会報23号 「暗の底にぎりつめ」 〜舞鶴の放哉〜
井上泰好
        (一)
 京都府加佐郡舞鶴公会堂は超満員であった。優に五百人を超えるだろうか、板敷の土間に薄いゴザを敷き、その上にカーキ色の作業服を着て、きちんと正座した聴衆は、しわぶき一つ立てず、講師の話が始まるのを、静かに待っていた。
 ところどころに、黒い制服を着てサーベルを腰に吊った巡査が立ち、チラチラと聴衆に目をやっていたが、足元から這いあがってくる寒気に、時々足を踏みならしていた。
 演壇の前に、海軍の制服を着た大柄な将校が、つかつかと歩み寄り、両足を少し開いて手を後ろに組んだ。
 「諸君、これから西田天香先生の講話がある。先生は現在京都の鹿ヶ谷というところで、托鉢、奉仕、俄悔を旨とした、一燈園という共同生活を開いておられる。
 また、大正十年七月には「俄悔の生活」という本を出版されておる。今から(転機)という演題で講話をされる。目をしっかり開いて、一言なりとも漏らさず聴き、明日への程とするようにしてほしい。終わり。」
 将校は軍靴をカチッと合わせると、廻れ右をして袖に去っていった。
 代わって天香が静かな足どりで演壇の前に立ち、頭を下げた。
 「大変なお仕事、毎日ご苦労さまでございます。私の話が、ここ舞鶴海軍工廠で働く皆さんのために、少しでもお役に立てば幸いと存じます。どうか姿勢を楽にしていただいて、気楽な気持ちでお聴きください……
 今から(生きようとするには死ね)というような事について、お話しをいたしますが、その前に、わが一燈園が提唱しておりますお光りというものについて、少しお話しをしたいと思います。
 一燈園では、およそ人間をあらしめている超越者を総称して、おひかりと言い、光という字を充てますが…西洋と日本、キリスト教と仏教との相違こそあれ、お光りを受けた実生活を、すべての宗旨がそのままで仲良くしている事が出来ます。また、神様、仏様、大道というような事も、私共の立場では、光と申しております……」
 放哉は舞台の袖で腕ぐみしながら、天香の話を聞いていた。
 それにしても寒い。京都は底冷えがして背中からぞくぞくと冷えこんでくるが、ここ舞鶴は紺の筒袖を通して、全身が痛いほどの寒さであった。
 放哉はぶるっと身ぶるいすると、通用口から外に出た。空はどんより曇り、その暗い中から、小雪がチラチラ舞い降りて肩にかかった。海の色はにび色で、錨を下ろした駆逐艦が数隻、黒々と鎮座していた。
 放尿を済ませると海の方へ歩いて見た。土の盛り上がったところは雪が氷り、低いところはぬかるみになっていた。 放哉は海が好きであった。どんな海でもよかったが、本当はおだやかな青い海で、汽船か何かが外海を通り、浜辺には松があり、潮騒が聞こえてくるようなところがよかった。
 最初天香から、(舞鶴に講演に行くが一緒に行かないか、その後で海軍工廠の托鉢をさせて貰うとよいでしょう)、と誘われた時。
 即座に(ご一緒しましょう)と返事をしたのは、からて曽遊の地であった舞鶴が若狭湾添いの港で、入り口が二つの半島に囲まれてはいたが、日本海に面し、その延長線上が、ふるさと鳥取の海とつながっているという、潜在意識があったのかも知れなかった。
 寒気も忘れ、虚像のようにつっ立った放哉の胸の内は、来し方の放浪生活が、走馬燈のようにぐるぐると廻っていた。
 大正十二年十一月二十七日、三十九才で京都鹿ヶ谷の一燈園に入った放哉は、無一物の裸一貫であった。病身を押して、死んでもいい覚悟で下座奉仕に従事したが、集団生活の煩わしさに耐え難く、ひとり孤独な生活をしてみたくて、願えれば寺で働きたいと願っていたー
