会報12号
み山の會同人のこと  石原 悟

石原 悟氏紹介 1947年新潟市生まれ、1969年早稲田大学第一文学部卒業。地理教員として佐渡・両津高校水産科を振り出しに新潟県内の公立高校に勤務。一九七八年文学界新人賞受賞。現在、県立新津高校勤務

手許に一通の電報のコピーがある。電報の現物は、小豆島尾崎放哉記念館に多くの放哉間係の書簡類とともに所蔵されている。私は、平成十二年の暮に放哉友の会関係者からそのコピーを御恵贈いただいた。私にとってこの電報の存在は思いがけないものであった。電文は、受信した土庄郵便局の電信員による手書きのカタカナで「ホウサイセンセイノセイキョヲツツシミテテウス」ノウホリウとなっている。受信人居所氏名の欄は、トノセウマチサイコウジオクノイナンゴウアン」オギセイセンスエ。発局の欄は、エチゴトヨカワ局となっていて、着局日付印の欄には、土庄 15・4・11という丸い消印が押されている。この電報は、ノウホリウが七日に亡くなった放哉に対する弔電として、放哉の葬儀のため小豆島に来ていた荻原井泉水(彼は既に離島していた)宛てに発信したものである。ノウホリウとは、能保流という俳号で、本名、長谷川昇(明治二十六年生昭和二十四年没)。当時、彼は、新潟県東蒲原郡内の小学校(豊川局区内所在)の訓導を務めていた。電文の一部が、蒲原方言で訛って表現されている。能保流は、層雲の地方支部、「み山の會」(前身は「心象社」で大正十四年に創設)の一員で、「心象社」当時、幹事を務めていた高田艸浦城が岩船郡の小学校に転勤した後、改名した「み山の會」幹事となった。能保流の句は、大正十四、五年当時、俳誌「層雲」にいくつも載り、井泉水の選評の対象にもなっている。しかし、俳人としての能保流の力量をどう評価するかは別として、彼やみ山の會会員達が放哉の讃仰者として小浜時代以降の放哉を援助していたことは注目される。能保流やみ山の會会員の援勘が、放哉の現実生活にどの程度寄与できたか分からないが、私は、放哉を力付けた右力な後援者として、西の星城子に対して東の能保流を据えたい。蛇足ながら、郷土誌「阿賀路」十六集(昭和五十一年年刊)の中で薄冬人が、昭和十八年、層雲を離れて十年余り経た能保流(当時、西蒲原郡巻国民学校長)が、民俗調査のため東蒲原郡を訪れた柳田国男の歓迎会を取り仕切っていることを伝えている。歓迎会の出席者の中には、既に解散したみ山の會会員であった高橋星山、渡部東村(旧俳号、舟可水)の名前が並ぶ。
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 私は、平成十年、小説「放哉が飛ぶ」(「北方文学第四十九号」)を書いた。フイクショナルなテーマを基にした小説であるが、ストーリーの展開上、可能な限り能保流やみ山の會、能保流と放哉の交流(両者むが対面したことはない)に関する事実を追尋した。その過程でささやかながら、これまで殆ど言及されたことのない人間模様を解き明かすことができた。詳細は、「放哉が飛ぶ」(尾崎放哉記念館のホームページの中で読むこともできる)に譲るが、ここでは、知り得た若干の事実を記す。
 み山の會の前身、心象社は、新潟県東蒲原郡豊川局区内日野用(旧西川村、現上川村日野川)の能保流の自宅に本拠を置いた。豪雪地帯の一角である。束蒲原郡内には、み山の會に先立って既に層雲の支部があった。三留風満樓が主宰する「吹雪吟社」がそれで、その本拠は旧東川村の小手茂にあった。私は、吹雪吟社の存命者二人に会うことができたが、彼等は対抗関係にあった新興のみ山の會と放哉の関係について詳しいことを知らなかった。
