会報31号 
放哉忌ご案内のお詫び

 拝啓 早春の侯、「放哉」南郷庵友の会員の皆様にはご機嫌よくお過ごしのこととお喜び申しげます。
 早速ですが、実に身にちぢむ思いがいたしますが、令和三年四月七日鰍フ第96回放哉忌につきましては、香川県土庄町新型コロナウイルス感染症対策本部と相談しました結果、「感染拡大防止」 のため、人的規模を縮小して行うこととなりました。
 従来から御臨席を賜っている全国各地の皆様には誠に申し訳ございませんが、自粛と云うか心を鬼にしてご遠慮をいただくこととなりました。
 どうか事情をご理解の上、ご了承いただきたくお願い申し上げます。
 末筆になりますが、皆様方の益々のご健康を心からお祈り申し上げます。
            敬具  令和三年三月一日
  「放哉」南郷庵友の会
       会長 岡田好平
令和3年 放哉忌ご案内

とき 令和3年4月7日(火)
   午前10時30分〜午後2時30分
内容・午前10時30分 法要−西光寺本堂 導師−第29代住職 瀬尾光昌師
   ・午前11時〜 墓参と記念館見学(放哉墓碑・記念館)
   ・午前11時30分〜昼食・情報交歓(西光寺客殿「遍照殿」)
講演・午後12時30分 司会余暇生活開発土 星川叔子先生
朗読劇・「同窓放哉を語る」(再現)
    とき 昭和14年11月17日
          場所 上野不忍池畔(雨月荘)
    出演者
        田邁 隆二…宮原 正行
        難波誠四郎…森  克允
        吉村 哲三…上田 行雄
        荻原井泉水…三枝 祥三
        木下  信…藤本義則
        反町 純一‥川田省三
        神山 政良…山本養三
        藤田 幸吉…川田省三
        山本 倍三・木香敬吾
        青木 嗣夫…川田省三
        鈴木信太郎…岡田好平
        近藤 有曾…瀬尾光昌
        ナレーション…星川叔子

放哉ジュニア賞表彰・午後2時 下地芳文教育長
           講評・三枝断水先生(三枝祥三)

終了・午後2時30分予定
   木瓜の蕾の会年間作品集
南郷庵(現・小豆島尾崎放哉記念館)から誕生した『木瓜の蕾 の会』は、今年で5年目を迎えます。 隔月での通信句会ですが、年に一度は放哉忌前夜に集合して句会を開催しています。
手探りの状態からのスタートでしたが、少しずつそれぞれの個性が作品に現れるようになりました。物事に対す捉え方、感じ方など、お互いの作品が刺激となっています。
※新メンバ募集中!!‥年齢は問いませんが女性限定です。

すずなりのピラカン華の準で陰口         貴子
お盆に25歳の友の声を聞いた           知子
コロコロコロと下り坂で一年             舞子
しっとり元気のない紙をビシッと折る        麻代
生ぬるい風に乗って噂話               美樹
涼風に背中押され夜長の散歩道 だんごまで  洋子
地鳴りのような蝉の声 暑さ増す          桂子
海開きした広い海にそっと漂う            玲子
放哉さん苦笑い
「放哉」南郷庵友の会 森 克允
−記念事業に「朗読劇」を献上−
 尾崎放哉の「南郷庵」入庵は、大正十四年八月二十日である。その十三日後、京都の荻原井泉水に宛てた一部を引用する。
 「実ハ小生此ノ三年間、流転 ノ旅ニ、スッカリ、ツカレ マシテ、ソレデ、安定ノ地 ヲユタイ、…(台湾二行ク 考モ、モトハ、玄カラ出タ ノデスガ) 身心共二疲労シ タノデス…処ガ、ハカラズ、 当地デ妙ナ因縁カラ、ジツ トシテ死ナレソヲナ処ヲ得 大二喜ンダ次第デアリマス、 『之デ、モウ、外二動カイデ モ死ナレル』 (略)」  安住の地「南郷庵」 を得て・句作三昧に歓喜する放哉、風邪をこじらせ翌年四月七日に死亡…。経った二百三十一日のことである。
