あなたのいない世界で

5

 翌日から、セイルーン上層部はひっくり返したような大騒ぎになった。
 不治の病の第二王女に付けていた侍女から連絡があったかと思うと、いきなり彼女が元気になったというのだ。
 最初は誰も信じなかったが、早馬で三回も同じ知らせが届くと、彼らの心にふつふつと楽観的な希望が湧き上がってくる。
 そして、三回目の早馬に事情を知っている神官をつけて送り返した。ただ、事情が事情なだけに、この事はフィリオネル王太子とエルドラド王には内密に取りはかられた。
 神官の返事を待っている間、セイルーンの上層部は気が気ではない。誰も仕事が手につかず、なにも知らない下部の者から何度も苦情を受けた。
 そして帰って来た早馬によって、侍女達の訴えが真実であった事が確認された。
 彼女の記憶と、側に付いていたはずの男の消失とともに……。

 天気はぽかぽかとして、いかにも散歩日和な聖王都。
 その大通りを、白い服を着た少女が駆け抜けて行く。
 太陽の光を受けて、肩まで揃えた漆黒の髪が深い海の色にも見える。藍色の瞳が、興味深そうに通りの店に向けられる。
 セイルーン第二王女の、アメリア=ウィル=テスラ=セイルーンだ。最近、"不治の病だった"とか、"行きずりの旅人と駆け落ちした"とか言う噂が流れていた。
 が、いまはそれは春先の溶け残りの雪のように消えてなくなっていた。その代わり、アメリアが旅行先で事故に遭い、今までの記憶を失ったという話が流れていた。そしてそれは、以前と変わらずに街に出てくる彼女によって、既に証明されてしまっていた。
 住人達はその事実に落胆しながらも、変わらず明るい笑顔をふりまく王女に胸をなでおろしていた。
 記憶を失った王女は、いまなお愛されていたのだ。


 小高い丘まで駆けあがり、アメリアは大きく息をついた。
 頭の上には青い空。眼下には白い城壁が延々と広がっている。見覚えの無い風景に、アメリアはもう一度ため息をついた。
 自分がこの国の王女だと言われても、いまだに信じられない。
 確かに城の者達にかしずかれているし、父と言う人は王太子だった。妙にハイテンションだったが、それも気にはなら無い。他人に言わせれば、それが親子の証拠だと言うことだが、アメリアにはいまいち実感がわかなかった。
 国中、ぐるで自分の事を担いでいるんじゃないだろうか?もしかして、自分はこの国の王女ではなく、ただの記憶喪失の子娘では無いのか?
 何回もそんな風に考えてしまう。
 しかし、自分に初めて会った時の父(?)の反応を見る限り、それは無いと思う。
 寝台から起きあがれなかった自分を、フィリオネルは泣きながら、ただ泣きながら抱きしめた。なにも言わずに、聞かずに。
 それまで、他の人達に質問攻めにされていたアメリアは、その大きく温かい胸に初めて安心できた。記憶がなくなって不安だったのに、誰も彼もが『覚えてないのか?』と口にしていたのだ。
 だからあの時、『ああ。この人はきっと、私のお父さんなんだ』と、はっきりと思えたのだ。それは、嬉しかった。
「はぁ〜〜〜」
 アメリアは再びため息をつくと、すとんと腰を下ろした。緑の草をなでながら、瞳を閉じる。
 父の話だと、自分はしばらく病床に臥せっていたらしい。その時の治療が原因で、記憶が無くなってしまったらしい、と。
 しかし、その治療を施した人間は誰かわからなかった。療養していた屋敷に一緒にいたらしいのだが、病が完治していたときには既にその姿は無かったらしい。
「…お礼もして無いのになぁ」
 立てた膝に顎を乗せ、アメリアは足元に咲いていた花を撫でた。体が起きあがれなくなるほどの病から自分を救ったという人に会ってみたかった。
 けれど、誰に聞いてもその人の行方はわからなかった。というより、皆が皆口を揃えて
「どうかその者の事は忘れて、ゆっくりと体を休めてくださいませ」
 としか言わないのだ。評判が悪かったのだろうか?
 父にいたっては
「あの者がいなくなったのには、それなりの理由があるのだろう。それを差し置いて、わしの口からあの者についてお前に教える事はできん」
 と苦い顔をして言われてしまった。どうも父には気に入られていたらしい。
「……どんな人だったんでしょうか……?」
 青い空に輝く金色の太陽の眩しさに、アメリアは固く目を閉じた。そして、その光を遮るように腕を交差させ、目を覆う。
 暖かい日差しの中忍び寄って来る睡魔に、アメリアはゆっくりと自分の身を任せた。
 もう少し空を見つめていたら、太陽の中にある小さな小さな影に気づいていたかもしれない…。


