会報33号 
「第一回 放哉の書簡を読む会」に参加して 日本放哉学会 小山貴子

 2022年4月7日、午前中 は西光寺本堂 (写真1) において第97回放哉忌法要が行われた。その後、出席者全員による参加型による放哉の書簡を読む会が開かれた。
 第一回に取り上げられたのは、大正十三年十二月十五日、須磨寺にいた放哉が、かって、東洋生命保険株式会社の契約課長であった時の部下、佐藤呉天子 (本名喜兵衛) に宛てた 長い手紙である。先ず、高橋、大谷両氏(写真2) による朗読から始まった。放哉の前半生を振り返った部分は、一つ一つの言葉を凄々しい声で読まれ、後 半の今を語る部分は幾らか余裕を感じさせる明るい声調で見事に読み分ける二人の声に聞き入った。
 出席者の方々の感想は、放哉の「馬鹿正直」に集中した。「正直」とは嘘のない誠実な心の在り方を指すものであろうが、放哉のいう「馬鹿正直」とはどんなものなのだろうかと考えさ せられた。明治期の日本で、最も優秀な男子が集まる一高・東京帝国大学を出た人間にとって「正直」とは天下国家を意識したものであったろうと思ゝつ。
 すると 「正直」には、国をどのように導けばよいか、どのようにしたら国民のためにかるのかを真剣に考え誠を尽くす態度が含まれていたと思われる。そして、そこにほんの少し の私利私欲も挟まず、己の損得を考えずに突き進む人間を「馬鹿正直」というのではなかろうか。出席された方々も、放哉のそういうピュアなところを感じ取っておられるのだろうと 思った。
 呉天子とは巳の心の内を話せる親しい人物であったことを想像する。呉天子でなくとも手紙を読んだ人間は、放哉の真実に触れた気持になる。井泉水が放哉の書簡を「書簡文学」と呼んだ所以もここにあるのだ ろう。この書簡は、放哉が須磨寺に来て半年が経った頃で、寺の生活も身について無一物生活に入って初めて心の安らぎ、落ち着きを得た時期であった。妻馨が東洋紡績の女子寮の世話掛の仕事について生活が安 定したことも放哉にとって大きな安心材料だったと思う。
 この後放哉は寺の内部争いに巻き込まれていく。そんなことは知らない放哉は、「一生ノ修養、修行卜思ツテ、此乞食生活ヲヤリマス。」と書くのだった。
 さて、次回はどんな手紙を読むのか楽しみである。
97放哉忌ー佐藤呉天子宛書簡を読んで

会員番号1 岡田好平
(土庄町「放哉」南郷庵友の会会長)
 放哉さすが 自由人

会員番号5 三枝祥三(土庄町「放哉」南郷庵友の会幹事)
「順風満帆・呉越同舟・四面楚歌・切歯振腕・孤影恰然・ 満目荒涼・満目斎条・有為転変・自業自得・情意投合・ 天涯比隣・暮雲春樹。」
 四字熟語にて読後感を報告します。
 「皆さんにお配りしている佐藤呉天子さん宛て、放哉さんの手紙は三十九歳の時に書いております。それで僕が放哉さんの心境を付度して四字熟語で順番に読んでいきます。先ず東大を出て、東洋生命に入るまで 順風満帆です。
     順風満帆 (我昔所造諸悪業)
     呉越同舟 (骨由無始貧瞑痴)
     四面楚歌 (従身口意之所生)
     切歯振脱 (一切我今骨俄悔)
 入ってみると呉越同舟、四面楚歌、切歯振腕、孤影梢然、満目荒涼、満目斎条、見渡す限りの淋しい様子ということみたいです。それから有為天変、自業自得、ここでおそらく放哉さん、自業自得を感じておると思 いますけど、その次の諸行無常が言いたい、ここで言いたいこといっぱいあるうんですけれども、あとで放哉さんの俳句で示します。
 この後の三つが、淋しい、地獄に傭みたいな感じで、佐藤呉天子さんに会って、手紙もらったりしたと思いますけれども、その心情が情意投合お互いの気持がぴつたり合うこと、今の手紙によう表われていました。 天涯比隣たとえ遠く離れていてもすぐ近くにいるように親しく思われること。
 僕は今回の四字熟語で一番気に入ったのは一番最後、暮雲春樹、遠く離れている友を思う情のこと。この語源、出典が杜甫の『春日李白を憶う』という漢詩、その次に書いてあります『洞北春天の樹・江東日暮の 雲』という漢詩から暮雲春樹という四字熟語ができたようであります。結局、長安にいた杜甫が、遠く揚子江の湖畔の辺りを旅しておる李白のことを想って詠んだ漢詩です。
 だから放哉さんが須磨寺におりましたから、東洋任命の現役であったでしょうから、佐藤呉天子さんを想っていたと思います。ところで、順風満帆の時の放哉さん、この時はまだ定形句です、三つ位紹介します。
 ふらここや人去つて鶴歩みよる
ふらここ言うたらブランコのことで、次に
 寝て開けば遠き昔を鳴く蚊かな
どれも素晴らしい句やねぇ。それから次は
 別れ来て淋しさに祈る野菊かな
放哉さんが自由律になる前の定形の俳句をいっぱい作くつてますけども、僕の好みで三つ選びました。
 それから放哉さんは自由律になつてからですけども、一灯園で十六句、須磨寺で三百四十四句詠んでいます。それから次の小浜の常高寺で六十三句を詠んでいます。最後、小豆島土庄の南郷庵で二百十六句を詠 んでおります。皆さんも放哉さんの有名な俳句ご存じと思いますけども、この機会に須磨寺で詠んだ僕の好みの自由律俳句をちょつと読みます。
 一日物云はず蝶の影さす
 こんなよい月を一人で見て寝る
 わが顔ぶらさげてあやまりにゆく
 にくい顔思ひ出し石ころをける
 犬よちぎれる程尾をふつてくれる
 ころりと横になる今日が終わつて居る
ということで、はい以上です。」

