会報32号 
放哉の旅と人生
         山 本 志 乃
 我が家の書棚に、古ぼけた画人りの 『大空』 がある。昭和三一年に再刻されたもので、編者から直々に贈られたのであろうか、扉に朱で「井泉水」と落款がある。
 母方の祖父水田由蔵(明治三五年生まれ) は、『層雲』 の同人で、放哉と同郷の鳥取県人でもある。小豆島の遍路にはしばしば足を運んでおり、昭和二年四月、放哉の一周忌に合わせ て島に渡った折に、放哉の妻馨や姉の並と会い、その回想を、後年『春の梱』 (湖の会編による放哉追悼集) に寄せている。没後五周年には、放哉の菩提寺である興禅寺(鳥取市栗谷町) の句碑建立にも携わった。
 私は、昨年まで旅の文化研究所という民間の研究所に所属し、そこで発行していた季刊誌『まほら』 に、近現代の旅人にスポットを当てたドキュメントを連載していた。同誌の休刊が 決まり、連載の最終回を誰にしようかと考えたとき、迷うことなく放哉を選んだ。命を削りながら流転の日々を送った放哉の人生そのものが、まさに究極の「旅」であると思ったからだ。  二〇一九年二月、執筆準備のため小豆島の尾崎放哉記念館を訪ねた。事前に約束をしたわけではなく、また午後の遅い時間だったにもかかわらず、受付の九富美樹さんに来意を告げ ると、すぐさま「放哉」南郷庵友の会幹事の森克允さんに連絡をとってくれた。そして駆け付けた森さんが、さまざまな資料を引っ張り出し、その場で見せてくれた。驚いたことに、祖 父の名にも記憶があるといい、宿に戻った後に、祖父の句が掲載された 『層雲』 のコピーをわざわざ届けてくださった。鳥取は一九五二年に大火があり、句稿なども焼けてしまっていた ので、私には初めて接する遺作である。幼いころに他界した祖父の記憶はおぼろげだが、こうして作品に向きあうと、懐かしさで胸がいっぱいになつた。
 帰京後、原稿を仕上げ、二〇一九年四月発行の 『まほら』九九号に掲載した。以下はその再録である。掲載した写真はいずれも鳥取県立図書館が所蔵する資料で、そのうちの 百ケ日忌の寄せ書きには祖父の筆跡が見える。この日のことは 『層雲』 にも、「丁度鳥取から水田由蔵氏も来合はせて」と記載があるので、玄々子や一二とともに小豆島で亡き放哉を偲んだようだ。「君が居た庵で 明け放たれる」とは、このとき詠んだ祖父の句である。
 同郷の兄弟子であった放哉の生きざまを、祖父はどのような思いで見つめていたのだろう。いずれ遠からず島を再訪し、祖父の辿った島遍路を、自分の足で歩いてみたいと思っている。
この人の旅

尾崎放哉(1885〜1936)
          文・山本志乃

 「咳をしても一人」「入れものがない両手で受ける」など、 独特の世界観を待った句で知られる俳人・尾崎放哉。流転 の軌跡と、そこから紡ぎ出された命のつぶやきを拾う。

「放哉」という号

 明治三四(一九〇一)年、鳥取県立第一中学校に在学中の放哉は、下級生を率いて修学旅行に出た。
 四月二八日に鳥取を出発、東へ向かう。行先は、但馬と丹後。この方面への鉄道は、まだ敷かれていない。湯村(兵庫県美方郡新温泉町)、福知山、宮津を経て天橋立へ。帰路は、豊岡で野球対抗試合の観戦をし、日本海沿岸の香住に出て、五月九日に帰校。 当時の修学旅行といえば、身体鍛錬と学術研究を兼ねた行軍であり、草鞋履きの徒歩旅行だった。