 はるけくも来つるものかなー舞鶴の海は暗い。その中に引き込まれそうなおぞましさを感じながら、それならそれもよいと思う。
 人生四十年、今さら何の悔いがあろうか……
 一段と激しさを増した小雪の中で、放哉はさながら地に足がついた如く、動こうとはしなかった。
    (二)
 天香と放哉は旅館の一室で、四角な火鉢をかかえながら、熱いお茶をすすってた。
 あれから天香の講演が終わるのを待って、工廠で貸してくれた一本の傘に、互いに半身を入れあいながら帰った旅館は、中舞鶴花木通りのほぼ中央にあった。
 あたりは工場と工員の寮が立ち並んでいたが、この旅館は、海軍関係の集会所として利用されているため、割と小綺麗なたたずまいであった。
 天香はふっと目をあげ
 「尾崎さん、あなたが一燈園に来られてから、もう二か月になりますね。その後のお体の具合はいかがですか。下座奉仕も大変でしょうから……」
 こう言ってまた茶をすすった。
 「ええ、まあ、私には肋膜炎という業病がありますが、死ぬなら死んでしまえと、開き直ってみますと、今のところ別に異常はないようです」
 放哉は、こうは言ってみたものの、実際に下座奉仕は力仕事が多く、四十才にもなると肉体的にもきついのは事実であった。
 「そうですか、あなたはかりにも帝国大学出の法学士さん、辛いでしょうが頑張ってください。ご存知のように、光明祈願の第一条に(不二の光明によりて新生し、許されて生きん)とあります。下座は却って上座であって、一切を成就することが出来る最高の場所です」
 淡々と話す天香のおだやかな温顔は、開拓事業で挫折し、妻子を捨てて思想遍歴の旅に出て苦闘した、かつての面影は見られなかった。
 「それはそうと尾崎さん、あなたは私が各地をまわって、講演する事をどのように考えておられますか…」
 思い出したようにこう聞いた天香に
 「率直に申しあげますが、私は非常に面白くないのです。少なくともあなたは、一燈園の西田天香師です。ヂッとしてどんと座っておられる方がお似合いですし、私はその方が好きです。また、師が書かれた「俄悔の生活」は、人々に感銘を与える名著だと思っておりますが、書くことは不必要で、シャベル事は蛇足だと思います…。ズケズケ申しあげましたが、私は常に師を尊敬し、畏敬の念を持っている事に変わりありません。どうかご理解ください…」
 放哉は一気にこう言い切って、深々と頭をさげた。
 「そうですか、ありがとう。あなたの言っている事も事実だと思います。私も好きで講演をしたり、本を書いている訳ではありません。一燈園に来られない農民の方、勤労者、家庭婦人の方など、お光のまことを知らない方がまだ大勢います。その方達のためにーという事もありますが、尾崎さん、世の中は変わってきています。軍の要請もありますし、時代の流れに逆らう事がいいのか悪いのか…」
 天香はフツと溜息をついて天井を見上げたが、思いなおしたように
 「それはそれとして尾崎さん、私は明朝京都に帰りますが、予定どおりあなたは残っていただいて、托鉢をお願いします。
 さあ、もう夜も更けました。休ませて貰いましょう」
 天香はこう言って窓辺に立った。
 「相変わらずよく降っています」
 放哉が電燈を消した後も、天香は何かに憑かれたように、窓際から離れなかった。
       (三)
 翌日放哉は天香を停車場まで見送り、その足で舞鶴海軍鎮守府に行き、托鉢のあいさつをした。
 舞鶴鎮守府は明治二十二年、鎮守府条例により設置されたが、軍縮のため大正十二年、放哉が訪れてからしばらくして廃止された。
