んで聞かせた。田舎で盲目がゆえに、学をつける機会が奪われていたが、彼女のおかげでさまざまな知識を身につけることができた。
物理学、薬学、数学、天文学などなど。さらには、魔道書なるものまで引っ張り出してきた。さいわいにも、レゾは人よりも記憶力が優れていたため、彼女が読んだものを彼女以上に記憶し理解していっていた。
その知力を面白がり、彼女はさらに難しい本も読むようになっていた。
「世界はと〜っても、きれいなんだよ」
そういって、あらゆるジャンルの本を読みあさる。もはや、彼女は自分のためではなく、レゾのためにだけ本を読むようになっていった。彼女自身にもある程度の学力はあったのだが、それさえも子供の知識のようだった。
ただ、本を読むだけでその知識を基礎に応用を広げていく。
幼かった二人の手足が伸び、やがてレゾが養護院から独立したころ、あらゆる分野からスカウトが来るようになっていた。
それぞれの高等教育を学ぶために、レゾが町を離れる時も当り前のようにレスティが付いてきた。
色々な土地を回り、色々な世界を回る。
その傍らには、いつも当然のように彼女がいた。
旅の途中、その歩みを止めては世界の色を伝えようと言葉を紡ぐ。
「レゾ、崖の向こうに見える森の色、今までよりずっと深い緑色。緑が重なりすぎて、黒に近くなってるわ。黒ってね、夜の色よ。暗くて寂しくて孤独な色だけど、やっぱり安心する色よね。寝るときは、真っ黒でないと寝れないし」
「説明が矛盾してますよ」
「いいじゃない。そんな感じなのよ、そんな感じ!」
「あなたの説明は抽象的すぎて分かりにくいですね〜」
からかうようなレゾの言葉に、レスティが頬を膨らませる。かと思うと、クルリと身をひるがえした。
「ねぇ、レゾ。世界はとっても美しいわ!私が、あなたにそれを教えてあげるの!むかし、そう約束したもの!!」
「頼んでませんよ」
「・・・・いじわるね」
ずっと、そんな日々が続いていくものだと思っていた。
あの日までは
「ごめんね、レゾ。・・・・・・・・・旅、できなくて」
「何を言っているんです。あなただけのせいではないでしょう」
寝台に横たわるレスティに、柑橘を絞ってつくったジュースを渡す。いつものように請われて、大きな町の大学へ向かう途中、彼女が体調不良を訴えたのだ。
医療には精通していたが、朴念仁だったレゾには気付くのが遅れてしまった。
二人はずっと一緒だったし、これからもそうだと思っていた。だから、そうなったのも必然だった。
そうなるのが、自然だった。
「・・・・・ごめんね。・・・・・喜んじゃって」
「・・・それは謝るところではないでしょう」
「そうね」
ジュースを飲みほし、枕に顔をうずめる。杯を受け取るレゾを見つめ、微笑みを浮かべる。
「・・・・私の顔に何か付いてますか?」
「見えないのに、鋭いのね。・・・・・・なんでもないの。・・・・ただ」
「ただ?」
「うん。ただ見てただけ」
「おかしな人ですね」
レスティの体のことを考え、しばらくはその町に逗留することにした。
その判断を、後で死ぬほど後悔したが、その時はそれがベストだと思っていた。
「あなたが落ち着けば、もう少し環境のいいところに居を移しましょう」
レゾ自身が望めば、それなりの都市でそれなりの地位を築けることは間違いなかった。だから、とくに焦ってもいなかった。
「・・・・・旅をしたいわ」
「レスティ」
子供の様なレスティの希望に、レゾがたしなめる。これからは今迄のように、気軽にさ迷うわけにはいかなくなる。2人ではなくなるのだから。
「・・・・この世界はとても美しいわ。・・・・・・私、まだまだあなたに伝えきれてない・・・」
「レスティ、それは・・・・」
「それに、この子にも、この世界を教えたい。あなたが生まれてきたこの世界は、とても美しくて、素晴らしいってことを・・・」
下腹部に手を添えて、ほほ笑む。レゾには見えないが、彼女は心底幸せそうな気配をまとっていた。
そして、彼女の声の調子から、絶対に譲らないであろうことを悟り、レゾは嘆息する。
どこからか、神に祈る声が聞こえる。
その内容に耳をすませ、レゾが違和感を覚えた。
それはこの地域で一般的なスィーフィードへの祈りに似ていたが、少し違う。
それは、スィーフィードの分身をたたえる真言だった。
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