    見ゆるかぎり皆若葉なり国境

  因幡から但馬へは、急峻な山道が続く。このとき放哉は16歳。難路を越え、一息ついた初夏の峠の眺望に、拓けゆく己の前途が重なって見えたものか。
 本名、尾崎秀雄。句作を始めたのは一四歳のころからで、「梅史」とか「梅の舎」などという号で学友会雑誌に掲載されている。旧藩士の家に生まれ、父は地方裁判所の書記、姉に迎えた婿養子は医師。申し分の ない家庭環境で育った読書好きの秀才は、翌明治三五年に上京し、第一高等学校 (旧制一高) の法科に進学する。再興されたばかりの一高俳句会に参加する傍ら、ボート競技にも熱中。日本女子大学に在学中の従妹、 沢芳衛との交際が始まるのもこのころだ。
 勉学、スポーツ、恋愛と、青春を謳歌する前半生からは、流転を重ね、孤絶の境地へと自らを追い込んでいった後の姿を想像することはできない。わずか四一年の人生に、エリートと無一物という両極が凝縮され ている。
 明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学に入学。時を同じくして、芳衛に求婚。ところが、医学上の見地から血族結婚を反対され、断念にいたる。このあたりから、まっすぐに敷かれてきたレールが、少しずつ歪 みはじめる。
 明治四二(一九〇九)年に追試験で大学を卒業後は、官界や学界へと進む級友を尻目に、会社員の道を選択。新進の東洋生命保険株式会社 (後の朝日生命) で契約係長のポストに就くも、このころすでに、生涯ついて まわった酒癖の悪さに周囲は手を焼いていたようだ。「からんでくる、罵倒する。それは実に困ったものでした」と、後年になって同僚が回想している。平生は無口で、洋装が大半を占める社内にあって和装を好み、遅く出社して、早く帰る。とはいえ、仕事にさしたる 支障が生じるわけではない。俳句が趣味の変わり者といった体で、黙認されていたらしい。
 入社の年と前後して、遠縁にあたる同郷の坂根馨と結婚。放哉より七つ年下の馨は、すらりとした色白の美人で、口数少なく従順であった。酒代を浪費する夫のため、質屋通いも珍しくなく、知人から着物を借りることすらあった。酔った放哉はよく「馨は別嬪だろ うが」と繰り返したというから、当人には自慢の妻だったのだろう。
 当初用いていた「芳哉」 の号を「放哉」とするのも、卒業、就職、結婚といった、この一連の節目の時期と重なる。その理由を、芳衛との破談に関連づける向きもあるが、おそらくはそう単純なことでもない。

私ノ短冊ノ『号』ノ放哉トハ……ナンニモ放ツテシマツテ、今ハ、カラダ一ツデ居ルワイ(哉)『タツタ一人デ、ナンニモ無イ』ト云フ処二有之侯。

 後年、終焉の地となる小豆島にようやく居場所を得た大正一四 (一九二五) 年一一月、姉夫婦宛に出した手紙にこうある。
 家財も、仕事も、家族も、そして故郷も、世俗の縁をすべて放って、わが身ひとつとなる。「放哉」と号を改めたときにはすでに、その境地を無意識のうちに求めていたのではないか。

 何か求おる心海へ放つ (大正13年)

 「放る」とはすなわち、解き放つことでもある。世間 の規範や重圧から解放されるよりどころが、酒と、俳句であった。

自由律と無一物

 当初の定型句から、季語や形式にとらわれない自由律への移行は、大正四 (一九一五)年ごろのこと。一高俳句会のひとつ先輩にあたる荻原井泉水が創刊した自由律の俳誌『層雲』に、この年初めて句が発表された。
 それからは頻繁に掲載が続くが、大正八年一一月を最後に突如途絶え、再び誌上に登場するのは、大正一二 (一九二三)年の初め。その間、一一年在籍した東洋生命保険を退職している。「最早社会二身ヲ置クノ愚ヲ知り、(中略)社会卜離レテ孤独ヲ守ルニ如カズ」 (大正一三年の書簡での回想より) と決意してのことというが、実際はまだ、現実社会との関わりを捨ててはいない。いったん郷里に帰ったのち、知人の仲介で、禁酒を条件に朝鮮火災海上保険株式会社の支配人という職を得る。
 しがらみのない外地で、新会社の設立に携わることに、手ごたえを感じたのだろう。『層雲』への復帰を願って井泉水に宛てた手紙に、こんなことを書いている。

京城が小生の死に場所と定めてやつて来ました。(中略) 会社ノ事業はこれからで有りまして、小生ノ后半生を打ち込んでかゝりました支配人としてイクラか自由な計画が出来ますから、ウンと腰をすへてヤル考で居ります(大正一一年一一月二四日)。

 だが、この決意と裏腹に、禁酒の誓いを守れず一年ほどで免職。知人への借金返済も滞り、再起を期して、長春にいた従妹を頼りに満洲へと渡る。

   草に入る陽がよろしく満洲に住む気になる

 ところが今度は、朝鮮でも一度患った左湿性肋膜炎を再発症。ひと月ほどで満鉄病院への入院を余儀なくされ、大正12(一九二三)年の秋、大連から馨とともに帰国の途についた。
 ここにきて、かろうじて保ってきた自尊心も、いよいよ尽きたらしい。「借金ヲ返ス事モ出来ズ、事業モ出来ヌ。此時、妻ト『死』ヲ相談致シタ」 (大正一三年の書簡での回想より) というほどに、切迫した状況に陥る。  結果、無一物と奉仕を旨とする京都の修養団体「一燈園」に身を投じ、妻の馨は大阪に出て、自活の道を選ぶ。

   速く船見付けたる甲板の昼を人無く

流転の日々

 後年、馨は同郷の 『層雲』 同人との語らいで、当時のことをこう回想している。

一旦言ひ出したら後に引かん質ですから、言ふがまゝに一灯園に入れました。併し何時かは帰つてくることゝと信じて居たのですが、却つてあの時無理に止めた方がよかつたかも知れんと思ひます。それ が今では心残りです。(『春の姻』)

