昨年「1996年」7月荻原海一氏の御好意により拝見させていただいた放哉関係の資料は、いずれも貴重なものばかりであった。夏の休暇のほとんどを、持ち帰った資料の整理に費やしたがとても追いつかず、いまだにし続けているのが実情である。その中でも圧巻であったのは、二千七百余句に及ぶ句稿であった。今回発見されたものは、小浜時代と小豆島時代のものである。この句稿から井泉水によって選ぱれた句が俳誌「層雲」に発表されているので、両者を照らし合わせてみると、小浜時代の最後の部分、小豆島へ来た当初と最後の部分が欠けているだけであった。今まで放哉の句稿は散逸したものと思われ、事実、その部を御所蔵の方々もおられるわけであるが、こうして、かなりのものが井泉水の御手許に残されていたことは、放哉研究にとって大変有難いことといえる。放哉は生前、一冊の句集も出さず、没後に井泉水によって出版された句集「大空」が唯一の句集であった。そして、この句集収載の俳句は井泉水の選を受けた「層雲」誌上の句のみであるから、この大量の句稿の出現によって、今後、様々な角度からの発見が可能になることと思われる。
小浜時代といっても、わずか50日余りのことで、小豆島でも、一年に満たぬ間に病に倒れてしまうのである。その間に少なくとも二千七百余もの句を作ったのである。放哉は書簡の中で、「昨日、武二氏へ百句送る。毎日、十句ハ最小限ニ作るのですから、」「大正十四年九月十一日、荻原井泉水宛」などと述べている。一日10句を日常の生活の中で作り続けるということが、どれほどの努力を要することであるかは、実際に句作をなさっておられる方々にはわかっていただけると思う。けれども、その事実を目の当たりにして、彼の凄まじいばかりの創作意欲を実感した。句稿である故、全てが秀作とはいえないであろうが、放哉は雑記帳に認めていたものを推敲し清書して、井泉水のもとへ送っているのであって、納得のいく作品であったろう。半紙に丁寧に書かれた一字一字には、その達筆ぶりも伺える。今回発見の句稿は、近々俳誌「随雲」に掲載される予定であるので、ぜひ御一読願いたいと思う。
このように、まとまった量の句稿に目を通すことができるようになって、句の制作時がより明確になった「中には日を特定できるものもある。」従って、「尾崎放哉全集」に収載されている書簡や「入庵食記」などを合わせて読んでいくと、その背景がよくわかり、興味深く味わえるものが少なくない。そこで、この紙上にてその一部を見ていただくと共に感じたことを述べさせていただきたいと思う。
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「句稿16」ーこれは、全部で31束あった句稿を、それらの中にある「層雲」発表句をもとに年月順に並べ、便宜的に付けた番号である。「句稿16」は全部で99句が記されている句稿であるが30句目の前に次のような通信文が朱筆で入っている。
以下、二週間ノ病床雑吟感ジノ無クナラヌ内書イテ見マシタそしてその後に、50句が記されているのである。この「病床雑吟五十句」とは、井泉水に宛てて、
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此間、風邪で、一週間程臥床して、五十句、病床吟を送って置きました
「層雲社へ」来月でも亦、ゆつくり御らんをねがひます。「大正十四年十一月四日」
と書いている他、九州の飯尾星城子、島丁哉、大阪の肝昭余史耶島内の井上一二といった「層雲」の仲間達に報告している、まさにその折のものと思われる。諸氏に宛てた書簡を総合してみると、南郷庵に入った頃(8月20日頃か)より体調は思わしくなかったが、いよいよ咳と疾がひどく発熱もし、10月の半ば頃より月末まで床についたとある。島の医師の診断は「左肋膜癒着」である。この病臥の二週間を放哉はどのようにしているのだろうか。50句に注目してみた。
咳入つた日輪暗む
