此処は何処だ?
確か、赤壁に向かう隊に編成された筈だが……。
楽将軍の歩兵隊に居たのは間違いない筈だ。
二千の仲間達も居た。共に徐州を抜けて華容堂で休息を取ってい
た筈だ。
ところが、今は何故か一人で白い壁に囲まれた四角い部屋で寝転
がっている。
部屋には特に何もない。向こうが透けて見える不思議な壁がある。いや、あった。
白い壁と違ってもろく、軽く叩いただけなのに砕ける音がした。
よく見ればやはり透明の欠片が落ちている。これが不思議な壁の
正体に違いない。
反対側には一部だけ区切られた壁がある。これに向かって近づい
た時……
区切られた壁が動きだした。何事かと身構えると壁の向こうから白い衣をまとった女が現れた。
だが、室内を見るなり悲鳴と共に飛び出していく。
状況が理解できず、とりあえず先程の動いた壁を調べた。
なるほど。これは部屋を区切る簡易的な門らしい。いや、敷居と
言った方が正しいか。
その証拠に門から顔を出すと回廊が広がっている。
『何処かの屋敷に連れ込まれたか?』
訝しむ暇もなく、左手から大人数の足音が聞こえる。三・四人は
いるだろうか?
しかも此処に向かっているようだ。誰かが放った刺客だろうか?
だが、刺客が足音をさせて近づいてくるのは不自然だ。
寧ろ慌てて歓迎しようとしているのかもしれない。
だとしたら待ち構えておいたほうが相手に威圧感を与えていいか
もしれない。
恐らく寝台と思われるものに腰を掛け、相手を待つことにした。
程なく白い衣をまとった男二人と女一人が部屋に入ってくる。
相手も驚いたようだが、今度はこちらが驚いた。
言葉が分からなかったのだ。
何かを問いかけているのだろうが、何を言っているのかは分から
ない。
同様にこちらの言葉もだ。相手も戸惑っているようだ。
だが、それは程なく解決された。
紙を用意されたのだ。
筆はというとこれまた不思議なもので、木で出来ていると思われ
る小さな棒の尖った部分で書ける事を男の一人が教えてくれた。
それでとりあえず何を書いたものか。
そうだ、基本は名前からだろう。
そう思い立つと紙に大きく名前を書き、彼らに見せる。
彼らは異常に喜んでいた。いや、正確には紙を渡してくれた男が
……。
そこで自分の名前をもう一度確認する。
紙に書いた文字は……。
*
また悪夢を見た。今日だけで三度目だ。
もう勘弁してもらいたい。
ラボで一人弱音を吐く僕を待ちきれなくなったのか、教授と主任
の二人が揃って様子を見に来た。
僕の表情を見て教授は何か言いたそうにしていたが、敢えてそれ
を無視した。
暗い話になりそうだからだ。
僕はそのまま誰とも視線をあわすこともなく、いつもの店「おた
かさん」まで主任の車で移動した。
当然のことながら車内はいつになく静まって、何よりも苦痛に感
じた。
小さい店なので座敷は二つしかない。その一つをたった三人で占
領している。
そして一時間が過ぎただろうか、三人の前にはビール・日本酒・
水割り・お湯割りと、様々な種類の瓶やグラスが置かれていた。
僕は酔いたいのはやまやまだが、酒は強いほうではない。仕方な
くビールをちびちびとやっている。
「おいおい、せこい飲み方すんなよ。アルコールってのはこう……」
主任は言葉と同時に一気に水割りをあおる。
「グイっと飲むもんだぜ?」
何故僕に問いかける。
「いや、奥谷君。見事な飲みっぷりだ。ささ、もう一杯いっとこう」
そう言って今度は日本酒を主任のコップに注ぐ。
「いやいやいや、どうもどうもどうも」
二人ともアルコールが入って益々エスカレートしたようだ。
もう僕の手には負えない。
諦めの表情を浮かべた僕に教授が問いかけてきた。
「どうした?
暗すぎるぞ、池田くん。大方、また変な夢でも見たんだろう?」
その言葉に主任も反応する。
「あー? 夢だと?」
ああ、聞かれてしまった。
「お兄さんにも言ってみな。俺なんかでも相談するぐらいしてみる
もんだぜ」
事ここにいたってはしょうがないか。
「実は……」
「なるほど、そりゃ変な夢だ。落ち込むのもしょうがねーな」
「奥谷君、これで三度続けてらしい。
君からの意見を聞かせてもらいたいもんだが」
その言葉を聞きながら主任は酒をあおり始めた。
「俺の意見ですか?」
別に言ってもらわなくても構わないさ。
だが、教授は違った。
「そう、こういう事態は君の専門分野だろう」
専門分野? それは初耳だ。
いや、僕は知っていたはずだ。
何故、僕は敢えてそれを無視していたのだ?
何故、それを思い出せなかったのか?
「おい、池田。何を呆けてんだ?」
我に返る僕を見て主任は笑い始めた。
「奥谷君、勿体ぶらずに話したらどうなんだ?
