講演 「放哉と住宅顕信」(顕信没後20回忌)
  講師 岡山大学教授 池畑秀一先生(平成19年四月七日放哉忌)

 2002年5月中央会論新社刊「住宅顕信読本」ー若さとはこんなに淋しい春なのかーより「放哉」南郷庵友の会会報に著者の許可を得て転載したものですが、今回の講演はこれと同内容ですので参考までに掲載します。

池畑秀一氏紹介 
一九五一(昭和二六)年、鹿児島県生まれ。岡山大学教授(代数学)
顕信死後「海市」編集同人。九二年、住宅顕信句碑建立記念誌「春風の扉」を編集。
住宅顕信 紹介(本名住宅春美)
昭和三十六年三月二十一日岡山市生れの自由律俳人。短い句作期問ながら数多くの名句を残し、六十二年二月七日白血病のため死去。享年二十五歳。
 住宅顕信の略年譜は下に掲載しています。

 私が「層雲」の購読をはじめたのは、昭和六十一年八月号からだ。当時、どこかの結社に入って趣味としての俳句をはじめようと思い、いくつか定型俳句の見本誌を取り寄せていた。書店でたまたま購入した総合俳句誌「俳壇」(昭和六十一年八月号)の若手特集で、活躍中の若手俳人八十人ほどが紹介されていたのだが、その中で、藤本一幸氏の自由律俳句に新鮮な魅力を感じた。所属は「層雲」となっている。放哉や山頭火の「層雲」がまだ続いているのかと驚いたと同時に、作風がまったく違うことにも興味を覚えた。好奇心から、しばらく「層雲」を購読することにした。このときもしそうしていなかったら、この後のさまざまな出来事は起こらなかったことになる。
 それまで、自由律俳句については伊澤元美著『尾崎放哉』(桜楓社)を読んで少しは関心を持っていた。恥ずかしい話だが、私は放哉と同じように酒の上での失敗が多く、
 
