会報15号 「井泉水と小豆島」井上泰好
 因縁という言葉がある。辞典によると(1)後の果報を生ずべき今の問係、ゆかり、えん、えにし。(2)前世の宿命によって動かせない環境や関係ーとある。標題の井泉水と小豆島もこの困縁によるものとみて差支えないだろう。
 もう一つの言葉として「もしも・・・」という語を使えばより理解出来る。
 なぜなら井上一二が自由律俳句にあこがれ層雲に入門しなかったら、井泉水や放哉との縁も玄々子とのかかわりも無かったであろう。

 しかし私は井泉水〜一二〜放哉〜玄々子とつながる因縁を「仏縁」と言いかえた方が、より適切で妥当であると思う。
 さて、井泉水は手許の資料によると、都合七回小豆島を訪れている。滞在期間の長い年や短い年もあるが、判る範四内で概略を記述してみたい。

大正三年十月〜十一月(三十一才)

 この年四国方面への旅行で琴平や高松に来ている。高松では粟林公園で歓迎句会を開催し、この時一二ははじめて井泉水に逢い、出句した句が井泉水によって選に入り層雲に入門している。この後井泉水は小豆島に渡り、寒霞渓を周遊し坂手港から帰京しているが、一二が同行したことは言うまでもない。
一すじの鎖にすがり絶頂の青空へ 寒霞渓
月の真自き渚さらさら別れけり 坂手

大正九年四月(三十七才)
 桂子夫人と共に一二の別荘「宝樹荘」(井泉水が命名ー書が残っている)に約二十日問滞在。その間に寒霞渓にも杖を引いているが、桂子夫人にとってこの二十日間は、生涯最良の日々であったろう。一二はこの喜ぴを「先生迎えるこの家の落ち葉を焼こう」と詠んでいる。(なおこの山荘は古い茶室を改築したもので、一二の本宅から約三百米上のみかん畑の中にあったが、大正十三年冬の失火により全焼している。現在はコテージ風の建物が建ち、同じく「宝樹荘」と命名されている。)

小豆島六句

島島の眺めよろしきこの島の神
汗も塩となる塩田かせぎの痩せよう
金色に熟れおもたくて落ちたり木の實
遍路行く方麦の穂は光りつづけり
佛を信ず麦の穂の青きしんじつ
岩に据えて瓢すわりよき山の頂き
桂子夫人句
夕となれば風が出る山荘よともし火

太正十三年五月(四十一才)

 宝樹荘に滞在。この間大正十二年十月に桂子夫人、同十三年一月のご母堂の死去にともない、その菩提のため遍路となり小豆島八十八ケ所を八日間徒歩で巡拝している。
 同行は一二と玄々子。白衣に黒い腰衣をつけ、金剛杖をつき、草鮭をはき、頭陀袋には南無大師遍照金剛(玄々子書)、檜木笠には迷故三界城、悟故十万空、本来無東西、何處有南北と自筆で書き、同行二人としてある。
 二人とは弘法大師と同行しているという意味だが、井泉水は「自分の影法師」と二人きりであると述懐している。
 この遍路行の一部始終は、昭和九年三月、創元社より発行された、井泉水著「遍路と巡禮」の中に「遍路となりて」でくわしく書かれている。その中の一節。
「(略)以前此Iの家へ私は妻と一緒に来てゐた。(大正九年)(略)麦の穂の間に遍路の白衣姿が通るのを見、雲雀の声に和して遍路が振る鈴の音を聞きながら、私はいつか遍路に歩きたいものだな、と思った。其後、妻だけがゐる時、少ししんみりして、
「何だな、爺さん婆さんになって、あんな風に二人で巡禮してあるいたら、面白いだろうな」
「そりやいゝわ、けれど私、そんな年まで生きようとは思わない」
「ぢや、お前が先に死んだら其供養におれが歩いてやろうか、若しおれが先に死んだら、お前がおれの為に歩くか・・・」
「えゝでも、そんな事は決してありませんわ」
而して私は今、亡き妻の為に、私一人が其遍路として島の佛に詣でる為に、此島に渡ってきたのである(略)」
 井泉水はこの遍路行を、亡き妻の供養のためだけでなく、亡母の供養のためとも位置づけ、精進懺悔の行願をし、人・の命の無常を痛感しており、〃私の求める佛は、必ずしも堂の中の彫像だけではなく、麦の穂の青さに佛を見、雲雀の声に佛の言葉を聞き、「佛を信ず麦の穂の青きしんじつ」という句を作った〃と言っている。
 この文は後に高等女学校の教科書にその一部が「山荘雑記」として採用されている。
 なおこの時、桂子夫人の句碑を宝樹荘の敷地内に建立している。(この句禅は昭和四十三年五月、本覚寺に移転)
 井泉水はこれについて「私達が遍路に出る日の朝、私は其表(石)に文字を書いた「夕となれば風が出る山荘よともし火」それから石工は毎日それを彫りつめて、私達が八日の旅を終って戻ってきた時、碑も亦出来上ってゐたのである」と述べている。