会員番号9 大村明美(土庄町)
 「『正直者が馬鹿を見る』ことわざ通りいつの時代も同じなんだと痛感しました。でも、こんなに世に広めたことなんか、放哉は生きていたら、どう思うことでしょうかね…。」

会員番号11 葛西孝道(土庄町)
 「数え年四十才の生き方と、心の内がよくでていると思えます。」

会員番号15 吉岡敏晴(小豆島町)
 「放哉本人の語り、初めて読み、感動、よく理解できました。秀才が流転放浪の族、吐息のことごとくが句にした人生。その真純さに敬服いたしました。」

会員番号53 高橋忠夫(刈谷市)
 「思いつくままに少し書かせて頂きます。不謹慎ながら、わたしは放哉さんを十分理解している者ではありません。いつからか覚えがありませんが、先に西東三鬼の『神戸』を古書店で手にし、その後自由律、放 哉俳句に出会い作品に傾倒しました。 放哉さんに関る書籍は、二十冊余り手元にありますが、書簡は読みづらくほとんど目にしていませんでした。今回機会をいただけたので、改めて向き合い読み始めてみたく思います。
 佐藤氏宛の書簡に、鎌倉、円覚寺、釈宗演の文字にびつくりしました。鎌倉、円覚寺、釈宗演氏は、鈴木大拙氏が若いころ数年にわたり参禅しその教えをうけたようです。
 文中に放哉さんも老師宗演氏に教えを受けましたとありました。(大正十五年飯尾星城子宛には、円覚寺にいたのだが、とあります) 放哉さんと大拙氏は十五歳程年齢が離れているので、円覚寺でのお二人の出会い は無かったことでしょうね。きっと参禅を続け宗演老師から教示をいただいたはずでしょう。その教えは放哉さんの人生にいかように反映されたのでしょうか。禅の言う華厳思想を理解していない私がものをいうこ とはできません、こちら勉強しなくてはいけません。
 勝手に思うのは、作品の中にその思いを少しは感じていたのではないかとういうことでしょうか。放哉さんに縁をいただけたことに心から感謝申し上げます。
 また、今後とも私にとって指標となることを願っています。
 コロナが収まったらもう一度島に伺いたいと思います。ありがとうございます。」

会員番号33 宮本光研(岡山市)
 「自由律俳句は 『馬鹿正直』 が作るものですかネ。放哉の真率な気持ちが伺えた手紙です。何々。合掌。」

会員番号59 富永鳩山(防府市)
 「長文の手紙、これまでの波乱な生涯を話しながら、突如としてウマイ菓子を送ってほしいと人間らしさを伝って、只今は 『孤独閑寂』 に突進していると、総じて人生の 『不条理』 を記しています。誠に自由律の俳 人らしく読ませていただきました。」

会員番号62 福田和宏(高槻市)
 「『馬鹿正直』、放哉さんの 『正直』と私の考える 『正直』 を比べてみます。『馬鹿正直デモ不正直二生ルレバ、コンナ苦労ハ決シテセヌ也』 この書簡を放哉さん直筆の文字で見てみた くなりました。」
(*余録<層雲>昭和2年新年号にこの書簡が掲載されていて、その終りには、《呉天子附記。この手紙は須磨寺時代のもの。層雲誌上の入庵雑記の前篇に該当す。原文中、金銭上の事を述べし件は二三行削った所 がある。故人のレファインさせる小生の微意です。呉々も本文を他人に洩らすなとの断り書きあるも、井師の御意見を伺ひし上発表す、固より小生不信の罪、何れは冥途で詫びる。》と追記。直筆みて見たいね*克)

