あなたのいない世界で

8

 暖かな光が自分を呼んでいる。
 ずっと聞いていたいと想う、優しい響き。
 その声に、アメリアはゆっくりと瞳を開いた。目の前に、誰かの顔。
 何度も夢で見て、結局いつも霞んでいる人の顔。
 もっと良く見たいのに、やっぱり前が霞んで良く見えない。
「だ…………れ………?」
 声にならない声で、唇だけが言葉を紡ぐ。
 それに答えるわけではないだろうが、その人が口を開いた。
 遠い意識に、その声だけははっきりと響いた。



「…………――――――――生きろ!」



 その言葉は、無くしていた自分を埋める鍵だったのか。
 いつも胸に感じていた空虚さが、すとんと落ちついた。胸に暖かな血潮が流れ出す。
 希薄だった現実が、一気に近づく。
 目に熱を感じた。それが横に流れ出す。暖かい、涙。
 目の前の人が、そっとそれを指先で拭う。
 唇が、言葉を紡いだ。


「あなたは……だれ?」


 目の前の人の顔が、はっきりと見えた。

 泣き出しそうな、苦しそうな、そんな笑顔。

 切なくて、涙が溢れた。



 そして再び、意識が遠くなる。





 血に染まった葬儀の会場で、ゼルガディスは抱えていたアメリアの呼吸を確認し、静かに息を吐いた。
 ぐったりとしたアメリアを、ゼルガディスがそっとフィリオネルの腕に押し付ける。
 まるで、それ以上の接触を拒むかのように。
「ゼルガディス殿?」
 フィリオネルの問いかけにゼルガディスは視線を合わせぬままに、下ろしていたマスクを引き上げた。
「後は本人の生命力次第だ」
 用件はそれで終わりだ、とでもいいたげにぞんざいに立ちあがる。翻る白いマントを見止め、フィリオネルは慌てて引きとめた。
「どこにいくつもりだ!ゼルガディス殿!!」
 このままゆっくりと会いもせずに去るつもりか、と暗に問われ、ゼルガディスは苦笑を閃かせた.もっともそれは、いつものマスクに隠れて誰も見る事は叶わなかったが。
 あたりは既に、収拾に向かって動いていた。
 侵入者達のほとんどはものも言わない体となっていた。生き残っているものも、すぐに捕らえられるか自滅するかだろう。
 血の匂いが立ち込める中、誰もそこでの一幕に気付くものはいなかった。
 白い塊のような人物は、大国一の貴賓に背を向けたままで呟いた。
「………もう、アメリアには俺は必要ないだろう・…・…・…」
 感情の読みとりにくいその声に、フィリオネルは大きく首を振る。
「しかし!……それならばなぜここに?!」
 フィリオネルの言葉に、ぴたりとゼルガディスの歩が止まる。俯いて、マスクとフードがその表情を隠す。けれど、流れる沈黙が含んでいたものは、紛れもない苦悩。
 何も言えず、また何も言わず、再び二人の距離が広がっていく。
 かけるべき言葉を見失ってフィリオネルが沈黙し、ゼルガディスの背中をただ見つめるしかなかった。


