会報27号  巻頭論文
井泉水と放哉(1)
  −井泉水日記「放哉を島へ送る時」 ー
              小 山 貴 子
1 はじめに

 井泉水の手元に保管されていた放哉の旬稿が世に出てから久しい。旬稿の公開にあたっては御子息の荻原海一氏に大変お世話になつた。それが筑摩書房による 『放哉全集』出版の機縁となったわけである。そして、同じ時に井泉水が書き記した膨大な量の日記も拝見させていただいた。その中から、一高時代から大学時代にかけてのものが、『井泉水日記 青春篇』上下 (筑摩書房 二〇〇三年十一、十二月刊) として出版され、井泉水の俳句にかける情熱や友人関係、学生生活を知る上で大変興味深い資料となっている。
 筆者が面白く思った箇所は俳句に関することばかりではない。一高といえば全寮制であると思っていたのだが、井泉水は寮生活をよしとせずに一人暮らしをはじめたところや現代人と変わらない食生活 パン・コーヒー・オムレツ等々−に目を見張った。井泉水の暮らしぶりは優雅で、地方から出て来て仕送りに頼る放哉のような学生ばかりでないことを知った。また、放哉が『俺の記』の中で快活に語っている「ストーム」なる寮の風習 (寮生が酔って徒党を組み、部屋のあちこちを急襲して、布団をはがすなど大暴れするいたずら)を井泉水が嫌でたまらなかったことを知った。そういえば同年の斎藤茂吉(当時守谷姓)も「ストーム」 にじっと耐えていたことを「第一高等学校思出断片」で読んだ記憶があり、それぞれの境遇や性格の相違など思い合わせながら興味深かった。日記は、手帖に書かれたものから大学ノートまで数々あったように思うが、それらは今横浜の神奈川県立近代文学館に寄贈されていると思う。
 この日記について、筑摩の編集者と御一緒の時ではなかったかと思うが、大学ノートに放哉と関連する題名を付けていたものを二冊見せていただき、コピーの許可をいただいて持ち帰ったものが我が家にある。その一つが「放哉を島へ送る時」と題したノートである。放哉の全集を作る際に何とか解読を試み、必要と思われる箇所は使わせていただいたが、全文を読むことは力不足のためできないままになっていた。ずっと気になっていたので今年になってもう一度試みたのであるが、やはり読めない字句が残っている。それは清書さたものではなく、日記であるが備忘録のようでもあって、井泉水自身が後で解ればいいと思っているような略字体で綴られているので、くずし字の苦手な筆者には本当に難しくて悔しい。しかし、日記は大正十四年八月六日から十六日の間のものであり、小浜の常高寺を去って京都に戻ってきていた放哉が小豆島に発つ八月十二日の前後である。井泉水と放哉との交流の詳しいところは是非知っておきたい。筆者は、井泉水と放哉が大正末期に濃密な関係を築いたことによって井泉水が放哉を深く理解することとなり、放哉の無一物生から生まれた俳句が自由律の到達した姿であることに着目し、世に送り出すことに繋がったのだと考えている。そして、放哉の俳句が俳句愛好者の領域を超えて受け入れられたことは、層雲史上重要な意義があると思っている。そこで、読めないところはお許しいただくことにして三度目の挑戦をしたいと思う。尤も、■量的に多く、放哉と直接関係のない箇所もあるため、所々を割愛させていただいた。掲載部分の不明箇所(口) について、井泉水の御著書のどこかにヒントがあるやもしれず、気付かれた折にはご教授願えたら幸いである。尚、より詳しい内容は『放哉研究』 に掲載を予定している。

