大余島には昭和二十五年に神戸YMCAの国際キャンプ場が設置され、干潮時には徒歩で渡れる。各島とも黒雲母花崗岩からなり、島の周りは海食崖が発達して白砂青松の典型で、小豆島を代表する景観の一つです。
井泉水師と小豆島
○寶樹荘滞在
井泉水師は生前小豆島に八回来島されている。その内大正九年四月には桂子夫人と共に井上一二の山荘「賓樹荘」に約二十日間滞在している。その時作った句。
彿を信ず麦の穂の青きしんじつ 井泉水
夕となれば風が出る山荘よともし火 桂 子
なお井泉水師のこの句碑昭和三十七年四月、土庄町渕崎の本覚寺(現層雲園)に建立している。(この句碑の除幕は筆者の長女(当時六才)が行った。)
桂子夫人の句碑は大正十三年五月、井泉水師が八日間の小豆島八十人カ所の巡拝を終えた後賓樹荘内に建立したが、昭和四十三年五月、本覚寺に移転した。
○余島周遊
前述のように大正九年四月、一二の山荘賓樹荘に滞在した井泉水夫妻は、一二の案内で一日、余島に遊んでいる。
その時の文は、層雲大正九年七月・八月号に 「山荘随筆」として書かれている。
「風邪もよくなったので一日、餘島に遊んだ。−土庄町の最南端に、小さな島が一列に四つ並んでゐる。その最南端のものは稍大きくて周囲十町許りもあろう。之が餘島である、ー土庄町のはずれの餘島の見える海辺で舟を傭った。海の静かな事は、之が海かと疑はれる位だ。−私達の舟は小さい島に沿うて漕がれた。ーかうした小島を三つ見送ってから次の餘島の渚で舟を上がった。又こゝにはたった一軒、O氏の別荘といふ家が、今は締め切っている。
−土庄の岸から小舟が一艘こちらへ漕ぎ寄せて来た。島の同人の信一氏だった (注〜立石信一〜石彿とも号す)
−餘島からの戻り道には、もう舟はいらなかった。といふのは丁度干潮時になったからだ。潮がすかり引くと、餘島と三つの小島とは、島でなく土庄町と陸続きになって干上がるのである。私達は往きには美しい潮がひたひたと浸してゐた海の底であった処を、ほかほかと立つ麗かな陽炎を踏み乍ら、卵色をした砂に下駄の後を印しつゝ帰ったのだったー」 (八月号より)
島島の眺めよろしきここの島の神 井泉水
(小豆島六句の内及び井泉水句集「原泉」より)
○山荘別々記−立石信一
(層雲大正十三年四月号−桂子 夫人の追悼文より)
「又−他の日の事、二一氏の御案内で井師と夫人は余島へ遊ばれました。私は運悪く遅刻して了って、後から満潮の島々の間を小舟を駆ってやっと追ひつく事が出来たのでした−又、すぐ隣った島の頂きには小さな名ばかりの祠さへよくこちらの島の渚からは眺められるのでした。
島々の眺めよろしきこゝの島の神
井師の句が私には、その日のすべてを物語って呉れる様に思われますし、又私には一番なつかしい句の一つでもあります。
−そして四人きりの深い足跡を長く残し乍ら小波さへも立ってゐない渚を、井師や、桂子夫人のお話を承りながら少時も歩きつゞけたのでした−」
放鼓さんが泣いた海 ○酒ははどはどに…
放哉さんが南郷庵に入庵したのは大正十四年八月二十日。玄々子、一二から生活用品や当面の食料などを貰いうけたが、別にこれからの生活費として後援会の世話を依頼する。
八月二十六日頃、一二が庵に来て、南郷庵の収入が生活費に満たない事を告げ、京都に行って放哉さんの今後について、井泉水師に相談する意向を話す。
放哉さんはその夜島の酒屋で一人酒をあおり、漁師の子四人を同乗させて舟を漕がせ、舟中酒を呑み泣く。