 西田天香が主宰する一燈園では、懺悔のための奉仕として、「托鉢」 の実践が課せられる。草むしり、薪割り、便所掃除、引っ越しの手伝い、荷車曳き、広告配りなど、頼まれた先で各種の肉体労働をこなし、山 中の一軒家で共同生活を送る。真冬でも火鉢ひとつない簡素な暮らしは、病後の放哉には酷であった。
 それでも、天香に同行して舞鶴や神戸へ出かけ、運動場の天窓のガラス拭きやら、家の取り壊しなどといった「托鉢」に従事していたが、体力が追いつかず、二、三度托鉢で訪れたことのある知恩院の塔頭常称院で寺男に落ち着いた。大正一三 (一九二四) 年三月のことである。
 ここからが、さらに目まぐるしい。
 同年四月、京都に来た井泉水と久しぶりに再会。井泉水もまた、この前年に起きた関東大震災の前後に妻子と母を相次いで亡くし、寄る辺ない身を東福寺塔頭の天得院に置いていた。懐かしさについ酒も進み、些細なことで常称院の和尚を怒らせ、再び一燈園へ。
 知人の伝手で、須磨寺大師堂の堂守となるのが六月。だが、翌年三月、寺の内紛に巻き込まれて一燈園に舞い戻る。五月には、福井県小浜の常高寺で寺男となるが、わずか二か月でこの寺が破産。京都に戻りはしたものの、紹介された龍岸寺での居心地の悪さに耐えき れず、とうとう井泉水の仮寓にころがりこんだ。
 決して、放浪を望んでいるわけではない。安住を求めているのに、自らの失態、あるいは不測の事態によって、結局そこを去らざるを得なくなる。

 なざさふ人りかへる我が足跡も無く

 絶えず寄せる波に洗われて、どこをどう歩んできたものか痕跡すらない。妻も子もなく、行くあてもない生活のなかで、ひたすら句を詠むことだけがよすがとなっていく。
 行き詰まった挙句、一燈園で知り合った台中在住の男を頼りに、台湾へ渡ることを考えるも、井泉水らに反対され、かわりに紹介されたのは、『層雲』 同人の井上一二がいる小豆島であった。
 大正一四(一九二五)年八月一二日の夜、列車で京都を発つ。
 その前夜は、井泉水の居宅で、俳友の陶芸家、内島北朗と三人、ささやかな送別の宴を持った。これが最後の酒だから、とビールを抜き、井泉水が「翌からは禁酒の酒がこぼれる」と書いた扇子を餞別に持たせた。このとき、「放哉後援会」も具体化し、放哉と井泉水が句を書いた短冊に北朗が絵を添え、五円で頒布する こととなった。
 こうしたいきさつは、井泉水自ら『層雲』 誌上で報告し、賛助を乞うている。

それから彼は、後援会用の短冊を買ひに自分で七條まで行つて来て、無い金の中からリンゴを御土産に買つて来た、かういふ所が彼のいゝ所かもしれぬ 共に句を書いてしまつてから新聞紙を額に当てゝ昼寝してゐる。(中略)彼は今夜十時半の汽車 で立つといふ。幸いにして小豆島に落付かれゝばいゝが、其が出来なければ台湾へ行かうかとも彼は云つてゐた。若しさうなれば、再び何時の日に逢へ る事やら解らないのである。(『層雲』第一五巻第六号)

命のつぶやき

  流るる風に沖きれ行き海に出る

 小豆島に渡る一年ほど前、転々と居を移すなかで詠んだ句だ。流れに身をまかせているうち、気がつけば海を前にしている。「流転放浪の三ケ年の間、常に、少しでも海が見える、或は又海に近い処にあるお寺を選んで歩いて居りました」(「入庵雑記」)と当人もいうとおり、好きな海の近くに居を得ることが、ただひとつの慰めだった。
 井泉水から放哉の受け入れを打診されていた島の素封家、井上一二は、「いましばらく待て」と送った手紙と入れ違いに当人が来てしまったので、大いに困惑したようだ。よからぬ雲行きを感じて、やはり台湾行きかと旅費の算段をはじめたところで、西光寺住職の杉本宥玄から、庵がひとつ空くことを知らされる。
 宥玄は号を玄々子といい、井泉水が前年に来島した折に、一二とともに島遍路の案内をした同人である。放哉を寺に招いて南郷庵への入居を知らせたこの日は、たいへんな雷雨になつた。停電の闇の中、放哉のコップについだビールの泡を見ながら、「彼れの流転の宿命とでも云った風なもの」を感じたと後に回想している。
 小豆島には、島四国七も呼ばれる八十人箇所の霊場があり、西光寺はその五八番だった。奥の院の南郷庵は番外だが、遍路が立ち寄りロウソクをあげていく。その賽銭が、放哉の生活費となる。遍路もまた、さま ざまな事情を抱えた身一つの旅人だが、その遍路によって生かされる人がいる。本場の四国遍路同様に、島遍路もまた社会の大きな受け皿であった。