 彼が世を去って忌年では95回忌となる節目、併せて「小豆島の放哉」を顕彰する「放哉」南郷庵友の会発行の会報同州山創刊から30号に達した記念に朗読劇を企画。題材は昭和十四年七月二十九日小豆島淵崎村の涛洋荘で開かれた座談会「涛洋荘放談」を再現した。  素人口演を聴く人・演じた人も好演だったと自画自賛、会員から台本を求められたりもした。
 そこで懲りない面々、・第96回忌に継続、昭和十四年十一月十七日、東京上野不忍池畔、雨月荘で開かれた、「同窓会を語る」を台本に会員有志が演じ、、放哉に献上しようと決めた。が、地下の放哉は苦笑いすることだろうな! 「同窓会を語る」読んで、構成も内容も素晴らしい。少年〜学生時代の彼は、うそ偽りのない真正直な人間。それ故に世間から離れ 『放浪の俳人』 の道を選んだと解釈したい。
   同窓会を語る

       時−昭和十四年十一月十七日
       處−上野不忍池畔、雨月荘
       出席者
発声順 −
       *役 者 名
京都電燈会社副社長
       田邉 隆二  *宮原 正行
太陽生命保険会社常務取締役
       難波誠四郎   *森  克允
大阪商船会社吉村英吉氏令弟
       吉村 哲三   *上田 行雄
自由律俳句誌「層雲」主宰
       荻原井泉水   *三枝 祥三
前台湾総務長官
       木下  信   *藤本 義則
ライヂングサン石油曾社
       反町 純一   *川田 省三
日本通運株式曾赦取締役
       神山 政    *山本 養三
帝国生命保険会社
       藤田 幸吉   *川田 省三
日清紡績会社取締役
       山本 倍三   *木香 敬吾
華中印書局顧問
       青木 嗣夫   *川田 省三
前京都府知事
       鈴木信太郎   *岡田 好平
日本勧業銀行監査役
       近藤 有曾   *瀬尾 光昌
筆記 伊東俊二
司会者 余暇生活開発士  星川淑子

【田邉】……尾崎君(放哉) の中学時代のことは吉村君の兄さんが尾崎君の友人だつたのだし、吉村君がよく知つてゐるでせう。
【難波】中学は、何處だつたのですか。
【吉村】鳥取の第一中学でした。
【荻原】その頃は学校はよく出来ましたか、それとも、怠け者でしたか。
【吉村】 いや、眞面目な模範中学生でした。なかなか紅顔の美少年でね……。私、兄弟三人居て、同時に中学校に通つてゐたのでしたが、私が一年の時尾崎さんが三年だつたので す。私の兄とは親しくしてゐたので常に往来してゐたのでしたが……学校は非常に優秀 だつたですね。その頃から文学の方面も大さう好きだつたやうでした。  その時分、同窓の先輩の阪本四方太さんが中央で鳴らしてゐた頃で、卯の花曾といふの をこしらへてやつてゐました。尾崎さんも盛にやつてゐました。私より上級だつたので詳しいことは知らないのですが……。
【荻原】鳥取の句会では、尾崎君の俳号は何と云つてゐましたか
【吉村】はじめは梅史と云つてゐました。中仙学校の三四年からださうです。句を作るのが早くて、樺山作つたさうです。それから芳水と境を代へたといふことです。とにかく、句を作つてもですが、学校の方は大へん、好く出来たので、郷里では模範的な青年だと云 はれてゐたものでした……。
【木下】一高に来てからも、何庭か天才的の天棄があるといふ風だったね。
【反町】尾崎は機械健操がうまかったね。
【木下】 テニスも一種の風格あるテニスをやつてゐた。
【神山】試験勉強の仕方なぞは早いものだった。
【荻原】一高の時の寮はどこだったかしら。 【田邊】 東寮の十六番にゐたが……藤田がたしか一緒だつたと思ふが……。
【藤田】僕は一緒ぢやなかつた。
【田邊】 二年の時は中寮三番かそこらだ。……大塚、十河が二年の時に一緒だつたね。
