「私の写真を撮ってどうするんじゃ」
「記録として撮りたいです」
「何の記録にするんじゃ」
「やがてなくなる日本の負の歴史として」
「私の人権はどうなるんじゃ」
「偏見を無くするために訴えたくて」
「ほかにも方法があるだろうが」
「………………」
「年老いて醜くなった姿をなぜ撮るのか」
「…………」
「なぜ写真を撮るのか」
僅か60分の1秒の間に、自分の内部でこんな対話が繰り返される。
「社会に訴えたい」「それぞれに背負った苦難の歴史を撮りたい」と大義名分を並べても、心の何処かで、自分自身のエゴにぶつかる。
写真を撮ることがこんなに葛藤し、重たかったことはなかった。
30年後には、全員が眠っている納骨堂を誰が面倒をみるのか。
彼らが生活した建物は無くなると思うが、モニュメントなどは歴史として残るかもしれない。「昔、日本ではこんなことが行われていた」だけではあまりにも悲惨である。そこで生活させられた人たちの一生は何だったのか。
写真を撮ることは関わることであり、関わった自分が写真として残すことに意義があると思う。
書かれている数字は平成8年から9年にかけてのものです。写真展は70点でしたが何回かに分けて掲示します。人名も省きます。
データ ローライフレックス 75ミリ トライX
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