病床吟筆頭の句である。激しい咳をした経験のある者なら、胸からしぼり出すような、頭がクラクラするほどの苦しさが伝わってくる句である。この句は星城子宛書簡「同年十一月一日」にも、また丸亀の潮光社の例会にも、それぞれ、
咳込む日輪くらむ
咳き入る日輪くらむの形で送っているところから、放哉の自信作であったのではないか。最近では、埼玉県の宇田川民生氏ー木版画家ーが、放哉の句をテーマにした作品の個展を開かれたが、彼の作品にも、「咳き込む」の句が見られる。三句の中では、私は「咳き入る」の句が最も完成度が高いと思う。「入る」には、咳いて咳いた時の息の細さや、その後に思わず深く吸い込んだ息が気管の奥深くへ入って行く感じがする。しかし、表現が直載的すぎた為か、井泉水の選には残っていない。「但し、井泉水は、「層雲」に載せるに際して三段階の選をしていると考えられるが、その第一段階の選には入っている。」
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寝床から首あげて見る黄菊咲き出した
豆菊咲けりなんぼでも黄に咲く
熱の眼に黄な花の朝よろし
句稿を通して、様々な花が詠まれており、その知識の豊冨さに驚かされたが、それは身近なものを題材とする句が多いことと、中学時代よりの定型俳句の句作歴の長さから、「季語」として自然の景物をとらえる修練によるものかという程度にとらえていた。しかし、この度、鳥取の旧自由律俳人の方より沢芳衛氏の書簡を見せていただく機会を得、沢氏の追憶から、放哉が花を大変に好きであったことを知ることができた。そういえば同じくこの度発見された書簡で、放哉がまだ東洋生命保険会社時代のものにも次のような一節があった。
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大分秋の草葉が見えそめ申候、悌の前が朝夕に賑やかに相なり、なによりうれしく此の頃のたのしみに有之候「大正七年八月三十日、井泉水宛」
また、当時の書簡の中では次のように述べている。
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庵の東側の山よりの小さい庭に、黄色な目玉菊が、たくさんに毎日咲き出したので、何よりうれしく、毎日、朝から、こればかり見て居ます。お大師さま、お地蔵さまに、何遍折つて来て、さしあげてもアトから、アトからと、咲いてくれます。実にうれしい。ナル程、黄菊白菊其外の名は無くもがな、であります。そして大きな菊よりも、寧ろ、コンナ、小さな、目玉菊の方が、庵には、又、私には、ふさはしい気がして居ます。「同年十一月四日、井泉水宛」
訪れる人とてない淋しい生活の中で小さな無数の黄菊に慰められている姿が彷彿としてくる。
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- 寝床から返事してことわる
生卵子こつくり呑んだ
春菊の香ひがふと通つて行つた
放哉は日常をさりげなく詠む。さりげない生活の断片から、まるで彼の部屋をのぞき込んでいるような現実感があふれている。この描写法は定評のあるところである。
- 熱いお茶一杯呑みたくて寝てしまう
火の無い火鉢が見えて居る寝床だ
井戸水汲んで置くだけの寝床
独り住まいの病臥は、気が滅入るばかりでなく、生活上不都合なことが多いに違いない。放哉が痛切に希ったもの、それは火のホコホコおこる火鉢と熱い一杯のお茶であった。
- 火ヲ、オコシテクレル人モナシ、オ茶一杯クレル人モナシ、一人ノ病気ハ、全ク死ンダト同様也、(「入庵食記」、十月二十三日)
「熱いお茶」の句は、それを願いながら結局入れてくれる人もないままに寝てしまう自分をよんだもの、「井泉水」の句も、喉が渇けば冷たい井戸水を飲むしかない生活を詠んでいるが、状況がわかっていないと句意をつかみきれないきらいがある。