【神山】三年の時は僕等と一緒だつたよ。
【田邊】「ランタンの記」は二年の時だつたね。あれ書いた後で、尾崎の奴、心配してゐた よ、瀧田が大変怒つてゐて、いつか捕へたらなぐるつて云つてるさうだつてね。なアに瀧田はそんなに怒つてやしないよ、大丈夫だよツて僕が云つても、いやかぐかれるかもしれんと云つて、かどくしてゐた。(笑)
【荻原】「ランタンの記」は「芳哉」といふ号だつたかしら。 【山本】雅号についての僕の記憶は……はじめは、さつきも話された通り、梅史と云つてゐたのだ。何故梅史ツてつけたのかと訊くと、放哉の云ふのに、国にゐる時に、号をつけようと思って、何の本だったか本をパラパラめくった。すると梅の字が目についた。次にめくつたら史の字が出た。それで梅史とつけたのださうだ。
【吉村】放哉とつけたのはずつと後の事ですね。大学時代ですか。その直ぐ前にかんばしいと云ふ字、芳哉と云つてゐましたね。
【山本】さうだつた。芳ばしい哉(かな)尾崎ツて呼んだものだつた。高等学校時代だ。すると自分では、「芳ばしい哉、義士の誉」などと云つてゐたこともある。
【田邊】尾崎にね「いい人」があつたのだ。名前を芳子と云つた。それに因んでの「芳哉」 なのだ。その人の事は高等学枚時代だから、芳しい哉となつたのは高等地学校時代に違ひない。ところが、芳しいが放つになつた。にはね理由があるのだ。その芳子と嫁が切れた、それで放つにした……なかくロマンチックさ……。
【荻原】芳子を放つたわけだね。
【田邊】その人……云ふのは悪いが……云つちまはうか、本当は芳子ぢやない芳江と云ふのだつた。
【荻原】
いま達者なのか。 【田邊】生きてるよ、放哉の親類にあたる人だ。
【吉村】従妹ではありませんか。
【荻原】従妹か何かで、美しい人があつて、それで亡くなつて、放哉が大欒悲しんでゐた……そんな事を聞いたことがあつたが、それではないか。
【田邊】 いや、それは姪の話だらう。芳江さんは現に生きてゐるのだ。放哉より二つ三つ年が下で、当時女子大学生で、余程しっかりした人だつた。お互いに好きだつたのだが、 芳江といふ人の兄さんが医者で、その立場から血族結婚は絶対に不可ないと云つて強硬 に反対するので、当人達もその事はよく解つてはゐながら思ひ切れないと云つた風だつたが、とうとう手を切つた
【難波】それから尾崎は変つたね。
【田邊】それから後の事は木下が詳しいのだが…その時、放哉が話を進めに江の島まで行つたんだぜ、君。あすこの岩本楼へ行つたと云ふ。しかし二人共理性の発達した確り者だ から域は越えなかつたらう。その道行からお互いに諦めて叶いがついたのだね。 そんな間でもあゝ云うふ男だからのぼせてはゐない、悪く云ふと高踏主義といふか……とにかく余裕があつたね。で、我々はそんなに尾崎は悲観してはゐなかつたのだ、と思つてはゐたが、然しあの事以来、尾崎の性格が変つたことを考へると、顔には出さなかつたけれども、心の内では大きなショックを受けたに違ひないとも思はれる。
【荻原】それは、大学一年の時だね。
【難波】さうだ……明治三十九年だナ。
【主沖透、尾崎はあれでなかなかまじめで深酷な性格を持つてゐた。
【山本】感情を顔には出さないけれども、思ひつめると云ふたちの男だつた。
【田邊】僕はその時、尾崎と一緒にゐた。僕たち、二村、難波、尾崎と四人で鐡耕塾といふのをこしらへて自炊生活をやつたのだ。
【荻原】鐡耕塾ツて随分いかめしい名だが……どういふ所から付けたのかね。
【田邊】うん、とにかく始めは眞面目だつたのだからね。孟子か何かその文句がある、それから付けたのだが……今でもあの名はいいと思ふね。
【近藤】尾崎と一番の遊び友達は誰だつたね。
【神山】木下だらう。
【田邊】神山だらう。
【木下】いや近藤だらう。
