(※編者注 本文は、鳥取の「湖の会」編集になる放哉追悼文集「春の烟」に初めて紹介された。放哉の宗教観なり精神世界を知る上に重要と思われたので採録した。これは尾崎家の文函から発見されたもので、便箋六枚に記されてある。放哉が朝鮮火災を辞めて満州に渡り、長春で病んで居た時、妻・薫に口述筆記させたものだろうとの事である。何かまとまったったものにするつもリだったらしく、冒頭に序文と記されてあるが、原稿はこれだけで中絶してゐる。)
自分が今死ねば一寸、尾崎家の血統がたえる形になる。それでふと思ひ付たのは、自分の最も幼なかつた時の、いろいろの断続的の記憶を本として、自分の生ひ立ちと、周囲の様々の出来事を、たんねんに書き留て置く事は最も必要だといふ事に気が付いたため、早速筆を取る事にする。
記憶をたどりたどり書く事だから、ドンナ物が出来るか、自分でも分らん。一つ云はねばならぬ事がある.長春に来て四、五日すると左側肋膜炎になって床に付く事に成った。昨年の十月頃、京城でも一週間ほどやつたのだから、どうも気候の不順の処には自分の様な体は生活出来ないらしい。医者からは、絶対静養といふので、ひっくり返って天井を脱んで居る許り、腰の骨はいたし、なかなか楽しかない。そこで一言したいのは、昔から病気で寝ると大抵哲学上の本を読んだ。
是は、明治三十九年、一高の寄宿舎に入いった以来実行して来た事で、西洋人の哲学書は、最近の物まで、残らず読んで見たけれども、例に依り浅薄、論ずるに足らず、何んとしても「老子」等の東洋哲学を研究し、喰み返すのが落ちである。
処が大学を出、転々としてゐる内に、哲学では、とても救はれぬ事が分り、鎌倉の円覚寺に宗教によって安心を得様と、始めた「此お寺には、学生時代にも来た事がある」なぜ禅宗に依って安心を得ようとしたかといふに御承知の通り、禅宗は自力宗であって天上天下唯一人貴しとし、自分がすなはちシャカである。自分がすなはちアミダであると云ふ男らしい大信念に共鳴したのであったが、禅宗のお経本を色々読んだリ見たり、公案を考へたりして居る内に、禅宗に依って安心立命を得るといふ事は、非常に困難な事であると云ふ事が分って来た。
自分、すなはち仏なり云ふ事の安定を得る事は、凡夫としてなかなかむつかしいといふ事が分って来た。自分は非常に迷った。ここにおいて、自分は改めて、自分の無き内に、佐々木清呂氏に敬意を表したいと思ふ.内に対してはしばしば其法語に接し、今回、どうやら浄土宗一方を信心して、それのみにて渡世を送る気になリたる点において、右申せし如く、一時全く途方に暮れたる形なリしもたまたま佐々木氏の著「極楽より帰リて」及「親鸞研究並に真宗研究」等の著書を見るに及び、翻然として、自力宗より、浄土の他力宗に転ずる事になれリ。理由は簡単にして、我々凡人にては、到底安心立命出釆ざるが故に非常なる難業、苦業の結果、悟リを開き人すなはち仏の恩にすがリて、安心立命さして貰ふのなリ。されば、仏の残し給ひし教への経本をよく守り、煩悩を抑へ、仏に懺悔し、仏の救に、二六時中身をまかす。我身を一任する事なリ。
斯くの如き簡単なる安心立命の方法が、なぜ今迄気が付かなかったといふのは、一は哲学研究にふけリしため、二は自力宗に依つて安心せんとする我執ありしが為なり。
然も最後の念仏、信仰については、此度病気伏床中の収穫なリ。病、宣に感謝せざるべけんや、そも南無阿弥陀仏とは、印度語にして之れを訳すれば、帰命無量寿仏となり、すなはち、我命は帰する故、常に預ける、誰に預けるかといへば、無量寿仏、すなはち、其の仏の教へのままに暮して行けば、すなはち今世も、後世も安楽なので有ります。さういふ偉いお方で有から褒める言葉もない位だ。
けれども、毎日何事をするにつけても、我身の命を預けて下さる仏を、尊敬するため帰命無量寿仏、すなはち南無阿弥陀仏と唱へるのは、当然の事であります。否、此念仏のいへない人は、信仰がまだ不十分なので有ります。人が美しい花を見たときにああ綺麗だといふのは、念仏であります。念仏は必然的に出て来るものであります。自分は三十九歳になリ、妻は三十一歳になって居ます。これから、此念仏生活を死するまでの目的とする考で有ます。以上に止めて置きまして、最も古い記憶から、周囲の歴史を喚起して見ませう。 |