あなたのいない世界で

9

 目の前の扉が閉じられると同時に、アメリアはふらりと体をよろめかせた。
 傷は塞がっているとはいえ、大量に出血した後だ。貧血で、しばらくは動く度に辛い思いをするだろう。
「さ、アメリア様も寝室へお帰り下さい」
 手にタライや盆をまとめて持った侍女頭が、そっとアメリアの体を支えるように空いている手を添えた。誰かに支えられている事に安心しながら、馴染みのその顔を見る。
 5年前、目覚めた時に側にいた人。それ以前からアメリアの身の回りをしていたらしく、アメリアの事を心から心配してくれていた。いつもは朗らかで大らかなその顔を、今は気遣う想いで一杯にしている。
 暖かな手に促され、アメリアは開けっぱなしにしてあった自室の扉をくぐった。そして支えてあった手をそっと断り、大丈夫と笑って見せる。
 その表情に、まだ心配そうではあったが、侍女頭は手を離した。ゆっくりと、部屋の扉が閉められていく。
 完全に閉められた後、アメリアはなんとなく動きにくくてそっと扉に背を預けた。
 扉の向こうで、侍女頭が彼に失礼を働いた侍女に何かを言っている。おもわず、アメリアは扉に耳を寄せた。分厚い扉を通して、か細い音が漏れてくる。
「…いしょに、言っておいたで…。…ア様の命の恩人だから……。なのに…、な無礼を…働くなんて!!」
「………わけありません。で……、………キメ」
「お黙りなさい!!」
 いきなりの大声に、アメリアは思わず身をすくませた。滅多な事では怒鳴らない人が、廊下の真中で大声を上げたのだ。怒鳴られた侍女の方も、さぞや凍りついている事だろう。さらに侍女頭の声が続く。最も、先ほどよりはかなり声をおとして。
「………それ以上のゼルガディス様への侮辱は、私が許しません」
 アメリアの頭に、鈍器で殴られたような衝撃が走った。静かな、だがはっきりした声が、耳の奥で繰り返される。

『ゼルガディス』

 その言葉が、彼を表す単語。
 名前を知っただけなのに、どきどきと胸が早鐘を打つ。

「ゼルガディス、さん……」
 小さく唇に乗せて呟き、軽く胸元を押さえた。
 どこかで聞いた事がある気がした。少し前に、確かに。
 ふとアメリアは顔を上げると、その目を机に向けた。そして、ややおぼつかない足取りで、ゆっくりとそれに向かって歩き出した。


 小さな音を立てて閉じられた扉を見ながら、ゼルガディスは小さくため息をついた。扉の向こうに消える、戸惑いと困惑を抱えた蒼い瞳が焼き付いてしまったから。
 一刻も早くこの場から離れたいと思っていたのに、離れる事に疼きが生じてしまった。それを振りきって立ちあがろうとする。この場に長く留まれば、またあの侍女のように彼を見て騒ぎ出す者もいるだろう。
(……化け物扱いは御免だからな)
 心の中で呟いて、それが必死の誤魔化しだと気付く。

 ホントウハ、ソバニイタイクセニ

 心の奥底から囁かれる声に、あえてゼルガディスは耳を塞ぐ。
 次から次へと聞こえる本心の叫びを相殺するために、思いつく限りの『理由』を意識する。
 固く目を閉じ、一度大きく息を吸う。そして、横においてあったマントと剣を掴むと、寝台横の窓枠に手を伸ばした。
 その取っ手に指先が触れそうになった瞬間

 バシィ!!

