会報第8・9号
昭和十四年夏‐小豆島 −荻原井泉水講演録‐

「昭和十四年七月二十五日より二十七日までの三日間、小豆郡草壁町県立女学校(現小豆島高校ー整理者注)講堂において、小豆郡教育会主催のもとに「子規より放哉まで」と題して、井泉水師の講演が行われた。聴講者 300名。 井上一二日記 秘録東洋紡招致私記より
 平成八年四月 この時の講演記録が、小豆郡土庄町立図書館の井上一二文庫の中から見つかった。記録はノートにぴっしり書かれており、伊東俊二氏が速記したものである。
 なお、浄書に際しては、旧仮名使い、送り仮名、意味の通じるあて字は原文のままとし句読点、行かえなどは整理者の判断により行った。整理者 井上泰好


尾崎放哉について
正岡子規は俳句の形式を完成しました。野村朱鱗洞は形式上着を脱いで自然に親しみました。今日は上衣を脱ぐだけでなく、 一歩進んで裸になりませうーー
裸になって自然に親しんだ人があります。それは誰かと言ふと、尾崎放哉といふ人であります。俳句は着物であるか、裸であるかーー理論は抜きまして昨日は子規の句はカメラで自然を撮したやうなものでありそれでは駄目で紙と筆とで描かねばならないと言ひましたが、今日は、俳句は紙と筆とで写すよりも更に|歩進んで身を以て写さねばならないことを言ひたい身を以て自然を写しとった俳句がどんな句であるかと言ひますと
   小さい島にすみ島の雪  一二
「注ーこれは放哉の句、井泉水師の言い違いか伊東氏の速記違いであろう 整理者」
これは小豆島の句です。 一二は島に住んでゐます。雪が降って島いちめんの雪になる、自分はこの小島に生活してゐる、向ふには小島があり、その小島にも雪が降ってゐる、これは雪といふものを単なる風景、月、花、風の美のみに見てゐるのでなく、其処にも自分の生活があるのを見て、しみじみと美を感じてゐる、身を以て雪を感じた句であります。

   一日雪ふるとなりをもつ  放哉

朝から雪が降る。自分が雪に埋もれてゐるやうな感じがする。隣がある、隣もその通りであるーーこの隣ははなればなれにあるのではありません。直ぐそこにある親しい隣であります。人間といふ物はやはり隣があって、人間の親しみを感じるのであります。
これは、俳句の形式としてどういふものであるか、と言ひますと、二行的になってゐ、四つの言葉が寄り合って引きあってゐる。
俳句の骨組を持ってゐるのです。広い意味の俳句の形式を持ってゐるのです。
それを言ふ前に、この句の持つ直接の気持、この句の作者の気持が私達の気持に飛込んで来て、私達を感じさせるのです。
これは軍なる散文の一片ではありません。詩に違ひないのです。詩としても最も端的な詩であり、理論を通じてではなく、直接に響いてくる詩なのです。

        ※   ※

俳句が身を以て自然を写すやうになりましたのは、朱鱗洞が亡くなって幾年かを経た大正の末頃からでこれは放哉のみでなく、その道に連なる人々も皆さうでありましたが、一番顕著になったのは放哉であります。放哉の俳句がどうしてこのやうな行き方になったのかと一互いますと、それは放哉の生活、環境が一つのジャンプをしたからであります。
さう、放哉の心境が大きな飛躍をしたからであります。
その為にこのやうに句境が安々と延びることが出来たのです。俳句が大きなジャンプをしたことは、放哉がジャンプした気持によく似てゐるのです。
放哉は小豆島に縁の深い人であります。この島で死に、この島に墓もあります。放哉は明拾十八年生まれで、彼と私は同級で東京の帝大に居ました。私、初めは法科「英法」にゐましたが、放哉も法科で法律の勉強をしてゐました。放哉と同級であった人で、現在世間に名の著れてゐる人が多く、有田八郎も麟見祐輔も、丸山麟吉も放哉と親しかった人で、十河信治などは放哉とは大変仲の良かった人で、同じ下宿にゐて同じ釜の飯を食った間柄だったのです。
さういふ連中が政界に社曾に出て名高くなって行くとは反対に、放哉は小豆島に篭ってしまったーーそのいきさつが面白いのです。