   海が少し見える小きい窓一つもつ

 念願の海の近くで、ひとり心安らかに庵を結ぶ。ようやく居場所を得たものの、それは極限まで切り詰める赤貧の日々の始まりでもあった。
 入庵からほどなくして、賽銭だけでは自活が困難であるという現実を知る。それからは、「新生活様式」と称して、焼いた米と妙った大豆、もらい物の梅干しや芋などで食をつなぐようになる。焼米も焼豆も、固 くて少ししか食べられない。当人が言うに、「断食ヘノ中間ノ方法」であって、やがて衰弱し、自然に朽ちゆくことを見越しての策であった。
 「入庵食記」と題された、放哉の日記がある。大正一四年九月一日から、亡くなる四日前の翌年四月三日まで、一日も欠くことなくノートにつけられている。
 当初は、「焼米、焼豆 (大豆)、塩、ラッキヨ、梅干、番茶(一日二土瓶四杯位)、麦粉、…色々混交シテ用フ」などと・、自ら考案した食生活の実践記録だったが、や がて天気や体調、差し入れ、借金など、身辺の雑事を淡々と記すようになる。
 南郷庵で、放哉は井泉水をはじめとする知人に宛てて、膨大な手紙をしたためている。ほとんど誰とも会話を交わすことがない日々のなか、溢れ出る言葉をもて余すかのようだ。日記の放哉は、それほど多弁では ないものの、日に日に衰えゆく体と死の影を克明に見つめていて、生来の凡帳面さをうかがわせる。
こんな記録もある。

 祭ノごちそうデ腹の中、ゴタ也、酒ハイカンイカン、 苦シイ、アスカラ絶対二呑マヌ、……呑ンデモ(ビール)一本位トスル事……(ウマク)モ(ホシク)モナイ、実ニイヤダ イヤダ
 酒を詠んだ俳句はないが、酒の失敗を思わせるものは、ここ小豆島で作っている。

   わが顔ぶらさげてあやまりにゆく

 玄々子も、一二も、たびたび被害をこうむりながら、最後まで見放すことなく、物心両面で病身の放哉を庇護した。一方で井泉水は、累々と送られてくる句稿を添削し、命のつぶやきを文芸へと高めて、近況ととも に『層雲』誌上で遂次知らせた。孤絶の淵に身を置きながら、言葉の世界の放哉は、数えきれないほどの交遊を結んでいた。
   *     *     *
 大正一五 (一九二六) 年四月七日の夜、身の回りの世話をしてくれていた裏の老婆に看取られ、瞑目。肋膜炎から咽頭結核へと病状が進んだ末の往生であった。
 亡骸は、すでに火葬の準備が整えられていたところを、「土カケテモラフ事ダケ」と最後の葉書で頼まれた井泉水が、放哉の強い遺志を伝え、一旦庵の裏山に土葬にされた。一周忌を待って火葬されたのち、西光 寺の墓所に墓が建てられた。
 五輪塔の墓石には、井泉水の字で「大空放哉居士」と刻まれている。「大空」とは、玄々子が真言宗の経典から選んだ文字だが、当初「大空院心月放哉居士」としていたものを、放哉に院号は似つかわしくないと して、この戒名に落ち着いた。「大空のました帽子かぶらず」 の句にも通じ、没後に編まれた句集の題ともなつた。遺骨の一部は、妻の馨が故郷に持ち帰り、菩提寺である輿禅寺の墓地に納めた。ここにも、井泉水 の揮毫による句碑「春の山のうしろから烟が出だした」(辞世)が、同人の寄進で建てられた。
 計報を聞いてすぐ、井泉水は 『層雲』誌上で「其人の生活と其句とが一枚の真純さにとけ入つて、吐く息の悉くが句となつて生きるといふ所まで行つた人」と放哉を称えた。  さりげない日常を切り取ったほんの数文字が、いつの時代にあっても、それを目にした人それぞれの色をまとって胸に響く。流浪の果て、身を削るようにして生まれた放哉の句は、無限の命を与えられ、今なお光 を放ち続けている。

■尾崎放哉『放哉全集』全≡巻 筑摩書房 二〇〇二年
■湖の会編『春の烟』一九三○年
■荻原井泉水『放哉という男』大法輪闇一九九一年
■村上護『放哉評伝』春陽堂 二〇〇二年
■井上泰好「小豆島の自由律俳人 杉本玄々子」 『放哉研究』
 第6号2018年
(初出‥旅の文化研究所編集・発行『まほら』第九九号、2019年4月)
この人旅のあとに添付