2 二人の交流

 ここで採り上げる日記には、放哉が井泉水の京都の仮寓「橋畔亭」に転がり込んでから井上一二を頼って小豆島に行く問のことが書かれているのだが、その時点に至る前に井泉水と放哉の二人にどのような交流があったのか。ここでは日記を中心に述べさせていただきたいので、二人の関係を掻い摘んで書かせていただきたいと思う。
 二人の交流は一高時代にまで遡る。一高には井泉水が明治三十四年に、放哉が翌明治三十五年に共に法科に入学している。二人の接点は、井泉水が明治三十六年に再興した一高俳句会に放哉が出席したことにあると思われる。 尤も、幹事であった井泉水にとって放哉は特に印象に残る人物でもなくその頃二人の問に深い付き合いはなかったようである (『随』 昭和四十七年三月号「八十八番日記」(十五)参照)。二人が東京帝国大学の学生になると、井泉水が碧梧桐の新傾向俳句に熱意を示すようになり、虚子系の一高俳句会にあまり出てこなくなる。寧ろ放哉の方が出席率は高く、放哉は虚子選(後に於板東洋城選) の「国民俳壇」 (『国民新開』 の俳句欄)にも盛んに投句していた。
 そんな二人が再び結びつくのは、井泉水の創刊した 『層雲』 に放哉が投句を始める大正四年の秋であったと考えられる。『層雲』 は、東京に新傾向の俳句雑誌がなかった明治末期に碧梧桐の応援を得て創刊した雑誌であったが、放哉が入った時には、碧梧桐一門は 『層雲』 から離れて中塚一碧楼と 『海紅』を創刊していた。放哉が俳句を始めるのは中学時代であるから、句歴は長いけれども、新傾向の流れに馴染んで来なかった放哉にとっては一からの出発であり、以後長く習作欄(初心者欄) 時代が続くのであるが、毎号の掲載状況から推測して放哉はかなり熱心だったと推測される。井泉水が自宅で開く層雲社の句会にも、当時東洋生命保険会社に勤務の忙しい合間を縫って出席している。欠席は仕事の都合によるもので、出たくても出られないのが実情であったのではないかと思う。句会に出て顔を合わせながらの旬評や俳談は親密度を深くするものである。井泉水の自宅で催した句会であったから、放哉は俳人でもあった井泉水の最初の妻桂子とも面識はあった。この時期の二人の関係を簡単に言えば、井泉水は碧梧桐とも訣別し、俳句が真に文学であるための俳句運動を更に推し進めようとする若きリーダーであり、一方の放哉は、保険会社に勤務する会社員であり、井泉水を慕って集まった俳人の一人であったとい、つところではなかろうか。しかし、東洋生命を辞める前後の大正九年頃より投句が途切れがちになる。
 その後、放哉が俄然俳句に打ちこみ出した時は、東洋生命辞職後に就いた朝鮮火災海上保険会社の支配人も一年そこそこにして職を失い、病に倒れ、妻とも別居して京都一燈園に身を寄せ托鉢生活に入っていた。一方の井泉水も関東大震災の雁災はかろうじて免れたものの、第一子の死産、妻桂子の突然の死の上に間を空けずして母の死という家庭の悲しみに打ちのめされていた。この二人の置かれた環境が二人を深く結びつけてゆく。井泉水が出家したいと思うほどに苦しい心を癒すべく、長年住み続けた東京を離れて京都に来たのは、一つは放哉が居たからである。大正十三年四月三日、托鉢先で和尚と懇意になった知恩院の塔頭常称院で寺男をしていた放哉と、身延山にて母の納骨供養を済ませ、東福寺天得院に落ち着くことに決めた井泉水は久万ぶりに会う。二人が一高時代に出会ってから二十数年の月日が経っていた。同じ空気を吸った青春時代があり、また、互いが歩いてきた道程を知っていればこそ、現在の孤独な境遇を深く理解し合える間柄となっていったのであろう。だが、この日の痛飲がもとで放哉は、常称院を追い出され、その後は、須磨寺、小浜常高寺に行くことになる。
 放哉が須磨寺や常高寺で寺男として働いている問、井泉水は実に精力的に活動している。層雲社は東京にあるため、東京と京都の往復が欠かせない上に、孟蘭盆や一周忌法要の度にも上京しているがその他に、五月には小豆島遍路、八月には高野山、翌大正十四年二月から三月にかけて別府に逗留、六月には西国三十三ケ所巡礼等の長旅ばかりではない。京都・伊賀・奈良へと芭蕉の跡をたどり、実作者と研究者の両視点から芭蕉の精神を追求していく。
 大正十四年八月六日から始まる井泉水の日記は、井泉水が七月二十日に京都での住まいを天得院から下京区今熊野剣宮町十六にある橋畔亭と名付けた小さな一軒家に移して十七日目、放哉が常高寺破産のため一燈園に戻ってほぼ一ケ月ほど後にあたる。また、井泉水が八月十人日東京発の、「奥の細道」 の跡を辿る旅に出る直前であった。