会員番号63 荒木 勉(東京都)
 「放哉と云う人は、どうあっても社会的現実と切り結ぶことのできなかった人間だと思います。文学者として生きる道があれば、それが一番よかったのでしょうが、状況が決してそれを許さなかったでしょう。
 ただ、そうした人物であったとしても、多くの慰めと喜びに満ちた作品を後世に遺せる。それが放哉が我々に示してくれる最大の教えだと思います。」

会員番号65 藤本義則(土庄町)
 「黙読でなく、音声言語で読んでみました。  放哉の 『馬鹿正直』 の自分と、今の 『暮らし』 の自分を見つめている様子がありました。私も複雑な心境を覚えました。
 今 (三月十八日) のウクライナ大統領のような 『何とかしたい・でもどうにもならぬ』このような気持だったかもしれない……」

会員番号69 安田憲生(防府市)
 「ここにはいろんな顔がみえる。先ずは、かつての同僚に、『馬鹿正直』 の挫折渾として社会不適合の過去経緯(いきさつ) 繚々語っている。『兄以外ノ人ニハ御他言御無用』 とことわりながら、この世の誰か一 人の胸の内を、真実を知ってもらいたいという放哉の願いが強く湊み出る。人の温もりを求めるかのようだ同時に、『此馬鹿正直者豊他山ノ石ナランヤ』 と自身を客観視し、『呵々』 と照れ笑いしてみせる。
 ところが、書簡の後半では、まるで小児のように食べ物をねだる放哉がいる。『酒モ呑ミタシ、牛肉モ喰ヒタイ』、近在に来るときあれば 『ウマイ物ヲ御馳シテ下サイ』。さらに 『此ノ頃オ菓子ガ喰ヒタイ…気 ノ向夕時二送ツテ呉レマセンカ』。ここでも 『マルデ赤ン坊デスネ』、と 『何々』 照れ笑い。佐藤氏への信頼感がそうさせるのか、この率直な甘えは、まさに放哉の見事な生きようでもある。
 無一文の下座奉仕生活への決意を、放哉は 『俄悔文』を記して示す。放哉らしく『真正直ノ処也』 という、放哉の真面目だと思う。
 俗世との閑寂の境地を行きつ、戻りつしている放哉。故に、咳をしたその瞬」間の独存が意に留まり、あの名作が生れた。閑寂に悟りをひらいたなら瞬間の独存を意に介すこともなく、この作品はなかっただろうと思う。  この書簡は、放哉の、そのあるがままの姿を、努贅とさせる。」

会員番号73 塩島えり子(横浜市)
 「『妻』 某所ニテ目下健全自活セリト云フ。放哉さんも体を治し、健全な自活をしてほしかったです。朝鮮にて貴族服を着た放哉夫妻の写真が切ないです。」

会員番号74 田中俊雄(横浜市)
 「ひたすら句を詠むことだけがよすがの背景が、身近な方々のお話でリアリティが感じられました。」

会員番号77 木村健治(神戸市)
 「人に頼りたい気持があるのに、結局はプライドを捨て切れない…という放哉の矛盾が垣間見える。」

会員番号119 出水奈保美(土庄町
)  「子供の頃、一灯園の方が、トイレの掃除をしながら、各家をまわられていて、我家で一泊された事がありました。きびしい修業だったのだなあと知りました。 放哉さんはね愛妻家だったとおもわれます。