小豆島五句

お接待があるそうな蝶々も行く
雲から出た月の松の影で笠着ている
月を障子に枕ならべる同行として
雨風麦の穂折るる山越えてもゆく
藤のこぼれる掃いている満願となる

大正十五年四月(四十三才)

放哉埋葬のため北朗と来島。井泉水はこの前年の八月、放哉を小豆島に送った。

放哉送別の二句

翌からは禁酒の酒がこぼれる
忘れるほどの物はもたない扇子をもつ

 放哉の小豆島行及ぴその八か月間の生活については、現在まで沢山書かれているので、この稿で多くはふれないが、放哉は「翌からは・・・」だから今日はいいだろうと勝手に解釈して、毎日飲んでいたようである。
 大正十五年四月七日午後八時。終の栖となった南郷庵で、一人の老夫に看取られながら四十二才の生涯を閉じたが、放哉が死ぬ五時間前の午後三時、玄々子は放哉の容態について、井泉水に手紙を出している。
「(略)・・・トテモ恢復の見込ハありません。本日も井上様も御こしを願いまして医師も従来の方と今一人井上様の親族の方々(一二の従兄弟で内科医の三木方直)を迎えて充分みていただきましたが三日乃至五日位の余日しか無いと宣告されました。誠に悲しみの極みです(略)・・・」
 井泉水は「放哉死す」との電報を受取ると北朗と共に来島して葬儀を済ませ、十日には京都に帰っている。(葬儀の時南郷庵で、井泉水、一二、玄々子、立石信一、三木方直の五人で写した写真がある。)

放哉を葬る四句

好い松もって死場所としていたか
痩せきった手を合わしている彼に手を合わす
墓どころ探して雲雀鳴く海も見える
墓穴出来た星が出ている

井泉水は「放哉を葬る」(層雲大正十五年六月〜八月号)の中で
「(略)瀬戸内海の春はほんとうに長閑だった。麦が青く伸ぴてゐる畠も、船の近くに見えた。雲雀の鳴いてゐるのも聞こえた。彼の小豆島も亦、その通りに違ひない。此佳い風景の中にー此春光を待ちあぐんだ末にー彼が死んでしまったとは如何にも残念な事におもはれた。(略)・・・」
と、限りない哀悼を述べている。

昭和十三年四月(五十五才)

 井泉水年譜は「三月に四国遍路の旅。三十一日大窪寺(八十八番)を満願とし、遍路を終えて鳴門の潮を観る。小豆島にて放哉十三回忌法要」。とある。一二年譜は「井師来島、一夏近く滞在。放哉十三回忌法要」と書かれている。更に井泉水年譜をみると「五月、静岡移転を恩いとどまり、古き家屋の改築に着手」とあり、一夏滞在は疑問であるが、来島した事は間違いない。
 なお、十三回忌法要の参列者は「多くを語らずー玄々子の世界ー」の宥玄小史には「四月二日ー放哉十三回忌を営む。井泉水、井上一二、双浦(三木方直)中村等参列」とある。
 中村とは誰なのかー昭和五年五月創刊の島の会発行「島」尾崎放哉追悼号には、同人の中に「中村掃」という名が見えるが、参列は定かでない。また「等」とあるから、他の同人も参列した可能性もある。(会員は十二名、一二、玄々子の外、編輯者の中に立石石仏(信一)の名も見えるが、彼は昭和九年没である)
 いずれにしても昭和十三年は資料が無く、その解明は後日にゆずりたい。
 余談だが、宥玄小史にはこの年「六月十三日、伊東俊二南郷庵に入庵」とある。