  わが顔ぶらさげてあやまりにゆく 尾崎放哉
 
という句と出会った時など、まさに自分のことではないかと苦笑したものだ。しかし、ただちに自由律俳句をやろうとは思わなかった。あくまでも定型俳句をやろうと思っていたのである。いくつかの俳句入門書や山本健吉著『現代俳句』(角川書店)にも一応は目を通していた。
 志した数学の道で運良く大学に職は得たものの、研究上のことで悩み、酒を飲んでは、周囲に迷惑をかけ続けていた。酒を飲んで自分がしたことを覚えていない。次の日はあやまって歩くということなどたびたびだった。これではもたないということで一大決心をし、断酒を志した。三十一歳の十二月だった。アルコール依存症から立ち直ろうとしている元高校英語教肺の友人の勧めで、幾度か断酒会にも通った。断酒会とはアルコール依存症の人々が集まり、自分が酒の上でどんな失敗をしたかなどを告白しあう会で、ほとんど毎日会場を変えて行われている。タバコの煙が充満する部屋でひたすら告白するのである。私の場合は比較的軽症だったようで、断酒会に通い続けなくても自力で断酒することができた。
 とはいえ酒好きの者が酒を止めると、これはつらい。皆に元気がなくなったといわれたものだ。心のなかにぼっかりと開いた穴。ストレス解消ができない。何とかしなければ……と焦るばかりだった。
 肝心の数学研究は厚い鉄の壁を素手で叩いているような感じで、深い挫析感を味わっていた。自暴自棄になりかけたこともあった。ヨガの道場に通ったり、写経をしたり、いろんなことをして、なんとか平静を保てるようになるまで、数年が必要だった。
 窮屈すぎる自分の心を少しでもゆとりのあるものにしたい。そういう思いから、美術館へ行ったり画集や俳句歳時記をめくったりした。研究室の机の上に文庫版角川俳句歳時記を置き、合間合間の時間に手にしていた。このような状況の中で、「層雲」に入門したのだった。
 住宅顕信との出会いは、昭和六十一年八月二十五日、彼の方から電話がかかってきたのがはじまりだった。このとき、顕信二十五歳、私は三十五歳だった。京都の層雲社事務室の池田実吉氏から、同じ岡山の私が「層雲」に入ったことを知らされたという。顕信は澄んだ声で、浄土真宗の僧侶であることを告げた。「岡山市民病院に入院しているのでぜひ遊びに来てください」。夏休み中だったこともあり、翌日さっそく病室を訪れた。
 坊主頭で鋭い眼をしており、常時点滴をぶらさげていた。「すぐ死に直結するというような病気ではないが、一生治ることはなく、もう働くことはできない。それで今は家族みんなの協力を得て俳句に全力を注いでいる」というようなことを静かに話した。顕信の病室は特別室で、ソファもあり、それほど重い症状には見えなかったので、長時間話し込んだ。市役所で清掃車に乗務していたことや、結婚したが難婚して、生まれたばかりの子を引き取ったことなどを知る。ま、た藤本一幸氏が発行している自由律俳句誌「海市」に参加していることも知った。前にも述べたように定型俳句にはいくらかなじんでいたが、自由律俳句についてはあまり知識はなかったので、顕信の話は新鮮だった。自費出版した句集『試作帳』をいただいて印象に残った句についで感想を述べると、あたっているともいないとも言わず、「そう読むんですか」とただ徴笑んでいた。
 それから二週に一度くらいの割合で病院に足を運んだ。二週間くらいすると無性に会いたくなるのだった。顕信が推薦してくれた本や句集を読み込んでから、感想を述べたり句を批評し合ったりした。はじめのうちは毎回二時間程度病室にいたように思う。顕信は自由律俳句全般について本格的に勉強していたが、特に尾崎放哉に心酔しており、井上三喜夫編『尾崎放哉全集』(彌生書房)を徹底的に読み込んでいた。その書き込みがすさまじい。今となってはくわしくは思い出せないが、顕信はいつも、放哉についての持論を展間した。じつは定型俳句についても知識があり、村上鬼城などを愛好していた。角川春樹の俳句も好きだったようで、長男を春掛と名付けている。「層雲」同人の中にはまったく定型俳句を認めない人もいるが、顕信はもっと柔軟性があったような気がする。
 俳句の評をするとき、顕信は間髪をいれずに反応した。なんと聡明な男だろうと思った。わずか二年の句歴なのだが、並外れた集中のため上達も速かったのだろうし、既に顕信は俳人としての風格を備えていた。私がはじめて作った句を見せたとき、酷評し「それはこうすべきなんです」といった調子だった。俳句の評をする時の厳しい顕信の顔と、全国の句友の話を嬉しそうにするときの顕信の顔を、どちらも鮮明に思い出すことができる。あるときは緊張感にあふれ、またあるときには実におだやかなしみじみとした雰囲気に包まれた。