 相変わらず小雪が舞っていた。宿の人に聞いたところによると、一月から二月は毎日こんな天気で、晴れる日はわずかしかないとの事であった。空を見上げ眉をしかめた放哉は、(成程、鶴が舞うように白い雪が空から落ちてくる。それで舞鶴か、なかなか良く出来ている)と一人言を言ったが、本当は、舞鶴湾の入り口は二つの半島に囲まれ、湾奥は鶴が羽を広げたように、東西二つの支湾に分かれているところから、舞鶴と呼ばれている事は知らなかった。
 目的の海軍工廠は東舞鶴にあった。
 東舞鶴は明治三十四年軍港として発足し、急速に発展をとげた町である。もともと工廠とは、兵器、弾薬を作る事を目的に作られたもので、天然の良港として知られる舞鶴は、今は駆逐艦を建造していた。
 工員は五千人と公称され、ために、町中のいたるところに宿舎が作られていた。
 歩哨の立つ鉄の営門の前で紹介状を出し、通行証を貰うと、歩哨の一人に案内されて建物の中に入り、応接室に通された。
 だるまストーブが赤々と燃え、冷え切った放哉の体は徐々にほぐれ、生き返ったようであった。
 やがてコツコツと靴音がして、二人の人物が入ってきた。放哉は立って挨拶をした。
 二人は工廠の責任者、正木部長と武久課長であった。
 「尾崎さん、委細は西田先生より、お聞きしています。まず工廠内を武久課長に案内させましょう。くわしい話はその道すがら追々に打ち合わせする事として、その前にこれだけは是非守ってほしい事を申しておきます」
 二人は急に立ち上がって直立不動の姿勢になり、放哉にもそのようにするよう指示された。正木部長はおもむろに 「そもそもこの工廠は、恐れ多くも天皇陛下の大御心により建てられたものです。
 中では物品に触れない、工廠内で見た事は絶対に他言しない、また、工員諸君は一連の流れ作業をしています。むやみに話しかけないでください。これだけはきっとお守りください。それではどうぞ。」
 正木部長はこう言って出ていった。
 「尾崎さん、今ここでは駆逐艦を作っています。ご存知のように軍縮会議の結果、わが海軍は軍艦建造に制限があります。
 そこで小さい艦を作り、沿海の防衛強化を狙っています。日本は今大変な時期なのです」
 工廠内を案内しながら、武久課長は放哉にこう説明した。
 事実、八八艦隊計画(艦齢八年未満の戦艦・巡洋戦艦各八隻を最低限の兵力とする)による建造費増にあえいでいた海軍は、安価で、しかも戦闘能力にすぐれた、小型巡洋艦を佐世保工廠で完成させていたし、時代の流れとしては、放哉が舞鶴を訪れていた大正十三年一月には、裕仁親王と良子女王が婚礼の儀をあげたほか、政友会の分裂、東京では乗合自動車が登場、外国ではレーニンが死亡、二月には海軍が軍艦「三笠」「敷島」など、九艦の廃艦を発表、町では治安維持法反対労働団体大会が開かれるなど、暗い激動の時代に向けての幕が、徐々に切って落とされようとしていた。
 「課長さん、工員の方々は脇目もふらず、一生懸命仕事をされていて感激しています。
 私は一燈園より托鉢をさせて貰いに参りました。たとえば便所掃除でも何でもいたしますから、ご指示してください」
 「尾崎さん、ここは海軍工廠です。万事軍隊式にやっています。便所は沢山ありますが女子を採用して、見ての通り次から次へと綺麗にしています。男のあなたが急にはいっても、かえつてうまくゆかないでしょう」
 「成程、それでは工員さんの自転車の泥落とし、長靴の掃除、炊事場の手伝い、水交社の掃除など、どうでしょう」
 「折角のお申し出ですが、工員の自転車と長靴は私有物です。もし破損とか紛失した時に責任の所在に困ります。炊事場は流れ作業で、経験者でなければ出来ません。
