会報10号
                根本啓子(「水燿通信」編集・発行者)
 尾崎放哉が南郷庵時代に作った句のなかに

    山に登れば淋しい村がみんな見える というのがある。

 初めてこの作品に接した時、私は作者の目の位置が実際に山の上にあるということに加えて、意識の上でも村の人々よりも自分を上位に置いているという二重の意味での〃見下ろす〃視点を感じた。
 〃放哉は山の上から、村の人々の貧寒とした生活を自分とは直接関わりないものとして冷やかに突き放して見下ろしたのだろう。寺男になってからの放哉は自らを乞食放哉などと称しながら、一方では1高、東京帝大卒というエリート意識を終生失くすことはなく、時折その意識がひょいと頭をもたげることがあったから、この句を作った時もおそらくそんなところだったのだろう〃
 こんなふうに思い、ちょっと嫌味のある作品だなとあまり好きになれずにいた。
 この句の場合「淋しい」は村にかかるとするのがほとんど定説になっておりーその語の意味はさまざまなニュアンスでとらえられているにしろー前述の私の解釈もその範囲を出ないものだった。
 ところがある時、新聞の記事で、脚本家早坂暁氏が

〃……(この句は)淋しいで切れる。……共同体からはみ出し、二度と戻れない村を見た痛恨の思いをはきだしたと解釈します〃と語っているのを目にした(朝日新聞 一九九五年三月十九日 読書欄)。  従来の見方を一八○度転換させたもので、それを読んだ時は虚を衝かれたような驚きを覚えた。一面で強く惹かれる解釈ではあったが、さりとて俄かに同感もできなかった。その後折りに触れこのことを考えたが、どちらの解釈がいいのかなかなかわからない。わからないままに時が過ぎた。

        *  記事を読んでから三年程経った春のある日、なぜか放哉がとても読みたくなった。自分で出している個人通信「水燿通信」の反応がさっぱりで深く落ち込んでいる時期だった。そして、そんな折り放哉に心が向いた自分に驚いた。というのもそれまでの私は、放哉の作品には精神的に安定している時だけ接するようにしていたからである。彼の作品は完成度は高いものの、ひどく暗く拒否的な側面をもっており、心屈している時に接すると底無しの穴に陥ってしまうようで、怖くて近づけなかったのだ。
 しかし、放哉作品を読んでみたいという思いは、その時いっこうに小さくならず、それどころかますます大きくなる感じだった。そこで、思い切って「大空」をひもといてみた。
 読後、何かこれまでと異なる印象を持った。いままでのように拒否的なものをあまり感じず、どこかやさしい印象だった。心が静かに慰撫されるようで、少なくとも落ち込んでいる心を底無しの穴に引きずり込むようなものではないと思った。
 しかも早坂氏の「淋しい」で切る解釈が、その時、共感をもってごく自然に心の中に入ってきたのである.初めて、心に響くいい作品だと思った。
 こんな体験を私は「水燿通信」にまとめてみた(一五六号「放哉再読ーー「山に登れぱ」の句のことなどーー」 一九九八・七・十五発行)。
 するとそれを読んだ藤津滋生氏(「山頭火文庫通信」発行人。『尾崎放哉を知る事典』編者)から次のような感想が寄せられた。

……解釈の分かれるところですね.……私はじっさい南郷庵に行ってみて、この句は〃淋しい村〃としたいです……  「成程、そんなものかな」と、当時まだ小豆島を訪れたことのなかった私は思った。
 それから一年余り経った昨年八月、南郷庵跡に建てられた小豆島尾崎放哉記念館を訪れる機会を得た私は、放哉が登ったと思われる山ーー現在はホテルニュー観海が建っているーーに登り、南郷庵や西光寺を見下ろす眺めに、かつて放哉が見たであろう光景を想像してみた。すぐ下の足元の墓地はまだ整備されておらず、庵の近くにはわずかの家しかなく、埋立地は塩田で…

