郵便局まで六百二十四歩
放哉を訪ねて   石原 悟

石原 悟氏紹介
 一九四七年新潟市生まれ、
一九六九年早稲田大学第一文学部卒業。地理教員として佐渡・両津高校水産科を振り出しに新潟県内の公立高校に勤務。一九七八年文学界新人賞受賞。現在、県立新津高校勤務
(編者注; この文章は当地で年2回発行している大師市瓦版より転載しました。)

     追っかけて追ひついた風の中 放哉

私が小豆島を初めて訪ねたのは、平成九年の夏、旧盆明けの頃だった。それは小説「放哉が飛ぶ」を書き上げて間もなくのことだ。小豆島を訪ねた目的は、無論、尾崎放哉終焉の地、土庄の街や南郷庵の辺りの雰囲気を味わってみたかったからだ。

朝八時に新潟空港を発ち、新幹線、バス、フェリーを乗り継いで午後二時ちょうどに土庄港に着いていた。僅か六時間で新潟から小豆島に着いたことが信じられなかった。

 ある年、たまたま、私は妻と山陰方面の旅行に出掛けた。松江に向かう途中、鳥取で降り放哉生家跡と興禅寺を訪ねた。帰途、小浜に寄り常高寺を訪ね、放哉が散髪した床屋を探しあぐねて一拍した。

 旅行後、放哉に対する関心が蘇った。私は、改めて読み直した放哉の書簡の中に「新潟、能保流君」という人物を初めて目にして意表を衝かれた。まさか、放哉と新潟県人が手紙で交流していたとは信じられなかった。私は母校である早稲田の図書館に俳誌「層雲」の原本が殆ど揃っていることを知り、何度か図書館に通って「能保流君」の輪郭を突き止めることができた。能保流は、本名長谷川昇、新潟県の雪深い山里の小学校訓導で層雲の地方結社を主宰していた人物だった。能保流は、放裁が小浜の常高寺に住み込んで以来、放哉に同人の句を送り評を乞うとともに金員、物品を放哉に援助していた。放哉を援助している全国の俳人は、飯尾星城子その他かなりいたが、放哉の死の間際まで続いた能保流との間柄について触れた文献はなく、私は二人の関係を特筆に値する新たな事実だと思った。能保流は小豆島まで押し掛けようと思っていたようである。それは、大正十五年の夏のつもりだったのかも知れない。ところが、放哉は十五年の四月に死んでしまった。恐らく、能保流は放哉が夏休み頃までは生き永らえると思い、会えることを念願していたのではないか。私は、放哉と能保流の関係を骨子に据えて「放哉が飛ぶ」を書いた。

 ところが、書き上げてみると何か忘れ物をしたような落ち着かない気分に陥った。今更完成した原稿に補うところなどないとしても、やはり、小豆島へ出掛けてみるべきなのではないかと思った。慌ててインターネットで小豆島の宿を探し、一泊の予約を入れ、翌朝、私は新潟空港を飛ぴ立ち午後二時に士圧港に着いた。

 私は、土庄本町を目指して歩いた。放哉が辿ったと思われる道をなぞってみたかった。しかし、道は意外に広く、放哉が歩いた当時の道のようには思われなかった。軽い幻滅を感じながら手持ちの旅行ガイドを頼りに突き当たりを左に折れ、商店の並ぶ目抜き通りから西光寺へ向かう門前の道に入った。寺の背後の高処には立派な三重塔が聳え立ち、本堂も落ち着いた佇まいを見せていた。私は本堂で掌を合わせた。境内を出、寺の白壁沿いに細い路地に回り込み、南郷庵を目指した。道なりに進めば簡単に南郷庵に着くと思ったが、道はあらぬ方向に逸れ狭い四つ辻に出た。私は西光寺から離れてはまずいと思い、辻を左に折れて少し広い通りを進むと、再び、寺の門前に出てしまった。仕方なく先程の白壁沿いの道を避け、もう一本の路地を進むと、しまいに目抜き通りに出てしまった。私は自棄な気分で、この際、放哉が彷徨したであろう入り組んだ路地を経巡ろうと思った。もう一度、目抜き通りから門前の道に人り、石の路地に祈れた。どの路地も人がようやく擦れ遠えるほどの狭さで曲がりくねっていた。十数歩も歩くと、銭湯の前に出た。大福湯という古さびた銭揚だった。狭い入り口の両側に店子と思われるスナックの看板が掛かっていた。拾い物を見付けたと思った。私は何本もの路地を往きつ戻りつした後、目抜き通りに出て大回りして南郷庵に向かった。南郷庵のある尾崎放哉記念館の前に立って後ろを振り返ると、ほんの直ぐそこに西光寺の三重塔が見えた。しかし、たったそれだけの距離を路地を抜けてすんなりと南郷庵へ達することができなかったことに面妖なものを感じた。復元された南郷庵は、狭い敷地ながら、中の間取りは想像していたより広かった。放哉所縁の展示物にゆっくり目を通した。来館者は私一人だけで、受付の小母さんが親切に応対してくれた。私はいくつかの資科を買い求め外に出た。放哉が関わった郵便局、飲み屋、薬局、銭湯等の所在地を記した精細な地図を入手できたのは大きな収穫だった。