 また水交社は将校の社交場で、管轄が違いますので一寸むつかしいと思います…
 ところで尾崎さん、一燈園での生活や托鉢はどうされているのでしょう」
 「一燈園ですか、こことは全く違います。
 園では朝から一飯も食べません。五時に起きて掃除をし、道場で一時間程お経を読みますが、元来宗派にこだわりませんので、讃美歌でもお祈りでも、何でもかまいません。
 それから各自その日の托鉢先へ、一里でも二里でも歩いて行きます。先方で朝ご飯をいただき、一日中仕事をして夕飯をいただいて園に帰り、また一時間位読経をして寝ます。
 行先はその日によって違いますが、菓子屋、饂飩屋、米屋、食堂、病院などで、仕事は何でもします」
 「そうですか、大変な生活ですね、それではこうしましょう。この工廠の横に建て替えをした跡地がそのままになっています。
 そこのまわりの掃除、除草、地ならしなどをおねがいしましょう。よろしいですか」
 「結構です。やらせていただきます。やっと決まりました。よろしくお願いします」
 「こちらこそよろしく。それから尾崎さんの宿舎は、花木通りにある工員の宿舎「敬業寮」に準備しております。ひとまずそこに落ち着いてください。それから、その紺の筒袖はいけません。寮の舎監に言って、作業服と長靴を用意させましょう。何しろ、このところ舞鶴は毎日雪です。風邪など引かないように気をつけてください。
 あ、それから敬業寮はこの正門を出て右に曲がり、十分程行った左手にあります。玄関に敬業寮と書いてありますからすぐわかります。小生は所用があるのでこれで失礼します」
 武久課長は放哉に挙手の礼をして、足早に建物の中に入った。
    (四)
 敬業寮は木造二階建ての建物であった。
 入り口に墨痕鮮やかな看板が出ていた。
 玄関に入ると、右側が舎監室と静養室が並び、左側が食堂、突きあたりは炊事場とその右に風呂場と便所があり、炊事場の奥に三十畳程の集会場があった。二階には真中に廊下が通り、その両側に六畳の部屋が十室ずつならんでいた。
 舎監に来訪の趣旨を伝えると、放哉と同年輩に見える、小柄だががっしりした体格の舎監は、時折京都弁の交じる言葉で
 「ようお越しで、先程課長さんからお電話があって聞いております。私は坂根と申します。どうぞよろしゅうに。尾崎さんと申されましたか、とりあえず静養室を用意しております。六畳ですが二階の部屋は皆ふさがっておりますのでご辛抱願います」
 「失礼ですが、坂根さんは京都のご出身ですか」
 と放哉が問うと、坂根は破顔一笑して
 「そうどす。一燈園の事もよう知っとります。われわれ凡人にはなかなか出来ない事で、皆さんようやらはるなあと、感心しておりますのや、私は東山七条の近くで、馬町というところの生まれです。縁あってこの寮にお世話になております」
 そう言いながら寮内を案内する坂根は、左足を少し引きずっていた。
 「坂根さん、その足はどうなされました」
 「ああこれですか、実は二百三高地でやられましたんや、二十一のときどす。地獄とはあの事を言うのですよ、今こうして生きていられるのが不思議な位です」
 「そうでしたか、それはご苦労な事で、それで坂根さん、ご家族は…」
 「はい、いろいろございまして…戦争から帰って、近くの幼馴染みと世帯を持ったのですが、実は一晩の病で子供を身籠ったまま、コロリと死んでしもうたのです。
 一時はイケズになりましたが、世話してくれるお人があって、ここに世話になってはりますのや…いやあ、つまらん事をお聞かせしてもうて…」
 たんたんと語る坂根の横顔に、放哉は、踏まれても踏まれても雑草のように生き抜く力強さと、人間のたくましさを感じていた。