 また、反対側の余島の浜の方も見てみた。井上一二に南郷庵の稼ぎだけで生活していくのは難しいと言われ、やけ酒を飲んだ放哉が島の子供たちに船を漕がせて沖に出たところだ。だが道路から海寄りは後に埋め立てられた地域であり、放哉の居た頃は海ばかりで人家はほとんどなかったと思われるから、こちらは違うのだろうか。それとも、さらにむこう西南方向を遠望したのだろうか……。
 しばらく山(丘といったほうが適切な感じなのだが)の上で考えてみたが、「淋しい村」で納得するには至らなかった。
 かくして疑問は元に戻ってしまった。「淋しい」のは放哉か、村か。

       *

 ところで一九九六年、荻原海一氏(井泉水長男)宅で二千七百余句にのぼる放哉句稿が発見された。小浜・小豆島時代のものであるが、これまで放哉句稿は散逸したものと考えられていただけに、放哉研究に大きな一石を投ずる画期的な出来事であった。
 この発見の経緯は、当「放哉」の七号(平成九年三月一日発行)所載「句稿にみる放哉俳句」で小山貴子氏によって詳しく述べられている。また、発見句稿も同氏によって整理され、自由律俳誌「随雲」一九九七年八、九月号に掲載された為、関心のある人は誰でもその全貌を知ることができるようになった。小山氏はさらに、昨年三月に出版された著書『暮れ果つるまで』で、この句稿を用いて様々な論考を行なっている。
 句稿は発見時、綴じられていた束毎に番号が付された。その順序は、各句稿中にある「層雲」掲載句の発表順に従っており(1)〜(31)まである。このうち小豆島の分は(7)〜(31)で、島に来た当初と最後の部分が欠けているだけだという。「山に登れば」の句は、(8)の中ほどよりやや後ろに記されている。
 小豆島時代の句稿の中から「淋しい」の語が用いられている作品をいくつか挙げてみよう。句のあとの数字はその句が収められている句稿の番号である。井泉水による添削句は( )で示した。なお、句には解説の便宣上、番号をつけた。

    1 とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた (8)
    2 山に登れば淋しい村がみんな見える
    3 いつも淋しい村がみえる入江の向ふ (9)
    4 お盆の墓原灯をつらね淋しやひとかたまり
    5 島人みんな寝てしまひ淋しい月だ
    6 淋しい顔した二人で道で逢つて居る (十一)
    7 茲に一人淋しい男が居つた島のお祭り (十二)
    8 淋しきま穆に熱さめて居り(十六)
    9 淋しいから寝てしまをう
     (淋しい寝る本がない)
    10 淋しいここ迄手紙をこしてくれる
    11 鳳仙花の実をはねさせて見ても淋しい (十八)
    12 さんざん淋しい目をして来た顔が円るいとさ (二一)
    13 手のひらあければ淋しや(27)
 1、4の「淋しい」は机や灯の印象だろう。3は題材や視点が「山に登れば」の句と類似していて注目されるが、これなどは明らかに「淋しい」は村にかかると理解すべきものである。5は島の人が起きていれば淋しくないといったニュアンスがあり、島人に対する思いは肯定的だ。
 く淋しい〉が孤独の意味になる作品もあるが、そこから更に生きることの辛さ、人生というものに対する感慨にまで敷衍していくようなものもある。8、9は前者、10、11、12、13などは後者と理解していいだろう。6の「二人」は放哉と誰かか放哉以外の二人かで感じが違ってくるが、やはり後者と考えられると思う。7は句稿に〃此の(た) ハ二三日考ヱマシタ〃と注記してあり、放哉の自信作と思われるもの。この「男」は放哉自身であろうが、ここで使われている「淋しい」も単なる孤独の意味ではないだろう。 10では、手紙を貰ってうれしい筈なのに「淋しい」といっている。作者の心奥の曲折をみてとるべきで、やはり生きるということに対する苦い感慨も加味して理解するのが
いいと思う。
 一方「淋しい」の語の用いられていない作品には、どのようなものがあるのだろうか。句稿(8)に焦点を絞ってみてみよう。

