![]() 12.脱出
支えもなく浮かぶ水晶の檻。
誰もいない部屋の中、ぴしり、と小さな亀裂音が響いた。
微かな亀裂音が、空気を震わせる。
水晶に閉じ込められている男の胸あたりに亀裂が入り、徐々にそれが広がっていく。
亀裂が、水晶全体に広がる。
そして……。
かしゃぁぁぁああん。
ガラスが壊れるような高い音と共に、それが砕け散った。
そして、それがこれから始まる狂騒曲の幕開けの音だった。
ずしゃ。
鈍い音を立てて、水晶に閉じ込められていたゼルガディスの体が床に落ちた。
「………っく」
小さくうめき声を上げると。なんとか立ち上がろうとして両手を床に押し付ける。しか
し、体から力が抜けきってしまったように、思うように体が動かせない。
「………根こそぎ使い切ったか」
小さく呟いて、全身の力をこめて上半身を引き起こす。
獣王の申し出は、単純なものだった。
制御された獣王の力を、封印されているゼルガディスの魔力を使って発動させるというも
の。本来のカオス・ワーズを使って制御するのではなく、もとより制御されている力のため 暴走される危険はない。
しかし、竜族の結界を破壊しなければならないために、それは常識的範囲を越えていた。
キャパシティぎりぎりの威力で、根こそぎ魔力を使いはたしたのだ。
精神力を使い切ったゼルガディスは、震える体をおしてその場に座り込んだ。体を起こし
たというのに、意識が遠のこうとする。
「っく。このまま……倒れるわけには……」
遠くから、結界の壊れる音と気配を察した竜族たちの慌てふためいた空気が伝わってく
る。すぐにも、この部屋に押し寄せて来るのは明白だ。
それまでに、なんとかここを脱出しなければ、再びあの胸くその悪い牢獄へと逆戻りとな
ってしまう。
「…………まだ、………」
視界が揺れる。
頭が重い。
瞼が、意思に反して重く下りていく。
微かに見える視界の中で、白い法衣が駆けつけて来るのが見えた。
それが、最後に見る記憶となった。
「何事だ!!」
「結界のある部屋からなにか音が聞こえたぞ!」
ばたばたと足音を立てながら、数人の神官服を纏った男達が駆け寄ってくる。
焦燥を顔に浮かべ、大きな音を立てて扉を開け放った。
「………馬鹿な」
呆然と、駆けつけた男の一人が呟いた。他の者達は、声も無くその光景を眺めている。
そこにあったの、粉々に砕け散った水晶の欠片。そして、欠片の絨毯の中心で片膝を立て
て座り込んでいる、銀の髪の青年の姿だった。
「……我等の結界を、破ったというのか?」
戦慄が駆けぬけた。
この男にかけられていたのは、地竜王の力を借りた結界。神の属性を借りたその結界が、
たった一人の人間に破られているのだ。
誰一人、とっさにゼルガディスに駆け寄る事ができなかった。
数瞬の沈黙の後、ひとりがようやく気がついた。
「………おい、あの男。気を失っているんじゃないか?」
誰かのその発言に、はっと周囲のものが息を飲む。そして、ゆっくりとゼルガディスに近
づいていった。
徐々に敵が近づいているというのに、ゼルガディスはぴくりとも動かない。
その様子に、竜族はほっと息をついた。
「どうやら、結界を破るだけで力を使い切ったようだな」
安心したようなその口調に、いくつかの頭が首肯した。
その時、不意に座りこんでいたゼルガディスが動いた。
その瞬間に、慌てて体をゼルガディスから遠ざける。
水を打ったような沈黙の中に、押し殺したような笑い声が響いた。
「………何がおかしい?」
侮辱されたと感じた竜族の男が、声を発した男、ゼルガディスを睨みつけた。だが、その
言葉に、更に笑い声は大きくなる。
「……おい!様子がおかしいぞ!」
少し下がって様子を見ていた男が、仲間達に注意を喚起した。
彼が示した指の先で、俯いていたゼルガディスの気配が変わる。身体的にも銀の髪が、夜
を染めぬく漆黒に変わっていく。
異様とも思えるその変化に、竜族の者達はごくり、と咽喉を鳴らした。
彼等の視線の先で、先ほどまでゼルガディスだった者がゆっくりと顔を上げた。
双の瞳が空の色、いや冷たい氷の色に輝く。以前見た、紅と蒼のヘテロオッズではない。
なによりも、かもし出す気配が違う。
ゼルガディスの意識が消えたことで表に出たレゾが、くっと唇を曲げた。
「何を恐れる?……あなた達は神の使徒なのでしょう?それとも、自分の知識の及ばぬ者に
は、関わりたくないのですか」
侮蔑に満ちた声。
目の前にある者全てを拒絶するようなその言葉の響きは、かつての赤法師のものだった。
凍てつく言葉に中に含まれる氷片に、竜族達が自尊心を傷つけられ怒りをあらわにする。
「たかが人間が何を言うか?!」
「魔王の依り代ごときが、汚らわしい!」
「依り代の次は寄生か?貴様らしい生き方だな」
竜族たちの悪口雑言に、レゾはふっと笑みを作った。超越者の笑み、あるいは、上位者の
笑み。それだけで、自尊心の高い者達は怒りに囚われる。
「…………捉えろ!!」
それを合図に、ざっと竜族がレゾを取り囲む。冷笑を浮かべたレゾが、すっと半眼にな
る。
「残念ですが、おとなしく囚われるわけにはいきません」
冷酷に言い切ると、小さくカオスワーズを唱えだす。
「いかん!とめろ!!」
呪文を聞き分けた竜族が叫んだが、その時には既に呪文は完成していた。
『ヴレイヴ・ハウル!!』
ぐごごごご
地鳴りのような音を帯び、レゾの前方の床が赤く輝く溶岩へと変わる。その岩自体を燃料
に、ごぉっと炎が燃え上がった。その場にいた竜族達は、金色の閃光を発してそこから逃れ る。
「馬鹿な!この狭い空間でこんな魔術を使うなど…!!」
「自殺行為だぞ!!」
しかし、別の場所に現れていた時には既に次の呪文が完成していた。
―――――大地の底に眠り在る
凍える魂持ちたる覇王
汝の暗き祝福にて
我が前にある敵を討て
『ダイナスト・ブラス!!』
がっ!バシバシィィイイイ!!
