会報26号  井上泰好氏ご逝去を悼む
「放哉友の会」にとってかけがえのない方が逝かれました。
 尾崎放哉への傾倒と造詣の深さ、そして何より「層雲」の有力メンバーとして、自由律俳句の小豆島での無二の俳人でありました。八十六歳は天寿を全うしたとも言えます風にそよぐ葦のように一見、ひ弱そうな外見とは蓑腹に、勁いこころの持ち主でした。遺された俳句にはみずみずしい詩心が横溢しています。天折の詩人と云いたいほど、今後の深まりを期待していたのに、若々しいまま、老いた体を遺して旅立って行かれました。
 天の川を漂う泰好さん、思う存分、天馬と戯れて下さい。
 ご冥福を祈ります。
 弔 辞
 井上泰好さん
 尾崎放哉研究の第一人者として、かけがえのない人を失ってしまいました。御遺族の皆さんの悲しみは如何ばかりかと、お察しいたし、お悔やみ申し上げます。  十日ばかり前、病院に井上さんをお見舞いたしたところ、お元気そうなお姿を拝し、安心いたしました。が今こうしてお別れの青葉を申し上げるとは…。  
井上さんは、昭和五年三月渕崎でお生まれになり、社会人としての出発は、県職員として小豆事務所の福祉課勤務でした。持ち前の勤勉さと情熱で、児童福祉士としての資格を取得され、県職員の中では児童福祉のエキスパートとして、児童福祉の県の施策に深くかかわってこられました。小豆島では、介護施設や保育所の設置に精力的に働かれ、「ひまわりの家」の法人化に尽力され、退職後はその所長として、初期の「ひまわりの家」の運営にも携わっておられました。
 その間、小豆島を終焉の地とした自由律の俳人尾崎放哉のお世話をなさった叔父の井上一二氏の御指導のもと、自由律の俳句を勉ばれ、平成五年から随雲や層雲に句を投稿され、着々と俳人としての腕をみがかれてきました。
 又平成四年、尾崎放哉南郷庵友の会の復活の際には、事務長として会の運営をして頂きました。毎年四月七日に開かれる「放哉忌」の準備も、半年前から取りかかり、放哉大賞の募集から選句、当日のスケジュールまでお世話になって来ました。
 その中心人物を失った友の会の運営はもとより、放哉の莫大な資料の整理、我々といたしましても尾崎放哉の偉業を伝えて行くと共に、尾崎放哉の足跡をたたえつつ後世の人々に、その時々の資料を守り伝えて行く責任があると思っています。惜しみてもあまりある人を、奇しくも尾崎放哉入滅九十周年の年に失うとは…。
 井上さんが、平成五年から二十二年間にわたって作ってこられた俳句が千六百二十二句あり平均年七十三句、一月七句作ってこられました。その中で病床に伏されてからの句の中から五句選びました。
・土地に惚れ女房に惚れて星涼し
・方舟に乗って逝きたし天の川
・ われ蒼ざめた馬を引き冥府を引っ張っている
・人間いつまで出来るんや己が己に問うている
・赤ちゃん返りおしめしてあの世へ逝くか
 井上さん安らかにお休み下さい。
  南郷庵友の会 岡田好平
       平成二十七年十一月四日  
「山頭火の涙」
 平成二十三年の放哉忌に西光寺客殿、で、大藪旭晶先生の『小豆島の放哉・幽冥無常の響」と題した琵琶演奏をお聴きになった方は大勢いらっしゃると思いますが、今回は作詞者・井上泰好氏追悼の演奏会となりました。先生と泰好氏のコラボレーションをこころゆくまでご鑑賞下さるようお願い申し上げます。
 筑前琵琶演奏
歌詞「放哉」南郷庵友の会 井上泰好
作  曲     大薮旭晶
朗読琵琶演奏  、大鼓旭晶
山頭火の涙