会員番号120 本郷泰博
 「身体的に 『きつい』 状態が始まっていたのだなと感じた。たんに、『泣き事』 ではないということ。」
令和5年 放哉忌ご案内

とき 令和五年四月七日
    午前十時≡十分〜午後二時≡十分
内容・午前十時≡十分〜本堂
    献茶−瀬尾恭甫先生
    法要−瀬尾光昌師
    供養−「放哉甚句」
    【孤高の俳人 尾崎放哉】
    七七七五調子に乗せ 穴吹忠義氏
  ・十一時〜
    墓参と記念館見学
    (放哉墓碑・記念館)
  ・昼食十一時≡十分〜休憩
    (西光寺客殿「遍照殿」)
午後の部
  ・午後十二時≡十分
MC 余暇生活開発土
星川叔子先生
上演−放哉書簡と層雲記事で朗読会
題目−赴く前と事情が違ったか−座談会
・大正十四年≡月二十三日 荻原井泉水宛
五月十二日  荻原井泉水宛
五月二十八日 若狭小浜小倉康政・政子宛
六月十七日  若狭小浜 荻原井泉水宛
日付不明   若狭小浜 台湾小針嘉朗宛
七月十四日  京都下京区東京小澤武二宛
昭和二十五年四月競(層雲)「放哉さんと私」
             杉本玄々子記
七月三十一日 京都龍岸寺 荻原井泉水宛
八月十一日  京都今熊野 井上一二宛
感想−上田行雄氏ほか出席者の皆さん
    解説−日本放哉学会 小山貴子先生
表彰・午後二時
    放哉ジュニア賞授与式
    港 育広 土庄町教育長
講評・三枝祥三先生
終了・午後二時三十分予定
100年の節目真意を確認
過去を確認して
 満99年目に執り行うのが100回忌法要である。自由律俳人尾崎放哉が没したのは1926 (大正15)年、「放哉」南郷庵友の会は1980 (昭和55) 年8月20日に結成され、放哉入庵の日に規約が施行された。 第三条 目的「すぐれた俳人としての放哉との縁を憶い、『その文化的つとめ』を果す。」と、目的達成のため、その事業の一つに放哉忌の企画・立案があります。 「100回忌の節目」 に向って、手始めの教材として、須磨寺より、放哉から会社員時代の仕事仲間であった、佐藤呉天子宛て、その内容の一部分に 『小生ノ如キ真正直ノ馬鹿者』と、この書簡を選んで一本当の気持を 語る一会を開いた。その反響は様々だが、彼がク島に来るまで″その前後に関わる出来事を一つひとつひも解いて行く学習が必要と思った。「何故…放哉は南郷庵を終焉と定めたのか」 の問いに、感動的な場面を引 合いに導いて行く事が重要であり、連綿と受け継がれてきた「小豆島の放哉」を後輩に委ねると答えたい。
会員 見目誠(けんもくまこと)
 放哉さんをこよなく愛した、『呪われた詩人尾崎放哉』 の著者見目誠氏(故人) は「放哉の文章類は人間を考える際の最大の参考となるばかりでなく、実に味わい深い書で、感動性も秘められており、俳句作品 と並ぶ立派な『作品』 である。」と印象に残る話を1994 (平成6)年「小豆島尾崎放哉記念館」放哉の入庵日 (8月20日) 夜、開館記念に開催された「夏季講座」 で語った。それから、放哉文学の魅力とは何 だろうか…夜の会は、全国から研究家が集う情報発信基地となり、『日本放哉学会』 の誕生に至った。学会は放哉に関する資料及び図書の整理等、「放哉」南郷庵友の会の目的達成のために大きく貢献した。その中心的 存在が見目氏。将に土庄町に功績を残し放哉研究は第六号まで発刊されて、国会図書館に収蔵されている。
供養のために朗読会
 取り分け彼の手紙は、目立ってカタカナづかいや難しい漢字が多いため大変よみづらい、「何々」と笑うさまを交え、今回、高橋・大谷さんお二人のリレー朗読だったが、緊張した様子も伺えたけど、相当読み込んでい たようだ、聴く者に響きのよい音色とリズムには彼の気持が本当に乗り移った棟で深い感動を覚えた。
 2022年11月29日(株)小学館発行。孤独の俳句「山頭火と放哉」名句110選。と題した本の中、芥川賞作家・又書直樹氏が放哉55句を選んでいる。
神戸・須磨寺にて21句の中からピックアップして、
 こんなよい月を一人で見て寝る (写真不掲載)

 又吉氏の鑑賞は、「一人で月を眺めていて、『よい月だな』 と感慨にふけることがある。一人だからこそ月と対峠できるわけであり、その光を賛沢に浴びることができるわけだが、どこかでこの喜びを誰とも分かち 合うことができない淋しさも感じてしまう。
『一人で見て寝る』 という響きにはそんな淋しさも含まれている。一人だからこそ感じることのできた喜びと淋しさが旬の内部で循環している。」と、又吉さんは解釈している。
 佐藤呉天子あての書簡のはじめ頃、「唯閑寂ノ境地」最終盤にも「只今ノ処デハ 『孤独閑寂』 こ向ツテ突進シテ居リマス。」とある。大師堂のお留守番は落ち着きを保ち安定している様子ですが、この、後彼の運命は どうなって行くのだろうか…。彼に起こつた事実と現象を引続き書簡を通して振り返って見ましょうか。(克)
第2回放哉の書簡を読む会

