二十年二昔 〜「放哉」南郷庵友の会の歩み〜
会長 岡 田 好 平
 「放哉」南郷庵友の会は昭和五十五年秋結成。第一次事業として「南郷庵跡の整備工事」を発起し、島内外から放哉さんに心よせる方々のご協力により整備を完了。昭和五十六年四月七日「俳人放哉易貴之地」の記念碑を建立し、昭和五十七年十月に会報創刊号を発行しました。その後は休会していましたが、平成三年十二月、有志相寄って復活の集いがもたれ、今後の事業目標として
@南郷庵の復興再建の協力
A放哉さんに関する資料収集
B高齢者の聞き取り調査
C放哉忌の法要と記念講演
等を行うよう決め、翌平成四年三月には「いま、なぜ尾崎放哉か−「放哉」南郷庵友の会の会員募集の呼びかけ−」として「小豆島を終焉の地とした薄幸の俳人尾崎放哉の遺産を後世に末長く継承するため、互いに手をつなぎ学び合い、語りあう場を作り、それぞれの立場や年齢を超えた自由で自主的な会−それが「放哉」南郷庵友の会です。
  あなたの積極的な参加を得て、更に大きく豊かなものにするため、あなたの参加を私達は心より歓迎し、この呼びかけ文を贈ります−」を作成配付し、積極的な活動を開始しました。
  平成六年四月には「小豆島尾崎放哉記念館」が完成。
 さらに平成十六年八月には「尾崎放哉資料館」が完成。
  共に貴重な資料を展示しており、放哉さんを顕彰する中で、小豆島における文化の拠点として、多くの愛好家が訪れております。
 また、かつて放哉さんも属した自由律俳誌「層雲」と共催して、平成十一年から開始した「放哉賞」は今年で十四回目を迎え、北は北海道から南は沖縄まで沢山の応募をいただいております。一方、放哉俳句を若い世代に伝え継承するため、小豆郡内の小・中学校の児童・生徒を対象に平成十四年に制定した「放哉ジュニア賞」は、平成十九年の第六回から放哉さんの出身校、鳥取・の立志小学校の後身校修立小学校も参加、毎回多くの応募を得ています。
 そのほか「研究紀要」 の作成「句碑建立」等積極的に事業を進めてまいりましたが、友の会会員は現在約一四〇名、これからもお互いに知恵を出し合い、協力しあって放哉さんに親しめる会にしたいと念願しております。
 皆様方の暖かいご支援とご協力をお待ちしております。
追悼 藤井 豊先生
井上泰好
  「放哉」南郷庵友の会副会長藤井 豊先生が平成二十三年三月五日、八十七才の生涯を閉じられた。
 先生は当会の設立当初からかかわり、二十年間の運営はひとえに先生の手腕によるもの大であった。
 また、放哉の研究家としても知られ、井上一二を師と仰ぎ放哉研究には共に行動し、あるいは一二の依頼を受けて南郷庵跡、放哉の墓を案内するなど、その顕彰には並々ならぬ情熱をそそいでこられた。一方、荻原井泉水先生とも交流があり、研究のための資料を送って頂きたいと依頼したところ、手持の放哉句集「大空」を百冊送っていただいたようである。「−此の度は放哉書簡コピーたいそうな御苦労でありました。−次の分もよろしくおたのみします。次に数年前、「大空」お手元にてお引取願いましたが、今こちらに数冊残りおりましたものも払底になりました。もし、お手許に若干残りおりますなら、こちらにてお引受け致したく願上げます。島もお遍路季節となりてにぎわいはじめたことでありましょうか。放哉の忌日も近くなりました。草々 藤井様   荻原生」
 こんな手紙のやりとりがあったり、一二と共に自宅を訪問した事もある。昭和四十一年五月、井泉水師最後の小豆島訪問には一二と共に案内、短冊を貰っている。
 先生に最後にお逢いしたのは平成二十三年二月二十四日、放哉忌の案内を持ってお宅にお伺いした。その時ベットで横になっておられたが、明るい笑顔でお話いただいたのが最後となつた。
 先生はその文筆、研究だけでなく、正義の正道を歩もうとする姿は、一人の人間としても魅力のある方であった。
 時には放哉関係の資料を自宅まで届けて下さったり、いつも私に言われた事は「記録はかけがえのない大事なものだ。頭の中に置いといてはいかん、それを文にして残しておけ、多少の間違いは後輩が訂正する−」 であった。
 思い出はとめどなく語り尽くす事は出来ないが、今回は友の会・放哉関係についてのみ記した。
 生者必滅会者常離は浮世のならわし、忽然として幽明境を異にされようとは今もって現実とは思えない。 合掌
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