玄々子はこの件について放哉さんの生活を保障する旨伝え、翌日「世話をするから心配しないでいい」という趣旨の手紙を託送する。
これについて放哉さんは玄々子に礼状を書いている。 (八月三十日 玄々子あて)
「啓、御手紙、一字、一句、涙を以て拝読−全く御親切に泣かされました。よろしくお願い申します。一二氏の話に大に驚いた結果がヤケ酒となり、まあ之が私のワルイくせ、今後は絶対ヤメます。実は一夜、漁師の子供四人と、月明に、仏崎から舟を出した。一人で呑みながら泣いてゐた様な有様御笑ひ下さいませ…今後は、何もかも、御まかせ致します。−」
また同日付で井泉水師に、今日の手紙ハ、「秘中の秘」として収入、支出の内容と玄々子の援助を知らせ、玄々子に礼状を書いてほしい、又、後援会より一口か二口ずつ出してほしいと要望しており、飲酒した事は一切善かれていない。次の九月十一日付井泉水師あて封書では、この飲酒について次の様に書いている。
「−其夜です。某酒店で只一人大ニあふって、ソレカラ、仏崎といふ処から(月明でした)漁師の子(浜に遊んでゐる)を四人、(十四五才を頭)乗せて之に舟を漕がせ、舟中、一人で、ガブリといふ妙な場面があったのです(此時ハ…又、台湾カナ?…ソレトモ…イロンナ事を考エテ、泣イタ…カモ知レマセン)シカシ、大二考へなおして、西光寺サンニ面談して結果が今日のめでたしめでたしとなって来たので、人間は短気を起こすもので無いと、ツクヅク思ったー」
とあり、放哉さんが舟を出した海は、当然余島周辺である。そして手紙の最後に
「門外不出」 デ、怪火デヤケタ、例の「碑」にマダ参リマセン、近イウチに必行ッテ、報告シマスー
とあり、これは賓樹荘(当時)にある桂子夫人の句碑の事と思われるが、在島中に見に行った形跡は無い。 ○遍照の海
放哉さんが住んでいた南郷庵の西側山服一帯は共同墓地である。左から清兵衛山(蝉山)、百足山、聖天山と名付けられており、その墓地の細い道をたどって丘の上に出る事が出来る。そしてそこからは遍照の海が見える。
遠くに尾根のような屋島、正面は大余島である。放哉さんはここに立ってそれを眺めたであろうか。入庵雑記、入庵食記、書簡類を見ても書かれていないが、
山に登れば淋しい村がみんな見える 放 哉
という句があり、海を見ていると心が安らぐ−と言った放哉さんの事、丘の上に立ってふるさと鳥取へ続く海に、思いをはせた事であろう。
また、九月二十二日に来島した飯尾星城子について、九月十六日付丸亀連隊あて出した手紙には
「…私が島に来た時はエライ遠方に船がツイテ困ったのですが…土庄町行デモ、仏崎と云ふ処に、ツク船が一番便利なのです。仏崎(土庄町の中)から船を上がれば「庵迄」一町も無い位に候−」
と書いており、この高松からの船は大余島の沖を通り、仏崎に入ってくるので(百米位沖に停泊し転馬船に乗りかえて下船)丘の上からよく見える事から、来訪を待ちわびて、あるいは海を見るため丘に登った事も考えられるが定かではない。
引き汐の島へつゞく道となれり 放 哉
井泉水師は地にたくましく足を踏ん張り、自由律俳句の発展に常に取り組んできた。
そして、後世に残る偉大なる足跡を残した。一方、放哉さんは凡人であったのか、それ共勇者であったのかは別としても、自由律俳句という文学の中で、自らの美学に酔い、壮絶に生き、そして死んでいった。
「絶望と悲哀の寂寞とに堪え得らるる如き勇者たれ、運命に従ふものを勇者といふ」
(田山花袋) |