3 八月六日

 目記帳の最初は、八月六日に「R」という女性を京都駅で迎えるところから始まっている。(引用した日記文には「」を付した。また、文中の□は判読不能箇所を示している。)
 「Rか来たらば私の此の淋しい生活かいくらか明るくまきらはされる事と考へてゐた、然し、夫は全然反対だつた事がわかつた。Rか来た事によつて私の生活は一層深酷に淋しいものになつた。けふ六時にRが来た時、私は恋人をまちとつたやうな気持でゐた。尤も彼かどんな気持で私の所に飛込んで来たのか夫か彼に会つてみない中は解らなかつたのであるが、とも角、彼は私を愛してゐるが故に、私の許に走つて来たには違ひないと思つてゐた。彼は亀の井はすつかり暇をとつて来たといつた。而して、私さへ好ければこゝへ置いてもらひたい、もつとも「いつぞや話した事」(青年の事)もあるし、其相談をしたく、其人の方がこゝ二三ケ月は独立出来ないから・・・・といふのだ。つまり其人か独立出来たらは其人と一緒になりたいといふのだつた。其青年の事は彼が前から私に打明けていて、私もそれは好からうといつたのだが、彼は次の手紙で、其青年も少し不安な事があるから・・・などとも云ふて来たし、其恋がそれほどに進んてゐるといふ事はいま初めてしつた。けれども其もいゝと思つた、Rはどうせ私と一緒になりきれるものでもないのだから、さういふ落付く先のきまつてゐる事は、二人の間を紛きらさせぬ為めに好からうと思つてゐた、それだけまた共時は二人の臥(私達二人の間)といふ事を私は意識してゐた、青年との間に、彼の新しい恋があるとしても私達の古い恋もやはり其問にあり得ると信してゐたのであつた。」
 このように実はこの日記帳は、この 「R」 (「りう」 の頭文字) と呼ぶ女性への悶々たる思いから始まって、それが解消するところで終わっているので、この女性に関する記述が多い。管見では、この女性について具体的に善かれた著作を見たことがないのだが、彼女の存在を匂わすものは 『層雲』 の俳句の中にあって、井泉水と親しい同人の人達はほぼ知っていたと思われる。筆者も平成十九年に層雲大会が大分の別府で開かれた折に、大会会場となった亀の井ホテルで井泉水が長逗留されたことと親しくなった女中さんがいたことを旧い同人に聞かされたことがある。どうやらその女性のことであるようだ。前掲部分のように、井泉水は、「R」が井泉水を愛するがゆえに飛び込んできたのではないと開かされて一層の淋しさを深めていくのだが、客観的にみれば、女性の言い分はかなり疑わしいように思う。別の男性との結婚の相談をする為に、別府での仕事を辞め、独り身の男性の所へ行くだろうか。しかし、本人にそう言われればそれを受け止める井泉水であった。「R」は離れに寝起きして井泉水の食事の世話等を始める。彼女に関することは必要な箇所で触れることにして、本論では放哉に関係する部分を中心に述べていきたいと思う。      (つづく)