【田邊 鐡耕塾をこしらへたといふのも、其の動機は也県面目なものだつたのさ。何しろ、我々はお互に貧乏なので何でも安上りにしようといふので本郷の江知勝(牛肉料理) が持つてゐた家なのだが其を借りた。その家といふのは、六畳二間に三重三間で家賃が七円だつた。 場所は千駄木林町、三十九番地で、大観音の奥のところだ。そこで自炊する。 真面目に一卜月はやつた。ところが塾の隣では木下だとか反町だとかがいゝ気なもので悠々とやつてる。 我々はさういふ事してる。いささか感慨があつたものだね(笑)自炊してるのだから誰かが飯を炊かなくちやならない。連中の中では水加減は僕が一番うまかつたので僕が水加減をやる。 尾崎は火を焚くことが上手だつた。大名焚と云つて、二本の薪を重ねて燃すのさ。焔がまつ直ぐ上がつて釜にバツとあたつてひろがるやうに実に上手に燃す。 さうして飯を炊きながら竃の前で背を丸くして、俳句を作るのだツて考へ込んでゐた。その時から彼奴(あいつ)、そんな所があつたのだね……。そのうちにだんく寒くなる。 飯炊きするのにもお互ひ飽きて嫌になる。女中を雇はうと云ふことになつて、その江知勝 から女中を頼んできた。そこで木下なんかが活躍したんだよ……(笑)面白かつたねエ。 あの頃は……。
【山本】俳句も盛にやつたね、やどかり曾といふのをこしらへたこともある。今でも忘れられない、尾崎の句に「どん栗をのんでや君のもだしぬる」といふ句がある。 どん栗を食 べると唖(おし)になるといふ事があるのだが、これは尾崎らしい特徴のある句だと思つたよ……。
【吉村】鳥取の方ではどん栗を食ふとドモリになると云ひますよ。
【荻原】一高俳句合にも好く出てきたが、俳句は好きだつたね。だが、其当時、学課の方はどうだつた。
【田邊】勉強はその昔時はあまりやらなんだね。勉強したのはそれ迄だよ。
【荻原】運動の方はどうだつた。
【田邊】一高時代にはそこにある歯荷也県の通りポートなんかやつて居たが、大出学へ入つてからはテニス位のものだつた。銭耕塾で自炊してゐる時はさんざテニスをやつて帰るともう真っ暗になつてしまふ。それから飯を炊かなくちやならない。 これには参つた。それで女中を雇ふことになつたのだ。……塾の家‥賃を持つて行くのにね、一人行けばいゝのに四人連れで行く、さうして上がりこんで牛(ぎゆう)で一杯やる。かなり家賃は高くついたものだ。(笑)
【難波】 四人の中では、田邊が一番ブルジョアだつたなあ。
【田邊】そんなことはない。月に十五円しか迭つてもらはなかつた。
【大塚】誰でもだぜ。その頃は皆さ。
【田達】それで鐡耕塾の家賃も彿はねばならんし、女中の給金もだらう。なかなかだつたよ。
【鈴木】……と云つて、四人でだからね。(笑)
【田邊】家賃を持つて行くと、行つたついでに呑まなくちやならんしね、江知勝の女中に取りに来いと云つてね……取りに来させて大騒ぎさ。(笑)
【荻原】それで、べっぴんとの話は、どうだつたい
【田邊】それは……(笑)何もなかつたさ。
【鈴木】鳥又へはよく行つたものだね。あの頃は我々、非常に貧しかつたとは云ひ僚、よく酒呑みには行つたものだね。特殊な経済観念だつたのだね、(笑)
【田邊】 鐡耕塾で思ひ出すことは、尾崎が火を焚くことが上手だつたこと、それから彼奴、声が良かつた。その頃流行つた詩吟や琵琶をやる。常にはあまり意気なものはやらなかつた。 ところが、朝、床の中で機嫌がいゝと二上り新内をやつた。寝腹ばつて、布団を すつぼり頭に被つてね。 一寸顔を、かう、上げてね……それが節廻しがうまいのだ。実にいゝ聾……惚れぼれする、僕達も布団被つて黙つて聴いてゐて−おい、もう一度やれよつて云ふと、もうやらない。
【青木】尾崎は実際いゝ声だつたね。
【田邊】いゝ声だつた。詩を吟じるにしても、抑揚は殊更つけないやうな、素朴な、直線的な吟じ方をやつた。実際うまかつた……器用さを嫌つたその尾崎が、飯炊きだけは器用に甘んじて、何時も大名焚きを自慢しながら句作に耽つてゐた……日に見えるね、あの 形は……。
【青木】詩吟する時は羽織を頭から被つてね……
【神山】柱に凭れて。.