大正14年三月23日荻原井泉水宛 (内容省略)
大正14年5月28日小倉康政・政子宛 (内容省略)
大正14年6月17日 荻原井泉水宛(内容省略)
大正14年7月14日小澤武二宛
啓、当地で、井氏に面会して渡台し たいと思ひます。それ迄は表記に居  ます、此度、小浜から沼津、大阪、  京都と大急行をやつて、大に失念し 能保流君からたのまれた原稿と、九州、 星城子氏からたのまれた原稿とを忘れて、無くしてし まつた事です。(小生宛、同人から私宛たのまれたの は他になし)誠にすまぬ、序に、あんたから、御こと わりして下さい、虫がよいと思はずに、全く不意に忘 れたのです(台湾からことわり状を出します考) 電報 有難う存じます。井氏にあふ迄は表記に居ます、手紙 を下さい。 「春秋」も送つて下さいませんか
大正14年9月発行層雲9月号(78〜79)
京都より(P・S) 井泉水
七月二十日、私が京都の方に来て、 叙の宮の新しい寓居に移つた日、放 哉が例の諷々乎した風をして、やつ 諷々乎とはいふものゝ今度は私が東京 いつ京都に見えるか、辟洛次第早速逢 ひたいと云ふて束てゐたので、突然ではなく、又、用 件があつたのだつた。彼は須磨寺を出て以来、小濱の 常高寺といふ寺に行つて寺男をしてゐたが、そこの寺 が破産的の状態になつたので、更にどこかに身を托す べき所を求めねばならぬ、その相談だつたのだ。彼は、 台湾へでも行つて小学校の先生でもしようかと思ふと 云つてゐた。然し其とても確かな口があるといふので はなく、そこに一燈園昔時の友人がゐて、何とかなる だらうから来ぬかと誘はれたにすぎぬついふのだつ た。そこに北朗(写真10) も同座して、董漕にまで落 ちて行かなくても、京都の内でどうにかならぬことも あるまい、と云ひ、私も同説だつた。
□荻原井泉水 その翌日、私は放哉と共に知恩院内 の常照院に住職を訪問した。そこは放哉が一燈園を出 て後、暫く托鉢生活をしてゐた所なので、再び置い もらぬだらうかと思つて行つたのだつた。共和尚は も好く知つてゐるし、前に彼が常照院を出た時も私 彼の蔑めに飲ました酒が因をなしてゐたので、私は に詫びを入れた事もあつた。共時は遂に叶はなかつ ものゝ、今度もう一度詫びようといふ事にして、彼 行つた。もと′ト酒の上の 事にすぎないのだから、和 尚は今は怒つても何でも なかつた、却て彼に好意を すら持つてゐる風だつたが 今は他に人が二三人はいつ てゐて其以上は多すぎると いふので駄目だつた。其代わり龍岸寺という寺に紹介をしてくれた。
□井泉水 放哉は龍岸寺へ行つて、つとめてゐたが 此庭はとてもたまらない、と幾度もハガキ  をよこした。で、私も内島北朗 も、京都に近い 所の友人や誌友にたのんで みたのだが、何れもさし當 り急にといふ事は叶はぬら しいのだ。
さうしてゐる中に本月の八日に、彼はとうとう寺を山 てしまつたといふて、又、私の所へやつて来た。龍告 寺の和尚がこんなものをくれたよと云つて、金三園と 書いてある封筒を私に出して見せたが、中は大分減っ てゐるらしく、彼は酒気をにほはしてゐた。龍岸寺が たまらないといふのは、労役がはげしいといふ事より も、其寺が町中のゴチヤゴチヤした中にあつて挨つぽく て、且つ和尚が非常に俗物だといふのだ。彼はどんわ 淋しい所でもよし大根の尻ポばかり食つてもいいか ら、海が漸う大きく前にあるやうな所に行きたい、と 云つた。それから彼は私の所にとまつてゐた。私が二 枚敷く蒲圏を一枚づゝに分れば二枚の蒲囲になるのや あつた。
□井泉水 何しろ、彼はしきりに海を懸しがつて入 る。而して私が小豆島の一二に彼の身の振り方について 依頼状を出してある事も話してあるので、小豆島へ行 つてはいけないだらうかと云ふのだ。さあ、一二に成算があればいゝが。