自由律俳句結社「青穂」より転載
海一様を惜しむ
        小山貴子
 八月初旬の海一様の御逝去に驚きながらまだお別れの実感が持てないでいる。七月の初め、海一様からお電話をいただいた時のこと、「御元気ですか。」 とお尋ねすると、「元気ですよ!」といつもの優しくて快活な御声がまだ耳に残っているからである。
 海一様のことは、私が「層雲」 に入った当初から存じ上 げていたのだが、直接お会い することになり海一様の鎌倉の御自宅にお伺いしたのは一九九六年のことだった。父上である井泉水先生が所蔵されていた放哉の旬稿を見せていただけるというので取り敢えず御挨拶に伺ったのだが、沢山あるから連泊の予定で来なさいと二階の部屋を私が自由に使えるように提倹してくださった。お土産を何にしようか悩んだ末にウヰスキーを持参したところ殊の外喜んでくださったこと、広い庭に遊びに来る栗鼠に楽しそうに餌をあげておられたこと、早朝、奥様と三人で御自宅の前の建長寺−井泉水先生をおぶって最後の桜をお見せになったお寺1を散策したことなど二十年の月日を経ても忘れることができない。
 その後、事ある度に私の率直な気持ちをお聞きいただきたいと何度かお訪ねしたけれども、いつも親身になって耳を傾けてくださった。つくづく思うのであるが、海一様の胸にあるのはいつも「父のために」であったと思う。井泉水先生と海一棟、御二人の情愛が如何に深いものであったかは、恥ずかしながら私は最近井泉水先生の随筆に親しむようになってわかったような次第である (それまでは、井泉水先生の俳論・句集に取り組むのが精一杯だった)。小学校に入った頃の海一様の作文や釣りについての文章は微笑ましく、二人旅を綴ったものなどは慈しみの気持ちで溢れているのである。今となってみれば、「父のために」とたゆまぬ努力をなさった海一様にもっとお父様の話を伺っておけばよかったと残念に思っている。
 井泉水先生と海一様とそれぞれの形で私を自由律俳句に導いてくださったことに深く感謝し、御冥福をお祈りしたいと思います。
荻原家墓参
        森 克充
 海一さんが八月一日に亡くなって四ケ月、月命日にあたり東京六本木の妙像寺内にあたる荻原家代々のお墓を訪ねた。元土庄町長夫人塩本弥寿子さんがご一緒で心丈夫である。羽田から浜松町、土地勘が無くタクシーで向う。増上寺前から東京タワーを真横に見てロシア大使館、大都会のビルの合間を縫って妙像寺入口に着く。門扉前で早苗夫人に迎えられ墓所に案内された。右はご先祖の墓碑、左の墓碑が井泉水と寿子夫人、新たに海一と説明を受けた。張りつめた気持ちを清らかに、墓碑に燈明とお線香を手向けて合掌。母の十三回忌、主人海一の四十九日を終えた新しい卒塔婆が神秘的な感じで漂っているようだ。三人は墓参りを済ませて食事は六本木の 「瀬里奈」 へ、海一さんの好んだ処と云い格調が高く感じて気おくれする。立派なお料理が出て飲み物も勧められ、遠慮なくビールのお代りもした。塩本町長が北鎌倉を訪れ、海一さんが料理とお酒を取り寄せ、お互いの友情を確かめ合った昔の思い出話が弾んだ。心地よく逗子に移動、その前に海一さんの妹、斯波不二子さんへ早苗夫人が電話連絡。タクシーで1R新橋駅へ、乗車途中の北鎌倉駅から不二子さんが乗り合わせ、逗子駅に着く。マンションに着いて、不二子さんの旦那さんも病気で亡くしたと聴いた。記念館の落成式典に参列してくれた方であり無念、お慰めするしかすべがなかった。問をおいて、井泉水、寿子夫人、海一さんのお位牌を前に土庄町立「小豆島尾崎放哉記念館」・「放哉」南郷庵友の会から預かったお供え、燈明、お線香でお参りを済ませて辞去をする。 合 掌(克)
追悼抄 作家 村上 護さん
       (友の会会員 平成二十五年六月二十九日 すい臓がんで死去 七十一歳)
 平成五年二月七日、岡山市京橋西詰旭川線地で、住宅顕信「水滴のひとつひとつが笑っている顔だ」 の句碑建立式典につづいて、場所を吉備路文学館に移して、村上護さんの記念講演があった。初対面の私は、坂出の松本久二さんの紹介を得て「小豆島尾崎放哉記念館」構想をうちあけると、メガネの奥のにこやかな表情に、特徴あるなまりまじりの口調に心温かい印象をうけた。放哉評伝作家は記念館の開館から四年を経て「放哉忌」にはじめて東京から参加してくれる。その後、筑摩書房から 『放哉全集』第一巻句集、第二巻書簡集、第三巻短編・随筆・日記、全三巻を編集する村上氏は瓜生銭二氏・小山貴子氏の中心的な存在だった。筑摩書房の担当者野上氏は発行より前の十三日付の手紙で第一巻(平成十三年十一月二十五日発行) の見本が明日出来てくるから森に送るという内容。其後の平成二十年二月一日付けの手紙が届く。本日見本が出来上がったので、筑摩書房山本氏を介して 『尾崎放哉全句集』文庫本を送ってきた。いずれも粋な計らいは村上護さんの差し金で、思いおこせば翌二十一年四月七日「放哉忌」に出席されたとき放哉の貴重な資料は互いに惜しまず情報を交換しあうなど信頼を深めていた。
 昭和十六年、愛媛県大洲市生まれ。桧山市の愛媛大学で学生時代過ごし、その頃から小説家を志望していたが、地元の高校教師になる。「作家としての夢が頭にこびりつき創作の思いから」 三年で退職し、上京した。漂泊の自由律俳人、種田山頭火に関心を深め、山頭火を知る関係者を念入りに取材し、『放浪の俳人山頭火』を発表。穏やかな口調だが酒を好んだ。酒が大好きで無軌道な詩人や俳人の姿を追い続けた作家。『山頭火−境涯と俳句』 ほか、山頭火を研究し、それに関する著作は十数冊に及ぶ。他に 『放哉評伝』『中原中也の詩と生涯』編著 『私の上に降る雪は−わが子中原中也を語る』新聞雑誌の執筆も多かった。山頭火の 「うしろすがたのしぐれてゆくか」が好きだった。平成二十七年十一月二日肺機能を極度に悪化させ亡くなつた小豆島の山頭火こと、井上泰好(享年八十六)氏を訪ね、山頭火が昭和三年と十四年に訪れて、放哉の墓を参ったこと、山頭火が詠んだ旬「その松の木のゆふ風ふきだした」その松の木とは南郷庵の放哉のことを盛んに話し込んでいた。¢ラちゃんガ も物を書くことに関しては卓越していた。一見、温和な二人だが人柄の中に、物書きの魂を燃やして生涯を終えた。
 「平成二十二年にすい臓痛がみつかり七月一日に入院、十二時間を過ぎる手術を経てニケ月の闘病生活に入る。同二十五年六月二十五日再入院、その直後に意識が無くなり五日目に死亡。地方紙も入れて十社の仕事をぎりぎりまで受け、例えば毎日一句を取り上げ解釈した。」
 平成二十八年十二月二日、異色の文学者を追い続けた主をお参りしたく、村上加代夫人に携帯電話で冒頭の関係を話すと訪問を許された。世間知らずの誠に失礼千万な客を京王線笹塚駅まで迎えて頂く。自宅に案内されお線香をたむけて話を伺っている。  『ぼつとりと命にからむ椿かな』 の作家の葬儀は山頭火と縁のある東京・西日暮里の 「本行寺」で行われたと云う。
       合 掌(克)
尾崎放哉記念館設立委員
     高橋廸良さんのこと