    1 海が少し見へる小さい窓一つもち事たる
      (海が少し見へる小さい窓一つもつ)
    2 ここから浪音きこえぬほどの海の青さの
    3 わが庵とし鶏頭がたくさん赤うなつて居る
    4 四五人静かにはたらき塩浜くれる
    5 店の灯が美くしくてしやぼん買ひにはいる
    6 松かさも火にして豆が煮えた
    7 井戸のほとりがぬれて居る夕風
    8 人来る声してみんな墓場へまがる
    9 庭をはいてしまつてから海を見てゐる
 4、5、8などの句には、村の人々や彼らの生活に向ける放哉の穏やかでやさしい視線がある。また、他の作品にもそれなりに自足した放哉の静かな心の在り様が感じられる。 それでは書簡の方はどうなっているのだろうか。この頃、荻原井泉水に宛てて出されたものに目を向けてみよう。

・ この南郷庵の部屋の具合、近所ノ具合、山ノ調子、其他全部ガ私ノ気ニ入リマシタ(九月十八日付)
・ 此の近所の村人は…ヱライ人だ、イツ行つて見ても、机に向かって、読んで居るか、書いて居る、…アナタはお大師サンと同じ様だな、……朝から勉強ばかりして居ると感心した人もある位、……其信用程度は自分でも可笑しいですよ。(同月二十一日付)
 色々世話になった井泉水に対する気遣いや「もうこれ以上動きたくない」という思いがあって、今の生活に自足していることを強調したかったという側面があるにしろ、この時期の句と同様、南郷庵での生活をそれなりに肯定していたと考えていいのではないだろうか。
 したがって「山に登れば淋しい村がみんな見える」の句の場合も、同様の心的状況で作られたと考えるのが自然なような気がする。つまり、村の人々やその生活に対して共感を伴った同情的な視点を持っていた、という具合に。
 また、「淋しい」で切る形の句はあまりないことにも気がつく。それでなくても、大方の日本人にとっては、語感に素直に従えば「山に登れば/淋しい村が/みんな見える」と切ってしまうのではないだろうか。

       *  さて、尾崎放哉の俳句、書簡などを参考に、南郷庵に入って一、二か月頃の放哉の生活や心の在り様を考えてみた。こういった作業自体は、放哉に関心のある私にとっては興味の尽きないことであった。
 しかし、俳句鑑賞のための下調べとしてこういうことをやるとなると、途端にむなしい気がしてくる。というのも私は、このような調査は、作品鑑賞のためには必ずしも必要でないと思っているからである。
 作品自体に直接描かれていない作者の境涯や作られた時の状況などをいろいろ調べあげて「従ってここはこの意味が正しい」としたり、作品に描かれた事柄を作者に関わることに限定するやり方ーー例えば〃作者の故郷の川であるからこれは○○川である〃といったようなーーを私は好まない。
 私にはそういった「事実」によって句の内容を限定したり鑑賞の幅を狭めたりするよりも、むしろその「事実」から作品を解き放ち、それ自体で独立したものとして自由に鑑賞したいという思いが強い。
 だが実際のところ、俳句作品はそれが作られた背景、作者の境涯などを考慮して味わうのが一般的なようである。このことは俳句を作る側、味わう側、研究する側の立場の違いに関係なく、変わらないようだ。かの山頭火だって次のように述べているくらいだ。

 すぐれた俳句はーーそのなかの僅かばかりをのぞいてーーその作者の境涯を知らないでは十分に味はへないと思ふ、なしの句といふものはないともいへる、その前書とはその作者の生活である、生活といふ前書のない俳句はありえない、  (日記 昭和五・十二・七)