大空放哉居士百ヶ日忌執行

口西光寺玄々子君から使ひが見えた、それはけふは丁度放哉居士の百ケ日だから心ばかりの法会をする、丁度鳥取から水田由蔵氏も来合はせてゐるし、幸いにひまが作れれば午後四時までにお寺まで来るやうにとい ふのである、役場の二階で暑い議事に加はつてゐた時なので早速承知の旨返事する。

□放哉居士が亡くなつて早や百日にもなるのかなと思ふ、それにしても放哉居士はキット地下で悦んでゐるに違いひない。井師の御厚情から句集は春秋社から堂々と出る、大朝やサンデー毎日いは紹介される、久 米三汀からは共鳴されて文糞春秋に書いて貰ふ、おそらく生前こうまで著名にならうとは居士自身にしても思はなかつたであらう、嬉しいことである。

ロ読経が済んで墓参をする、汐が遠く引いて墓のまわりの芋畑に夕日が澄んでゐる。

ロ寺へ蹄つて三人でオトキのお膳につく、つめたいビールの杯を挙げるにつけても話は居士の酒の逸話に落ちるのである。去年の八月「翌から禁酒の酒がこぼれる」 の扇子を持つて井師の長い添書を持つて島へ見 えたときスデにぶんとにほわしてゐてこれは大したものだと先づ先入主になつたが話−、西光寺へ幾度も幾度も来て話した中、酒の気のなかつたのは只一度丁哉君の董を持つて来た正月一回きりといふ話、等、等、等。

口その後の逸話。
士の名声が土庄でも大いに認められかけた五月頃のこと、一日土庄警察の人が西光寺に現れ、尾崎さんの遺産の処分はどうしたとの質問、西光寺君大いに面喰ひ南郷庵のお寒銭銅銭若干は当寺に保管、衣類及び世 帯道具は近所の世話になつた婆サン連中に分配書物古雑誌は甥御の秀明君持帰りと報告に及ぶとナンダそんなものかとの言に、西光寺君更に奇異の思いに一体何の調査かと聞くと実は尾崎氏は非常な大家の長男で大 した遺産があつた。との事で庵にゐる人にも似ず金遣いが荒かつた、その遺産を一人の婆さんが大部分せしめてゐるといふ風聞があつたので一寸調べて見たのだとのこと、死せる放哉生ける土庄警察を騒がす乎、そ れにしでもあの無一物の居士が死後一ヤク大長者と喧博せらるゝも1興ではないか。

□十六日、水田君と玄々子君、賓樹荘跡の句碑を見に来る、一所に果物畑へ行く、海は今日も紺青で強い日光を浮かべてゐる、売残りの夏蜜柑をもいで食べる。 句碑のあたりは殊に州深い、ここが茶室、ここが窓ここに先生が机をおいて、ここに桂子夫人が座つてといふ風に話をする、それももう六年も前のことである。(略)

   忌 日 の  草 ぬ く   玄々子

   君が居た庵で明け放たれる   由 蔵

   遠くに汐がひいてゐる雑草   一 二

■「層雲」大正15年10月号井上文八郎・一二記)
放哉さんで町おこし
          「放哉」南郷庵友の会 森 克允

 二〇二一年十一月十一日、禰生書房の 『尾崎放哉全集』 を読んだ。「本全集は荻原井泉水先生のすすめに従って、井上三喜夫が編集した。」と後記にある。それを最も多くの回数で読んだ本である。本の中の 『大 正十三年十二月十五日須磨寺より佐藤呉天子宛て (封書)』 この文章は特に印象的だった。香川県が土庄町に「福祉のふるさとづくり」 の推進に来庁、その概要を聴いた塩本町長は参画を承知した。ク町に埋れてい る歴史や文化″を掘り起して後世に伝える。そこで秘かに町長が目論んでいたのが、俳人放哉「終焉の地・南郷庵」 であった。
 政策事業としては異例で、年度の残りが四ケ月。他課から舞い込んで来た仕事とは言え、予算議決の必要も急がれ知識の乏しさに焦った。基本構想樹立が県の採択条件であった。はじめに放哉に関する本を漁った 「寝る間も寝ずに斜め読みの勉強は、同年暮れから正月休みだったように憶う」。ク放哉という男″大概の著者がエリート街道を歩むが、社会になじめず酒に溺れての失敗を批評する。そんな雰囲気でク放哉さんで町お こし″に疑問を覚えたが後の祭りでした。
 放哉は 「青雲の志」を以て上京。一高、東京帝国大学英法科卒業の超エリートの彼は「故郷に錦を飾る」どころかふる里の期待を見事に裏切り流転放浪の末、小豆島西光寺南郷庵に入る 『之デ、モウ外二動カナイ デモ死ナレル』安住を悦ぶも束の間、成れの果て安楽の世界へ旅立つ。
 東洋生命保険会社を辞める。親密な友情で再起を表明し父と金鍔で誓い朝鮮へ出立。順風満帆に見えたが、内幕の誹誘中傷で罷免される。不退転の決意で満州へと、処が病気を患い帰国の途に就く。京都一燈固から常称院、須磨寺、常高寺、龍岸寺と転々と移動した。 その裏には死を意識する中にも須磨の句に研ぎ澄まされた句があり、自嘲気味と恨み辛みの作風も伺える。