 高橋廸良さんが、平成二十七年十一月九日、自宅近くの都立府中医療センターで亡くなられた。とし子夫人「あっという問の一・二週間で急変して、本人が嫌がる救急車を呼んだ。血液検査の結果多発生骨髄腫で血液の痛です。予兆かも…口が苦い、夜でも眩しい、腰が痛い、食べられない、ヘモグロビン五、九貧血、朝が起きられないカーテンを仙閉めてくれ、指までおかしい素麺を落とす、のど越しの良いものを夜中に沢山食べる。血液内科・腎臓内科、立川の専門病院週三回の透析、血小板がいかれている。抗がん剤治療に僕は覚悟が出来た°Cがかりは淵崎の家、最後は気力を無くし、亡くなる四〜五日前に意識なくなった。」と早口で喋られた。
 享年八十五歳の高齢だが私には、なお、その死の早かったことを嘆く気持ちはつよい。
 高橋氏は常に郷里の発展を念じていた。東京読売新聞社主でありプロ野球読売巨人軍オーナーで有名な正力松太郎の下で可愛がられていた塩本淳平氏が、家事都合により勤めを辞めて帰郷し父親のあとを継いで家業と町会議員、町の組長に推されて当選するや否や、同じ早稲田大学の先輩を誇張する。流浪の俳人尾崎放哉終焉の地で「まちおこし」を提唱し、素案を携え役場の企画課を度々訪れていた。やがて、時の竹下内閣はふるさと創生基金として、全国の自治体に対して一律一億円の補助金交付を決定した。島固有の観光資源を発掘し、個性豊かな町づくりを実現したい塩本淳平町長は小粒でも本物志向を主張する高橋氏の熱意を買っていたようである 。やがて、小豆島尾崎放哉記念館が完成した。その後、「早稲田学報」(平成六年十月十五日)に 『俳人放哉に心酔する「稲門」 の面々』 と題して発表している。高橋さんは、春が訪れると東京から一人で淵崎の家に帰ってきた。「放哉」南郷庵友の会が主催する塩本町長肝いりの 「放哉忌」 の常連だった。
  私が記念館づくりに関わったことから、高橋氏の父閑次さんを平成六年一月十五日に取材している。(写真)*省略*
 