「っつぅ!!」
 激しい痛みが指先から肩にかけて走り、ゼルガディスは素早く指を引っ込めた。じんじんとした痛みに顔を顰める。
「…………ゼロスの奴」
 痛む肩を押さえながら、ゼルガディスは顔を顰めた。会場で一瞬だけ見た、獣神官の顔が浮かぶ。
 自分をここに留める事を、望んでいるらしい。そしてその理由にも見当がつく。
 側にアメリアがいる事で、自分が苦しむ様を見たいのだろう。悪趣味なあいつにふさわしい、心底いやな自分に対する対応だ。
 そして、最も効果的だ。
 魔族の結界を破る事は容易ではない。以前閉じ込められた時、リナの『神滅斬』でしか破れなかった。しかも相手は獣神官だ。
「…っち」
 苦々しく舌打ちして、ゼルガディスは寝台に腰掛けた。じたばたしても始まらない。どうせ、結界は彼をセイルーンに留めるのが目的だろう。となると、他の者は出入り自由で、彼だけ限定して壁が出現する確率が高い。
 ごろんと横になり、見なれない豪華な天井を見つめる。
「………あれが飽きるまで、ここに缶詰、か。………アメリア」
 すぐ側の部屋にいる少女の名を呟き、ゼルガディスはそっと目を閉じた。
(なるべく、あいつに近づかないようにしないと・…・…)
 巻き込んでしまうから。そして、彼にご執心の魔族が、それを面白がる事は目に見えていたから。
 けれど、直後に眠り込んでしまったゼルガディスの顔は、いつになく穏やかなものだった………。


−翌日
 居室に篭りっきりのゼルガディスの部屋の扉が、遠慮がちに叩かれた。怪訝に思いながらも扉を開くと、目の前には白いドレスを纏った少女−いや、女性が立っていた。
 いきなりの事で言葉のでないゼルガディスに、女性は緊張した面持ちで首を傾げた。
「あ、あの、いきなりすいません。ちょっと、お話しても、いいですか?」
 緊張のため震える声で尋ねる女性に、ゼルガディスは正直眩暈を覚えた。自分の方が近づかないようにしても、彼女の方から近寄ってきては意味がない。記憶の戻っていない彼女が、通りすがりの合成獣に興味をもつとは思えなかったのだ。
 ゼルガディスの苦々しい気配を察したのか、彼女は慌てて目を伏せた。
「あ、すいません!いきなり来たら迷惑ですよね。えっと…、昨日は助けていただいたと聞きました。ありがとうございます……ゼルガディスさん」
 彼女から発せられた言葉に、軽く目を見はる。どうして、名前を知っている?
 けれど、彼女はその疑念に気付く事なく話続ける。
「えっと、ご気分が悪くなければ、少しお話が聞きたいんです。あ、名前、まだ言ってませんでしたよね。アメリア=ウィル=テスラ=セイルーンです」
 そういって、予想外の訪問者はぎこちなく微笑んだ。


 どうして部屋に通してしまったんだろう?
 なんで、机に向かい合って座っているんだろう?
 自分の押しの弱さに嘆息しながら、ゼルガディスは緊張した面持ちで座っているアメリアを見つめた。彼女の目は緊張のためか、目の前に机の上一点に絞られている。
 その様子に苦笑を浮かべ、ゼルガディスは救いの手を差し伸べることにした。
「それで?何が聞きたいんだ?悪いが、俺はただの旅人で、お姫様の質問に答えられられるとは思わないがな」
 つっけんどんな言葉で、なんとか話を早く打ち切ろうと思っていた。けれどアメリアはしばらくじっと考え込んでいた。少し経ち、意を決した様に後ろに書くし持っていたらしい物をそっと机の上においた。
 それは、一冊の本だった。
「これは・…・…?」
「私の日記です。いえ、記憶を失う前の……私の。この中に、何人もの仲間がいました。リナさん。ガウリィさん。フィリアさん。そして……」
 こくり、とアメリアが小さく喉をならした。ゼルガディスは何も言わずに、その日記を眺めている。
「合成獣のゼルガディスさん…………」
 初めてアメリアの視線が上げられた。目の前の人物の反応を探るように見つめている。ゼルガディスは、日記を見つめ小さくため息をついた。
「聞きたい事は?」
「…………私には、5年前までの記憶がありません。大きな病にかかって、それから回復する時に全て失ってしまいました。………日記の最後の方に、その日々の事についても書いてありました。今まで、それを知るのが怖くて、全然読んではいなかったけど…・…」
 日記に目を落とすアメリアの瞳に、揺らめく困惑が現われた。それを振りきるようにきつく目を閉じる。
「……あなたの事が書いてありました。ずっと、側に付いて来てくださった事。それに、私が何を想っていたのか。……死を迎える恐怖、悔恨、悲嘆、それに安寧」
「……安寧?」
「………死にそうなのに、おかしいでしょう?でも、側にあなたがいるだけで、とても安らかだったみたいです」
 アメリアの言葉を聞きながら、ゼルガディスは心の内に広がる黒い感情を感じていた。5年前の、あの心裂かれるような日々が脳裏に蘇る。無力感に苛まれ、一日として心休まる日がなかった日々の事を。
 アメリアの、全てを受け入れたような、白い顔が蘇る。
 ゼルガディスは、正面にいるアメリアに気付かれないように深く俯いた。
「………それで?………俺に昔話でもして欲しいのか?」
 記憶喪失の人間は、それ以前の自分を知ろうとする事がある。そのため、以前側にいた自分に話でも聞こうと思ったのか。
 けれどアメリアは、少し逡巡した後で肯定も否定もせずにただ、顔を上げた。