昭和25年四月号「層雲」『放哉さんと私」より

彼が島に来ると云ふ井先生からの便 りをもたらして井上一二さんが私を 訪ねて下すつたのは大正十四年の七 月頃の暑い日であつた様に覚えてゐ る。井先生のお便りの始終を聴いて私は一二さんに云 ふたものだ。
サア、急に庵をと云はれても 庵にはそれぐ留守番 がゐて心當りもないし、特に放哉さんが自活してゆけ る庵と云ふと一寸六ケしい事だと思はれますが、庵は 八十八ケ所の内寺院を除くと六十幾つの庵はあるには あるが、その中でも自活して行ける庵と云ふと数へる 程しかないのであります…困つた事ですね と迷惑そうに私が云ふと一二さんも非常に恐縮された様子で、 賓は先生からのお手紙なんですがこ ノ庵の事は私ども門外漢には一向に 様子がわからないので、まして自活 してゆけるとかなんとかと云ふ事に なると実際困るんです、それに放哉君はお酒が好きな んだそうで、今迄、何處でもコノお酒で失敗したと 云ふ事なので眞賓にどうかと思ふのです、がマア霊場 の事は貴僧がお詳しいので御相談やらお願ひやらとい ふ詳けなのです。
□杉本玄々子 サア、お酒が止められんと云ふ人も 困つたものですね ー 庵はマアゆるゆる探す事にしで …ですがク酒呑み″と云ふ事が一枚加はる事になると、 島へ来てもらつてお世話をしても将来が案ぜられます ね 一
口井上一二それなんです、どうしたものでせう− (当惑の面もちであつた。)
□玄々子 その内に通常な庵が見つかつたらお知ら せするから、それまで島へ来る事は見合す様に返事を 出すより仕方がありませんですねと云ふと、一二さん も一二さうするより外にすべがありません、では左様 に先生にお返事をいたしませう。その内貴僧もお迷惑 でせうがよい庵を探して見て下さい。玄々子と云ふ専 で辞去されたのであった。

大正14年8月11日井上一二宛

拝啓、誠二突然ノ事デアリマス、恐 縮千万御許シヲ乞ヒマス、先日、井 師カラ御願シティタヾイタ通リノ事 情デ何トカ御世話様ニナリ度イト思イマス、 己二四十才ヲ超ヱマシタノデ、ハゲシ イ労働ハ、到底、ツトマリマセン、ソコデ、簡単ナ御 掃除卜御留守番位デ、ドッカ、庵ノ如キモノヲ、オ守 リサセティタヾキ度御願致シマス、ソレニ、小生、海 ヲ見テ居レバ、一日気持ガヨク、之ガ、一番ピッタリ 来マスノデ、之等ノ条件ヲモツテ井師二相談シマシタ 処、ソレデハ、一二氏二相談スレバ、ナントカ方法ガ ツクダロウト云フノデ、先日ノ御願トナツタワケデア リマス 誠二御イソガシイ中恐縮千万デスガ御助力御 願致シマス 只今、オ寺ハ出マシテ、井氏宅二泊ツテ 居リマス、イツソ、突如相済マヌガ、直接費宅御伺シテ、 イロ/\、御目ニカ、ツテ御話シタリ御願シタリシタ 方ガ好都合ダロウト云フ事二井師卜御相談シマシテ、 此ノ願状差出シ、小生、明晩力明后晩、当地出発、貴 宅御訪問スル事トキメマシタ、誠二勝手千万ナ義デ無 礼ノ次第デアリマスガ井師モ十五日頃ニハ帰京ノ事ニ ナツテ居リマスシ、婁々、ブシツケ乍ラ御伺スル事ニ キメマシタ、何レ御目ニカカツテ色々御願申シマス 何卒ヨロシク御願申シ上ゲマス、敬具   十一日 朝
井上一二様楊下        尾崎放哉