【田邊】飯を食ふ時もあれ、(羽織を頭から被る身振り)だつた……。(笑) 【荻原】あれは、一体、句を作る習慣だつたのだ。もつとも、其起りは、寄宿舎の自習室で、誰かボソボソ談をしたりするのがうるさいので、羽織を被つて耳を塞いで勉強するといふところから起こつたものだらうが、一高俳句曾なぞでは、みんな、みれで句を考へたものだ。 根岸の句会なぞへ行くと一高の学生だけが、羽織を被つて句を考へる、それが普時の句会の一つの典型で一高から誰も出席してゐない時は、その風景が無くて何かさびしいやうな気がする、なんかと云はれたものだ。
【鈴木】鐡耕塾の者等、あの時分は洋服を着て朴歯の一本歯の 高い下駄を穿いてのし歩いていたね。
【難波】いや、和服だつたのだ。洋服を持つていたのは田邊君一人だつたらう。
【難波】一本歯を穿いていたのは二村だつたらう。彼奴は随分変つていたからね。
【山本】尾崎もさうだつたが、鳥取から来た人は背黒い袴をはいてゐたね。あれはあちらの制服なのかね。
【吉村】さうです。僕等の方の学校の制服だつたのです。地方 ではまだ洋服なんか着なかつたから皆あれでしたね。土佐の方でもさうだつたので、僕等東京であゝしてるとあなたの御郷里は土佐ですかツて、よく聞かれた……。
【田邊】とにかく、僕は尾崎が好きだつた。まあ云はば惚れたわけだね。放哉はさういふ男だつた。いぶしをかけたやうな感じの男だつた。それが誰にでも惚れられると云つた やうな男だつた。感情をづけくと現はさない。聾は良くてもなかく歌はない。表立つたり目立つた事はしない。そんな男だつた。
【近藤】男前もいいしね。可愛い奴だつた。
【吉村】少年時代も美少年でしたよ。お父さんもだつた……お父さんの顔は晩年の尾崎さんの顔そつそりだつた。
【荻原】大学時代に性格の変換があつたのだね。
【田邊】それがあの失懸の結果なのだよ。あとから考へると、あの繚愛は尾崎にとつて、なかなか深刻だったのだね。
【吉村】尾崎さんの家は酒呑み筋なのですよ。尾崎さんのお父 さんも飲んだし、姉さんの婿
 さんといふ人も酒が好きだつた。これももう亡くなりましたが……。 【田邊】学生時代にも、尾崎は親のことは談しはしなかつたが、姉のことはよく云つてゐたね。姉さんが姉さんがツてよく云つてゐた。(未完) 【反町】あの頃、伊東へよく行つたね。
【神山】さうく、僕も一緒に伊東へ行つた。山田屋……ね。
【田邊】伊東温泉か。卒業の前 思ひ出してもあんな愉快なことはい。
【木下】尾崎と葉山へ行つたこともある。昼は飲む、夜は日蔭の茶屋なんかで……又飲む。勉強といつたら「憲法」三枚位読んだかな……。 【神山】勉強なんかちツともせずさ。(笑)よく卒業できたものだね、皆、あれで……飲んで、騒いで、さうして毎日はがきを二十枚位は書くのだ。
【田邊】さうさう僕もそのはがきをよく貰つた。あきれるやうな文句のをね。
【鈴木】警察へ引張られるやうなことを書くのだ、木下君フンスヰの円などね (笑) はがき二枚続きのを……一枚一枚に離して見ると何だか解らないのを書く……よく没収にならなかつたものだ。−笑
【木下】.試験の時にね、勉強に疲れたからツて散歩に出てね、飲んでね、僕は途中で御免を蒙つたが、とうくその晩呑み明したさうだ。それから朝ンなつて、教室へ出て答案書きながら水を呑むんだ。酔ひ醒めの水さ。小使いを何度も呼んでね、土瓶に水を入れて来させる。(笑) 【近藤】試験の時、教室へ枕時計を持つて行つたと云ふぢやないか。
【神山】目覚し時計をね。大きなのを……ふところへ入れてよく歩いてゐた。(笑)
【木下】試験前になると講談本を買つてくる。気分を落付ける為に読むんだと云つて、机の傍に澤山積んでゐた。尾崎が講談本を読みはじめると試験がはじまるのだつた。
【荻原】講談本は晩年小豆島でもよく読んでゐたのだね。肩の凝らない物を迭つてくれツてよく僕の所へ云つてくるので迭つてやつたものだつた。 文学的なものではないが、例の 野間清治の講談倶楽部とかキングとかをね。すると『こんな風の吹く日は講談クラブで も謹んでゐるとなかく面白くて気が落付きます』といふやうな手紙を寄越したりした。