このみちや
いくたりゆきし われは けふゆく
このみちや いくたりゆきし
われは けふゆく

 ここに一人の男がいた。その男は波乱万丈の人生を酒と俳句と放浪の旅で過ごし、明治、大正、昭和の三代をかけぬけた……。
 その男の名は「種田正一」、俳号を「山頭火」という。明治十五年十二月、山口県で出生。生涯自由律俳句の師となる荻原井泉水は二年後の明治十七年生まれ。共に俳句の道を歩んだが、遂に逢う事のなかった尾崎放哉は三年後の明治十八年生まれである。
 生家は大地主。母は山頭火が十才の時、はかり知れない苦悩でノイローゼになり、その身を井戸に投げて自死する。その死に顔を見た山頭火は、その事が一生トラウマとなって頭から離れなかった。  その後早稲田大学に進学するが二年後に退学して郷里に帰る。二十八才の時結婚して一児をもうけるが家は破産し妻子共に熊本へ−
 大正十三年、泥酔して熊本市内の市電を止める騒ぎとなったが、彼の身を案じた知人が市内報恩寺の望月義庵和尚の元に連れて行き、これを機に禅門に入る。
 大正十四年二月出家得度。
「耕畝」と改名し三月、味取観音堂(瑞泉寺)の堂守となる。
 「枚はみな枝垂れて南無観世音」
 大正十五年四月十日、放哉の死から三日後、解くすべもない惑いに身を焦がし、一鉢一笠の行乞放浪の旅に出る。
 −あの白い雲の上には観音様がおられるようじやのう−
 「分け入っても分け入っても青い山」
 どこまで続く山々ぞ。越えればまた新たな山々が連なつて果てしない。
 放哉の死は凍先で聞いた。諸行無常−あれほど敬慕して止まなかった放哉と、この世での逢瀬は遂に断たれてしまった。
 −放哉居士に和して1ー 「鴉啼いてわたしも一人」
 −私はただ歩いてをります。歩く、ただ歩く、歩く事其事が一切を解決してくれるような気がします……−
 師の井泉水に出した手紙である。
 山頭火はその後九州一円の行乞を繰り返しながら歩いた。墨染の法衣に網代笠、頭陀袋を提げ、鉄鉢と杖を手に、白の脚粁に草鞋のいでたちであった。

流れ流れてさすらいの
夢に荒野をただ一人
明日はどこやら 行方も知らず
遠い明りを遠い明りを 追うてゆく…
 昭和三年、一月に徳島で新年を迎え、その後四国八十人ケ所を巡拝した後、七月二十二日高松から小豆島に渡った。放哉がはじめて島に来た時のように蝉しぐれには迎えられなかったが、夏の太陽が照りつける暑い日であった。
 土庄港からはためらう事なく渕崎村の層雲同人井上一二の家を訪ねた。
 破れた黒い網代笠に草鞋履き、えごの木の杖をつき、腰にタオル一本ぶらさげ、黒ぶちの丸い眼鏡をかけて広い土間に立った山頭火は一二が出てくると、何の挨拶もなく
 −わたし種田です−
と言って一二の顔を見つめた。
 −ああ山頭火さんですか−
 即座に言葉を返した一二に、山頭火は
 −ほう、よく私と分かりましたね。非常に嬉しいです−
 と素直に答えた。胸の中はほのぼのとした暖かさを感じとっていた。
 −暑い中お疲れだったでしょう。どうぞお上がりください。何か冷たいものでも持たせましょう− 一二はこんな言葉が自然に出てきた。
 放哉と山頭火―同じ層雲の同人で出生地も境遇も異にしながら、共に自由律俳句を追求した。どちらも酒に溺れ、一人は寺男、一人は托鉢行脚の雲水になって、妻子家族を振り切っての世捨人の似た者同志である。が、何か違うものがあると感じながら、初対面では確かな事はわからなかった。
 涼しい座敷やビールを飲みながら托鉢の話を聞いた。山頭火は言う。
 ―行乞とは雲の行く如く、水の流れるようでなければなりません。わが心水の如くあれ、わが心空の如くあれ…このように自分の心に訴えかけるのは.水の如くなれないからですー南は鹿児島から北は平泉まで各地をさまよい歩き、鉄鉢に投げ与えられた米を喰み、小銭で安宿の片隅に疲れた身を横たえて酒を呑みます。幾度か小庵に落ちつこうとしましたが、やはり歩き出さずにはいられませんでした。私を旅に追いやるものは何だったのか…今もってわかりません…或いは私が十才の春、古井戸に身を投げ、自ら命を断った母への思いか、自殺した弟への悔恨なのか…私は母の位牌をいつも大切に持って歩いています…−
 山頭火は率直に自分の胸の内を一二に語りかけ、尽きる事はなかった。
 −井上さん、放哉坊のお墓にお参りしたいのですが案内してください−
 山頭火が一二にこう言ったのは、もう日が沈む前のひと時であった。二人は土庄の酒 屋で一升瓶を買い、放哉の墓にそそいだ。
 膝をつき、両手を合わせて涙ぐみながら読経する山頭火の胸の内は、放哉思慕の念を超えて、無我の境地にあった。
 「お墓したしさの雨となった」
 「お経をあげてお墓をめぐる」
 これより西光寺に行き玄々子に逢う。
 −放哉居士を弔ふてくださった山翁が、ビールの満をひき西瓜の甘さをたたえ乍ら私の画帖に「旅衣ふきまくる風にまかす」と書いて下さった。風の様に来て風のように立ってゆかれたのは夏の暑いさ中でー
 と、玄々子はのちに書き残している。山頭火はこれから小豆島八十八ケ所のいくつかを参拝して寒霞渓に登り、七月二十六日に再び一二宅に立寄り昼食を共にしながら層雲の俳人の幾人かを語っている
。  −井上さん、お世話になりました。これから岡山に渡りまた旅をしようと思いますが近頃(層雲)を読んでいません。よければ少し貸してほしいのですが−
 ―よくわかりました。お貸ししましょう。最近号が四・五冊あります。どうぞお持ちください。それはそうと先日のお話の中であなたは(路傍の石彿や道標だけが頼りでも、めったに道に迷った事はない)と言われましたね。それで思い出したのですが、あれは確か大正十五年の十一月号だったと思います。あなたの句でこんなのがありましたね。「分け入っても分け入っても青い山」「しとどに濡れて之は道しるべの石」 これはいい句ですね。私はこの句を思い出すたびに、あなたの旅する姿が目に浮かんでくるのです。酒はほどほどに、体には十分気をつけて下さいー
一二の言葉は山頭火の胸にひしひしと迫った。ぶ厚い眼鏡の奥から感動の涙がこぼれ落ちるのを拭いもせず、深々と頭を下げていた。

