と、それは誰かの声と共に、突然始まった。 「雨だ――!」 ザアアアァァァァ――。 タ立だった。 「きゃっ」彼女が身をすくめ、小さな悲鳴をあげた。 何の前触れもなく、大粒の雨が降り始める。降ると言うよりは地面に向かってぶつかっていくような激しい雨だ。 辺りは雨の匂いに包み込まれ、それまでの熱気が急速に失われていく中で人々が逃げ惑っていた。 近隣の民家の軒下に避難するカップル。 神社の小さなお堂に身を屈める老婆。 うちわを傘代わりに駆けていく浴衣の少女。 突然のどしゃ降りに歓声を上げる小さな男の子。 ――この雨ではいくらすぐに止むとは言っても五分と外に立っていればずぶ濡れになってしまうだろう。 僕らも急いでその場を離れる。 とっさに彼女の手を引いて、僕は裏道に入った。どこの家の軒からも、雨水が勢いよく流れ落ちていた。 なるべくビテオが濡れないよう、抱き抱えて走る。落ちそうになるのを堪え、走る。 それより――。 僕は手を取った彼女が転ばないように気を使っていた。 タ立が石畳を打つ音と彼女の下駄の音がミックスされ、不思議な音が、裏道に響く。 それは何故か心地いい響きだった。 やっと雨宿りできる小さな軒先を見付け、彼女をそこへ避難させる。――その脇、一段高くなった所にビデオを置く。 そうすると、残りのスペースが人一人入るにはどうしても足りなくなってしまった。 夕立は一時の隆盛を驕るかのように激しく降りしきる。 すでに全身ずぶ濡れになってしまった僕は、雨宿りを諦めると、雨水が垂れ落ちうっとうしくなった髪をかき上げる。ついでに空を見上げると、大きな入道雲が視界一杯に広がっていた。 浴衣が随分と濡れてはいたが、彼女自身は大丈夫のようだった。 最初はこちらを心配そうにしていたけど、僕がこの際、天然のシャワーを楽しむ事にしたのを見て彼女の表情はふうっと和らいだ。 じっとりと雨水を含んだ彼女の黒髪が妙に色っぽい。濡れた浴衣が肌にくっつくのか、しきりに身を動かしていたかと思うと彼女は 「ねえ、大丈夫なの?」 と、僕の顔を可笑しそうに伺う。 「何が?」 「ずぶ濡れよ。――風邪を引くわ」 「平気だよ」 「あなたって変な人ね。向こうにも雨宿りできる所はあるのに」 スニーカーの中にまで水が溜り、嫌な音をたてた。トランクスまで見事に濡れているのは言うまでもない。 「もう遅いよ」 タ立はやがて、本降りからあれよあれよとその勢いを失う。その変化を敏感に感じ取ってか、セミが鳴き始めている。 降るのも突然だが、止むのもあっという間だった。 雨が止むと同時にセミ達が本格的に騒ぎ始める。一生の短い彼らに休んでいる暇はないのだろう。 ゆっくりと、軒先から彼女が出てきた。 先端から垂れる雨水に当たらないように。 「止んだね」 僕は自然にそう言えた。夕立が僕の中の何かを洗い落としてくれたのだろうか。 雲間から、傾きかけた日の光が戻ってくる。 濡れた石畳の小道がきらきらと輝く。 「そうね」 彼女は応え、その光の中に足を踏み入れる。――それは少しも乱れる事はない。逆に彼女をきらきらと包み込み、一つとなって輝きを増すようにさえ思えた。 雲は切れ、太陽が再び現れる。夕立の前と比べて、幾分赤みを帯びた太陽がまた辺りを照らしていく。 祭りは再開された。 それそぞれの宿から人々はまた姿を現し、通りに賑わいが戻ってくる。 彼女は振り返る。 「ねえ、お参りした?」 「福引きする前にしたよ」 「よかった――」 彼女は微笑んだが、質問に合点の行かない僕は首を傾げる。 「これからうちに来ない? すぐそこなの」 「え?」 「着替えないと。・・・・あなただってそのままじゃいけないわ」 「僕は別に・・・・」 「いいから来なさいって」 そう言って彼女は僕の手を握った。 「ちょ、ちょっと――」 その言葉は無視され、いつの間にか僕は手を引かれて走っている。ふっくらとした彼女の手の感触に、僕の鼓動は意識せずにぺースアップした。 雨に濡れた所為か、彼女の体からは微かな石鹸の匂いが香っていた。 僕らは裏道を抜け、通りに出た。 タ立が降った事など、もう誰も気にも止めていない様子だった。 突然の雨に、いくつかの出店は準備中の札を出して店舗の復旧作業に追われていたけど。 唐突に、彼女は僕の手を放した。 「ついて来て。――こっちよ」 と、こちらを見ずに言うと人込みの中を一人突き進んで行く。 ――なるほど。この混雑ぶりでは手をつないでは進めないか。 僕は気を取り直して(ビデオも持ち直して)急いで彼女を追いかけた。
彼女の家は通りから別の小道へと入った所にある、古びたアパートの一室だった。建物ははっきり言って萎びていた。日の光が到底当たりそうにない路地裏にあって、築十何年かは経っていそうな外観だ。 ぐちょぐちょと情けない足音をさせながらアパートに辿り着いた僕は、こんな所に住んでいるのかと内心驚いた。 浴衣の彼女は茶色い板張りのドアの前に立って手招きする。 その仕種には何の屈託もない。当たり前の事だが彼女は彼女のままで、僕は自分の貧相な考えを恥じた。 「こっちよ」 彼女の声は薄暗い路地にあって、まるで風鈴の音のように澄んで聞こえた。 僕は案内されるままに玄関をくぐる。 びしょ濡れの僕はしかし、そのまま上がり込むわけにもいかず、玄関でバスタオルをもらって全身を拭いた。乾いたタオルが心地よかった。 結局――、ビデオは彼女に譲る事にした。彼女には小学一年生になる昇と言う弟がいて、彼がそれを熱望していたのだ。 その昇は、何万人に一人と言う難病を患っていて、近くの公立病院に入退院を繰り返していると言う。 その後、僕らはもう一度夏祭りへ繰り出した。 夏祭りの夜は花火が上がる。僕らはそれを見に出掛けたのだった。 ――祥子とはこうして付き合う事になった。
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