 それに比べて、自分はどうであろう。恵まれた職を自ら投げ捨て、自殺まで考えて、妻とも別れた生活は、異端者と思われても仕方がない、一燈園に入園したのは最後の手段であったが、純粋な心ーと自分で納得したつもりが、実は追いつめられて、迷いに迷った結果ではなかったかー酒に溺れた意志薄弱の身で、下座奉公は辛い。それでも(俄悔)という細い一本の糸がつながっている限り、まだ少しの救いはあるのではないか…
 坂根舎監の呼ぶ声が、遠くで聞こえるのを知りながら、放哉の心はゆれ動いていた。
       (五)
 翌日は曇天であったが、風が強く、殊のほか寒気がきびしい日であった。
 坂根舎監に用意して貰った、作業服の上下に長靴、頭は戦闘帽で、鍬とシャベルを肩にかついだ放哉の姿は、それでも時代にふさわしい″さま″になつていた。
 上衣の一番上の釦が、首をしめられるようで何とも窮屈なので、一つだけ外した上に、手拭で首を巻いた。
 「尾崎はん、場所は昨日課長さんからお聞きして判ってはると思いますが、工廠の横手です。それから昼食ですが、吹きさらし所ですので、寒くて食べられしませんので、ご面倒でも昼は寮に帰らはってください。暖かいものを用意しておきましょう。
 最初ですから無理をせず、ボツボツやらはってください。あ、それから素手はいけません。軍手を持ってお行きやす」
 坂根舎監はこう言って軍手を渡してくれた。
 「ありがとうございます。では行ってまいります」
 こう言って出てゆく放哉の後姿を、坂根舎監は心配そうに見送っていた。
 昨夜からの雪で、道はぬかるんでいた。
 成程、ここはやっばり長靴でなくちゃあいけないなあ、とつぶやきながら百米も歩くと、もう足の先に寒気がしのび寄っていた。
 言われた場所は、さえぎるもの一つない空地で、風が吹きさらしであった。
 鍬を振りあげ、エイッと地面を打つが、カチンと音がするだけでどうにもならない。
 それではとシャベルで横の方からすくあげるようにしてみるが、ほんの一握の土がほぐれるだけであった。
 手を休めると襟元と足の先から、寒気が容赦なくはいってくる。
 (これはえらい事になつた)と気をとりなおし、また鍬を振りあげながら、一心不乱になるために、別の事を考えてみる。
 井師のこと、武二、風車のことなど、骨なつかしく、しかし、今は遠い人達と感じている。こんな風景が過去にあったような気がした放哉は、鍬の手を休めて荒い息を吐いた。
 「焚火ごうごう事ともせずに氷る大地よ」
 そうだ京城の時だ、これはその時の句、井師に、良いのがあれば層雲にのせてほしいと頼んだ事があった。
 あれからもう二年、舞鶴も寒いが、京城の寒さは言語に絶するものがあるー
 また鍬を振りあげる放哉の頭に、白いものがかかっていた。
 空はいつの間にか黒く染まり、その透き間からとめどなく落ちてくる雪は、一体誰が作っているのだろうか。みるみるうちに白一色に変化していく空地は、うらぶれた音のない墓場のようであった。
 昼を告げるドラが鳴った。放哉は鍬を置き、鼻水をすすりながら寮への道を急いだ。 午後からも雪は止まなかった。雑草が見えなくなると溝がかくれ、そのうち盛り上がった土も石も隠れた。
 これは白い浄土だ。この浄土の中で、俺という人間は何だろう。無一物無一文、死ぬなら死ね、いつ死んでも本望だ。その間に少しでも社会奉仕が出来れば有難いと、殊勝にも一燈園の門を叩いたのは嘘の気持だったのだろうか。師は(下座は上座だ)と言った。
 しかし、こんな上座は俺には向かない。鼻をつく便所にしゃがんで、雑巾がけでもしている方がまだ結構だー