山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆうべもよろし

 これは昭和四年の作であるが、風の中、おのれを責めつつ歩く山頭火の心の中に、この時すでに、この詩の下地が出来ていたのかも知れない。
  一二から借りた(層雲)を山頭火は大事そうに頭陀袋に入れて持ち歩き、夜は暗い電燈の下で熟読した。そして読み了えた層雲は手紙を添えて旅先から一冊ずつ一二に送り返した。彼は再び句作に打ちこもうとしていたのである。
 昭和三年後半の山頭火は、山陽地方、九州地方を行乞、昭和七年には旬友の支援を得て地元山口に 「其中庵」を結庵した。が、昭和十年八月、カルモチンを多量に服用するも未遂に終る。十二月−死場所を求めて再び東上の旅に出るが、酒が原因で多くの句友に迷惑をかける。
 私はまた旅に出たー所詮乞食坊主以外の何者でもない私であった。浮草のように、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽している私をあわれみ、かつよろこぶ。水は流れる。雲は動いて止まない。風が吹けば木の葉が散る。魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり。それでは二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け、旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのままに写そう。

歩かない日は淋しい
作らない日は淋しい
飲まない日はなお淋しいー
ほろほろ ふうふう
ぐてぐて…
何もわからなくなる…
ごろごろ どろどろ

 「酔うてこおろぎと寝てゐたよ」
 山頭火の酒の酔い方の述懐である。

胸にあふれる望郷の
夢もうつろゑ淋しさを
一人押さえて酒を呑む

 「ひよいと四国へ晴れきっている」
 昭和十四年十月一日、山頭火は広島の字品港から女王丸に乗って松山に渡った。
 この年の一月に湯田温泉の「鳳来居」 で新年を迎えた山頭火は、三月には近畿、東海、木曽を施し、伊那では念願の俳人「井上井月」 の墓参を果たした。
 十月五日、長年の夢であった「野村未鱗洞」の墓参をし、その足で四国遍路の旅に出る。
 山頭火は秋の四国路を札所をまわりながら歩き続けていた。
幾山河越へさり行かば淋しさの果てなむ国ぞ今日も旅行くー  
 淋しくなると若山牧水の歌を朗詠しながら歩き、讃岐の「こんぴらさん」を参拝し高桧港から土庄に渡った。
 十月二十一日、十一年ぶりの二度日の小豆島であった。俳句を作ることだけに命をかけ、他の世界の事には失敗を重ね、愚かな一生を送った放哉と自分とを重ね合わせていた。
 土庄港からは何となく覚えていた道をたどりながら西光寺の杉本玄々子に逢いに行った。
 玄々子はこの事について追悼文に次のように書いている。
 −それがまた何の前ぶれもなく、風にまかせて風のように、十月の中旬、ヒヨツタリと訪ねて下さったのである。 一二さんにお知らせすると早速翁の好物の一升瓶が届けられて、悦に入りながら夕方から三人で寄書や漫談、物故俳人追悼会等うれしく思った事でした。翁は冷たい奴をコップに満たしてグイグイ干しながら、筆をとってサラサラと私に書いて下きったのである。
 「分け入っても分け入っても青い山」 さても翁の生涯は、分け入っても分け入っても青い山であったのだろうか。求めても求めてもつかみ得ないもの、翁はそんなに苦しんでおられるのか−。私がヂット考え込んでゐるとー又サラサラと書いて下さる。
 「また一枚ぬぎすてる旅から旅」
