あなたのいない世界で

4

 ランプの炎が頼りなく揺れた。
 もうすぐ油が切れそうなのを見て取って、その灯りを頼りに本を読んでいた人物は顔を上げた。分厚い本を閉じ、それを手に取る。その量が、つけた時に比べて随分減っていることに気づき、ゼルガディスはため息をついた。
 ランプの蓋を取り、ふっとそれを吹き消す。いきなり部屋が暗闇に落ち込んだ。
 目がなれていないせいで、深闇に落ち込んだような錯覚を覚える。だがそれもすぐに治まるはずだ。なぜなら、すでに空が白み始めている時間だから。
 もう何日こんな日が続いているだろう。
 自分が寝ている間にも、彼女の命が砂時計の砂のように零れ落ちているのだと思うと眠れない。いざ目を閉じても、最近力がなくなってきた少女の姿が蘇ってくる。そして、無力な自分に苛立つ。
 いくら最新の医学の本を見ても。そして、古の賢者の書を見ても彼女を救う術はみつからない。せめてできることは、彼女を襲う激痛を緩和し、そばにいてやることだけだった。
 そこまで考えて、ゼルガディスはふと違和感に包まれた。
 原因はすぐに気づく。
 いつまでたっても、周りが漆黒のままなのだ。嫌な予感を覚え、カーテンに手をのばす。
「・・・・どうしました?闇を恐れる柄でもないでしょうに?」
 声はすぐ後ろから響いた。懐かしい、とは言いたくないその声に、ゼルガディスはゆっくりと振りかえった。
 目の前には、予想通りの顔と姿。黒いおかっぱ頭で、何が楽しいのかにこにこと笑顔を浮かべている。黒の神官服に身を包んだ一見ただの青年が、自分より遥かに力を持つ高位魔族が、彼は嫌いだった。
「・・・・・・・・・何の用だゼロス。」
 心底嫌そうに顔を向けるが、ゼロスは全く気にせず彼が見ていた本を開いた。
「アメリアさんの病は、人の力ではどうにもなりそうにありませんね・・・・・・・・・」
 さらりと言われた言葉に、ゼルガディスは拳を握り締めた。わかっていることだった。分かっていたはずだった。しかし、それをいきなり他人に言われると、簡単には受け止めきれない。
「そんなことを言いに来たのか?!」
 荒くなる言葉を押さえ、険しい瞳でゼロスをにらみつける。
「まさか。そんなに暇じゃありませんよ、僕は」 
 困ったようにゼロスが手を振った。しかし、その顔がどこか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか?
 睨みつけるゼルガディスのことを無視して、ゼロスはさっさと手頃な椅子に腰を下ろした。そしてゆったりと足を組む。
「・・・・・・で、お話と言うのはですね、ゼルガディスさん。アメリアさんのことです」
「アメリアの?」
「はい。・・・・・彼女の命、助けたくはないですか?」
 くらり、とめまいがした。
 それは甘い誘惑。手に取れば蝕まれると分かっているのに、伸ばさずにいられない。
 それは魅惑。


 翌日
 ゼルガディスは何事もなかったようにアメリアの部屋を訪れた。いつも通りに服薬のチェックをして、その効き目を聞く。痛みがひどい部分に手を置いて、とりとめもなく色々な話しをする。
 一見穏やかで、実は荒れ狂うような葛藤の時間。
 穏やかな笑顔を見せるようになったことが、逆に痛々しい。
 ふとそのアメリアが、窓の外に目を向けた。
「・・・・・私ってどうしていつもこうなんでしょう?」
「・・・・・・・・・いつも?」
 俯き加減の表情は、最近見せた事のない後悔に満ちたものだった。
「はい。私、今度ゼルガディスさんに会ったら絶対について行こうって思ってたんですよ?足手まといにならないようにいろんな勉強して・・・・・・。でも結局、ゼルガディスさんに迷惑かけちゃって・・・・・・」
「・・−−アメリア」
 制止の音を含むゼルガディスの言葉を、アメリアは聞こえないふりをした。言いたい事はすべて言って、そうして死んで行きたかったのだ。
 自分勝手な想いかもしれないが、アメリアにはそれが必要だった。
「今だって、ゼルガディスさんを私の都合で引きとめて・・・・・。ずるいですよね。私、こんなにわがままだからきっと罰があたっちゃったんですね、きっと」
「アメリア!」
 それ以上言わせたくなくて、ゼルガディスはアメリアを抱き寄せた。固いゼルガディスの胸に指をはわせながら、アメリアは静かに瞼を閉じた。
「・・・・・だって、ゼルガディスさんに迷惑かけて、こうして抱きしめてもらって、私は幸せを感じてる」
 すぅっと、そのまま力なく倒れこむ。痛み止めの効果が強く、最近眠っている時間が増えてきたのだ。その眠りに吸い込まれる寸前、アメリアはゼルガディスを見上げた。蒼い瞳が、柔らかくなる。
 眠りに落ちる瞬間、人は自制の心が弱くなる。今まで決して見せなかったような穏やかな微笑で、アメリアはそっとゼルガディスの頬に触れた。
「・・・・・・・私が死んでも、忘れないでいてくださいね」
 それは呪縛。
 たった一言で、アメリアは彼を縛った。
 本人は意図していないだろうが、それは確かにゼルガディスを絡めとった。
 そのまま眠り込んだ少女の体を寝台に横たえ、ゼルガディスはそっとシーツを掛けなおす。
「・・・・・・・・・・・・・」
 無言のまま、白い頬にそっと指を沿わせた。幾分弾力のなくなった肌が、目に見えて荒てきている。
(忘れる事などできはしない・・・・・・・・・・・・・)
 差し込んでくる日を避けるためにカーテンを閉め、ゼルガディスはゆっくりと部屋を後にした。