   漬物石に塩ふれと母は産んだか

   笑へば泣くやうに見える顔よりほかなかつた

   自らののしり尽きずあふむけに寝る

   人をそしる心すて豆の皮むく

   にくい顔思ひ出し石ころをける


 すっかり期待を裏切った背景には、大方隠れた事実がある。97回忌に因んで、彼の名誉を挽回するには会社員時代の仲間、佐藤呉天子宛て書簡に唯一放哉が本心を訴えた文章がある。その記事を会報岡m山に転載 し、放哉忌会場で意見を述べ合うことにした。
 いまこの頃、依然コロナ騒動が続く。そこで企画したのが須磨寺の放哉手紙を読んで−感想を語る会−。次回は、若狭小浜常高寺から井泉水に宛て「毎日筍ばかりで腹の中が竹薮」 の愉快な話。続いて、小豆島 西光寺奥の院南郷庵から井泉水宛て「秘中の秘」の話。以上を主題にして、3回連続のパネルディスカッション形式で実行し、記録は活字に直して百回忌ご奉前に献上 (案) を役員会に諮った。
佐藤呉天子宛
     (大正十≡年十二月十五日 須磨寺より封書)

 佐藤兄榻下      十二月十五日  尾崎生
 (下座、奉仕生活二人リテヨリ、満一ケ年ヲ経過シテ)
 啓、大分御久振リデス。オ正月モ近クナリ、当地己二初雪初夜至ル、御健在ナル可シ。此オ寺二束テヨリ己こ半歳以上トナル、下座ノ生活、一生ノ修業卜思ツテ居リマス。今日何トナク戎ル淋シサヲ感ジ、兄二此 ノ書ヲ送ル気ニナル、戎ハ近イ内二死スル前兆カモ知レヌ。呵々。
荻原君二小生ノ現状ヲ問カレテ以来、御手紙イタヾキ、又、一灯囲ニモワザ′し・御訪問下サレシ由、誠二感謝ノ辞ノ外有リマセヌ。唯閑寂ノ境地、下座ノ生活二浸ツテ居ルモノ、通信スルハ不適当卜思ヒテ今日こ至ル。 今日不意二見二此ノ手紙ヲ書キタクナル、之レモ何カノ因縁ナル可シ。小生、全部ノ友人卜離レタル事ナレバ、友人ノミナラズ親類、妻トモハナレテ、唯一人トナリタル今日、誰二向ヒテモ今日迄カ、ル手紙ヲ書キ タル事ナシ。夫レガ不意卜兄二宛テ、此一文ヲ書キ度クナル、全ク何カノ因縁ナル可シ。サレバ最初二堅ク御約束希フ、此一文、並ビニ小生ノ事二問シテハ一切兄以外ノ人ニハ御他言御無用、堅ク御約申シテオキマ ス。
 扱何カラ申シ上ゲテ宜イヤラ、万事夢ノ如シ……。
一、小生ノ性格ヨリ申叙ブ……学校時代ヨリ、法律ヨリモ哲学宗教二趣味ヲ持チ、釈宗演師存生中ハヨク鎌倉円覚寺二行ツタモノ也。「正直」 ヲ大切ナ道卜心得 居タル凡俗也。
一、官吏卜謂フモノ、虫ガ好カズ、銀行こ入ラントセシこ、穂積陳重先生ノ話シニ、保険界ニハ大シタモノナキ故、寧ロ、保険界二人ル方上達ノ道早カル可シトノス、メニヨリ、滋二保険界二人ル。豊ハカランヤ、 保険界こハ人物ナケレドモ、利口ナ人ノ悪イ人物ハ雲ノ如ク集り居ラントハ。