おおこれこそ、分け入っては一枚ぬぎ、分け入っては一枚ぬぎすてる翁の、道を求める姿。分け入って求め得たものも、また古しとして、ぬぎすてぬぎすて1。新らしき道を求めて止まざる、この激しい精進の旬の何と尊い事か。翁を前にして私はホロリとさせられたのである。コップをグイグイと干して又サラサラと書いて下さる。
 「柳ちるいそいであてもない旅へ」
 翌朝、朝の膳にお酒をすすめると一合ダライで深くはたしなまず、残った一本を放哉の墓に持参されたのである−
 南郷庵跡は海風を受けて大松が鳴っていた。山頭火は「いれものがない両手で受ける」の句碑を、いとほしむように両手で撫でながら何度も読み返した。大松を見上げながら夕風が吹き出した自分の体になぞらえながら句を作った。
 「その松の木のゆふ風ふきだした」
 山頭火は心持ち丸くなった背中に淋しさを見せ、登りの細い道を通って墓地に行き、持ってきた酒をとくとくと墓にかけた。座り込んで酒をすすり、鳳来居で作った句をつぶやいた。
 「酒飲めば涙ながるるおろかな秋ぞ」
 −放哉坊、お互よく飲みましたね。あんたも私も人を恋いながら人をきらい、人を頼りながら自らを孤独に封じこんでネ。アハハハ…あんたの(入庵雑記)は何回も読ませて貰いましたよ。文も俳句も、あんたは私をはるかに超えていますよ。まだまだ駄目ですよ私は…この世ではとうとう逢う機会はありませんでしたが、まあもうしばらく待っていてください。私もすぐお側に行きますよ。その時はまた一緒に句を作ってそれから一緒に飲みましょうよアハハ…
 山頭火にとって行乞は痛んだ体にはほとほとこたえていた。もう五十八才、足も心臓も徐々に弱り、死が少しずつ近づいている事を予感し、感じとっていた。
 「ほろほろほろびゆくわたしの秋」
 山頭火はあらたまって正座した。数珠を持つ手がふるえていた。(南無観世音……)
 こう称える山頭火のうるんだ目からは、句と同じようにほろほろと涙がこぼれ落ちていた。
 しかしその涙は悲しい涙ではなかった。この世に生を受けて一度か二度しかない、体中がふるえるような、熱い情感の涙であった。
 そして句を詠んだ。
 「ふたたびここに雑草供えて」
 「墓に護摩水をわたしもすすり」
 「海が少し見える小さい窓を一つ持つ」と詠み、その窓から海を見つめ、風におびやかされながら一人死んでゆく放哉。その死にざまに思いをはせ、放哉の墓にトクトクと酒をそそぐ山頭火は何故か神々しく、玄々子は風雪に耐えてきた一人の人間の生きざまを見たのであった。
 −ゆうぜんとして生きてゆけるか、しようしようとして死ねるか、どうじやどうじゃ山に聞け、水が語るだろう−
 山頭火は十月二十四日の朝−これから暖かい土佐でこの冬を越し、春になって伊予に出ればソコで落ちつけるかもしれないーと話した。笠を手にして雨雲の晴れ切らない空を仰ぎながら
 ―お世話になりました−
とあいさつをした。法衣の淋しい背をむけてスタスタと旅立ってゆかれたが、山頭火のそのうしろ姿に玄々子はしぐれ≠見たのであった。
 「うしろ姿のしぐれてゆくか」  これは山頭火が昭和六年自嘲≠ニ称して作った句である。

さよならの言葉残して
背をむけて
両手合わせた淋しさよ
忘れようとて忘られぬ
胸の未練がまたにじみ
風のまにまにこだまする

 遍路の道は遍照金剛の道−この道は更姶一新、転一歩の確かな一歩ではあったが、また苦難の道であり、これが生涯歩き続けた山頭火の、最後の放であった。
 「木の葉散る歩きつめる」
 「この旅 果てもない旅のつくつくぼうし」
 「捨てきれない荷物のおもさまえうしろ」
 昭和十五年十月十一日、山頭火は終の栖となった松山の「一草庵」で、五十九才の淋しい生涯の幕を閉じた。
 「おちついて死ねそうな草枯るる」
 「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」
   戒名「山頭火居士」
 高野聖は称う