 気まぐれな放哉の心は不安定である。
 俺は寂しい機械だ、鍬を振り上げ打ちおろす、それの繰り返しだ。こんなのは人間のする事ではないー
 憤懣やる方なく、とりとめのない事を考えていると、だんだん腹が立ってくる。
 「もう止めだ」
 鍬を放り出した放哉は、よろけながら敬業寮に帰っていた。
     (六)
 その晩、坂根舎監から墨と筆を借りた放哉は、天香師に手紙を書いた。
 書き出しは「天香先生、楊下」 である。
 放哉は人に頼み事をする時、物を貰った時、不始末を詫びる時は、超敬語を使っている。
 後年、小豆島南郷の庵から、杉本玄々子、井上一二、飯尾星城子などに出した手紙にもそれが見られる。
 「…廠内一局部二、かつて、家をとりこぼちし跡ありて、其水はけをよくし、草をぬき、地をならす用件有りて、一日雪中、クワとシャベルとをかついで、托鉢致した処、非常なる力量を要し、へこたれ申候、不潔の仕事はかまわぬ共、力を要する仕事ハ閉口致侯
 サレバ、之は、園より力なる若か手の人の来援を持ちて、二人協力完成の考二有りて、それ迄ハ、寮の掃除ノ御手伝ひ及廠内ノ掃除を手伝って消化致す考二之有侯……」
 放哉が筆を置いた時、坂根舎監が茶を持って来てくれた。
 「尾崎はん、今日は大変きつうございましたでしょう。失礼な事を申しあげますが、この仕事はあなたには向かはりませんと思います。お見受けしたところ、蒲柳の体質のようで……もしよければ、明日から寮の掃除などされたらいかがでしょう。武久課長には私からよう伝えときます。どうでっしゃろ…」
 坂根舎監の親切な申し出は、放哉にとって願ってもない事であった。
 「いやあ、恐れ入ります。実は以前、助膜炎をやっておりまして、力仕事をすると息切れがひどいのです。
 実は今天香師に、あなたがおっしゃったような事を書いたところです。力のある若い人を寄越してくれと」
 「そうどすか、それは良ろしゅうおした。寮でもかなり仕事量がありますし、便所などもありますが…」
 「いや結構結構、クサイのには慣れていますから、何でもしますよ。アハハハ」
 放哉は高笑いをして頭を下げた。
 今日は酒が欲しいと思ったが、托鉢の最中でもあり、あまり無理を言えない事もわかっていた。
 電気を消して布団にもぐると、体中の節々が痛んだ。

 「暗の底握りつめ我を忘れんとする」
 「水音親しみ親しみ夕の橋を渡りきる」


 静かであった。冷々とした空気が六畳の部屋に忍び寄って、闇の中にとけこんでいった。

 舞鶴の停車場は寒々としていたが、蒸気機関車の吐く煙だけが、間隔を置いて勇ましく吹き上げていた。
 放哉は十日間辛抱した。待っていた若い人は来なかったが、結局それはそれで仕方がなかった。雪は放哉が居る間中降り続いたが、皮肉にも放哉が舞鶴を去る日に止み、太陽が顔を見せはじめていた。
 ひと刷毛はいたような薄いブルーが、目に見えない早さで濃いブルーに変わり、その中に淡いオレンジと紅が交じりはじめた。
 冬の弱々しい太陽であったが、その鈍い光が、風の息をひそめさせていた。
 わざわざ見送りに来てくれた坂根舎監に、放哉は木枠の四角な窓ごしから、軽く手をあげて別れの挨拶をした。
 黒煙を上げ、ゆっくりと動く出す客車の中の放哉の目がしばたいた。
 坂根にはがそれが涙を浮かべているように見えたが、煙が目にしみたのかも知れなかった。
 赤い尾燈がだんだん遠ざかってゆく中で、坂根は、何故か心ひかれる人と人との別れとは、こんなにもあっけないものかと、何時までもホームに立ちつくしていた。
(本稿は一部を除きフィクションである)