 その時
 ゼルガディスの後ろで、空間が揺らいだ。
 不穏なその気配にゼルガディスが振り返るのと、そこに人の姿が現われるのとは同時だった。
「―――ゼ…!!」
 驚き、というより舌打ちしたげな表情のゼルガディスが、間髪置かずに腰に佩く刃に手をかける。しかし、それが抜けるよりも、現われた人影がゼルガディスに触れる方が早かった。
「く、ぅ」
 ゼルガディスが小さくうめき声を上げて、その人影に倒れこむ。まるで赤子の手をひねるかのように、簡単に彼を捕らえた人影を、フィリオネルは警戒の眼差しで睨みつけた。
 登場の仕方から言って、まず人ではありえない。
「………魔族、だったのか」
 ゼルガディスを片手に支え、その人影がゆっくりと振り返った。
 かつて、彼の甥が反乱を起こした時、一度だけ見たことのあるその姿。漆黒の神官衣に、何を考えているのか掴みきれない笑顔。
「………お久しぶりです、殿下。いえ、陛下とお呼びした方が良いでしょうか?」
 揶揄を含むその言葉に、フィリオネルは頷きもせずに睨み返しただけだった。その視線に込められた意味に気付き、ゼロスが悪びれた風もなく首を振る。
「ああ。喪が開けるまでは王子なんですね。これは失礼しました」
 飄々とした態度が全く崩れず、フィリオネルは目の前の魔族の真意を図り損ねていた。そして、ようやく気付く。周りに誰の気配もしない事を。景色は変わっていないが、人の姿がごっそりと消えている。
「…閉じ込められたのか」
 以前にも同じように、別の魔族に結果内に取り込まれた事を思い出す。気付いたフィリオネルに、ゼロスが頷く。
「僕の姿があそこに現われると、すこ〜し勘違いされそうですからねぇ。すいませんが、ついでにご一緒に閉じさせてもらいました」
 にこにこと、感情の読み取れぬ調子で説明になっていない説明をする。腕に抱えられているゼルガディスが、黒い神官服の対となるようで目立つ。
「……我らに何の用だ?」
「う〜ん。ほんとは無かったんですが、折角ですからゼルガディスさんとアメリアさんを会わせて差し上げようかと思いまして」
「二人を・…・…?」
 それはフィリオネルも願ってないことだった。しかし、それが魔族の希望するところとなると、素直に頷くわけにはいかない。
「なぜそれをお主が、望む?」
 警戒するフィリオネルに、ゼロスは上機嫌なままに笑顔を浮かべた。
「人間って難しい生き物ですよね。苦しい思いばかりしていると、いつの間にかそれに慣れてしまう。幸せなままだと、それを感じられなくなってしまう」
「……何が言いたい?」
 よく意味が掴めず顔を顰めルフィリオネルに、ゼロスは喉の奥で小さく笑う。
「まあ、たまには息抜きも必要って事ですよ」
 ねえ?と首を傾げ、石人形を組みこまれたゼルガディスの体を軽々と抱え上げる。そして、アメリアをきつく抱きしめるフィリオネルの横に、そっと横たえた。
 そして、緊張しているフィリオネルを下から見上げ、にっと口元を歪めた。
「それでは……、またお会いしましょう」
 その言葉を合図に、すっと、目の前が一瞬だけ暗くなる。
 次の瞬間、音が耳に突き刺さった。止まっていた風景に、人の流れが現われる。眩暈を起こしそうな一瞬の変化のなか、フィリオネルははっと自分の手元を見下ろした。
 そこには蒼白になった彼の娘と、まるで疲れた老人のように眠るゼルガディスの姿があった。
 その表情を見下ろし、フィリオネルは知らず呟きをもらしていた。
「一体、何がどうなっておるのだ。ゼルガディス殿」
 この上なく苦いフィリオネルの呟きは、喧騒に飲まれて誰の耳にも届く事は無かった。
 やがて、彼らの無事を見つけた近衛の1人が、歓声を上げながら近づいてきた。

 

 目が覚めると、そこはいつもの天井だった。
 この5年で馴染んだ自分の部屋を見渡し、もう一度目を閉じる。
 なんだか体がだるく、動くのが億劫だった。
(どうしたんだろう?昨日、何かしたんでしょうか?)
 ボーっとした頭で、必死で記憶を手繰り寄せていく。けれど、頭の中に薄闇がかかったようで、ぼんやりとしか思い出せない。
 ゆっくりと瞼を開けると、そっと体を起こそうとする。
 途端に遅い来る、眩暈。
 気持ちが悪くなって、柔らかい枕に再び頭を沈める。背筋が寒くなるその感覚に、一気に昨日の記憶が蘇る。
「…………たしか、私……。刺されて」
 呟きながら、そっと着衣の中に手を差し込む。昨日侵入者に刺されたはずのそこは、何も無かったように痛みも傷も消えていた。
「……………そっか。助かったんだ」
 その事に安堵している自分と、どこか悔しく感じる自分がいる事をアメリアは苦々しく自覚していた。
 あの時、死を覚悟した。不思議と後悔や恐怖は無かった。あったのは大きな安堵。
「………安堵?」
 自分の考えを呟き、違和感に首を傾げる。安堵していたはずなのに、生きている事にも安堵した。それは、なぜ?
 何かあった気がする。誰かが、そう誰かに会った気がする。
「……どうしたんだろう…?」
 不可解な自分の心の動きに、顔を曇らせる。
 その時