―昨夜
「……それで?どうせお前のことだから交換条件でもあるんだろう?」
 ゼルガディスの問いかけに、ゼロスはぱちぱちと両手を叩いた。
「さすがです。もちろん、条件はありますよ」
「心にもない世辞はいい。なんだ?」
 その言葉に、ゼロスが薄らと瞳を開いた。紫の瞳が狡猾さを含んで怪しく光る。
「もちろん、あなたですよ。あなたの命、いただけますか?」
「俺の、命だと?」
 意外な答えだった。
 どうせこの魔族の事だから、どこかの大国の崩壊に手を貸せだとか、魔族の仲間になれだとか言うと考えていたのに。しかし、命を要求してくるとは。
 しかし、ゼロスはニコニコと頷くだけだ。
「はい。もちろん、他の方の命まで要求しませんよ」
「………何を考えている?」
「それはもちろん、秘密です」
 にっこりとお馴染みのポーズを取るゼロスに、ゼルガディスはいらいらとため息をついた。
 どうせそう答える事はわかっていたが。
「アメリアには何も望まないのか?」
 そこが一番疑問だった。自分の命の代わりに彼女を助けると言う。しかし、助かった彼女に何か要求するのではないか。この性悪な魔族ならやりかねない。
「ああ、それはありません。と言うより……」
「なんだ?」
「アメリアさんの病気は結構厄介でして。その原因となる病巣をすべて取り除かなければなりません。でも、そのおかげで少し副作用がありまして」
「副作用?」
「はぁ。別段命にかかわると言うのではなく、少し記憶がなくなってしまうんです。家族や自分について、それに今まで旅をしてきたこと。もちろん、あなたの事も……」
「すべて、忘れる………?」
 今まで生きてきた事を。
 楽しかった事。
 辛かった事。
 乗り越えてきた事。
 すべて消えてしまうと言うのか。
 自分と出会った事でさえ。
 何もかもがなかった事になってしまう。それが彼女にとっていい事なのか。自分の勝手な思いで、彼女の今までの人生を奪ってしまっていいのか。
 ゼルガディスは片手で顔を覆った。その様子に、ゼロスが満足げに笑みをこぼす。その苦悩でさえ、彼の目的の一つだったのかもしれない。
「今すぐに、とは言いませんよ。心が決まったら僕を呼んでください。すぐに来ますから」
 意地の悪い笑みを残して、ゼロスがふわりと掻き消えた。
 ただ一人残されたゼルガディスは、急速に光を取り戻す部屋の中で、ただ立ち尽くしていた。





 それが昨夜。
 そして今夜。
 ゼルガディスは部屋の闇に向かって声を発した。
「…………ゼロス」
 闇が、形をとって怖いくらいに優しく微笑んだ。

 真っ暗な部屋の中、その部屋の持ち主がゆっくりと瞳を開いた。
 薬の効果でねむりが不規則になっているのに、決まって深夜に目が覚めてしまう。心のどこかに不安と恐れがこびり付いているためだろう。
 月の光もないために天井も見えない。
 力のなくなって来た腕に意識を向け、ゆっくりと両腕を目の前にかざす。すっかり細くなってしまったそれを見て、アメリアは顔を顰めた。
 1人で起きるこの時間が恐ろしい。
 暗闇が、いつ自分を飲み込んでしまうのだろうと、その事ばかりを考えてしまう。
 暗闇の中にたった一人残されたような、絶対の孤独感。側に彼がいないだけで、泣きそうになる。
 掲げているのが辛くなった腕を、アメリアはそっと瞼に押し付けた。
 大きくため息を付いた。
 その瞬間、きぃっと扉がきしむ音がした。
 アメリアは覆っていた手を外し、扉のほうに目を向けた。
 今まで、こんな時間に部屋に来たものはいない。侍女たちの夜の見回りの時間ではないはずだ。
 見通しのきかない暗闇で目を凝らすと、見なれた白い巻頭衣が揺れるのが見えた。
「……ゼルガディス…さん?」
 怪訝そうなアメリアの声に、びくりとその姿の主が反応した。一瞬だけ立ち止まり、そしてゆっくりとした足取りで寝台に向かってくる。
 自分の寝台に彼が辿りつくまで、いつもより時間がかかっているような気がした。
 ぎし、と寝台がきしむ。
 近づいてきたゼルガディスが、そっと寝台に片手をついたのだ。
「…………アメリア」
 掠れるような小さな声だった。静かな深夜で無ければ聞き落としていただろう。それは苦渋に満ちて、聞いているだけで泣きそうになるような声だった。
 アメリアは、そっとゼルガディスの頬に手を伸ばした。
「どうか、したんですか?」
 ゼルガディスは無言で、頬の手を握り返した。愛しそうにそれに口付ける。
 アメリアの心拍数が跳ね上がった。体は弱っていても、心までは変わらない。
「あ、あの?!」
 ここ最近では珍しくなっていた上ずった声で、ゼルガディスに問い掛ける。が、ゼルガディスは答えずにそのまま、そっとアメリアの手を戻した。
 しばらく、沈黙だけがその場を支配する。
 それを破ったのは、アメリアの予想しなかった第三者の声だった。
 