 十月半ば、藤本一幸氏が病室を訪れた時、私も同席した。顕信が一幸氏に対しては非常に緊張し、一言一言を選びながら話していたのが印象的だった。二人が俳句について議論を交わしているときは、まさにブロの俳人の真剣勝負といった感じで、私が入り込む隙はなかった。顕信は一幸氏を兄のように慕っていたが、同時にライバル心も持っていたような気がする。もう少し顕信が長く生きていれば、おそらくそのめざす方向性の違いから衝突する時が来たかもしれない。
 十一月になってから顕信の病状は急に悪化し、あまり長く話が聞けないようになった。鈍感な私は、一時的に悪化しているがまたそのうちに回復するのだろうなどと思っていた。このころは私もかなり句作に熱中していたので、顕信が私の句に対してどんな反応をするか、楽しみにしていた。お見舞いに行く前に病室へ電話をかけると、家族の人に「今日は調子が悪いので、申し訳ありませんが遠慮してください」と何度か断られた。十二月二十四日、クリスマス・イヴの晩に、とうとう我慢できず私は連絡をせずに病室を訪ねてみた。驚いたのは、想像以上に病状が悪化していたことだった。痛み止めを何本打っても効かないと言いながら、しばらく話をしてくれた。もう死が間近に迫っていることを静かに語った。覚悟を決めているようだった。句集の準備をしているといって黒い紐で綴じた原稿を見せてくれた。既に字が書けない状態だったため、顕信自身が自選した句を、献身的に付き添っていた女性が筆記したものだった。野村朱鱗洞の『禮讃』と同じ黒の布表紙で、『試作帳』も含めて一冊とし、一頁一句、表題は『未完成』としたいと言った。原稿を渡されて、どうですかと訊かれたが、胸がつまって何も答えることができなかった。
 心配のまま年を越したが、一月十九日には、ベッドにクギ付けで、足に点滴が縫い込まれており、それでも手には、しっかり『未完成』の原稿が握りしめられていた。家族が言うには、うわ言でしきりに句友に話しかけていたという。最後に見舞ったのが二月五日。このときは唇がカラカラに乾き、もう素人である私でも最後だなと直感した。私であることがわかったらしく、何か言おうとしたが、声にはならなかった。このときも手にはしっかりと『未完成』の原稿が握りしめられていた。
 二月七日死去。最後まで俳句に対する執念はすさまじいものだった。
 白血病であったことは死後はじめて知った。厳しい病気である。顕信自身には知らせていなかったらしいが、かなり早い段階でその病であることを自覚していたように思う。追り来る死に敢然と立ち向かい、静かに句作を続けた顕信。立派な最期だった。もっと、もっと、話がしたかった。もっと、もっと、俳句を作ってもらいたかった。
 わずか半年にも満たない期間の、たった十回だけの対面。俳句関係以外の話はほとんどしなかった。よく顕信を取材に来られた方に「どういうきっかけで顕信は浄土真宗と出会ったのか」という点について訊かれるのだが、本人からその答えを間いた覚えはない。ただ、顕信が浄土真宗の教えについて一方的に語るのを、だまつて聞いていたことはある。私も若いころ宗教書を読んだり、宗教を勧めに来た人と議論などをしたことはあるが、後味の悪いことばかりだった。まして、重病の顕信と宗教の議論などすれば疲れさせるだけだろうと考え、あえて口をはさまなかった。知人の方々が「あそこに拝みに行けば病気は治る」と勧めることも多々あったらしいが、顕信は一切そんな話を断った。「私は病気になってはじめてわかったこともあるし、病気に感謝しているのです」と言ったことが印象に残っている。また、病室の片隅にサザンオールスターズのカセットテープを見つけたことがあったが、耳が相当悪くなり補聴器を使っている顕信に、「どんな音楽が好きなんですか?」などという質問をすることはできなかった。
 顕信との関係ではどちらかといえば、私は聞き役だった。しかし本来の私は皆に「暑苦しい」人間と映っているようで、自分ばかりしやべり、あまり人の話は聞かないほうだ。顕信とつきあっていた期間は、前にも述べたように精神的につらい時期を通り越したばかりで、酒をやめていた時期でもあったからかもしれない。あるいは顕信が私に無駄口をたたかせない雰囲気をもっていたからなのかもしれない。あとになって、顕信の句友に「俺は口論ばかりして、顕信を随分疲れさせたが、あんたは、よう聞いてあげたんやなあ、良いことをしてあげたなあ」としみじみ言われたことがあった。
 顕信の女性関係についても、じつはくわしくは知らない。離婚したとはいえ、入院してから献身的につき添っていた女性がいて、私が病室に行くと、その人は部屋を出て顕信と二人きりにしてくれるのが常だった。病室からの帰りに、廊下の長いすにうつむいて座っている姿を何度か見かけたことがあった。なんという憂いをもった人なんだろうと思った。彼女は彼女なりに、顕信の病状のことを案じていたのだろう。
 また、顕信は不良少年だったのだろうかと思わすような、不敵な笑みを見せることもあった。はじめて会ったとき、前の週に「海市」の女性俳人が訪ねて来たことを告げ、「あの人は僕に惚れてるんですよ」とさらりと言った。
 
