世界一とも言われる珊瑚礁、青い海、続く白い砂浜。琉球王国の伝統文化と戦後アメリカの占領下での培われてきた文化、エキゾティックな雰囲気。
 しかし、私たち日本人が忘れてはならないのは、日本で唯一地上戦が展開され、多くの犠牲者がでたこと。そして、占領がとかれ、日本に復帰した今も多くがアメリカ軍用地として据え置かれている事実。
 リゾート気分に浮かれているその海に、また山野に戦争の犠牲になった魂が静かに眠っているということ。
摩文仁の海
 tarosanの伯父にあたる人も沖縄戦で命を落としました。父やもう1人の叔父からよく聞かされたのは、その人が南方戦の任務を終え、予定より早く帰還したがために、沖縄戦へ赴くことになった事実。彼が、戦地に赴く前は、教員をしていたこと。しかし、沖縄という言葉は聞かされていなかった。「沖縄戦」は、沖縄本島および周辺の島々、周辺海域での戦闘も含んでいるらしい。もしやと摩文仁の丘の平和祈念資料館へ。
平和の礎
「平和の礎(いしじ)」 摩文仁の丘にある戦没者慰霊碑群。各都道府県の慰霊や忠魂の碑もこの丘陵地にある。
 この「平和の礎」は、国籍や戦闘員、非戦闘員の区別なく、この沖縄戦で命を落としたすべての人の名が刻まれていることだ。刻名を拒否している方もあるようだが、黒い御影石に刻まれた名をこの目で確かめる。「あった。ここだ。」探し求めていた人の名が、果たして存在した。私の胸はしめつけられた。静かに手を合わせていた。
 これだけで、ここに来た甲斐があった。
沖縄平和祈念資料館全景
戦没者碑銘
  8月15日。私たちが認識している終戦。その日を意図して、この地を訪れたが、沖縄にとっての終戦の日はちがっている。そのことさえも知らなかった。摩文仁の丘の平和記念塔内では、宗教者による慰霊祭が厳かに行われていたが、街はその雰囲気ではなかった。黙しているのではないのだ。
美しい摩文仁の海を背に
平和を願って折り鶴を
 「平和祈念」の式典の会場の片隅に、平和祈念の折り鶴を折る一角が設けられていた。折り紙が得意な息子は、「世界平和」を祈って鶴を折った。
ひめゆりの塔
「ひめゆりの塔」
ひめゆり平和祈念資料館
生き残った学徒の証言
南風原陸軍病院壕
太田海軍中将自決の地
アメリカ軍本島上陸
沖縄戦死者数
太田中将の電文
あまりにも有名な「ひめゆりの塔」。「ひめゆり」が花の名前にちなんだものではないことに、ここで初めて知りました。「ひめゆり学徒隊」は、当時の沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成されていました。女学校にはそれぞれ校友会誌があり、一高女は「乙女」、師範は「白百合」と名付けられており、両校が併設されたのをきっかっけに「姫百合」となり、戦後に平仮名で「ひめゆり」として使われるようになったからだそうです。
「ひめゆりの塔」のすぐ傍に、「ひめゆり平和祈念資料館」があります。軍の南部撤退の際、戦場に放り出された学徒隊。90日あまりの死闘で、219名(学徒・教員合計)が命を落としました。資料館の壁には犠牲者の遺影と生き残った学徒の証言の本29冊が展示され、閲覧することができます。
1945年4月1日 アメリカ軍 沖縄本島に上陸 (旧海軍司令部壕跡)
1945年3月23日アメリカ軍による沖縄本島への艦砲射撃「鉄の暴風」が始まり、上陸作戦が開始されました。
 その日、「ひめゆり学徒隊」は動員されました。
 4月1日。アメリカ軍は、嘉手納、読谷付近の海岸に上陸しました。それから、90日あまり、戦闘は続きました。
旧日本海軍沖縄根拠地司令官・太田実中将の自決跡と太田中将が大本営に送った電文
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