余島を愛した井泉水師と放哉さんが泣いた海
井上泰好
 大余島には昭和二十五年に神戸YMCAの国際キャンプ場が設置され、干潮時には徒歩で渡れる。各島とも黒雲母花崗岩からなり、島の周りは海食崖が発達して白砂青松の典型で、小豆島を代表する景観の一つです。

井泉水師と小豆島

○寶樹荘滞在
 井泉水師は生前小豆島に八回来島されている。その内大正九年四月には桂子夫人と共に井上一二の山荘「賓樹荘」に約二十日間滞在している。その時作った句。
 彿を信ず麦の穂の青きしんじつ     井泉水
 夕となれば風が出る山荘よともし火   桂 子
 なお井泉水師のこの句碑昭和三十七年四月、土庄町渕崎の本覚寺(現層雲園)に建立している。(この句碑の除幕は筆者の長女(当時六才)が行った。)
 桂子夫人の句碑は大正十三年五月、井泉水師が八日間の小豆島八十人カ所の巡拝を終えた後賓樹荘内に建立したが、昭和四十三年五月、本覚寺に移転した。

○余島周遊
 前述のように大正九年四月、一二の山荘賓樹荘に滞在した井泉水夫妻は、一二の案内で一日、余島に遊んでいる。
 その時の文は、層雲大正九年七月・八月号に 「山荘随筆」として書かれている。
「風邪もよくなったので一日、餘島に遊んだ。−土庄町の最南端に、小さな島が一列に四つ並んでゐる。その最南端のものは稍大きくて周囲十町許りもあろう。之が餘島である、ー土庄町のはずれの餘島の見える海辺で舟を傭った。海の静かな事は、之が海かと疑はれる位だ。−私達の舟は小さい島に沿うて漕がれた。ーかうした小島を三つ見送ってから次の餘島の渚で舟を上がった。又こゝにはたった一軒、O氏の別荘といふ家が、今は締め切っている。
−土庄の岸から小舟が一艘こちらへ漕ぎ寄せて来た。島の同人の信一氏だった (注〜立石信一〜石彿とも号す)
−餘島からの戻り道には、もう舟はいらなかった。といふのは丁度干潮時になったからだ。潮がすかり引くと、餘島と三つの小島とは、島でなく土庄町と陸続きになって干上がるのである。私達は往きには美しい潮がひたひたと浸してゐた海の底であった処を、ほかほかと立つ麗かな陽炎を踏み乍ら、卵色をした砂に下駄の後を印しつゝ帰ったのだったー」 (八月号より)
 島島の眺めよろしきここの島の神      井泉水
(小豆島六句の内及び井泉水句集「原泉」より)

○山荘別々記−立石信一
(層雲大正十三年四月号−桂子 夫人の追悼文より)
「又−他の日の事、二一氏の御案内で井師と夫人は余島へ遊ばれました。私は運悪く遅刻して了って、後から満潮の島々の間を小舟を駆ってやっと追ひつく事が出来たのでした−又、すぐ隣った島の頂きには小さな名ばかりの祠さへよくこちらの島の渚からは眺められるのでした。
 島々の眺めよろしきこゝの島の神
 井師の句が私には、その日のすべてを物語って呉れる様に思われますし、又私には一番なつかしい句の一つでもあります。
 −そして四人きりの深い足跡を長く残し乍ら小波さへも立ってゐない渚を、井師や、桂子夫人のお話を承りながら少時も歩きつゞけたのでした−」

放鼓さんが泣いた海

○酒ははどはどに…
 放哉さんが南郷庵に入庵したのは大正十四年八月二十日。玄々子、一二から生活用品や当面の食料などを貰いうけたが、別にこれからの生活費として後援会の世話を依頼する。
 八月二十六日頃、一二が庵に来て、南郷庵の収入が生活費に満たない事を告げ、京都に行って放哉さんの今後について、井泉水師に相談する意向を話す。
 放哉さんはその夜島の酒屋で一人酒をあおり、漁師の子四人を同乗させて舟を漕がせ、舟中酒を呑み泣く。