    【鈴木】講談を謹むことは随分早かつた。それを自分では買わない。骨、貸本屋から借りてくるのだ。講談を讃むと頭がまとまると云つて、これ位(手を二尺程ひろげ)積んであるのを、片ツ端から読んでゐた。素晴らしいスピードで読んでゐた。それから錫を噛んでは勉強してゐたね。 【山本】尾崎は、あれで注意深い一面があつた。僕が東京へ出たての時、尾崎と本郷を散歩してゐたのだ。電車通りへ来て、横切らろとした時、尾崎が僕の袖を引張るのだ。向う から電車が来るのだね。電車が行つてしまふ迄離さない。なかく細いところがあつた。それから森川町の尾崎の下宿へ遊びに行つたのだ。僕が坐ると、奴さん、机の抽斗を片ツ方抜いて、獣つて僕の前へ出すのだ。その中に南京豆が−紙が敷いて入れてあつたかどうかそれは忘れたが-南京豆が入れてある。これを食べろツて云ふつもりなのだらう。僕が皮を剥いて食べようとすると、今度はもう一つの抽斗を抜いて出す。皮を入れろと云ふんだ。(笑) 【鈴木】南京豆と、それから錫のかちくが好きで、よく噛んでんでゐたね。
【木下】尾崎は按摩が好きだつた。そして按摩の上手下手をよく云つた。按摩を呼んで撮ませるのに、按摩か最初触つたら、その解触り工合でその按摩が上手だか下手だか解ると云つてゐた。 廣く厚くこたへるのが上手な按摩だと云つてゐた。
【近藤】いろいろな按摩が好きで、よく揉ませてゐたね。
【山本】大学の三年頃だつたかなア。森川町の教曾がある所、あそこを下りて大成館といふ下宿屋があつて僕が其庭にゐた。 追分俳句曾を作つたのも其時分だつた。で、尾崎はよく僕の所へよく遊びに来たものだ。ふくれたやうな着物を着てね……。
僕がその頃ねつきが悪いので、葡萄酒を常用して睡ることにしてゐたのだ。だから、学生の分際としては贅沢だが、葡萄酒だけは上等を持つてゐたのだ。それを奴が知つてゐてね。
目掛けてやつてくる。僕ン所へ来ると無言で、目でうながすのさ。承知してゐるから僕も黙つて出してやると、チビリちびり呑。澤山も呑まない。いかにもうまさうにして嘗めてゐた。
【木下】大学の終り頃だつたらう。根津権現のうしろの萩屋といふ家に尾崎と鈴木と僕と三人でゐた。其頃は酒量は随分上つてゐた。僕等もよく呑んだが、萩屋の婆さんが呆れた事がある。銚子ぢやない、フラスコで飲むのだ。 肴は海苔なんかきりで……二本、三本あける。その内に鈴木が音をあげて寝てしまつた。それから僕と尾崎と二人で呑む。とうとう七本呑んぢまつた。萩屋の婆さんが、もうおよしなさいよと云つたよ。(笑)
【近藤】貧乏徳利七本ツて七升の事かい。
【木下】さうさ、二人でね、晩の六時頃から十二時頃迄に唄ふでもなし、ぐびりくさ、し かしそれだけ呑んでもそんなに酔はなかつたね。
【近藤】又、酔つてからも飲めたものだね。尾崎は酒のみに行つても歌はうたはなかつたやつだな。
【神山】尾崎は酒をかぃかかといふ風でいかにもうまさうにチビリチビリと、それでつま でも飲んでゐたものだ。
【木下】尾崎は酒を飲む前に、先づおみこしを据ゑてかかつたものだ。
【神山】白山の上の何とかいふ所でもよく飲んだものだつた。
【木下】西海亭だらう。
【近藤】尾崎の事を談すと我々旧悪まで出てくるので、うつかり談せない…。(笑)
【荻原】馨さんとの結婚は、何時 頃だつたか……。
【難波】それは、知らぬ間にやつてゐた。僕と交際が一年程絶えてゐた頃の事だつたらしい。
【近藤】勿論、大学を出てからだらう。
【田邊】さうだねエ、尾崎が結婚したのは卒業してから三年位経つてからだらう。僕が結婚したのが明治四十五年の三月だつたが、どうした都合だつたか尾崎には知らさなかっ た。さうしたら後で酔ツぱらつて来てね。 貴様は怪しからん、僕がモーニングを持つてゐないものだから俺の所へ云つてこなかってんだろうやるんだ。あの頃からもうひがんでゐたのかな。とにかく、その時はまだ独身だった。