  遠くから貴女とわかる白いブラウス
 
  日傘の影うすく恋をしている
 
と詠まれた人のことかと、顕信の死後句友の間で話題になったものだ。
 私の好きな芸術家は夭折の人が多い。短い命でも完全燃焼をして、何事かを成し遂げてゆく、悲しくも美しい人生。そんな人生に昔からあこがれていた。そんな私にとって、顕信こそ現実に会うことのできた夭折の芸術家だった。顕信が発散するものは、夭折の芸術家のみがもつ独特の光というものではないか。私の心の深部まで浸透してきた、その青い光。所詮自分はこの程度のものなのだという思いにとらわれて、ふやけきった日常を送っていた私には、顕信はほんとうにまぶしかった。多くの人に顕信を知ってもらいたい。その命を削って作った作品を読んでもらいたいと、深く思うようになった。
 
 鮮烈な印象を残して逝った顕信だったが、たしかにその記憶は、時間とともにゆっくりと薄れてゆくはずだった。ところが、顕信との関わりはまさにこれから、ほんとうの意味で深まっていくことになる。昭和六十二年二月二十五日。京都大学数理解析研究所での研究集会に出席していた私は、いつものように近くの古書店をのぞいた。画集や展覧会の図録などを買うのが、いつもの楽しみだった。そこで、「層雲」関係の書籍を大量に発見し、四百数十冊を一度に入手したのだった。
 大きなダンボール箱三つ分。亡くなった京都の古い「層雲」同人が所有していたものとあとでわかった。荻原井泉水の著書をはじめ高価な本もあったが、ほとんどは無名の自由律俳人の句集であった。また私の古書入手を知った「層雲」同人の方から、ダンボール二箱の「層雲」のバックナンバーや資料が送られて来た。狭い公務員宿舎の私の部屋は、それらの古書で溢れた。これだけのまとまった量の古書が持つ霊気はすごい。句集の序文を読んだり、後書を読んだりしながら整理してゆくうちに、「層雲」という結社のもつ雰囲気というものが次第にわかってきた。一般にはまったく知られていない俳人の、多くのかけがえのない人生があったことを知った。彼らの魂に触れているような感じで、ついつい深夜まで読みふけってしまうのだった。
 それからしばらく経って、東京の出版社である彌生書房が、『尾崎放哉全集』の版元だという事実を改めて思った。顕信が愛してやまなかった放哉。その放哉全集と同じ版元から顕信の句集が出版されればーー。全国の書店の棚に『尾崎放哉全集』と住宅顕信句集『未完成』が並んで置かれる姿を想像した私は、興奮が抑えきれなかった。顕信の家は近い。自転車で夜の蛙のなく道を走った。サドルから腰を上げて、思いきりペダルを踏んだ。
 そのころ顕信の両親は、一周忌までに、顕信の希望通りの形で遣句集を自費出版する予定でいた。編集をしてくださるはずだった顕信の師、層雲事務室の池田実吉氏が五月に病に倒れ、両親は途方にくれているところだった。私の考えを話すと、すべて任せると言ってくれた。
 彌生書房の社長に宛てて依頼の手紙を送ったのは、昭和六十二年六月十四日のことだった。句集を作る場合、せいぜい二、三百部程度を自費出版し、結社内や友人知人に配布するのが普通だ。よほど名の知れた俳人でないかぎり、出版社から全国書店販売などされることはない。まして句歴二年四力月という顕信。また当時の「層雲」での評価はそれほど高いものではなかったので、相手にされないのではないかと不安だった。