昭和十四年七月(五十六才)

 この年は小豆島で「層雲俳人全国大会」が開かれたほか(参加者十八名)井泉水の講演や高松三越での「遍路展」また同時に「層雲物故俳人供養」を営み、はじめて「霊雲帖」を作っている。井泉水は家族と共に来島「涛洋荘」に宿泊している。
 順を追って概略を述べてみる。
七月二十五日から二十七日まで小豆郡教育会主催で、革壁町(現内海町)県立女学校講堂で「子規より放哉まで」と題して講演している。聴講者参百名とあり、一日目は子規三日目放哉三二日目朱燐洞を取り上げている。
なおこの内容は、伊東俊二氏の速記録にあり、整理し「講演録」として友の会の研究紀要として残している。(二十五日午後は特別講演として「涼しい話」、二十六日は約二十名の島の新人を迎えて放哉研究会)
 二十八日は高松三越での遍路展に出席、自作の茶掛、半祈、一行書、短冊、色紙、扁額などを出品し、人気のよい展覧会であった。
 また二十九日には「定型俳句と自由律」の題で座談会を開催、(この時と思われる出席者全員の人物像と氏名を画いた墨絵が残っている。)当日夜は「涛洋荘放談」として十名参加、井泉水が放哉や一二を可愛がりすぎ、皆がやきもちを焼いたこと、「放哉賞」や「裸木賞」を作ればよいこと、最後は放哉回顧の話になり、場がしんみりしたようすが記録に残っている。
 三十日は一二宅集合。入浴の後西光寺に行き、今回のために作成した「層雲霊雲帖」(一五六名記載ー井泉水序文)を安置して法要を行い、後、放哉墓前にして写真撮影、同人一六名が寄せ書をした掛軸「如雲集」を作成(この写真と掛軸は尾崎放哉記念館に掲示)、後、観海楼にて「層雲最近の傾向とその動向について」の座談会を開催している。
 なおこの墓前の写真を見ると多士歳々の感があり、それぞれの姿に、自由律俳句を盛りたてるという意気込みと風格が感じられる。(この詳細については友の会々報第六号を参照されたし)

小豆島渕崎

花火の松の葉石にちりますよ (七月)
 なおこの年小豆島は大旱魅で、講演の中でもふれている。

大旱三句

夕日景るとはや月影が旱田
日は降る雲もなく夜は月の晝をあざむく
火の星空にあり潮に映りて高くあり

昭和二十七年十月(六十九才)

 十月八日高松着。この夜は高松市東瓦町の井上歯科医院に油(筆者注 一二の長女夫婦宅。なおこの時井泉水は歯の治療をしている)九日・十日は道後のNHK松風荘泊。十日夜は「山頭火祭」の前夜祭として「山頭火を語る座談会」に出席。十一日は新装なった一草庵で山頭火十三回忌に出る。その席で、山頭火遣愛の「鉄鉢」で、愛媛県久松知事、井泉水、山頭火の長男健氏で酒の回し飲みをした。この際井泉水は久松知事に「松山においては子規、虚子の顕彰は当然だが、碧梧桐、朱燐洞など松山が生んだ明治・大正文化の先輩として記念事業等を考慮してほしい」と要望している。
 十二日は朱燐洞の墓参後、松山駅十時発の準急瀬戸で高松経由小豆島に渡り、一二宅に宿泊している。小豆島の日程は次のとおり。

十四日〜土庄高校で「文芸講演会」を開催、「自然と人生」の題で講演。
十五日〜祭り見物(この日は一二も氏子の渕崎富丘八幡宮の祭礼)
十六日〜遊覧バスで小豆島観光
十七日〜土庄高校で「国語研究講話」を開催。「俳句について」の題で講寅。
同日、一二宅で「俳画展覧会」開催。

 なお今回の来島で、小豆島新聞社藤井社長(現「放哉」南郷庵友の会副会長)に自筆の「月は天心にして横たはる」の短冊を寄贈している。

昭利四十一年五月(八十三才)