彿は常におわせども
うつつならぬぞあわれなる
人の声せぬあかつきに
ほのかに夢にいで給う

 「何でこんなにさみしい風ふく」……
睡月の景色竹亭断水

 去る十八日、第二回「私の好きな放哉句」 の集いが催された。五名が一句づつ選び、その理由を述べる。司会者が麓蓄を傾けてそれを応援する。それぞれの顔ぶれにふさわしい選句となった。
 今回はゲストとして自由律俳誌「青穂」主宰・小山貴子さんがご参加下さった。「暮れ果つるまで〜尾崎放哉と二人の女性」 の著者であり、筑摩版「放哉全集」 の編集者でもある。会に先立って「私が巡りあった〜放哉を愛した人々」について、坂本四方太・河本縁石・村尾草樹・瓜生載二・唐沢隆三・井上三喜夫らを取り上げ、様々な写真を交えて講話された。荻原海一氏の蔵書などにも注目したが、尾崎家従兄弟たちの上野精養軒での銀婚祝い(大正五年)の写真には驚いた。美男美女夫婦が六組、威儀を正して並んでいる。お馴染みのふっくらした童顔の放哉さんの顔貌が、この写真からも窺える。馨夫人も少々太り気味だが一目で識別出来る和服正装の見事な記念写真であった。澤芳衛さんの若い頃から晩年にいたるポートレートでは、美しい女性の歳を重ねて行くさまが良く理解出来た。映像がどれほどのものを伝えるか、見る者の眼力が試されそうな貴重な写真であった。
 翌朝、頼まれて井上泰好の墓所に案内した。以前は谷沿いの竹薮に囲まれた独立した区画であったが、今は町営の住宅などが建て込んで、ちょっと不可思議な場所に変貌している。かって一族、五・六家の墓所があったが、今は二家のみになってしまった。西側にささやかな右横の入口がある。東側は深い谷に区切られ、北東の竹薮を透してかっての「宝樹山荘」跡が窺える。雨後であれば谷を下る水音が激しく、幽谷沿いの墓所として神妙な気持ちでの墓参となるのだが、今日は森閑としている。五輪塔と四基の墓石が並ぶ。「法徳俳好信士」の真新しい墓石に線香を手向けた。北側に位置する井上文八郎(一二)家の墓所は宝匪印塔と六基の墓石がかぎ型に並ぶ。一二夫妻の墓石に線香を手向けて、記憶のなかの「ほんけのおばちゃん」らの話をする。昨日の「淋しい寝る本がない」の選者も来合 わせ、井上家の蔵書の話しなどにも及んだ。尾崎家の集合写真とは趣が違うが、井上邸の玄関前・蘇鉄の庭での老若男女 (一二長男・一氏の神戸高商制服姿や泰好氏の軍服姿も) の賑やかな記念写真のことなども思い出され、印象深い墓参となった。
 折角の機会なので、一旦坂を下り、もう一本東側の道から谷沿いを登り、現「宝樹荘」に向かった。橋を渡ると、皇踏山の岩壁を仰ぐ傾斜地に、瀟洒なとんがり屋根のコティジが建つ。前庭はヨモギに覆われ、ミモザが蕾を付け初めている。枇杷の木が無粋な葉を残し、水仙の株が白い花を付けている。ン¢O面は鬱蒼たる竹薮である。
 何年か以前、敬子ご夫妻が滞在された新、それこそ観る本≠届けたことがある。「思文閣墨跡資料目録」を数冊持参し、茶菓で歓談したのも、しかし、今は懐かしい思い出になってしまった。 谷沿いに建つ

 放哉坊あたままろめて来て
              さてどうする
  海恋ふて
     風呂敷かかへて来た
          井上一二

の句碑に見送られて、西渕崎の山手のドライブを終えた。

附「私の好きな放哉句」
・寒ン空シャッポが欲しいな
・故郷の冬空にもどって来た
・淋しい寝る本がない
・心をまとめる鉛筆とがらす
・あすは元日が来る仏とわたくし
・咳をしても一人
・肉がやせてくる太い骨である
・入れものが無い両手で受ける
・何がたのしみに生きていると問われて居る(泰好欠席)
・窓あけた笑ひ顔だ
・足のうら洗へば白くなる
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