入口付近に五芒星が現れ、それを中心に特大の雷が落下する。巻き込まれた数人が、火傷
とショックで昏倒し、掠めたものもあちこちから出血しながら片膝をついた。
呪文は、竜族だけでは無く床や壁にも被害を与えた。
がらがらと崩れ落ちる壁が、もとあった扉を粉砕し閉ざす。床は落下する瓦礫や呪文の衝
撃で、崩れ、歩くことさえ満足にできそうもない。
「………しかし、これではヤツも………」
額に瓦礫の直撃を受けた竜族が、レゾの方に視線を向けた。だが、竜族の期待に反してレ
ゾは無傷で立っていた。燃え盛る炎の照り返しを受け、瓦礫のむこうに見えるその姿に、誰 ともなく息を飲む。
ただ、彼は片手で頭を抑えている。
先ほどまでの態度はどこへやら。空いている手を壁につき、自らの体を半ば支えるように
立っている。その様子は、ひどく頼りなげであった。
ふいに、男の脳裏に彼に関するデータが浮上した。
「……そうか。本来の体の主ではない貴様には、長時間干渉することは出来ないんだった
な。そろそろ、お前も眠る頃なんだな?!」
遠のいていた勝利と言う2文字が、全速力で駆け戻ってくる気がした。震える足を抑え、
その場に立ち上がる。
のろのろと頭を上げるレゾに対し、竜族の男はゆっくりと近づき始めた。
「諦めろ。貴様を逃すわけにはいかないのだ」
男の言葉に、レゾがきっと顔を上げた。鋭い眼光に貫かれ、思わずそこで動きが止まる。
レゾは男を睨み着けたまま両手を後ろ手に壁についた。
『ブラスト・ウェイブ』
ずしゃぁぁぁ
壁に人間が通れるほどの穴が出来た。
空いた穴から風が吹き抜けてくる。竜族の男は、ふっと口元を歪めた。
その様子に、レゾがそっと、穴の外を覗きこむ。
そこには、大地がなかった。いや、それは遥か下方にあり、自分は崖際に立っているよう
な景色が下には広がっていた。
「どうする?そこから飛びおりても、意識のないお前ともう一人。生きていられるとは思え
ないがな?」
揶揄するように囁くと、男は一歩踏み出した。
このままレゾが飛び降りれば、途中で意識を手放した体は重力の為すがままに大地に叩き
付けられるだろう。そして、それで生きていられるほど人間の体は丈夫ではない。
レゾの眉根が、少しだけ曇る。
「さあ、おとなしく眠れ。次は起きられないように、より険固に結界をかけてやろう」
愉悦に歪む竜族の顔。しかし、次の瞬間それは凍りついた。
「な、何をする」
レゾが、空いた穴の縁に歩を進めたのだ。後一歩踏み出せば、確実に落下する。
「やめろ……。落下するまで貴様は意識を保てないのだろう?」
竜族の声に、レゾは顔だけ振り向かせた。
ひどく落ちついた、なにか吹っ切れたような表情をしていた。
「それ以上進まず、こちらに戻れ。おまえは、自分の子孫まで巻き添えにするつもり
か?!」
半ばヒステリーを起こしたような男の叫び声に、レゾは軽く瞼を閉じた。
「巻き添え?私はこの子を殺すつもりはありませんし、あなた達にくれてやる気もありませ
ん。例え、この私の意識が焼ききれても」
「………だからといってお前は、そんな危険な賭けをする者ではなかっただろう?」
唖然とする男に、レゾはふっと微笑んだ。冷笑ではない。侮蔑ではない。ただ、無知なる
者を憐れむように微笑んだ。しかし、その瞳にはそれだけでは語れないような、深い闇が宿 っている。
白い服が、炎の光を受け紅く輝く。
それこそ、生前の彼の二つ名の如く、真紅のローブのように。
「私は、この子が欲しがる者を一度として与えた事はありません。叫んで、渇望して、狂い
そうになっても求めるものがある。不肖の曽祖父としては、一つくらい望むものを与えてや りたいんですよ……」
すっと竜続から目をそらすと、そのまま前方へと体を踊らせた。
(そうでなければ、意識焼き切れるまで貴様等を八つ裂きにしていたでしょうがね……)