【荻原】馨んとのロマンスは。
【難波】馨んの御母さんが女学生を沢山預っていたは正当な結婚だったろう。
【荻原】馨さんはクリスチャンではなかつたのか。
【難波】さうではなかつた。しかし、馨さんはいゝ人だつた。
【荻原】ビュウリタンで悩まされてゐたと云ふ話あるが。
【難波】それはね、婦人病で大手術をして、卵巣をとつてしまつたのださうだ。俺には子はもうないのだ。何しろ妻君が半分女ぢやないのだからツて云つてたことはあつた。だが、尾崎は馨さんを愛がつてゐたね。馨さん随分尾崎の為に苦労した女だった。
【田邊】尾崎が通信社に勤めてゐた事がある。
【荻原】通信社?何時の事かい? 東洋生命を辞めてからか。
【難波】保険会社入る前だ。大学を出て直ぐに……。
【近藤】通信社ツて、田舎の新聞社のか。
【山本】いや、東京の一流の通信社だつた。その時分、僕ン所へ来て通信社もつらいいよツてよくこぼしていつたものだつた。桂内閣時代だつたがね。桂首相が予算の説明を為るのに「悄然として語る」と尾崎の奴が書いたら、首相が説明するのに梢然として語るものかツて、大変叱られたといふ。それから役所へ記事を取りに行く、ところが役所の古顔の奴なんか勿髄ぶつて新参馳出の尾崎なんかにはなかなか逢つてくれない、いゝ種を貰へ ない、役所ツて嫌な庭だつてこぼしてゐた。それからも一つこぼしてゐた事があつた。尾崎の事だから土曜日といふ事を忘れて昼から役所へ行くんだね。ひつそりしてるんで訊ねる。すると、今日は何だと思ふのか。土曜日は半ドンなのを知らないのか、と門衛に叱られる。役所ツて嫌な所だ、門衛迄威張つてゐる、通信社もつらいよツて,〕ぼしてゐた。
【近藤】それから保険に這入つたのだね。
【荻原】保険会社では矢野恒太に認められてゐたと云ふぢやないか。
【難波】あゝ……それは矢野さんではない。清水文之輔といふ、僕の社の専務をしてゐた人のことだらう。
【近藤】尾崎が大阪にゐたことがあつたね。
【田邊】尾崎は大阪に二年居たのだが、その大阪時代に宗右衛門町へよく遊びに行つたものだつた。大西屋といふ家へね。
【青木】彼處はどういふ理由で僕等の連中がよく行つたものだう。
【田邊】それはね、学校を出て大阪の金持ちへ養子に行つた上杉が彼處へよく行つたのさ。或る時の同窓合を上杉が幹事であそこでやつた。それからだ、彼處が根城になつたのは。
【田邊】其處におかずて女中が居てね。今は女将になつてゐるがその時分僕によく尾崎の事を談したものだつたよ。見てゐて御覧なさい。尾崎さんは今に屹度出世なさいますよ、と云ふのだ。あゝいふ所の人は、一種変つた見方をするのだね。ところが尾崎がどうしてゐるかと云ふと、盛な飲みツ振りでね、骨が悲鳴あげる位やつてゐる。それで僕がおかずにきいたのだ。何故尾崎だけが出世するといふ事が解るのかッて。するとねおかずの談は 尾崎の奴、その家に勘定を大分溜めてゐるのだね。ところが払へない。さうして毎月五円づゝ迭つてくる、欠かさず、吃度迭つてくる。その五円に、長いく手紙がつけてある。これですツておかずが出して見せてくれたがね。これ位の(両手を三尺ばかりひろげ)巻紙さ。その長い巻紙の真中に、おかず殿何々とちょつぴり書いてある。それを見せてね、この人は他の人と違ひます、吃度成功する人ですよツて、おかずがよく言つてゐた。おかずも、尾崎の酒なは困つてゐたが何かと云ふとその手紙を出して見せて、さう云つてゐた (笑)
【鈴木】尾崎もそこは考へて、書いたのかも知れないね。(笑)
【田邊】ところが、尾崎は、あゝなつてしまつたが、おかずは出世した。今は、宗右衛門町でも富田屋、大和屋と並ぶ大所の堂々たるお茶屋の女将だ。それがいゝ気前の女でね。 大阪では珍らしい太ツ腹の女なのだ……。
【荻原】東洋生命を静めた眞相と云ふのは……。