「晩年のことですが、井上文八郎(一二)夫妻が私の家にきて言うに、私も歳だから放哉さんの説明案内を今後は貴方にお願いしたいと…私が無理です、と丁重に断ると落胆した様子でお二人が帰る姿を思い出します。」意味深い語り口調だったがそれ以上突っ込んで断った理由を開けなかった。
 彼の父親は学校の先生だった、亡くなつた父を彼は医療検体に…私もそれを気にして見送ったが、その訳を生前に問いておきたかった。「淋しいから手紙をよこせ」という放哉を迫って逝ったか…高橋廼良の記事を紹介(採録)して先輩を偲ぶことに致します。

俳人尾崎放哉に心酔する「稲門」の面々
       高橋廸良(ジャーナリスト)

 管理者会といわれてひさしい。いっぼう「技術」 の追求は果てしなく続き、「物」 いま周辺にあふれている。こういうときこそ「心」や「内面」への回帰が必要なのではなかろうか。
 これは大正末期、管理社会という思想がまだひとかけらもない時代、自分の「生き方」を模索し続けて燃焼した俳人尾崎放哉に魅せられて行動をお一こした物語である。
 俳句には定形 (季語感がともなう) と、形式にとらわれることなく自由な音律で表現を試みる河東碧梧桐、中塚一碧楼、荻原井泉水たちが提唱した新傾向派の自由律がある。
 山頭火は明治三十四年、稲門、文学科に学んだが中途退学に至る。同じく三十五年放哉は一高から東京帝国大学法学部に学ぶ。
 二人についてわれわれは学んだ学風についつい重ね合わせてイメージしてしまう。かたや自由と独立を標模する問連な人物を思い浮かべる。一高時代だが哲学的瞑想を残した藤村操や、最高の、絶対の……になぞらえる権威の象徴をどうしてもオーバーラップしてしまう。
 これは放哉の生き方…官僚、文官タイプではなくむしろ自由破滅型で「都の西北」に符号するかもしれない…に共鳴し、ことを運ぶ話である。  尾崎放哉の秀句のほとんどは「二十四の瞳」 の島、香川県小豆島の土庄町にある小豆島八十人ケ所霊場第五十八香西光寺の奥の院南郷庵 (みなんごあん) で書かれた。しかもそれは大正十四年八月から翌年四月、病死するまで、わずか八ケ月の短い問であった。 放哉ゆかりの南郷庵に近いところにふたりのマスコミ関係者というか、ジャーナリスティックな感覚を持つ人物がいた。
 一人は塩本淳平土庄町長(昭35教社) もう一人はかくいう筆者(昭31美術) である。塩本氏は元読売新聞東京本社計都(経理監査)。家業、回漕店社長を継ぐため、土庄町に帰り町長をつとめている(ちなみに平成三年、皇太子殿下が小豆島を訪れたとき、町長としての先導役、そして家業の轟蓄から殿下に瀬戸内海会場運輸の沿革を説明申し上げたところ、英国留学前に既に中世瀬戸内海海上交通史の論文を発表されていた殿下は非常に興味を示されたという)。筆者も同じく土庄町出身、東京在住、専門学校で講師などをつとめながらジャーナリズムの分野で文筆等に携わっている。
 さて今からさかのぼる昭和六十三年、竹下登内閣時代、政府は政治や経済などが次第次第に中央集権化になることを憂い、多極化、地方分散型の推進を提唱した。国からの資金補助による、ふるさと創生という運動が始まったのである。ふるさと創生のねらいの一つに地域のイメージづくり、つまり文化指向、地域型産業、観光資源などの開発、レベルアップが求められたのである。
 この二人、ひたひたと押し寄せるこれらの 「時代」をとらえようとしたのである。時代感覚、トレンド感覚というものである。期せずして放哉にスポットをあてよう、記念館を創ろうではないかということになつた。