 私は、能保流やみ山の會に纏わる事実を、主に早稲田大学図書館所蔵の俳誌「層雲」大正十四、五年各号の原本、特にその通信、支部雑報、動静欄を通して把握した。しかし、能保流と放哉の間係を示す具体的な証しを突き止めることに手間取った。
 私は、「放哉が飛ぶ」執筆当時、放哉関係の書簡については彌生書房刊「尾崎放哉全集」増補改訂二版(昭和六十三年刊)を参考にしていた。平成十三年秋から筑摩書房によって新「放哉全集」が刊行され始めた。関係者の情熱と労苦に敬意を表したい。しかし、私は、締切り期限の関係で「放哉全集」の第二巻・書簡中に褐載されている筈の新たな事実を目にすることなく本稿を書いている。そのため、本稿の内容に多くの遣漏が生ずるであろうことを読者客位に御断りしておく。
 とにかく、当時の私は、自作のストーリーに確かな肉付けをするため、是非とも能保流と放哉の郵便のやりとりやその間係の深浅、交流のきっかけについて知りたかった。しかし、旧全集の中に両者の具体的な関係を示す肝腎の資料が見当らないため、それまで顧慮していなかった春秋社刊「放哉書簡集」荻原井泉水編(昭和二年刊)を念のため吟味してみた。特に目を惹かれたのは、「放哉書簡集(一」の通番一一の書簡(十四年九月二十五日)である。それは彌生版旧全集の書簡、通番一六回に相当するが、彌生版では、何故か、後半の部分が省かれている。その封書は、放哉が井泉水に宛てたもので、能保流が放哉に原稿用紙や切手、葉書、封筒、便箋を送り、細かな日用品や放哉が鉢巻にして使う手拭まで送っていたことが後半の部分で紹介されていた。私は、「放哉書簡集」の中で初めて能保流と放哉の具体む的な間柄を知ることができた。しかし、「放哉書簡集」の中でも、能保流と放哉の間で交わされた筈の書簡は見当らなかった。ただ、思いがけず、付録として加えられた追想記の中に能保流の「はがき」という文章が載っていたことは収穫であった。そこには、放哉が四月七日に能保流宛てに出した葉書の全文が紹介されていた。四月七日は、放哉がその夜亡くなる当日である。
 「井師には一寸内報してありますが、実の処は、放哉非常に病気がいけないのです。実際、御察し以上の形勢にあるのであります。」
 能保流は、葉書の短い文面を放哉の絶筆と断じ、「非常」、「形勢」等の文字が抹消されていることを付記している。私は、能保流の断定が事実なのかどうか、葉書現物の存否が不明なため、その真相を解き明かすことはできないと諦めている。しかし、それはそれとして、私は、冒頭に示した電報、能保流の弔電に一入の感慨を覚える。放哉からの絶筆と恩われる葉書を受け取り、直ぐ後に放哉逝去の報に接した能保流の最初の反応がこの電報であり、放哉との関係を証す能保流唯一の物証だからである。
 その後も、私は、友の会の関係者からいくつかの貴重な資料を御恵贈いただいた。その一部を紹介したい。熊保流は、「俳壇春秋」第百二十二号、第二i放哉追悼号(大正十五年七月一日発行)の中で「時計身賣りの話」という追悼文を書いている。大正十四年の夏(旧盆前)、能保流と長谷川幻亭は新津駅で高田艸浦城と落ち合い、来県した井泉水に会うため燕に向かった。「時計身賣り・…」とは、艸浦城が旅費を工面するため時計を売ったことを示す裏話である。これについては、前述した「放哉書簡集(一)通番二の書簡の中で放哉も触れている。この時、能保流等ご一人は敬慕する井泉水に初めて見得たのだと思われる。井泉水は講演し、序でに流転する放哉の窮状を明かし、出席した支部員達に放哉に対する後援を訴えたに違いない。しかし、井泉水とのこの時の出会いが、能保流等の放哉に対する援助の発端になったとは考えにくい。既に、放哉に対する援助は、小浜常高寺時代から始まっており、この時点では放哉自身は小浜を離れ京都に転じていた。放哉に対する援助の始まりは、この時点よりもっと遡らなければならないし、そのきっかけが何によるものか分からない。そして、もう一つ疑問が残る。能保流は、井泉水との出会いを大正十四年八月旧盆前と書いているが、長岡の小林銀汀は、「層雲」大正十四年十一月号に「井師歓迎県下俳句大會」という記事を書いていて、その中で井泉水の長岡到着を八月二十五目とし、講演会や宴会、句会の日程、句会で詠まれた能保流、艸浦城、幻亭等の俳句を挙げている。能保流と銀汀の話は、日時、場所に関して明らかに食い違っている。能保流の記憶違いなのか。
 