 七月十一日、彌生書房の若い編集者から電話があり、「うちの出版物として出版したいと思います」と言った。体中に電流が走った。嬉しかった。句集『未完成』が全国販売になるのである。ありがたいことに『尾崎放哉全集}の編者、井上三喜夫氏の序文をもいただけることになった。一頁一句という条件以外は顕信の希望どおりの形で、句集『未完成』は一周忌の二月七日に発行され、店頭に並んだ。
 顕信の死後わずか十八日目の京都での古書発見。そこからはじまった出来事には、まったく不思議な縁を感じないわけにはいかない。普通なら「層雲」入門後わずか十力月の私が、出版社の社長に手紙を書くことなどできようはずがない。今になって思えば、なにか目に見えない大きな力につき動かされていたような気がしてならない。
 「通常、句集などめったに売れませんよ」という声はいくらでもあった。そんなことを言われても、私の方は絶対に売れてほしい。ひとりでも多くの人に読んでもらいたい。どうすればいい。そうだ。顕信がかつてそうしたようにマスコミにお願いしよう。そうして、地元の山陽新聞をはじめ各新聞社の岡山支局、テレビ局の支局をまわった。テレピにはほとんど無視されたが、顕信の俳句は若い記者たちの心に素直に響いたらしく、新聞はそれぞれ大きく扱ってくれた。特に顕信が最初に「自由律俳句をやりませんか」と呼びかけた岡山リビング新聞は、何度も取り上げてくれた。
 マスコミで取り上げられたことや、顕信が以前勤務していた岡山市役所の方々、住宅家の親類の協力もあり、句集『未完成』は、岡山ではベストセラーになった。ある書店では三週連続一位をしめた。初版はほぼ完売となり、荻原井泉水の命日五月二十日には再版が決定した。
 句集の発送を任された私は、藤本一幸氏とも相談しながら、今度は「層雲」関係者ばかりでなく、他派の自由律俳人や、定型俳人、歌人、詩人、作家等へも送ることにした。さらに各新聞社の本社、各総合俳句誌、一般の月刊誌、週刊誌等にも送った。特に嬉しかったのは、別冊宝島『楽しい俳句生活』に登場する若手俳人のほとんどが、あちこちの雑誌に文章を書いてくれたことだ。伝統派の人も現代俳句の人も、流派や結社を越えて、顕信の俳句そのものと真剣に向き合ってくれた。自由律俳句は定型俳句の人には相手にされないものと思い込んでいた私は、若手俳人たちのこのような姿勢にはほんとうに驚かされた。
 毎日のように全国各地から寄せられる手紙。心に染みてくる手紙が来たときは、夜遅くても顕信の家に自転車をとばした。生前の顕信が作った無量寿庵で、家族の方々とともに喜びあった。このころは毎日、顕信顕信の日々だった。顕信は無量寿庵で句会をしたがっていたが、それは、死後全国各地から句友が訪れ何度も何度も実現するのだった。
 話は句集の出版だけにとどまらない。顕信は「小さくてもいいから岡山市のどこかに句碑を建てたい」と句友に語っていたという。葬儀の場で、ぜひとも七回忌までに実現しようということになった。平成三年十二月、詩人の吉備路文学館山本遣太郎館長を委員長とする「住宅顕信句碑建設委員会」が結成された。俳句の関係者ばかりでなく、多くの方々の署名活動や募金活動により、七回忌の平成五年二月七日、句碑は岡山市京橋西詰旭川緑地に建立された。山本館長の勧めで「小学生でもわかる明朝体の活字」により、岡山特産の万成右に、
 
  水滴のひとつひとつが笑っている顔だ  顕信


平成5年2月7日 住宅顕信句碑建設委員会(岡山市京橋西詰旭川緑地)