□井泉水 さあ、一二に成算があればいゝが若しさ もないやうな場合に、こちらから押掛けてゆく事は、 あつかましすぎはしないか、と私は云つたが、彼は、 たゞ一二を訪問する意味で、海を見たい意味ばかりで も行きたいといふので、私もそれではさうし給へと云 つた。島行きの金は放哉後援会から融通する事にした。 後援会といふのは先きの日、私の宅で句会があつた折、 放哉は龍岸寺から一寸暇をもらつて来てゐたが、其話 をきいてゐた同人の一人が名を匿くして彼の為に煙草 代にでも渡してくれといふて金を送つて来たので、其 を機会に京都於ける唯二人の同人としての私と北朗と が放哉後援会といふものを作つたのだつた。
□井泉水 で、ゆうべは放哉の送別曾といふ事にし て、北朗も来て、私の所で三人で夕食をたべた。これ からは小豆島へ行つても、どこへ行つても本当に禁 酒してもらひたいものだといふ希望も話した。而して 是は最後の酒だといつて、ビールをぬいた。戎意味で は淋しい会だつたが、ほんとうに打とけた心の集りで、 みんな好く話して好く笑つて、北朗が盆をどりの唄を きかせたりして、十二時なんかはとうに過ぎてゐたの だつた。
その時も、放哉はこんな事を云つていた。「自分の同 窓の奴らが知事になつてゐたり重役になつてゐたりす るのは一寸シヤクだけれども、何クソ、あいつらにオ レの句が解るかと思ふと、胸がすくやうな気がする」 と − 彼は今、何も持つてゐない、何もかも捨てさつ た無一物の生活をしてゐるのだが、たゞ一つ自分の俳 句といふものだけを持つてゐる。それだけ眞剣なのだ。 彼は又、句帖などいふものを一つも保存してゐない。 句が出来るに従つて、有合せの紙に書いて私の所へ送 つてよこす、私が層雲に採るに任せ捨てれば捨てるに 任せて一切執着しない。「作つてしまつたものは振り かへらない、たゞ前進あるのみだ」とも彼は云ふのだ つた。彼の句の盆々多々にして行きつまらない所以は こゝにもあらうと思ふ。
けふは、彼はケロリとしてゐた。ゆうべ何を云つたか さへも彼は忘れてゐるであらう。それから彼は、後援 会用の短冊を買ひに自分で七條まで行つて来て、 無い金の中からリンゴを御土産に買つて来た、かうい ふところが彼のいゝ所かもしれぬ − 其れに句を書いて しまつてから新聞紙を顔にてゝ昼寝してゐる。其間に 私は彼に持参してもらふべき一二に宛てゝの添書を書 き、又、此の「京都より」を書いてゐるのだ。彼は今 夜十時半の汽車で立つといふ。幸にして小豆島に落付 かれゝばいゝが、其が出来なければ台湾へ行かうかと も彼は云つてゐた。若しさうなれば、再び何時の日に 逢へる事やら解らないのである。私は今夜、彼をもう 一度京都のお名残に駅まで送つて行かうと思つてゐ る。斯う書いてゐる所へ彼は扇子をもつて来て、私に も書けといふので −
 翌からは禁酒の酒がこぼれる 井泉水
ゆうべ作つた句を共に書いて渡した。
コノお返事、と彼が島へ来るのと丁 度入れちがつて − 間もなく彼は島 の一二さんの宅に落ついて
眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に に来て居る
島の小娘にお給仕されている
と云ふ風な旬を生んで、都落ち、台湾落なんて云ふ、 これから先の心配 − 是からどうして生きてゆくかと 云ふ自分の生きる苦痛 − そう言つたものはケロリと 忘れた − と云ふ風な朗らかな、極めて自然な彼れを 見出すのであつた。
こうした不用意の内に島へ来て仕舞つた彼をどうした らよいかに就て一二さんは色々と心をいためられた事 であつた。南郷庵の提供も……兎にも角にも、殆ど無 収入に等しい庵である為に……是から自活してゆかね ばならん放哉さんに対して、コこヱお住ひなさいとは、 どうしても自信が無くて申上げられなかつたので一應 庵を御覧になつて、自分で住んでみようと云ふ気持に おなりの様なれば −と云ふ事で兎も角も此の南郷庵 に一先づ落つく事になつた。
主食から味噌、醤油、薪炭なぞ〈明日からの彼が糧 は一二さんが調べて運んで下さるし、蒲圏、蚊帳、鍋 釜なぞ簡単な生活調度品は西光寺の古いもので辛抱し てもらつた。11がこんな事よりも彼を無性にうれし がらさせ、南郷庵を彼が死に場所と決心させたものは、 南郷庵には−庵主として為すべき強制的な仕事の何 ものも無いと云ふ事であつた。
彼の名誉と地位と財賓と、そして彼の最愛の妻までも の彼は生活にまつわる一切をかなぐりすてゝ、一燈園 に飛び込んだものゝ其所には "お光の生活″であるベ き、下座奉仕の、彼れが生きてゆく為には与儀ない半場強制的な奉仕がまつてゐた。須磨寺での堂守りに 堂守りとしての為すべき朝早くからの仕事がまつてい た。寺男には寺男としての泣き出したい様な馬鹿げた 仕事の毎日があつたにちがい無い。が南郷庵には それが無かつた。庵は無収入に等しいものであると同 時に、其所には、寝やうと、起きようと、酒を飲まうー 一日働かざれば食ふべからずとは誰れも云ふもの はなかつた。彼を束縛する何物も無い、庵主として生 きてゆくべき制約的な仕事そのものがなかつた。毎日 の彼れは彼れの心のおもむくまゝに全く他からの生活 する為の制約から解放されて、彼の望んだ文字通り 身心一切 − 全く無一物の生き方に無健件にヒタル事 が出来た。