【難波】特別の理由はない。生命保険などといふ仕事が自分の性に合はぬと見限りをつけて 故郷へ帰つてしまつたのだ。 実にアツサリしたものだつた。その時慰労金を貰つた。 貰つたのを半分以上もまたたく間に呑んでしまつた……。
【荻原】半分も一遍に呑んだといふと、慰労金もさう沢山でなかつたのだらうね。
【難波】それから朝鮮に火災保険会社をこしらへるのに支配人を求めてゐるのだが、適当な人がない、誰かいないかと僕が頼まれたので、尾崎はどうだらう、今遊んでゐるが、 と云ふと、それぢや尾崎に云つてみてくれと云ふ事になつて、鳥取に帰つて間もない尾崎に手紙を出してみた。すると尾崎もやると云ふ。その時、僕は不安でもあつたのだが……何しろ尾崎も生命保険の方は自分の畑だが、火災保険には経験がないのだからねえ。だが、尾崎がやると云ふのだから、まあ何とかなるだらう位の考で推薦することにした。行く時に、酒は絶対に不可ないぞと僕が云ふ。絶対に呑まないツて尾崎も約束する。さうして行つたのだつたが。 【荻原】それで、朝鮮では仕事は順調だつたのかね。
【難波】まあ、順調で業蹟はあがつたのだ。が、何しろ慣れない仕事だつたからね。いろいろ事情があつて……後には自分でも嫌気がさしたらしい。
【荻原】下にゐるものに裏切られたとか云ふことだが……。
【難波】火災保険には自分が詳しくないからその方に詳しい者を部下に連れて行つたのだね。ところが、それがだんだん羽振りをきかせるやうになつて、さうして裏切られたやうな事になつたのだ。それに例の酒の為に会社の評判も次第に悪くなつたのだ。かうなると尾崎はああいふ人間だからね。辞めようと思つたら途端に辞めて居なくなつちまつた。その頃、尾崎が僕の所へ、退職に就いての手頼きなどの事で、会社に話してくれなどと云つて来たが……、僕は知らん顔して返事もしなかつた。それと云ふのがね、はじめ、酒を絶対に呑まない約束をしておきながら、何時の問にか持病が出て、後には無茶苦茶に飲みだして、謂はゞ推薦者たる僕の顔を潰したわけだ。そっちがそっちならコッチも此方だと云ふ僕の腹だつたからね。併し、其の時の僕の 態度については、今でも後悔してゐる。もう少し温かい態度をとつてやつたら、尾崎もあゝはならなかつただらうと、心中非常に済まないと思つて居る。それから……尾崎の放浪が始まつたのだ。
【荻原】満州へは仕事で行つたのではなかつたのか。
【難波】それから僕、音信不通なのでね。それからの事はよく知らないのだ。
【近藤】尾崎の酒では誰も悩まさ れたね。
【難波】朝鮮時代は一番丸山(鶴吉) が憾まされた。丸山が僕に云つたことがあつた。
 彼奴の酒には懲りくだつて……。尾崎が酔ツ沸つて丸山ン所へ行くだらう。生憎居な  いことがある。留守ですと家の者が云ふと、丸山を隠したんだらう、俺がうるさいもの  だから隠れやがつたのだろうツて怒鳴る。俺が隠れる男であるかないか解りさうなも  のだつて、丸山が笑つて云つてた……。
【木下】後には、酒を飲むとひやうなところががあったねエ、しかし天才ではあつた。あの男は。
【吉村】尾崎さん順調に行つてゐたら、裁判官か、大学の教師でもなつて成功してゐたでせう。僕等、さう思つてゐました。さういふ人でした。 【田遽】さうだね。尾崎もあゝはなつたけど、豪い男だつたね。普通だつたら我々以上に社会的には出世してゐただらうが。しかし、さうだつたら、  今俳壇で放哉々々ツてもてはやされる、これ程有名にもなつてゐないだらう。どつちが いゝとも解らないな……。
【神山】何と云つても尾崎が尾崎らしく朗らかだつたのは鐡耕塾時代だつたな。
【難波】 さうだ。だから今日の集まりもその範囲で招んだのだ。僕も、思ふと、尾崎に戴して寝覚が悪いしね。今になると、尾崎には、もつと蓋してやりたかつたと、しみく 思つてゐる……。
【木下】もういゝだろうよ。難波も返事をやらなかつたツて懺悔したんだから……(笑)

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