その点、「火の無い」の句は、うそ寒い部屋の感じ、人気のない徒しい暮らしが見事に表出されている。この句の特徴は何か。それは視点の違いであると思う。この句には二つの視点がある。火の気の無い火鉢を眺めている自分の眼とその自分を見つめる眼だ。しかも感傷的な言い方をせず、突き放したように描くことで成功している。この句は井泉水の選に人り、「層雲」に掲載されている。
病床吟の中ではもう一句、選に入った句がある。
淋しきままに熱さめて居り
「熱」の句が多い中で、熱と向き合った句はこれだけである。熱が下がって意識が次第に明確になる、だからといって起き上がって何事かをするのでもなく、じっと横たわったまま、「淋しさ」に浸っている自己を詠んでいるのである。この時の放哉の心に去来するものは何であったろうか。
妻の手を感じ熱が出てゐる夜中
すぐ前の句に、
夢を見せてくれる熱よ熱恋し
という句がある。熱で朦朧とした頭の中に、ふと妻の気配を感じたのであろうか。「妻の手を感じ」という表現で、優しく夫を気遣う妻馨の立ち居振る舞いが浮かび上がり、かつての夫婦の暮らしが偲ばれてくる。句稿の中にしばしば登場する妻、その大半は慈しみがにじみ出ている。結果として、夫婦は別居となり、音信もままならぬ関係となった。また、保険会社の職を辞し、大陸を転々とする苦労を味わうなかで、決して平穏ではなかった二人の暮らしを推測するに難くはないけれども、このような句に触れると、放哉の奥底にある優しさを感じずにはいられない。
一人病に伏しつつ妻を恋うた名句であると私は思う。
- 熱の手に晩の郵便受けとる
掃かねば挨だらけの手紙よんで置く
端書かきかけて出て来た熱だ
うれしい手紙が熱の手にある
熱の手に持たされて居る三角な墨
朱筆を握つて居る熱の朝であつた
郵便やさんから咳きこむ手紙受取る
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病中の彼を支えたものは、句作であり、また、「層雲」の仲間との通信であった。50句の中に7句という数の多さにも表れている。「尾崎放哉全集」によると、10月18日より10月31日迄の間に23通の手紙を書いている。放哉も書いたが配達される手紙も多かったようだ。しかし、病をおして書いたにもかかわらず、10月の間に書いた手紙はほとんど病のことに触れていない。特に井泉水に宛てては、まだ病臥中にもかかわらず、「病気全快、乞御安心」「10月26日」と書いたり、臥床期間を二週間」と短めに報告したりしている。放哉と井泉水は巡彼が一燈園に入って以後、親交が深まっており、小豆島へ発つ前には随分お世話になっている。「放哉を島へ送る時」と題した井泉水の日記も解読中であるが、内島北朗を加えた三人での深夜に及ぶ屈託のない歓談など.また紹介させていただきたいと思う。こうして、俳句の指導者としてばかりでなく、生活上のことまで親身になってくれる井泉水へ心配をかけさせまいという配慮からであろうが、一方で、結核の再発か、という忌まわしい現実に気力で立ち向かっていこうとしていたのではなかろうか。放哉が病名を伝えたのは、星城子だけであり、その彼にも、
乞食放哉決シテ病気ニ負ケス、「同年十一月一日」
と記している。とはいえ、実際には熱の手で手紙を受け、熱の合間に書簡を認めていたのである。無技巧な句が並んでいるようだが、中で興味深いのが4句目の作品である。「うれしい手紙」とは、手紙の内容を指しているのではなく、手紙をもらったというそのことへの喜びであろうし、それが「熱の手」に置かれた量感、あるいはその冷ややかな触感に待望のものが「ある」という実感を味わっているように読み取れる。又、最後の「咳きこむ手紙」も情景がリアルに浮かび上がり、さりげないようにみえるが巧みな表現であると思う。
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このように病床吟を読み、改めて「句稿16」全体をみた時、冒頭の句、
一日風吹く松よお遍路の鈴が来る