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 御恵贈いただいたもう一つの資料を紹介する。私は、この資料を層雲の支部が山深い里に誕生した経緯や、能保流やみ山の會と放哉の関係を概括的に物語る貴重な資料であると考えている。それは、み山の會の一員、高橋星山の書いた手紙で、能保流の発信した前掲の弔電同様尾崎放哉記念館に所蔵されている。恐らく、印刷物としてはどこにも発表されていない私信である。大正十五年四月二十日付け、東京の層雲社井泉水に宛てたもので、発信人は新潟県東蒲原郡上條村九島、高橋星山となっている。星山は、本名巳代松(明治十五年生昭和三十六年没)。九島に住む「タガ屋」と呼ばれた桶職人である。手紙の筆遣いは訥々としたもので、一部文意の通じにくい筒所もあるが、あたかも妙好人に似た人柄を偲ばせる語り口が印象的である。かなり長い手紙であるが、尾崎放哉記含館が浄書し直したもののコピーからその一部を忠実に写す。
 
 拝啓ますます御健勝を慶賀申上ます 
放哉さんが死になされたなあ がっかりしました
ーー略ーー(筆者による)
其後十二日に放哉さんが七日に御死亡なされたとみ山の会からと風満君からと知らせられたんで気息茫然たりでした。
 放哉さんとハ放哉さんが須磨寺に居られた時鳥がだまって飛でゐつた其鳥の一件で文通しましてそれから福井の常高寺から南郷庵の御永眠十日前迄お知り合になつてゐたのでありました
私へはしめて下されたお手紙に奥サンモヲ有デスカ但シ貧乏ハドウデスカとの御尋ねでした
斯様に初めから親しいお言葉を戴いたので有難かったんです 福井へ御転住された時放哉都合によりコゝへ来ました
新潟へ行たコトあります
コンドは御地ト近くナッタワケデスねイといふ事でありました
それから能保流君がお手紙を上けたり句を見て貫つたりしてつひにみ山の会として始終放哉様の御救ひをうけてゐたのでした
ーー略ーー
ホトゝキスにも尺南花にも入てハ見ましたが気乗がしませぬので其頃の新傾向に入りまして駄句でハあるが「蚊屋あらばと蚊ゐる貧女病む母に」「豆をいる音す伏屋にしくるゝ日」などでよがってゐたのがだんだんに飽きたらなく感じて来ましてゐた折柄大正十年の夏の頃大正七年度の層雲二月号がどこからか郵送されて舞込みました
ーー略ーー
それが届いた其日旭洋君が通りかゝりに寄られたので同君と同道風満君の許へ彼の誌を持て行きましてそれが動機に斯派に入る面目を呈したのであります 
間もなく層雲社に入り外二沙風浪、松月今ノ東郎の二士を得而て五名ノ吹雪吟社を組織次で層雲社支部になったのでありました
ーー略ーー
私と風君の所とハ二里余離れてゐます 
だが時々会うのであります一昨夕方旭洋(旭洋も風満樓と同じ小手茂在住)君が来て泊て呉れて行きました同君と夜の一時まで句作俳談昨夜ハ放哉二七目二因りみ山の会同人の石田磧水法印の観音堂に追悼会を営みました
ーー略ーー
初七日にハ保流居二て磧水法印の奉読経
私は風邪の為不参」去年の十一月の上旬放哉さんのお写真か贈られてあるのです保流氏方へご一十五日までには北朗氏へ申入れて放哉さんの御改名を知らせていたゞかうといふのであります(但シ師の御座所さだかならぬので)
