上沼 祥子――。
そう、これが彼女の名前だ。 僕が彼女と知合った当時、彼女が二十三で、僕は十九だった。 彼女はこの近くのスーパーで働いていた。僕はその事は知っていたけど、彼女に特別、ある種の感情を持った事もなかった。それさえかろくに話をした事もなかったのだ。 その関係(いわゆる無関係と言う奴)が劇的な変化を見せたのはその年の夏祭りの事だった。 夏祭り恒例の商店街の福引きで、僕はビデオデッキを当てたのだ。 それは五百円分の買い物でくじ券を一枚もらえ、さらにその券を十枚集めると一回福引きに挑戦できると言う仕組みで、僕は必死に集めた二回分の券を片手に勝負に臨んだのだった。 そしてビデオデッキは当たった・・・・。 何等賞だったか忘れてしまったが、福引きの賞品の割にまぁまぁのビデオだったのを記憶している。 今、そのビデオは僕の手元にはない。 僕は福引きの数日前に今まで使っていた古いビテオをテープナビとか言う機能の付いた、新しいものに買い替えたばかりで(福引きの賞品にビデオがある事を知らなかったのだ)、まさかもう一台ビデオが手に入るとは夢にも思っていなかったのである。 ともかく僕は、嬉しさも中ぐらいなりといったところで、複雑な心境だったのである。多分、それは顔にも現れていたのだろう。 そして――、彼女は僕の前におずおずと現れたらしい。 「あの・・・・、すいません・・・・」 『らしい』と言うのは初め、僕に話し掛けている事には気が何かなかったからで、その前から立ち去ろうとして僕はやっと彼女が食い入るようにこちらを見ているのに気が付いたのだった。 『食い入る』と言うのはちょっとオーバーにしても、何か切羽詰まった視線をこちらに向けていたのを覚えている。 「あの・・・・」微女は言う。 「何か――?」 僕は首を傾げる。今から思えばとてつもなく陳腐な応対だが、その時はそんなものだったのだ。 「その、とっても・・・・厚かましいお願いなんですけど・・・・」 「はぁ・・・・」 僕はさっきから気になっている事が一つだけあった。それは彼女の視線だ。僕が持っているビデオの箱に、彼女の視線がずっと注がれている。 ――まさか。 「そのビデオを譲ってもらえないでしょうか?」 顔を赤らめて彼女は一息にそう言うと、ビデオに向けていた視線をグッとこちらに向けてきた。その熱い(?)視線に負けそうになって、僕は咳払いをしてそれとなく彼女の顔を見つめる。 藍色の浴衣を着た彼女は、普段スーパーで見る時とは全く別人に見えた。対称色の帯が、鮮やかに彼女を彩っている。いつもは後ろで束ねていた漆黒の髪を、目の前の彼女はストレートに下ろしていた。 綺麗なブラウンの瞳が、傾く日の光の中で僕を真っ直ぐに見つめている。 髪止めのピンが、光を小さく反射している。 ほんのりと赤く染まった頬と耳が彼女の心境を現しているのだろう。彼女は僕の答えを固唾を飲んで待っていた。 返答に詰まって、僕は頭をかく。片手だけでビデオを持つと、その重さに手が痛んだ。 それが僕を現実に引き戻した。 そう、僕は彼女に見惚れていたのだ。先に口を開いたのは彼女の方だった。 「すみません、無理なお願いを言って・・・・」 表情に陰りが差すのが見て取るように分かった。しかし、それを隠すように、彼女は苦笑した。「本当にごめんなさい。私ったら、見ず知らずの人に何て事をお願いしているのかしら・・・・!」 「あ、いや――」 不甲斐ない事に、その時の僕の喉からは呻くような声しか出なかった。 そして辺りは急に薄暗くなる。まるで僕の心のように。 が、僕のそのかなりおざなりな返答に、彼女は動きを止めた。 唾を飲み込む(彼女も?)。 「あの・・・・」 我ながら何だか別人のような声が出た。 ――しっかりしろ! 無言のまま、彼女は僕を見つめている。瞳が――微かにだけど、光を帯びたように見えたのは気の所為だろうか。 「コレ、ですよね?」 僕はビデオを抱き上げる。 薄暗くなっても、彼女はその存在を微塵も失ってはいない。 でも、この不自然なほどに急激な光の喪失はなんだ・・・・? と、それは誰かの声と共に、突然始まった。
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