 ここで放哉の生涯を手短に紹介する。明治十人年鳥取生まれ、旧制一高時代井泉水が興した一高俳句会に参加する。この会が自由律俳句誌「層雲」 に発展、投句を始める。東京帝大卒業、東洋生命に入社、学士あがりのサラリーマンとなる。しかし酒癖、同僚問の乳轢、管理社会の束縛感などでいたたまれず退社。その後、心機一転、朝鮮火災海上に支配人で参加するがこれも前職と同じ理由で挫折する。妻とも別居、一燈園で托鉢修行に入るが、これにもなじめず、次に常称院、須磨寺、常高寺などの寺男を転々とする。この従僕時代、期するところあり「層雲」 への投句に力を入れる。しかし大正十四年すべてに行き詰まり、井泉水の計らいと受け入れ側によき援助者があって小豆島に渡る。
 小豆島南郷庵は放哉没後の昭和初期、老朽化し解体されていた。しかし放哉を語るにはこの粗末なたたずまいを無視することはできない。「小サイ庵デヨイ、ソバニ海ガアルト、尤ヨイ」放哉は語っている。この陣屋で独居、歎願、句作三昧の生活に入る。この八ケ月の哀切な日々は吉村昭の小説「海も暮れきる」 (講談社) に克明に、見事に心理 描写されている。
 放哉に関心を持つ人々の共通の願いは彼の書斎であり、全生活の場であった庵の復元であった。
 企てをはじめてから七年、本年四月七日、六十九回忌の日、塩本淳平町長が館長となり、土庄町立小豆島尾崎放哉記念館は開館lにこぎつけた。
 建築竣工に至る過程で、書籍、書簡、その他の資料収集もあわせて進められた。収集や研究のためには放哉研究の第一人者の援助や指導も受けねばならない。二人はその人を瓜生鐡二氏 (昭41国文、昭46文研日) に決めた。枚友に絞るという気持ちは全くなかった。同氏の放哉研究は尊父敏一氏譲りで二代にわたる。
 来島した放哉の住家や経済的援助をしたのは西光寺住職杉本玄々子と醤油醸造会社を経営し、名家であった井上一二 (いのうえいちじ) 氏であった。同氏は井泉水から高い評価を受けていた地方在住の自由律俳人であった。筆者が生前の一二氏に早稲田進学を報告に訪問した際、大正初期、「早稲田の文科」志望だったが母から諌められたことを洩らされた。
 放哉の資料は山頭火と比べると数少ない。各地を行乞し、代償に書籍をふるまうようなことはしなかったし、結核性疾患で亡くなったため遺品を処分してしまったからである。  しかし、所蔵のための資料は予想以上に集まった。生地、鳥取市の関係者、井泉水、一二、玄々子諸子の遺族から作品の寄贈があった。
 こうして作家吉村昭氏のご出席を得て放哉が待ちこがれた、遍路の鈴の音が聞こえるのどかな春の日に記念館はオープンされた。
 各地の記念館、文学館から見るとやや小規模である。しかし庵は見事に忠実に再現されている。さして広くはないが展示スペース四畳分にゆかりの品々がところ狭しと並べられている。来館者も予想をこえて、しかも北海道、首都圏、九州などから熱心なファンが訪れている。年齢層は五十代から七十代が目につく。  放哉を高く評価する知識人、文化人は数多い。代表的な例をあげると……テレビ演出家、和田勉氏。筆者は同氏に放哉への想い入れを伺ったことがある。「生きざまがまさにドラマである。いやドラマ以上だ……」と、ちなみに同氏の書斎棚にはすぐ手の届くところに放哉全集がある。
 永六輔氏も絶賛を惜しまない。かつてテレビ番組「遠くへ行きたい」 で小豆島へ数度訪れているし、放哉、南郷庵についてエッセイをしたためている。考えてみると放哉の生と死は「大往生」 の良い例かも知れない。
 辺見じゅんさんも短編の中で小豆島八十人ケ所の霊場の遍路の想い出を記している。父角川源義の供養のため札所を巡った。その父は放哉を詠んでいる。当時の南郷庵跡でご尊父の面影を見たのではないだろうか。