一、右ノ如キ者保険界二人ル、不平、至ル処二発スル事当然ノ理也。最初ノ不平ハ、小生大阪支店赴任ノ時ヨリ始マル。……其当時ノ支店勤務ノ人々ノ中ニテ、小生東京ヨリ来タナラバ、酒卜女デ殺シテ帰シテシマ ウ方針二議一決シ居タリトハ 「神」トテ知ランヤ。之ハアトヨリ其謀議二加ハリシ人々ヨリ洩レシ也。可恐ゝ。
其後小生ノ身辺、常ニ、ロニハ甘イ事ヲ云へ共、小生ヲ機会毎二突キ落シテ自己上達ノ途ヲ計ラント云フ、個人主義ノ我利′−−連中こテ充満サレ、十一ケ年間ノ辛抱モ遂二不平ノ連続ニテ、酒二不平ヲ紛ラシ、遂二 辞職スルニ至ル。其ノ時小生、最早社会こ身ヲ置クノ愚ヲ知り、小生ノ如キ正直ノ馬鹿者ハ社会卜離レテ孤独ヲ守ルニ如カズト決心セシナリ。
一、然ルニ何者ノイタチフゾ。朝鮮火災海上保険会社創立ノ大任ヲ以テ小生ノ再起ヲ郷里二打電シ来ルアリ。凡人タル小生、猶未練アリ。又、ノコ′ト・ト郷里ヨリ上京ス、此途中名古屋こ下り瀕死ノK君二逢フ。 同君トハ之が最後ノオ別レナリシガ誠二感慨無量也)
 即支配人トシテ基礎工事ヨリ仕上ゲ、人間モ作り満一ケ年ヲ経過シテ00万円ノ積立金ヲ残ス事ヲ得、仕事ハコレかaト云フ処で社長ノ命ニヨリテ辞スルニ至ル。小生朝鮮二行ク時、此事業ニシテ成ラズンバ 「死 スカ又ハ僧トナル可シ」トアル人二誓ヒタリ。目下、僧同様ノ生活二人ル、何時又死スヤモ知レズ、小生ハ決シテ約ヲタガヘル人間二非ル也。茨デ如何シテ朝鮮ルガ当然也。小生ハ決シテ自 己弁護セズ、又、弁解スル事ガイヤ也。小生ガワルカッ夕事、事実ナラン。但小生今猶々、自分丈ケハ天地二恥ヂヌト思ツテ居ル。要スルニ此ノ「馬鹿正直」ガ崇リヲナシテ、人ノ悪イ連中ガ社長ニイロ′\吹キ込 ミタル結果也。菅又、東洋生命ニオケル時一同ジ。ツクツクイヤニナツタ.。然シ、何シロ、朝鮮ヲ永住ノ地トシテ、働ク考ナリシ故、無資産ノ小生、友人等二少々ノ借金ヲシテオツタ。之レヲ返却スル道ナシ (突然ノ 辞職故) ソコデ満州二行ツタノデス。満州デ一働キシテ借金ヲ返サネバ死ヌニモ死ナレヌト考ヱ、長春辺迄モ遠ク画策ヲシタノダガ、寒気こアテラレ、二度左肋膜炎ニカ、ル。満鉄病院長ノ言二肺尖甚弱クナツテ居 ル、三度目ノ肋膜ハ最モ危シトノ事。天ナル哉A叩ナル哉。借金ヲ返ス事モ出来ズ、事業モ出来ヌ。此時、妻ト「死」 ヲ相談致シタ。此ノ時ノ事ハ今想ヒ出シテモ悲壮ノ極也。人間「馬鹿正直」 こ生ル、勿レ、馬鹿デ モ不正直二生ルレバ、コンナ苦労ハ決シテセヌ也。
一、ソコデ、万事ヲ馳ツテ、小生ハ無一文トナリタレバ、一灯園ノざんげ生活二人り、過去ノ罪ホロボシ、並二社会奉仕ノ労働二従事シテ借金セシ友人、其他知己ニ報恩スルタメ、自分ノ肉体ヲムチ打ツ事ニキメ、妻ハ 別レ (郷里二帰ラヌト云フ故) 独立ノ生計二人ル事ニキメタル也。「妾」某所ニテ目下健全自活セリト云フ。 彼女モ亦、此「馬鹿正直者」ノ妻トナリタル為メ、不幸ナリシ哉卜思へバ今猶、涙手ヲ以テハラヱドモ尽キズ、兄、察シ給へ………。