「納得してくださいました?」
「あぁ………」
 アメリアのいる丘の遥か上空。
 彼女から見てちょうど太陽の中にあった二つの人影が、静かに言葉を交わした。
 最初に言葉を発したのは、黒い神官服に身を包んだ高位魔族。上機嫌を隠そうともせずに、隣に浮かぶ男に笑いかける。
 その表情を一瞥し、白い巻頭衣に身を包んだ男はもう一度地表に視線を戻した。
 いつも見ていた白い巫女の略装が、緑の大地に横たわっている。あの時のような弱々しさはなく、大地に咲く力強い花のように見える。
「……これで彼女は今までの記憶もなく、新たな人生を生きる事になりました。これから先、平凡な大国の王女として生きるか、また波瀾に身を投じるか。それとも、寿命半ばに命果てるか。もっとも、あなたの知った事ではありませんでしたね」
 茶化すようなゼロスの言葉に、ゼルガディスは小さく笑みを浮かべた。
「そうだな」
 緑の中にぽつんと見える白い衣装に、ゼルガディスは目を細めた。
 先の事は、これから先に出会う者達とアメリアが築いていくだろう。それが良きにしろ悪きにしろ、全てアメリアが決める事だ。それをとやかく批評する資格は、自分には無い。
 細めていた瞳を固く閉じ、ゼルガディスは視線を横に向けた。そうしなければ、いつまでたっても未練を振り切れそうに無いからだ。
「もういい」
「そうですか」
 ゼルガディスの言葉に頷き、ゼロスがその肩に触れた。
 ひゅん、という音と共に二人の姿が掻き消える。
 残された空間に、乾いた空気が一つ、揺れた。


 一瞬の違和感の後、ゼルガディスはゼロスの手によって全く別の場所に移動していた。そこは薄暗く、恐らくどこかの遺跡の中と思われた。
 剥き出しの石壁に刻まれた異国の文字にざっと目を走らせ、ゼルガディスは自嘲に唇を歪めた。
「……"王家の墓"か。いい趣味だな、ゼロス」
 皮肉を込めた口調に、ゼロスはなにも答えない。手に持った杖を肩に預けながら、もう片方の手の平を上に向ける。
 ぼうっと、その手に黒い光が宿った。
 獣神官の、魔族の力だ。
「………約束は、果たしていただきますよ」
「俺の、命か?」
 舌なめずりせんばかりの魔族の視線を受けながら、ゼルガディスは腰にはいていた剣を抜き放った。
 灯りのない闇の中で、鈍く光って見える。
「おや?抵抗するんですか?」
 攻めるような言葉とは裏腹に、ゼロスは楽しそうに頬を緩めながら杖を構えた。
『アストラル・ヴァイン』
 ゼロスの問いかけに直接に答えず、態度で返答するゼルガディス。呪文を受けた刃が、赤く輝き始める。
 刹那の睨み合い。