 井泉水最後の小豆島である。年譜によると「五月三日京都妙心寺で層雲春季大会、四日山陽道へ。中塚一碧楼の兄を訪う。五日小豆島。」とある。なお年譜には記載されていないが、土庄町で一茶の短冊を鑑定している。
 以下小豆島での日程を追う。
 五日は午後十二時半夫人同伴で岡山より土庄港ヘ、一二の出迎えで南郷庵の放哉句碑「いれものがない両手でうける」をスケッチした後、(写真)放哉と玄々子の墓参を済ませ、本覚寺の「佛を信ず麦の穂の青きしんじつ」の句碑を見、井泉水四季句入りの梵鐘を撞き、その音色、余韻などを確かめた。
左写真注記 昭和41年5月5日南郷庵放哉句碑前で 右より井泉水、若寿夫人、一二
 井泉水は句碑、梵鐘ともに完成除幕の時は来島されず、今回がはじめてとあって感激も一しおであったろう。その夜は観海楼で一泊、翌六日は土庄町の大庄屋笠井重夫氏が秘蔵されでいる、一茶の短冊と連句集の筆跡鑑定をした。短冊の「うぐひ寿や軒さらぬ事小一日」は寛政五、六年(一七九四)頃のものだろうと合格、外に連句集も直筆と断定され、一茶が小豆鳥に来た事が証明された。
 十二時半からは小豆島ロータリークラブの例会に出席して「小豆島と私」の講演をし、終了後一二の案内で寒霞渓に登り、風景をスケッチしている。
 翌七日は午後一時から高松の県立図書館で「随の心」と題して講演をし、一泊して八日に尾道に行っている。
 さて今回の訪問で井泉水の小豆島来島は終ったが寒霞渓には愛着があったようで、今回は猿の句を十句も作っている。
 また大正十五年十一月発行の「神懸名勝案内」には、冒頭に井泉水の「神懸には三たぴ遊んだ。初めは紅葉の頃、二度目は若葉の頃、三度目は同じ初夏に遍路としてー(略)」の序文を寄せており、井泉水、一二、放哉句の掲載が見られる。なお寒霞渓には井泉水をはじめ子規、碧梧桐、山頭火、北朗、星城子など多くの俳人も登っている。

五月五日

はや茜さして月落ちし港の岬の松
屋棋の上に帆柱の明易く動き行く

猿連作十句

五月六日(小豆島寒霞渓)

猿のあそぶ島にもわたり旅の一日(ひとひ)は
若葉分け入りて滝、たどりきて巌、猿の見ゆ
猿は猿と遊ぴ恍(ほ)れつつ春の日は永し
猿はたのしか人の子のするふらここを振り
松が枝の猿は手をかざし四国が見える
猿とたわむる猿年われの老いて楽しく
猿と生れし猿に餌をやる人とうまれて
猿の手はぬくし手から手へ豆をやるとて
猿の目人を見る乳を吸う子猿胸におる
けだもの猿の蚤をとる子猿か子の親をおもう

かえし

猿が句になる人生ながいきはたのし 一二

参考

井泉水に関係する句碑等一覧

昭利三年四月七日

南郷庵前庭に放哉句碑建つ(井泉水筆)

いれれものがない両手でうける

 (この石は桂子夫人の分と同じく、一二宅にあったもので、井泉水は「この位小さいのが放哉向きだろう」と、手軽に撰定したもので、特別に建碑式をした訳でなく、玄々子が読経開眼しただけである)

昭和二十五年三月五日

本覚寺梵鐘に井泉水直筆の句を入れる。

春ー水や花やさきあふれみちたたえ
夏ー地は青しはや清風の草の丈
秋ー空は歩む朗々と月ひとり
冬ー火よあした雪ふりさかり燃えさかり

(この鐘は重量百三十二貫、基本振動数一四一サイクル、全音持続時間二分、約五キロ位迄響くようである。なお本覚寺故横山玄浄師は、放哉から木星の俳号を貫った俳句を作らない層雲人であった)

昭和二十六年三月二十日

 西光寺の土山(現三重の塔の右側ー南郷庵が一望できる)にある梵鈷に、井泉水直筆の真言の言葉(心経の一節)を入れる。

花開く時見よ何をか生ぜん花散って心安らかならずや
一切は空にして四時風和やかに
けい礙の雲なけれバ大日常に明かなり
月満つれども増すことなく月欠くれども減ずることなし
雪中これを浄しと思はヾ雪後これを垢れとなさんか

昭和三十七年四月四日

井泉水句碑本覚寺に建つ(自筆)