 そしてそのようにして行なったの方が、味わい深くなる場合が多いことも事実である。私のように俳句をそれだけで独立して味わいたいという立場は、多分かなりの少数派だ。
 それでも、私は作者の境涯や作られた時の状況にもたれかからない自立した詩として俳句を考えたいと思っている(註1).それは俳句という詩型に対する私なりの信頼であり、愛情だといっていい。
 そして私は、ある作品が作者自身も意図しなかったような意味を持って独り歩きを始めるといったようなことをも、興味深いこととして肯定的に受けとめたいと思うし、自らもそのような鑑賞を試みることが少なくない(註2)。

    *  俳句鑑賞に対する私のこのような姿勢を踏まえてもらった上で、もう一度「山に登れば」の句に向きあってみよう。
 まず「淋しい」を村にかかるとする視点で考えてみたい。
 ひとつには「淋しい村」を否定的に貧寒としたものとして突き放して見ている、とい
うとらえ方がある。
 反対に、村人はそれぞれに懸命に生きているのだろうが、それが報われているとは到底思えない貧しさであることがはっきりわかる、それを共感とかなしみを持ってみている、と考えることもできる。後者の方が心に泌みる解釈であることは確かだ。だが前の解釈も、何か生きること、人生そのものに対する全的な否定ともいうべき寒々とした感慨が湧いてきて(以前の私の解釈と異なるが)これはこれで味わいがあるように思う。
 「みんな」の用語は全部というだけでなく、あからさまに、紛れもなく、といった意味をも含むと考えるのがいいだろう。「淋しい村」と解釈する時、この語の使い方はとくに効果的に働くように思われる。
 それでは「淋しい」で切る解釈はどうか。
 作者は、山の上から村を見下ろしてつくづく淋しいと感じている。あの村という共同体に入っていけたらどんなにいいだろう、そう思っているようだ。だが、何らかの事情でそこから離脱してしまったか、少なくともその村の中でうまくいっていない、ということがわかる。
 句を味わうには、ひとまずこれで十分だろう。この後で、〃作者尾崎放哉は一高、東京帝大を出、エリートの道を歩んだが……〃という境涯を知れば、味わいはさらに深まろうが、最初からこういったことを持ち出して句の意味を限定する必要はないと思う。人間関係の煩わしさに悩み、人生の生き難さを痛感していながら、それでもたった独りではさびしくて耐えられず、社会と関わらずには生きていけない人間ーー大半の人がそうであろうーーにとって、放哉のように実際に現実の社会から離脱し、無言・独居・門外不出の生活を送らなくとも、心にしみてくる句ではないかと思う。「淋しい村」とする解釈に比べて、作者の内部からの声がより切実に聞こえてくるように感じられる。
 ということで、私は「淋しい」で切る解釈のほうに魅力を感じるのだが、さて、読者はいかがだろうか。

      (註1)
 以前私は「水燿通信」で、「私が放哉に惹かれる理由は、その境涯などではなく、ひとえに彼の作品がすぐれているからだ」 (一七一号「山頭火の「健康さ」」)と書いたが、ここのところはちよっと格好をつけ過ぎたと反省している。本当は次のように書くべきだった。
 「放哉の境涯は大変輿味深いものだ。しかし彼の作品を味わうのにその境涯は必ずしも必要ではない。放哉の句はそれ自体で十分鑑賞に耐え得るものなのだから。」

      (註2)
 中村苑子の作品に「浜木綿や兄は流れて弟も」というのがある。私はこの句についてかつて、〃八丈島を訪れた時聞いた大時化による遭難事故の話に触発されて作った〃という作者自身の言葉を紹介した後。「だが、浜木綿と結び付いて一つの句の形になった時、この話は時化とは直接関わりのない文学の中の真実に変貌する」と述べて、私なりの自由な鑑賞を展開したことがある(詳細は「水燿通信」六五号参照)。

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