が味わい深く思えて来た。この句は当時の放哉の心境を代表した作ではないかと思えてきたのである。病床吟には入っていないが、11月2日の書簡にも見られ、作られたのはほぼ同時期と思われる。この句に見られる透き通った静寂さは一体どこから来るのだろうか。私はこの句の後半は放哉の心象風景であると思う。つまり、現実には「お遍路」は来ていないのだと思う。季節的にもそう考えるのが自然ではなかろうか即ち、実際には放哉は病床にいて、一日鳴り止まぬ松籟をきいているだけなのではないか。しかし、「松よ」という呼びかけとも詠嘆ともつかぬ表現には、風音を立て続ける松への親しみがこめられている。なぜなら、この音の彼方に、やがて春が来て、訪れるであろうお遍路の鈴の音を心の耳を澄ましてきいているのである。この句に感じられる静寂さは、放哉の吹きすさぶ松風から待ち焦がれる春の鈴音をききとろうとする心持ちから来るものかもしれない。確かに今ある状態は悲惨ともいうべき極限の生活であるが、南郷庵という無言独居の居場所を得た心の安らぎは大きく、病の苦しさや生活の不安、孤独感等様々に揺れる心も結局はこの平穏な心境に戻ってくるのではないか。だからこそ、この句を冒頭においたのではではないか、とそのように思えて来たのである。
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さて、「句稿16」の残り20句は、病の癒えた後の句であろうか、「熱」も「咳」も一切出て来ない。その中で三句、井泉水の選に入った句がある。しかもその三句ともに井泉水による添削を受けているのである「層雲」には、
- 風にふかれ信心申して居る
小さい家で母と子とゐる
淋しい寝る本がないとなっているが、句稿つまり放哉自身は、
- 風のなかに立ち信心申して居る
母子暮しの小さい家であつた
淋しいから寝てしまをうのように作っていたのである。今回の句稿の発見による成果の一つは、こうした師井泉水の指導があったという事実が明確になったということである。師による添削指導は、俳句の世界ではよくあることのようで、放哉の句にあっても不思議ではない。尤も、初めて井泉水の朱筆を見た時には随分動揺した。しかし今では私は寧ろ井泉水による厳しい選考と添削が、今日の放哉をあらしめたのではないかと思うようになっている右の三句をそれぞれ比べてみるとどうか。一番目の「風」で始まる句は、井泉水と放哉では句中の人物の意志の強さが違ってくる。信心を仏に誓い、お祈りを申している人物「多分、放哉自身」の気持ちの強さを、放哉は「風のなかに立つ」という表現であらわそうとしたのではないか、しかし、井泉水はそれを「風にふかれる」という表現にかえてしまった。放哉の、気負ってみせながらも実は体力もなく心細い心境を井泉水は素直に出すように改めたのかもしれない。
2番目の句は、原句「放哉自身の作」の焦点が「小さい家」にいくのを、井泉水は「母と子の暮らし」にかえている。放哉の目にとまったものは、母と子のつつましやかなささやかな暮らしであったはず、井泉水がそれを見抜いたというべきであろう。
三番目の句は明らかに添削によって数段優れた作品に仕上がっている。「寝る本がない」とは、淋しさをまぎらわす為の本すらないという緊迫した状況を描いている。孤独と向かい合うしかないという苦しさが端的に表出されている。それに比べると寝てしまうことでごまかされる淋しさなど大したものとは思えない。原作者をはるかに凌ぐ作品となっているのではないか。
まだ浅学で断定したことなど言えないけれど、放哉を他の弟子と比べてみると、井泉水の方にも特別なものがあるように思われる。呼吸の合った師弟であったからこそ、その添削が生きたのではないかと思う。
以上、「句稿28」について、思いつくままに述べさせていただいたが、彼の生活の断片やその折々の心境をじっくり味わえるのも句稿を読む楽しさかもしれぬと思う。そして、それらを的確に伝える表現の巧みさに感心し、放哉に魅せられている自分を再認識しているのである。
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