口元に残酷な微笑をたたえ、その体は重力の無限の腕に取りこまれていった。
落下しながら、レゾは固く目を閉じていた。いたずらに気力を消耗したくないためだ。
大地の気配が近寄ってくる。
その中に、なにかの気配が流れこんできた。土でない。木でもない。
かっとレゾは目を開いた。
『レイウィング!』
風が体を絡めとる。
もう一つの気配のあった方へと、全速力で向う。そうしている間にも、意識が薄れ、その
まま消えて行きそうな感覚が襲ってくる。
「もうすこし!あと………すこしだけ!!」
呟いて、必死で呪文を制御する。
意識が消える。
闇が訪れる。
その合間合間に、大地が接近していく。
「……………ここ」
目的の気配のすぐ近くまで来た時、意識が悲鳴を上げた。闇が津波のように押し寄せて来
て、目の前がブラックアウトする。
呪文の制御の切れた体は。、再び重力へと吸い寄せられていった。
さらさらと、川のせせらぎが森の深遠な空気に溶け込んでいく。
木漏れ日が川面に反射し、掴めない宝石を流す。
小さな魚のはねる音が、かすかに空気を震わせた。
ざり。
川の砂利を踏みしめ、一人の女が森の中から現れた。
男性でも希なほどの長身、漆黒の髪は腰まで届き、切れ長の瞳は深い青。街中を黙って歩
けば、ほとんどの人の視線を集めるに違いない。
いや、いろんな意味で。
着けてる意味があるのかと疑いたくなるような、黒いビキニ。ショルダーガードのは無意
味に刺がつき、胸元にはどくろが掛けられている。こんな恰好をして町をうろつけば、まず 間違いなく万人の記憶に残る。
ほんとに、いろんな意味で。
「−−−っふ。………ここはどこぉ!!」
太陽を見上げての彼女の第一声。
羽音が響き、数羽の鳥が飛びたった。静かな森に、女の声がさらに響く。
「路銀は尽きるし、街は見えないし、人とも最近出会わない!太陽で方角を検討しように
も、真上で全然わかんない!!」
そこまで一息に言い切って、女はばさりと髪を払った。漆黒の髪が日の光を受けて、波う
った。
「まぁ、いいわ。とりあえず、お腹空いたわね」
ころり、と表情を変えてきょろきょろと辺りを見まわした。
「あら?」
光波打つ川の端,白い布が流れにたゆたっている。いや、布に包まれた、人。
川岸の岩に片手をかけ,そこに引っかかるようにうつぶせに倒れている。波間に顔を半分
だけ浮かせ,流れにされるがままに揺らめいている。
「………行き倒れ?にしては、身奇麗ね」
そろりそろりと近寄り,つんつんとつま先で突ついてみる。……反応なし。
ふっと、女が口元を緩めた。
「どうせ事故かなんかでどっかから落ちたのね。でも、死んだ人間にはお金はいらないわよ
ね〜。この白蛇<サーペント>のナーガが有効活用してあげるわ!!おーっほっほっほっほ っほ!!」
脳天に響く高笑い。
そして、やおらそれを引っ込めると,そろ〜っと倒れた人物に向かって手を伸ばし始め
た。それが触れるか触れないかにまで迫ったその刹那,がばっと倒れていた人物が起き上が った。
しゃ!
僅かな鞘走り音。白刃が光を受けて,ぎらりと光った。咄嗟の事に,ナーガが驚きで目を
見張り,じっと加害者の顔を見つめた。
銀の髪に、紅と蒼の瞳が印象的なその顔。端正なその顔に、必死の表情を浮かべて剣を振
りかざし、振り下ろす。
(斬られる!)
そう思った瞬間,ぴたり、と刃が止まった。
目の前に、驚きに固まっている男の顔。
唇が,何事かを呟き,ふらりと倒れこんできた。
反射的にその体を抱き止めるナーガ。思っていたよりも、均整の取れた体に思わずぺた
り、と座りこんでしまう。
「なん……、ですって?」
男を抱き止めた形のまま,呆然とナーガが呟いた。
男が呟いた言葉。それは、彼女の大切な家族の名前、だった。
『アメリア・・・・・…』
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