「私は、どうやって助かったんですか?なんで、記憶を失ったんでしょうか?……ゼルガディスさんなら、ご存知ですよね?」

 日記には、自分の治療というか痛みの緩和は全てゼルガディスが行っていたとあっ。つまり、治療担当は彼だったのだ。
 ずっと疑問だったそれほどまで重い病を、どうやって癒したのか。なぜ、自分は記憶を失ってしまったのか。
 その答えが、目の前にいる。
 期待と不安が溶け合った瞳で、アメリアはじっとゼルガディスを見つめていた。


 言えるわけがない。
 自分の自己満足のために、彼女の記憶を奪ったなどと。
 その命のために、魔族と取引をしたなどと。
 言えるわけがなかった。

「大したことはしていない。ただ、色々な配合をしていた薬のどれかが効いたんだろう。……ただ、薬効が強すぎて記憶の方に影響が出てしまったらしいがな」
 アメリアの視線を避けるように横を向き、淡々と答える。
「そう……ですか。それじゃ、私って、ほんとは死ぬはずだったんですね」 
 ゼルガディスの言葉に、アメリアは顔を曇らせた。重病だったとは聞いたが、日記を読み話を聞くまで「不治」とは信じられなかったのだ。
 けれど、記憶を失って生きて、本当に良かったのだろうか。
 5年間ずっと、考えつづけてきた。
 けれど、答えは見えなくて。王宮の奥でお飾りさえできなくなった王女に、誰が期待を寄せるだろうか。
 家族は愛してくれたが、それ以上に家臣達の目が痛かった。

「…………どうして、静かに逝かせてくれなかったんですか・…・…?」
 
 アメリアの目から、大粒の涙がこぼれでた。
 ゼルガディスは何も言わない。ただ、じっと何かに耐えるように日記を見つめている。
「私が……、記憶を失ってから、…私が、どんなに辛かったか。……どうして!」
 やつあたりにしか過ぎない言葉を、アメリアの記憶では初めて出会った目の前の青年にぶつける。
 彼は彼で、必死で自分を助けてくれたわけではなかった、と思った。ただ、配合を試しただけ。偶然で生き残ってしまった命。
 そんなもの、きっと望んでいなかったのに。
「答えてください、ゼルガディスさん」
 嗚咽の隙間から、言葉を出す。

 けれど、その答えは正面から帰ってこなかった。
 背後から、何の気配もなく突然流れてくる、声。
「それは彼には答えられませんよ、アメリアさん」


「ゼロス!!」
 ゼルガディスの叫びに、日記の文章を思い出す。

『獣神官ゼロス。――――――――――魔族!』

 後ろでは、黒尽くめの青年がにこやかに微笑んでいた。


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