 玄々子はこの件について放哉さんの生活を保障する旨伝え、翌日「世話をするから心配しないでいい」という趣旨の手紙を託送する。
 これについて放哉さんは玄々子に礼状を書いている。 (八月三十日 玄々子あて)
  「啓、御手紙、一字、一句、涙を以て拝読−全く御親切に泣かされました。よろしくお願い申します。一二氏の話に大に驚いた結果がヤケ酒となり、まあ之が私のワルイくせ、今後は絶対ヤメます。実は一夜、漁師の子供四人と、月明に、仏崎から舟を出した。一人で呑みながら泣いてゐた様な有様御笑ひ下さいませ…今後は、何もかも、御まかせ致します。−」
 また同日付で井泉水師に、今日の手紙ハ、「秘中の秘」として収入、支出の内容と玄々子の援助を知らせ、玄々子に礼状を書いてほしい、又、後援会より一口か二口ずつ出してほしいと要望しており、飲酒した事は一切善かれていない。次の九月十一日付井泉水師あて封書では、この飲酒について次の様に書いている。
 「−其夜です。某酒店で只一人大ニあふって、ソレカラ、仏崎といふ処から(月明でした)漁師の子(浜に遊んでゐる)を四人、(十四五才を頭)乗せて之に舟を漕がせ、舟中、一人で、ガブリといふ妙な場面があったのです(此時ハ…又、台湾カナ?…ソレトモ…イロンナ事を考エテ、泣イタ…カモ知レマセン)シカシ、大二考へなおして、西光寺サンニ面談して結果が今日のめでたしめでたしとなって来たので、人間は短気を起こすもので無いと、ツクヅク思ったー」
 とあり、放哉さんが舟を出した海は、当然余島周辺である。そして手紙の最後に
 「門外不出」 デ、怪火デヤケタ、例の「碑」にマダ参リマセン、近イウチに必行ッテ、報告シマスー
 とあり、これは賓樹荘(当時)にある桂子夫人の句碑の事と思われるが、在島中に見に行った形跡は無い。

○遍照の海
 放哉さんが住んでいた南郷庵の西側山服一帯は共同墓地である。左から清兵衛山(蝉山)、百足山、聖天山と名付けられており、その墓地の細い道をたどって丘の上に出る事が出来る。そしてそこからは遍照の海が見える。
 遠くに尾根のような屋島、正面は大余島である。放哉さんはここに立ってそれを眺めたであろうか。入庵雑記、入庵食記、書簡類を見ても書かれていないが、
 山に登れば淋しい村がみんな見える     放 哉
 という句があり、海を見ていると心が安らぐ−と言った放哉さんの事、丘の上に立ってふるさと鳥取へ続く海に、思いをはせた事であろう。
 また、九月二十二日に来島した飯尾星城子について、九月十六日付丸亀連隊あて出した手紙には
  「…私が島に来た時はエライ遠方に船がツイテ困ったのですが…土庄町行デモ、仏崎と云ふ処に、ツク船が一番便利なのです。仏崎(土庄町の中)から船を上がれば「庵迄」一町も無い位に候−」
 と書いており、この高松からの船は大余島の沖を通り、仏崎に入ってくるので(百米位沖に停泊し転馬船に乗りかえて下船)丘の上からよく見える事から、来訪を待ちわびて、あるいは海を見るため丘に登った事も考えられるが定かではない。
 引き汐の島へつゞく道となれり   放 哉

 井泉水師は地にたくましく足を踏ん張り、自由律俳句の発展に常に取り組んできた。
 そして、後世に残る偉大なる足跡を残した。一方、放哉さんは凡人であったのか、それ共勇者であったのかは別としても、自由律俳句という文学の中で、自らの美学に酔い、壮絶に生き、そして死んでいった。

 「絶望と悲哀の寂寞とに堪え得らるる如き勇者たれ、運命に従ふものを勇者といふ」
       (田山花袋)

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