   我昔所造諸悪業  皆由無始貧瞑痴

   従身口意之所生 一切我今皆俄悔

 以上こテ大略ヲ察シ玉へ。之レヨリウソハ毛頭ツキマセン。真正直ノ処也。斯クテ(孤独ノ生活)(無一文ノ乞食生活)(下座奉仕生活) (親、兄姉、友人、知己、就中借金シテル友人二対シテ我ガ肉体ヲ苦シメ、苔打 ツ俄悔生活)ニ入ル事トナリマシタ。丁度「秋」薄ラ寒イ時、満州カラ「影」ノ如ク、一灯園二人ル、唯一人。
一灯園生活ハ御存知ノ通リノ家、寒中、雨戸モタテナケレバ、火鉢モナシ、火種一ツナシ。朝ハ五時カラ、諸方ノ労働二行キマシタ、(草ムシリ)カラ(障子ハリ)(大掃除) (引ツ越シ) ノ手伝、(炭切り) (薪割り) (便 所掃除) (米屋ノ荷車ヲ引ツ張ツテ、電車道ヲ危ナク、轢キ殺サレサウニシテ歩イタ時ハ泣キマシタ)、其他(広告配り)等等等。其種類ハ数限リアリマセン。コンナニ馴レヌ仕事デ身体ヲ苔打ツテ居タラ、病気ニナッテ死ヌグロウ、死ネバ幸ヒト思ツテ居タレ共、幸力 不幸力病気ニモナラズ、サウシテヰル中ニドゥモ (孤独生活) ト云フ事ガ、求メラレテタマラヌ。ソコデオ寺ノ托鉢ヲサガシマシタ。本願寺派ニモ行キマシタ。結局、真言宗ノ当寺ニ、本年六月二来テ、全ク(孤独)ノ生活二人り只今迄居リマス。此オ寺生活ガ何時迄続 キマスヤラ、之モ因縁次第卜思ツテ居リマス。小生只今ノ嬉シミハ俳句斗り。「層雲」デ荻原君卜交通シテ居ルノミデアリマス。
 以上デ大略申シ上ゲマシタ。此「馬鹿正直者」豊他山ノ石ナランヤ。呵々。兄ハ只今未ダ東洋生命二居ラル、由。同社ハ小生ノ鬼門ナリ。決シテ会社ノ人二少シタリトモ話シテ下サルナ、ウルサイカラ、無責任ノ批評ハ困ルカラ。兄一人ノ胸丈二秘シテ置イテ下サイ。 小生大往生ノ後ハ御自由デス。クレぐモ約束希ヒマス。
 此須磨寺ハ半俗、半僧卜云フ処故、今少シタテバ、ズツト山ノ奥ノ奥ノ全ク淋シイ処二孤独ノ住居ヲ求メタイト思ツテヰマス。今ハ其準備時代ノ様ナモノデスネ。兄トモ、イロ〈ノ御交際ガアリマシタ。渋谷ノ私ノ宅ヂ正月、骨デ酒呑ンデウタツタ事ヲ思ヒ出シマシタ。××君モ死ニマシタサウデスネ、南無阿弥陀仏 ′1。此オ寺ハ全ク精進デスガネ、俗人ノ小生、酒モ呑ミタシ、牛肉モ喰ヒタイ、但オ金ガナイ丈ケ。此辺ニ出張スル時力又、遊ビニ来ル時デモアレバ、ウマイ物ヲ御馳走シテ下サイ、吋々。実際アレ丈ケ、生活状態ノ激変ヲシテ、肉体ヲムチ打チ〈シテ苦シメ、サイナンデ来タノダガ、今以テ死ナン所ヲ見ルト、人間ノ肉体モ丈夫二出来テ居ルモノト思ヒマス。今デモ毎朝車時オキ、麦六、米四ノ飯、菜ハ供物ノオ下り故、大根、ンンそニン‥ンン位ナ処。何モカモ俄悔/\。下座、奉仕生活卜思ツテ、一生懸命ニヤツテ居リマス。イツカ京城二海苔ヲ送ツテ下サイマシテ感謝〈。此ノ頃オ菓子ガ喰ヒタイ、時々ウマイ菓子(ドンナ、駄某子デモ、只今ノ小生ニハウマイデス) ヲ気ノ向夕時二送 ツテ呉レマセンカ、全ク有難イト思ヒマス。百円貨ツタヨリモ有難イ、何々。ドゥセ奥サン丈ニハ此ノ話ヲナサルデセウガ御二人デ、笑ハナイデ真面目ニ、小生ナル者ヲ解釈シテ頂キ度イ。ソシテオ菓子ヲ下サイ。マ ルデ赤ン坊デスネ、吋々。小生京都二行ク時ハ必ズ御宅ヲタヅネマス、以上。
 何レハ 「蝸牛角上ノ争」人間ノスル事ナンテチッポケナモンデスネ。一生ノ修養、修業卜思ツテ、此乞食生活ヲヤリマス。「業」が尽キタラ「死ヌルカ」「安心立命ノ境地」ニ到達スルカ。只今ノ処デハ「孤独閑寂」 ニ向ツテ突進シテ居リマス。
一両日前、初雪初霞……例二依り一句

   又も夕べとなり粉雪降らし来ることか

九七放哉忌

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   木瓜の蕾の会年間作品集
南郷庵(現・小豆島尾崎放哉記念館)から誕生した自由律俳句の句会『木瓜の蕾 の会』は、今年で6年目を迎えます。 隔月での通信句会ですが、年に一度は放哉忌前夜に集合して句会を開催しています。
 季語や五七五に囚われることなく、其々の感じた気持ちのをそのままに、自由に表現できるようになってきました。まだまだ、直接的な表現や説明が多くなってしまいがちですが、其々の言葉を大切に、句作に励んでいます。
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