 私は海沿いに鹿島まで歩きホテルに着いた。タ食後、私は近道のトンネルを潜って再ぴ土圧本町に向かった。放哉は入り組んだ夜の路地を抜け、何度か西光寺や飲み屋に足を運んだはずだった。私は静まり返った目抜き通りから適当な路地に入った。すぐに大福湯の暖簾の前に出た。私は特別な思いもなく、二軒のスナックの内、Yという方の店に入った。カウンターの奥にマリリン・モンローの大きなポスターが貼られた小綺麗な店だった。よそ者の私は、初めは警戒し黙って酒を飲み続けた。しかし、途中、どうせ脈はないだろうと思いつつ探りを入れてみた。地元の住人がどれほど放哉のことを知っているのか、どれほど関心を持っているのか確かめたかったのだ。
 「ここの大福湯に尾崎放哉が風呂を浴びに来たことがあるとか」
 ママの顔つきが俄然綻んだ。ママは、難しい研究や論文のことは分からないが、自分は放哉のファンだと明かした。私が放哉の影を求めて新潟から来たと告げると手を拍って喜んでくれた。ママは、放哉が薬を買いに行った薬局の後継ぎに、翌日、是非会うといいと勧めてくれた。結局、私は薬局の主人と会うことはなかった。しかし、私は翌年、Yのママに自分の小説を送ったことがきっかけになって薬局の主人その他、放哉を顕彰する地元の人たちと手紙のやりとりをするようになった。特に、昨年暮に送ってもらった電報のコピーには感激一入の思いを覚えた。それは、放哉の死を聞いて小豆島に駆け付けた井泉水に宛てた能保流からの弔電だった。ただ、放哉逝去前後の井泉水と能保流の師弟関係には微妙なものがあったようだが、そのことについては「放哉が飛ぶ」の中で触れているのでここでは割愛する。

 翌日、私は土庄港へ戻り、そこからもう一度、今度は旧道とされる土庄小学校近くの道を辿った。その細い道は、途中、大きく折れることはなく緩く彎曲しながら古い商家の町並みを抜け、そのまま自然な感じで西光寺門前の道につながった。私は、この道こそが放哉が初めて小豆島を訪れた時に歩いた道だと思った。土庄の町に錯綜する新旧の街路や細かい路地、大正時代の家屋密度や田畑塩田などの土地利用の様態を肺分けすることは、放哉研究の上で欠かせないことではないかと考える。放哉が小豆島で歩いた距離は、放哉ファンが考えているであろう距離よりずっと短いものである。そのことは、現地を歩いてみて初めて実感できるものだ。私は、試しに南郷庵から旧土圧郵便局まで歩いてみた。両所間の距離は、歩数にして六百二十四歩。読者諸氏に自宅から六百二十四歩の距離を歩いていただきたい。ほんの僅かな距離に過ぎないことだろう。私は、病勢が進行し、たかが六百二十四歩に過ぎない距離を歩めなくなった放哉の無念さを憐れむとともに、その後、放哉に成り代わっておびただしい郵便物を土庄郵便局に届け続けた少年の純情に心打たれるものを感じる。

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