 先に動いたのは、ゼルガディスだった。

『ディム・ウィン!』
 呪文で発生した風がぶわっと、長年の埃とチリを舞い上げゼロスを襲う。周りが見えなくなったところに、ゼルガディスが一気に踏み込んだ。
 ぎぃん!!
 鈍い音が響き、魔力のこもった刃が杖にはじき返される。ゼロスの持っている杖自身、彼の意識のうちなのかもしれない。傷一つつけることかなわず、逆にはじき返される。
 その時には、新しく唱えていた呪文が完成する。
『ラ・ティルト!!』
 こう!きゅぁぁあ!!
 ゼロスの足元から青白い炎が吹き上げ、黒い神官服を完全に包み込む。半端な魔族なら塵一片残さずに消滅させる呪文。
 しかし、相手は半端な魔族ではない。
「……この程度の呪文で、僕が倒せないことはご存知でしょう?」
 炎の名残を払うかのように、ゼロスは汚れてもいない襟元を軽く払った。余裕に満ちたその笑顔に、ゼルガディスは鋭く舌打ちする。
「約束を破るおつもりですか、ゼルガディスさん?」
「約束?魔族のお前が?!」
 嘲るように一声あげると、ゼルガディスは再び剣を構えた。一度で効かないなら、何度でも呪文を喰らわせるつもりなのだ。
「どうしても、抵抗なさるんですね?」
 困ったものだ、とでもいいたげに、ゼロスは軽く首を振った。その人間くさい動作に、ゼルガディスが口元を歪める。
「……なにもせずに殺されるほど、俺は……、自分の命を安く見ているつもりはない」
 ゼルガディスの台詞に、ゼロスは軽く眉を上げた。珍しいものを聞いた様に、そして嘲るように。
「あなたからそんな言葉が聞けるとは思いませんでしたよ」
 言葉を返しながら、ゼルガディスの繰り出す剣戟を軽くいなす。その勢いのままゼロスから間を取り、懐から新たに取り出したナイフに魔力を込める。
「……生きるように足掻くのは、人間のサガでな!!」
 ひゅん、と軽い音を立てて二本のナイフがまっすぐにゼロスの顔面に向かう。それは、目標に到達する直前に、ゼロスの力に触れて消滅してしまう。
「……それでこそ、ゼルガディスさんです」
 にぃっと、ゼロスの口元に愉悦の笑みが広がった。背筋がぞくりと震えるような、魔族の笑み。
「なに?」
 ゼルガディスが思わず問い返した一瞬に、ゼロスの姿が掻き消えた。
 そして次の瞬間、ゼルガディスの首に後ろから手がかかる。
「……もし、あなたが抵抗もせずに殺されようとするなら、僕はあなたを八つ裂きにするつもりでした……」
「っちぃ!!」
 耳元で囁かれる声に、ゼルガディスは反射的に刃を後ろに付き出した。
 しかし、それは掠ることもなく空を切る。別の空間に移動したゼロスが、一瞬のうちに再びゼルガディスを捕らえる。
「………あなたの命を奪うつもりはありません。約束通り、あなたの命は僕のものです」
「なんだと?!」
 ゼロスの言葉に、ゼルガディスは驚愕の声をあげた。それでも、片手に隠していたナイフを横に突き立てようと、振り上げる。
 しかし、それはゼロスに届く前に抑えつけられてしまった。もう片方の手も、同じように封じられる。
 そのまま、勢いよく石壁に押し付けられた。
 正面に、面白そうなゼロスの表情。
「……ただの人間と違う寿命と姿を持つあなたが受ける苦しみ、怒り…」
 ぺろり、と舌なめずりをする。
「僕のために捧げてもらいます」
「貴様の餌になれ、とでも言いたいのか?」
 嫌悪の表情もあらわに、ゼルガディスはゼロスを睨みつけた。くすくすと、悪びれるふうもなくゼロスが笑う。
「有り体に言うと、そうなりますね。………これからの一生も、あなたを束縛するつもりはありません。けれど、勝手に楽な道を選ぶことは許しません。生きて、僕を楽しませてください」
「誰が―――!!」 
 叫ぼうとした瞬間、ゼルガディスの首もとにゼロスが唇を押し付けた。その瞬間に、針を突き刺されるような鋭い痛みが、ゼルガディスを襲う。
「な?!くぁぁあああ!!」
 さらにそこから、なにかが注ぎ込まれる。熱い、焼けるような熱さを持ったそれが、体の芯まで貫かれていく。
 長いようで短い時間が過ぎ、ゼロスがゼルガディスから体を離した。立っているのが辛くて、ゼルガディスはがくり、とその場に膝をつく。
 それを見下ろしていたゼロスは、ゆっくりと一歩下がった。
「儀式は終わりました。これから先、あなたは僕から逃れることはできません。その首筋に残ったのが契約の証」
 ゼロスの体が闇に包まれる。
 それに引きこまれながら、ゼロスは再び薄い笑みを刻んだ。


 ―――簡単には死なせませんよ………


 夢の残滓のようなかすかな声を響かせて、ゼロスは完全に闇へと消えた。
 
 ゼルガディスに首に、永遠に消えることのない烙印を残して…………。





 闇の中に白い布が揺れている。
 とても頼りなさそうで、それでも消えることはない。
 揺れる、揺らめく、小さな灯り。
 ふいに、それが闇に呑まれた。
 瞬間、耳朶に響く『音』

 …………、…ろ!


「!!」
 がばっと、寝転がっていた体を起こした。
 眠気を追い払うように数度まばたきし、一度周囲を見まわす。
 太陽は少し西に傾き、涼しい風が吹き始めている。ねっころがっている内に、本当に眠ってしまっていたらしい。
 まわりに誰もいないことを確認し、アメリアはぽりぽりと頭をかいた。
 誰かに、なにか大切なことを言われた気がしたが。どうやら夢だったらしい。耳元で囁かれたような錯覚が、あまりにリアルだった。
 とても大切なことを言われた気がするのに、なんと言われたのか覚えていない。
 覚えているのは、圧倒的な暗闇。そこにある小さな、闇に汚されながらも失われない、白さ。
「……何だったんだろう?」
 よくわからない夢に、アメリアは首を傾げた。しかし、考えて意味の分かるものでも無く。
「ま、いっか。帰りましょ」
 深く考えることも無く、ぱっと立ちあがった。
 そして、沈む太陽に目を向ける。
 それは紅く、赤く………。
(血のように赤い)
 浮かんだ想いに、アメリアはぶるりと身震いした。今までも赤い夕日は見てきたはずなのに、なぜかそういう印象しか今日は浮かばない。
 顔を顰めると、アメリアは夕日から視線を外した。
 寒気をおぼえた肩を抱き、小走りに駆け出した。
 中々慣れることのできない大きな家へと、足を向ける。そして、逃げ出すようにその丘を後にした。



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