 
の句が刻まれている。側に植えられていた小さな桜の木は、今では句碑を守るように、大きくまわりの風景の中にとけ込んでいる。短い人生ながら、壮絶に生きた顕信。その激しい情熱はまさに「夭折の俳人」と呼ぶのにふさわしい。しかし、だからこその短い交流でも、顕信を通じて得たものは計り知れない。顕信に関係して出会ったさまざまの人々、関連して起こった多くの出来事、それらは貧しかった私の心に、たくさんの感動を与えてくれた。顕信の句友はすべて私の句友となり、その中の幾人かは生涯の友となっている。かけがえのない財産である。
 そして、安物のワイングラスのように壊れやすく窮屈だった私の心は、いつのまにかすこしゆったりとしてきたような気がする。物事を見る眼も、いわば単眼だったのが複眼になったように思う。人生は味わい深いものだということも、少し、わかった。
 七年半の断酒のあと、今では大いに酒を楽しんでいる。相変わらず品のいい酒ではないものの、パトカーのお世話には一度なったきりで、大過なくいる。ときには親切な同僚がひきつった顔をして、翌日注意しに来てくれることもある。いつでも、顕信は私の心の中にいる。顕信と出会った時三十五歳だった私は、今年で五十一歳。大学をとりまく環境も年々厳しくなりつつあるのだが、数学の研究では、これから登るべき山がかすかに見えはじめている。私は私の山を、顕信がくれた「少しゆとりのある心」を持って、ゆっくり静かに登ってゆきたい。
 
住宅顕信略年譜  池畑秀一編
昭和三十六年(一九六一)
三月二十一日、岡山市谷万成一丁目三番地六号に父勝元、母恵美子の長男として出生、名は春美。
昭和四十二年(一九六七)   六歳
岡山市立三門小学校入学。
昭和四十八年(一九七三)  十二歳
岡山市立石井中学校入学。漫画を描くことが好きで、漫画家になりたいと思っていた。
昭和五十一年(一九七六)  十五歳
石井中学卒業後、下田学園調理師学校入学。同時に岡山会館に勤務。この頃から詩書、宗教書、哲学書に親しむ。この頃七歳年上の女性と同棲している。
昭和五十一二年(一九七八)  十七歳
三月、下田学園調理師学校卒業。その後いくつかの飲食店を転々とする。
昭和五十五年(一九八○)  十九歳
四月、岡山市役所環境事業部第二事業所(父と回じ職場)に臨時採用となり、十月、本採用。仕事の傍ら仏教書を熱心に読む。
昭和五十七年(一九八三)  二十一歳
九月から中央仏教学院通信教青を受講。翌年四月修了。
昭和五十八年(一九八三)   二十二歳
七月、京都西本願寺出家得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となる。十月、結婚。新婚旅行は四国松山。野村朱鱗洞の墓参りをした。自宅の一部を改造し無量寿庵という仏間をつくる。
昭利五十九年(一九八四)  二十三歳
二月二十三日、急性骨髄性白血病のため岡山市民病院に入院。六月十二日、岡山市役所を休職。六月十四日長男春樹誕生。妻の実家の希望で離婚。春樹は住宅家が引き取り病室での育児が始まった。絶望の中で句作を始め、十月「層雲」に入門。層雲社事務室の池田実吉氏に師事する。野村朱鱗洞、尾崎放哉、山頭火、海藤抱壺、井泉水などを耽読。句作に励む。特に尾崎放哉には心酔し『放哉全集』がボロボロになるまで読む。
昭和六十年(一九八五)  二十四歳
二月、「層雲」二月号に初めて二句掲載。六月十一目、岡山市役所退職。十二月、句集『試作帳』を自費出版。この頃藤本一幸氏の「海市」に参加。
昭和六十一年(一九八六)  二十五歳
二月、「海市」三号に特別作品「ぬかれる血」二十句掲載。これは大きな反響を呼ぴ、非上敬雄、田中信一、橋本あさみどりなどとの交流が始まる。四月、病状少し安定し一時的に退院、自由律俳句をひろめようと努力する。「岡山十六夜社」を結成し、五月十一日第一回句会を開催。松本白路、西山典子が参加。二回目の句会は開催されることはなかった。「海市」四号に十句掲載。八月、「海市」五号に二十句掲載。釈顕信と号するようになる。
十一月、「海市」六号に二十句掲載。この頃より病状悪化。
昭和六十二年(一九八七)
二月、「海市」七号に二十句掲載。二月七目、死去。満二十五歳十力月、法名泉祥院釈顕信法師。
一九九三年二月住宅顕信句碑建立記念誌「春風の扉」より転載

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