彼れは無性にうれしかつたにちがいない。
第六回尾崎放哉賞決定
             自由律俳句結社「青穂」主催
◆尾崎放哉大賞
母の内にあるダムの静けさ
              兵庫県 田中  佳
◆春陽堂賞
和音のように揺れあって光は春になる
               栃木県 久我 恒子
◆優秀賞
筆の先で少し湊んだ戟争        茨城県 一本槍満滋
本当のことわからないまま散り始める  山口県 富永 順子
会議前のコピー機から生まれたての体温 東京都 こ ね 鉢
母の顔になつた妻と笑う乳の匂い    東京都 さいとうこう
マーマレードが朝の蓋を開ける     京都府 楽 遊 原
◆入 賞
落ちてから生きようとする輝を見た   東京都 諸星 千綾
包丁の音垂直に朝の林檎切る      山口県 久光 良一
行商の女の体臭が蒸れる浜の駅     山形県 菅原  誠
地球の子でよかったのか星月夜     大分県 徳永 純二
吊り革の輪で朝陽を掬う        埼玉県 稲毛 和貴
米を研ぐ背に怒られている       愛知県 高々 骨太
秋明菊ゆれる忘れていい赦してもいい  山形県 若木はるか
原罪を問うてくるたんぼぼ       山口県 野田智寿子
望まぬ孤独に鎌上げる培榔       兵庫県 前畠一博
母がいたカレンダーの画鋲穴      北海道 坪井 政由
◆敢陶質
また会えるから舌べろを出している   東京都 早舷 煙雨
高校生の部
◆最優秀賞
フラスコの中ぎゆうぎゆうの都会
      武蔵野大学付属千代田高等学院 信田龍之介
(尾崎放哉賞ホームページに掲載)
自由律を動かせ
第7回尾崎放哉賞募集
◇主催 自由律俳句結社「青穂」
    (代表‥小山貴子)
◇募集規定
1 投句料 二句一組で二千円
 (何組でも可/郵便小為替または現金書留)または次の振込口座へ
高木和子ゆうちょO1740−9−150523
 ※《高校生の部》は無料です。 ただし一人二句まで。
2 未発表に限ります。違反のあった場合には、表彰を取り消します。
3 応募用紙または原稿用紙、 メールでも可。(郵便番号、住所、氏名(フリガナ)、俳号(フリガナ、ある人のみ)、電話番号、年齢、記入のこと)
 ※高校生の部は、エクセル入力のみ受付。詳しくはホームページをご覧ください。
※応募用紙はホームページかゝもダウンロードできます。
◇応募先 〒861−2403
 熊本県阿蘇郡西原村布田l155−1カーサスリーゼ201高木架京宛
 メールの場合(小山宛)hosaisan581@gmail.com
◇応募締切
 二〇二三年十一月三十日
◇表 彰
 《一般の部》
・尾崎放哉大賞
  賞状と賞金十万円  1名
・春陽堂貴
  賞状と賞金五万円  1名
・優秀賞
  賞状と賞金一万円 5名
・入 賞
 賞状とクオカード三千円分 10名
・敢闘賞
   記念品
 《高校生の部》
・最優秀賞
  賞状とクオカード五千円分一名
・優秀賞
  賞状とクオカード二千円分 十名
◇表彰式(場所未定)
 二〇二四年五月十九日
 青穂大会にて表彰を行います。
◇後 援 ・「放哉」南郷庵友の会
・小豆島尾崎放哉記念館
・鳥取県
・春陽堂書店 など
◇問い合わせ先
・TEL・FAX (06)6844−1719 (小山貴子)
hosaisan581@gmail.com
第22回放哉ジュニア賞決定!
ホテルに一生とまりたい。
どんぐりコロコロ 頭がいたい
木っていつもどんな気持ちなんだろう
そとは明るい わたしはくらい
生命は 命をかかえて 生きていく
授業参観水族館の魚になつた気分
おこめを つくつている みらいのぼく
夏の景色 海の声と 魚のおどり
意外と 自由じゃない 自由研究
任せたはおれは知らんのていねい語
あせは海と同じ味のよう
不思議ってなんだろう
冬はみんな なまけもの
わたしも冬みんしたい
ふとんからはがれたくない
小指が出しゃばる
青春とはなにか、そんな今も青春なのかもしれない
風も寒いと叫ぶ冬
テレビと目が合う
皮むいて ひもでつるして佃揚につけて陽や風うけて
ゆれるほし柿
土庄小二年
土庄小三年
土庄小四年
土庄小五年
土庄小五年
土庄小五年
豊島小一年
安田小三年
安田小六年
星城小六年
修立小三年
修立小四年
修立小五年
修立小五年
修立小五年
修立小六年
土庄中一年
豊島中二年
豊島中三年
修立小三年
須加田隼人
川中袖季
土山駿哉
岡本美波
向井愛翔
須藤未羽
中山雅人
高橋空偉
向山幸祐
日岡 玄
平井純怜
高垣一瑠
田淵陶子
入川季子
岸本りら
八木谷允紀
角森穂乃花
中井雅優
高橋南美
秋井息吹
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