 鳥がだまって飛んでゐつた是が誌上へ現ハれた初め我等が句会の時同人中がこんなのが俳句であるものなら俳句は変なものだと異口同音の如くであったんです
私は方便で其句がよく解ったので一読ぞつとする位有難かったんです
 そこで其意の作者の心持ちと其句の印象解法を試みました
だがみんなにハはつきりわからなかつた様でした
其後の句会の時風君が来て呉たので又それを持ち出して風君の評をきいたので其評の大体ハ私と同じでありましたが鳥のあり所が私と違てゐるのでした
私ハ夕空を飛で行つたといふので風君ハ作者の眼前の地上より飛で行つた事であるとしかも断言的に申されたので私ハとてもそれに服す心もちになり得なかつたので放哉様に御問へしたわけでした
 初めて鳥の句に接した時頃は全く放哉様の事ハすこしも知らなつたんで其うちにだんだん誌上に放哉様の印象やが載さつて来たので放哉様がわかる様になつて来たのであります
其鳥の事にハ其鳥の場所定めハ無必要でハあらうが質間のいろいろは、天空を行た一羽鳥であると申したのが問題ともなつたんです
層雲社句会でも大分いろいろな事を件の鳥に言つた様でしたねい
ーー略ーー
去年尊師が御通りなされた時長岡へ行きたかつたんです(十四年八月に井泉水が長岡に来たことを指す)病に罹られてゐた時でなんとも致方がなかつたんです
ーー略ーー
 
 私は、この手紙を風にして、高橋星山の存在に改めて目を見張った。能保流等、み山の會の重立ちに目を奪われる余り、私の関心は星山から逸れていた。今更、星山という人物の輪郭を探ることは困難なことであるが、とにかく、この手紙だけからでも当時僻陬の山里に於ける層雲地方支部の動きを読み取ることができる。文面の前後の経緯から推して、星山こそが層雲俳句の種を山深い東蒲原の地に播き、能保流やみ山の會と放哉の関係を取り持ち、放哉援助のきっかけを作った人物なのではないか。放哉も彼等に作句指導を施していた。私は、星山を艸浦城や能保流による会員確保のための呼ぴ掛けに応じて心象社やみ山の會に参加した寄せ集めめいたメンバーの一人に過ぎないと思い込んでいた。しかし、星山は、心象社やみ山の會に先立つ吹雪吟社創設の当事者でもあったことを初めて知った。
 星山は層雲俳句の種を播き、それを広めるため、むしろ年若い艸浦城や能保流を嗾け、心象社、み山の會の創設を促したのではないか。星山は二つの支部の句会に掛け持ちで出席していた。星山の住む旧上條村九島(現在、近くを高速道が走る)は、旧東川村と旧西川村の住民が郡中心の町、津川へ出るために必ず通らなければならない街道筋に位置する。星山宅を山奥の俳句仲問が、通りすがりに度々立ち寄っていたのだろう。星山が句会に出席するためには、逆に山奥の方に遡らなければならない。旧東川村小手茂にある吹雪吟社の句会に出席するためには、片道約八キロの山道を往復しなければならない。旧西川村日野川にあるみ山の會の句会に出席するためには、片道約五キロ弱で済む。私は、星山が両支部の内、徐々にみ山の會の方に傾斜して行ったのは、こうした遠近の差やみ山の會が放哉の作句指導を受けることになって行ったことと、放哉に対する援助に熱心であったことによるものと考える。星山の句の巧拙や層雲に選句された頻度はともかくとして、当時、既に四十代半ばに達していた彼の層雲俳句に対する初心な情熱に頭の下がる思いがする。
 私には、若い仲問達と斬新な句を詠む一心で、晧晧たる月光の雪道を句会に向かって歩む星山の後姿が想い偲ばれる。
 拙稿を表舞台に出ることもなかった星山を初めとする各地の層雲地方支部員の幾多の霊に捧げたい。
 
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