「心は決まりましたか?」
 ゼルガディスの後ろから聞こえてきた声に、アメリアははっと目を見開いた。
 それは、彼が毛嫌いしているモノの声。
 かつて仲間だった事もある、高位魔族。
 しかし、決して友好的な間柄では無い。時と場合によっては、躊躇いなく自分達を引き裂くだろう。
 危うい糸の上に成り立っていた協力関係は、既に消えて等しいはずだった。
 それがなぜ、この部屋で、彼と一緒にいるのだろう?
「ゼルガディスさん?これは……?」
 どういうことですか?と聞こうとした瞬間、その唇がふさがれた。彼の唇によって。
 いきなりの事で、アメリアの頭が真っ白になる。初めて、という訳ではなかったが、いつもより激しいそれに息が詰まる。
 ようやく解放された時、初めてゼルガディスの顔が見えた。
 苦しく、そして今までに見た事が無いほどに寂しそうな笑顔。泣き出しそうなそれに、アメリアは思わず体を起こしかけた。しかし、病魔に蝕まれたそれは、彼女の思った通りには動いてくれない。
 ゼルガディスに軽く押しとどめられて、あえなく寝台に沈んでしまう。
 動けなくなったそこに、ゼルガディスの囁きが降ってきた。小さな、掠れた声で。
「――――――生きろ」
 その言葉を放った瞬間のゼルガディスの顔が、アメリアの瞼に焼きついた。
 それはあまりにも悲しく、優しい笑顔だったから。


 アメリアが寝台に落ちついた瞬間、ゼロスの持っていた杖が輝き出した。それと同時に、アメリアの両目が閉じられる。
 規則正しい呼吸音から、深い眠りに落ちた事がわかった。
「そろそろいいでしょう?僕としては、あなたの気が変わらないうちに始めたいんですけど」
「……気は変わらん。とっとと頼む」
 ゼルガディスは顔を伏せたまま、寝台から立ち上がった。そのまま、ゼロスの後ろに一歩下がる。
 ゼルガディスの様子に薄い笑みを浮かべながら、ゼロスは一歩前に出た。そして、持っていた杖を目の前に掲げる。
「さて、初めましょうか………」
 かぁっと杖に光が宿った。
 同時に、アメリアの体もふわりと浮き上がる。
 体にかかっていたシーツがずるずると滑り落ち、アメリアは薄い夜着だけでふわふわと浮いていた。
 そして、その体もまた光に包まれる。
 初めはうっすらと発光する程度の光だったのが、徐々に強さを増していく。
 アメリアの体が、まるで光の粒子で構成されているようになった。元の輪郭も、光のために曖昧になっている。
 ふわり、とゼロスが杖を横に振った。
 ぽわっとした感じで、アメリアの体から光が浮かび上がった。それを皮きりに。蛍の光のような小さな光が、アメリアの体から生まれていく。
 いや、それはアメリアを形作っていたモノだった。
 光が生まれる度に、元あったものは小さくなっていく。
「おい、ゼロス!」
 その様子にゼルガディスが声を荒げたが、ゼロスは意に介さずもう一度杖を振った。
 アメリアだったものが消え、蛍の群れのような光が無数に宙をただよう。それは、元あったものの意識を象徴するように、ふわふわと無邪気に飛び、ゼルガディスの側に寄っていく。
 ゼルガディスが、そっとそれに指を伸ばした。だが、光に触れる瞬間、まるで何かに引き裂かれるように光が逆流していく。
 ゼロスが杖を正中に構え、じっと瞳を閉じていた。
 その正面で、光が渦を形成し始める。
 全ての命を形作る、螺旋の形に。
 まぶしくて、目も明けられないほどに輝き始める。
 それは命の輝き。
 力強く暖かいその波動を、ゼルガディスはじっと見つめていた。目を離すわけにはいかなかった。
 彼女の新しい生を勝手に決めてしまったのは、自分なのだから。彼女の死を受け止められなくて。それに対してなにもできない自分が、何より許せなくて。
 これは、彼女の気持ちを踏みにじる行為かもしれない。自然の摂理を捻じ曲げる事かもしれない。
 けれど、そうせずにいられない自分に、彼は勝てなかった。
 だから、彼女から目を逸らすわけにはいかなかった。
 螺旋状に輝いていた光が、ゆっくりと収束していく。足元から徐々に現われるその姿に、ゼルガディスは瞬きすら忘れて見つめていた。
 

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