病的心理学の権威の意見を」
そう、言われてみれば主任は病的心理学を専攻としている。
精神病患者の主治医として、腕は一流だったはずだ。
何故そんなことすら思い出せなかったんだろう。
「いや、池田が病的ってのはちょっと失礼な話かなと思いまして」
その言葉が教授のお気に召したようだ。
「意外だな。君はもっと奔放な男だと思っていたよ」
「いやいや、男って生物はなかなか繊細なもんですよ」
そうなのか? 主任はそうは見えない。
だが、僕を救ってくれる望みがあるのなら誰でもいい。
「そうだな。
ちょっと長くなるけど……」
「いいぞ。どんどん話したまえ。そして飲みたまえ」
またコップに酒を注いでいる。いったいどれだけ飲めば気が済む
のだ?
「要するに古代中国の人間がいきなり現代世界にやってきたって感
じかな?
夢とはいえ突拍子もない事だ」
主任はここにきてコップから手を離し、煙草を取り出す。
考え事をするときにはこれが一番とか毒づいた。
「だが、全体的に自然な流れとも言える。
これが通常の夢とは大きく違う部分だ。
それから……」
その言葉の後を待ったが、なかなか出てこない。
「それから、何です?」
「三度目って言ったな。だったら前の二つも話してもらおうか。そ
れからだ」
教授も主任の話を聞き入っている。
僕に対して促しているようだ。
「分かりました。出来るだけ簡潔に正確に言います」
「ふーん」
第一声には気の抜けた声が聞こえた。
「まあ、大体は分かった。
つまりなんだな。全部病院が舞台なわけだな」
病院が舞台?
「どういうことだ?」
教授がいきなりの意見についていけず問いかけた。
「おやおや、教授が気づかないなんて。
簡単なことじゃないですか。
まず見た順番に夢(1)・(2)・(3)としますよ。
夢(1)では堂々と精神病院にいる、大学病院の精神科ではありますが、そのように宣言してるんです。
夢(2)は少しきついですが冒頭の『日々白き壁に向かって』だったかな?
白い壁に日々向かうなんて病人くらいです。病人の入るところは
病院と相場がきまってます。
最後も似たようなもんです。白い壁に囲まれた四角い部屋に、白
い衣をまとった男女とくりゃ病院ぐらいのもんでしょう」
聞き終えた教授が感心して主任を誉める。
「うん、たしかにそうだ。なんで気づかなかったんだろう。
よく気づいたね。偉いよ、君は」
照れ臭そうに主任が笑う。
だが、僕はまだ理解しきれないでいた。
「それで、さっきのそれからっていうのはどうなんですか?」
また飲んでいる。だが、もう構うもんか。
相手が酔い潰れるまでとことん聞いてやる。
「それから?
ああ、さっき言いかけた事だな。
あれはな、今だからはっきり言うが、どの夢をとってもそうなる
と思うんだが……、
夢を見たにしちゃ、時間が短すぎるって事だ」
時間が?
「夢(1)は眠ってたときらしいから別にいいとしても、夢(2)と夢(3)はレム睡眠にいたるにはあまりにも短すぎる。特に夢(2)なんか二分くらいで見たんだろう?」
そう言えばそうだ。あまり気にしたことはなかったが……。
「結論は何なのかね?」
教授はもう舌が回っていない。辛うじてそう言うと机に伏して眠
り始めた。
「教授も好奇心旺盛だな。ま、眠りながら聞かせようか」
自分の心臓の音が異様に大きく聞こえる。それにつられて内臓全
てが動きだしてしまいそうだ。
「結論を言うとだな、たぶん夢じゃない。
いや、現実って事もないだろうな。少なくともお前にとっちゃ」
夢でも現実でもない?
「だったら何なのか?
それが一番難しいんだ。只の幻覚じゃあないだろうし……。
似てんだよ、俺の考える……」
ここで煙草を吸おうと思ったらしい。だが、酔いどれた主任は煙
草を何処に置いたか忘れてしまったようだ。
待たされて、焦らされたくない僕は自分の煙草を差し出した。
だが、ここで一つの疑問が提示された。
「あれ?
お前煙草吸ってたっけ?」
今更何を……昼休憩に会った時、僕が煙草を吹かしているのを見
ていただろうに。
「まあ、いいか。すまんが火も貸してくれんか?」
図々しい。僕は煙草ケースを取り出した。ライターも一緒に収め
ているのだ。
だが、ライターは無かった。落としたのだろうか?
「ライターは無い……か。さっき煙草取り出したとき気づかんかっ
たか?」
そう言えば気にならなかった。気がついたら主任に煙草を差し出
していたのだ。
「ライターもないのに昼に煙草の火はついとったな」
備え付けのマッチを見つけ出した主任はそれを使った。
だが、そんなことはおかまいなしに僕の思考は一つに集中した。
昼に吸っていた煙草のことだ。人に頼んだ覚えもないのにどうや
って火を付けたのか。
それとも無意識のうちに……?
「益々似てきた」
主任がぽつりと呟く。
「何がです?」
「俺の考える記憶の差し替え方法に……」
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