ほとけをしんずむぎのほのあおきしんじつ

発起人は横山玄浄、杉本玄々子、井上一二の三人。開眼は玄々子僧正。碑前に厚い座布団を敷いて読経した。(なお私事で恐縮だが、この句の除幕は私の長女ー当時六才ーが行った)

昭和四十三年五月二十八日

 桂子句碑を旧宝樹荘跡より本覚寺に移転

夕となれぱ風が出る山荘よともし火

昭和四十四年十一月八日

「層雲諸霊供養塔」本覚寺に建つ。これによりこの一角を「層雲園」と称する。
 塔の字は井泉水筆。五輪の梵字は前高野山管長四百代座主中井竜瑞大僧正の筆。生前に自分の墓を建立する事は、運命学の上で凶とされるので、昭和四十四年十一月示寂の人を限りとし、諸霊四百二十七人として開眼供養した。

昭和四十六年十月三十一日

 この日井泉水は八十八才の米寿のお祝を鎌倉で実施。小豆島でもこれにちなみ、井泉水の「筆塚」を本覚寺層雲園に建てる。これは井泉水がこれまで便用した太筆、細筆等一五二本をビニール袋に包み、カメの中に入れて上中に納められている。上は春日灯寵で井泉水筆で「筆塚」と大書し彫られている。
 なお同時に一二の句板も建つ。

 枕を洗うてくれかかる月

 (井泉水の米寿記念として内島北朗が「ぐい呑み」百個を作成、私も寿子夫人から木箱入り一個をいただき、大事に持っている)

和三十九年二月二十四日
玄々子死去七十四才
「阿闍梨宥玄和尚」

昭和五十一年五月二十日
井泉水死去九十一才
「天寿妙法釈随翁居士」

昭和五十二年八月四日
一二死去八十二才
「大徳院寿翁研讃居士」

昭和五十六年五月二十四日
一二句碑、本覚寺層雲園に建つ(自筆)

へんろの笠のかろかろと春を追うなり
(脇句)
杖を洗うてくれかかる月
この日「層雲全国大会」を本覚寺で開催

平成十年四月七日


井泉水と放哉の句碑、南郷庵前庭に建つ。(井泉水筆)
翌は元日が来る佛とわたくし 放哉
為(す)ることはこれ松の葉を掃く 井泉水

平成十六年四月七日

(井泉水絵入り)放哉・山頭火の句碑西光寺銀杏の樹の下に建つ(自筆)
咳をしても一人 放哉
坊さんの絵(井泉水が南郷庵で放哉を模して画いたものー衣が「仏」という字に見える)
その松の木のゆふ風ふきだした 山頭火
注〜放哉句は大正十四年十二月頃南郷庵で作句。山頭火は昭和三年七月と昭和十四年十月に放哉墓参に来島しているが、この句は十四年十月に南郷庵で「放哉坊よ」と題して作句したものである。(いずれも自筆)

おわりに

長い年月を経てすでに先人は物故し、その面影を知る人も少なくなって来ているが、われわれに残してくれた「心」と「物」はこれからも忘れる事なく語り継がれていく事であろう。

後記
(1)この原稿の作成にあたり、筑摩書房より「井泉水日記」上・下巻(明治三十四年〜四十五年)が既に出版されているが、大正・昭和の日記発行は、かなりの年月がかかるものとおもわれ、取りあえず手持ちの資料で作成した。(井上一二の日記は焼却されて無い。)
(2)文中俳句及ぴ年譜は、井泉水句集「原泉」「長流」「大江」のみから引用した。
(3)桂子夫人の句「タとなれば風が出る山荘よともし火」は、「・・・ともしぴ」が多く便われているが、今回は桂子句集によりあえて『・・・ともし火』とした。(文中敬称略)

【参考資料】

・井泉水句集「原泉」「長流」「大江」
・「遍路と巡禮」(荻原井泉水)
・井上一年譜(松本久二)
・一二句集「遍路笠」
・東洋紡招致私記(井上文八郎)
・「多くを語らずー玄々子の世界ー」
・「層雲」関係各号
・小豆島新聞
「放哉」南郷庵友の会会報各号
・「神懸名勝案内」
・「ひともよう−山頭火の草庵」藤岡照房
・「大耕−山頭火の秋」大山澄太
・「層雲と小豆島」香川雲の会(平成十七年一月)

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