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 毎年メディアで報じられる「原爆の日」、「終戦」。日本人として、また教職に就き、こどもたちに「平和」の大切さを説く身として、是非とも現地を訪れてこの目でしっかりと見て、身体で感じたい。そして、我が子にも学ばせたい。沖縄広島と1年の内に続けてきた平和学習。何かに動かされるように長崎へ。tarosanにとっては、中学の修学旅行以来だった。原爆資料館(当時)で目の当たりにした資料の数々、心に重くのしかかるようなあの時の衝撃は今も忘れられない。
 1945年8月9日午前11時2分、長崎市松山町上空500mで、プルトニウムを使った「ファットマン」と呼ばれる新型爆弾は爆発した。
 今回は、長崎原爆資料館周辺の被爆地を巡るフィールドワーク。平和祈念公園から原爆投下直後から被爆者の治療にあたった永井 隆博士の庵「如己堂」、浦上天主堂などを夏のような暑さの中、家族で歩いた。
 折しも、訪問時は、修学旅行シーズンで、全国各地から修学旅行生が訪れていた。戦争の悲劇を、核兵器の残忍さをしっかりと心に刻み、平和を願うその思いを強くするために・・・。
「この子らを残して」の著者で、被爆者の治療に自らの命を賭した永井隆博士。
 その庵「如己堂」。今は資料館になっている。
写真の中の博士は、何を訴えようとしているのだろうか・・・。
平和祈念公園
原爆落下中心地(碑) まさにこの上空500mだった。
 今も千羽鶴が絶えることはない。
浦上天主堂も原爆によって甚大な被害を受けた。
 爆風で鐘楼ドームが吹き飛ばされた。ドームは当時のままに平和祈念のモニュメントとして残されている。
 原爆資料館の玄関には、全国の小・中・高校生らから寄せられた「平和祈念」の千羽鶴がほんとうにたくさん送られてきていた。
 それらが、所狭しと飾られていた。
 修学旅行生や海外から訪れたと思われる人で賑わっている。
 様々な立場の人が、全国、世界中からここナガサキの地を踏み、平和への願いを強めて、また帰って行く。私たちも、また・・・。
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