   終わりに放哉句を三句

 入れものが無い両手で受ける

 咳をしてもー人

  春の山のうしろから掴(けむり)が出だした


  (平成六年十月十五日、早稲田学報より転載)

 高橋廼良さんは図書館へ必ず立ち寄った。私を見つけて、あのなあー、佐伯孝夫 (M35−S56) という作詞家がいた、大衆歌謡「勘太郎月夜唄」「銀座カンカン娘」「潮来笠」「いつでも夢を」など有名なヒット曲の数々がある。
 江戸っ子と思っていた孝夫のルーツを辿れば、父伸蔵は小豆島から上京して逓信省職員になった人やった。その人の子が孝夫で戦前から歌謡界で売れっ子!それにあやかって「島おこし」を考案できんか。
 歌舞伎「小豆鴫」(榎本虎彦作)の台本を土庄町図書館で入手した。画期的やで、大正二年(1913) 四月東京市京橋木挽町なる歌舞伎座で公演していた。再演化に向けて島民こぞって運動を開始 ! 
平成二十六年「東京小豆島会百十周年記念明治神宮奉納歌舞伎」復活上演にこぎつけている。とかくふる里のことが気になつてしょうがないこの人との思い出はとどめなく、語りつくせません、突然現れ忽然と消え去った。
       合 掌 (森 克允)

■高橋廼良氏の主な経歴
 ●昭和二十八年/小豆島高校卒
  ●昭和三十一年/早稲田大学文学部卒
  ●同    年/日本コロムビアレコード入社
  ●昭和三十七年/博報堂入社
  ●昭和四十三年/CBS・ソニーレコード入社
  ●以後、情報、企画、発想、などの単行本著述、文芸春 秋など総合誌、情報誌などに寄稿。  テレビ番組構成、  東京デザイナー学院、東京イベント学院等各種専門学 校講師。
  ●昭和五十九年頃放哉が晩年を過ごした香川県・小豆島 の土庄町に記念館をつくることを    思い立つ。小豆島尾  崎放哉記念館設立委員として、同町の商工観光課や「放哉」南     郷庵友の会のメンバーとともに記念館設立に取 り組み、平成六年最後の八ケ月を過ごし    た南郷庵 (み なんごあん) を復元し尾崎放哉記念館を開館。日本音  楽著作権協会
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