 がたぁーーー…ん

近くで激しい物音が響いた。次いで、侍女の悲鳴や靴音が響く。
「……なに?」
 慌てて体を起こすと、震える足を叱責して寝台から降りる。幸い夜着ではなかったので、そのまま壁伝いに移動しながら扉を押し開く。
 と同時に、廊下を挟んだ向かいの部屋の扉が開け放たれた。転がり出る、一人の女性。たしか、去年から配属された侍女だった。蒼白の顔で息を切らしながら、震えている。
「どうしました?!」
 ただ事ではないその様子に、アメリアは扉を開けて廊下に出る。
「あ、あの…」
 がくがくと震えている侍女が、その場に座り込みながら部屋を指差した。どうも、腰が抜けて上手く動けないらしい。
 全く口がきけていない侍女の横をすり抜け、開け放たれた扉からそっと部屋の中をうかがう。
 床に敷かれた薄い絨毯の上に、水を張っていたタライや盆などが盛大にばら撒かれている。先ほどの音は、どうやらこれを落とした音らしい。
 ゆっくりと視線を上げていくと、寝台の上に半身を起こした人の姿が見えた。
 背に背負った窓からの光で、その姿がはっきりと見えない。
「誰・・・…・…?」
 小さくかけられた声に、その人がゆっくりとこちらを見たのが分かった。逆光で、その表情が全く見えない。
「…………アメリア?」
 その声を聞いた瞬間、心臓が高鳴る。 
 その声を、確かに聞いた事があった。それも、ついさっき。夢の中で。
「あなたは・・…・…?」
 まぶしい光を見透かそうと目を細めた時、後ろから幾人かの足音が近づいてきた。
「何事ですか!!」
 いつもの落ちついた声が、いまは驚きに上擦っている。部屋に現われたのは、主にアメリアの世話をしている年配の侍女頭だ。病に臥せっていた時も、彼女が常に側にあったらしい。
 彼女は部屋の中の状態と、座り込んでいる侍女を見、それだけで全てを悟ったようだ。
 部屋の入り口で佇んでいるアメリアの横を通り、寝台の上に座っている人の側に立つ。
「大変御無礼をいたしました。あのものには私の方からきつく言い含めておきますので…」
 深く頭を下げる侍女頭に、その人は苦く笑みをこぼしたようだ。
「いや……。驚かせて悪かった」
 その言葉に、限りない苦さが加わっているようで、アメリアは思わず顔を顰めた。彼の心の苦しみが、きりきりとこの胸に突き刺さる。
 その時、窓から差していた光が途切れた。
 それにより、見えなかった正面の人の顔がやっと見えた。


 それは、決して自然に生み出された容姿ではありえない。
 石でできた皮膚は青黒く、日の光に輝く髪は金属でできている。その髪からのぞく耳は、エルフのように先が長くとがっていた。侍女が驚き、声を上げたのも無理はなかったろう。
 けれどアメリアは、その侍女の行動を当然と思いながらも責めていた。原因の一つに、まず先ほどの彼の声がある。苦渋に満ちた、それでいてそれに慣れてしまっている声。遣る瀬無くて、心がざわめく。
 そしてもう一つ。
 彼の姿が恐ろしいと感じられなかったのだ。
 ぼうっと立っていると、手早く床を片付けた侍女頭がその肩に手を置いた。
「アメリア様。まだ起きるのははようございます。お部屋にお帰り下さいませ」
 穏やかなその口調に、わずかに気遣うような気配がある事にアメリアは気付いていなかった。ただ、目の前の人だけを見つめている。
「アメリア様」
 もう一度、今度はしっかりと侍女頭が声をかけた。
 その言葉に、アメリアはのろのろと頷く。そして侍女頭は、寝台の上の人物にもう一度謝罪すると、アメリアを促して扉から出る。
 部屋からでた所で、アメリアは思わず振り返った。
 寝台の上の人が、自分の姿をじっとみつめていた。
 孤独と、哀しみを合わせたような瞳の色だと思った。胸が痛くなり、涙がでそうになる。どうしてそんな気持ちになるのかわからないまま、アメリアは眉根を寄せた。 
 どこかで聞いたことのある声。
 なのに、思い出せない。
 その苛立ちに、息が苦しくなる。
「あ、あの!あなたは………?」
 思わず口を突いてでた言葉は、アメリアの心情全てを表していた。

 あなたは誰?
 あなたは何?
 ああたは、私にとって……どういう存在?

 けれど、寝台の上の人は何も言わずにただ、俯いた。
 目の前で閉じられていく扉の向こうで、再び差しこんだ光に照らされる姿だけが目に焼きついた。





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