        ※   ※

放哉は大学を卒業すると矢野恒太といふ人の東洋生命保険会社に赤門出の法学士として入社して、累進して、相当な地位を占めてゐました。日比谷の平川町に住んでゐた頃はよく私の家へも遊びに来ましたがその頃はなかなか豪著な生活をしてゐました。酒好きで、酒好きなのは死ぬ迄でしたがーーその頃から一風変ってゐました。会社へ行くのにも平常洋服を着なかったので、しかも袴なんかもはかないで、着物に兵児帯のぞろりとした風で行く・・・
或る時はまたタキシードを着込んで会社へ行ったり曾社の人が放哉を訪ねてその晩は泊り、朝になったら放哉が寝室から大島の着物を着て出てきて、そのまま曾社へ行くので驚いたといふ話がありますが、大島の着物が放哉の平常着であり寝衣だったので「俺の生活には寝衣とタキシードで沢山だ」と云ってゐたさうです。いい時にはタキシードの豪著な生活をしてゐるが、一方舞台が変ると島に隠れて焼米を噛って水を飲んでゐる。放哉には中間の生活がなく変った人でした。しかし仕事の上では遣手であって、朝鮮の火災保険会社の支配人に抜擢されて朝鮮に渡りました。その頃はえらい勢で成績も上げたのですが、妬みも受けて敵を作り陥れられて動機はそれだけでは無かったのですがーー人間の卑しさ醜さがしみじみ解るにつけて人間に対して嫌悪を感じて、極端な厭人主義になったのです。煩墳な社会生活は彼のやうな純真な人間性には反することが多かったのでせう。
会社の為には良心に反することも一丞はねばならない。お世辞も言わねばならない。自分の気持に反することでも言はねばならないーー。
それもあったでせう。肋膜を朝鮮で患ってからは健康も勝れなかった・ー・・それからもでありませうかその気持文献だけでは判りませんが、大曾社の支配人の地位を捨ててしまって内地へ帰ってきました。会社を止めるとき、曾社では壱万円とかを退職金として出したのを、そんな紙屑は要らないと云って、放哉は振り向きもしなかったといふことです。

        ※   ※

関東大震災のあとの頃、私も思ふことがあって京都に居たのでしたが、その頃に放哉は非常な決心をして地位ばかりではない、妻君さへも振り捨てて京都へ来て一灯園へはいりました。無一物の生活、無所有の生活を主張する天香さんに共鳴して飛び込んできたのでした。さうして、すっぱだかになって托鉢行願の奉仕をはじめましたが、放哉は天香さんにも余程信用されたらしく、一灯園の内には、物質的の経営にあたる宣光社といふ財団があるのですが、放哉が法学士であり理財の経験もあることだからと天香さんが思ったのでせう、宣光社の曾計を見てくれないか、と云われたさうですが、その時放哉は、私は算盤を弾くぐらひなら会社で給料を貰ってゐます、それは御免蒙ります、と言ってきっぱり断ったさうです。
その頃は一灯園は鹿ヶ谷にありましたが、ドラ息子を親がもてあまして、頼んであづけてゐるやうなことで、法学士といったインテリは珍らしかった頃で、天香さんは放哉を可愛がって方々へ連れて歩いて、天香さんが話をするのに、一灯園には斯ういふ人がゐるとか云って、放哉を一種のマネキンにしたーーといふようなこともあったさうです。そこで一灯園を去りましてただ働いて食はしてさへもらへばいい、何処かお寺に置いてくれれば其処でざんげの生活をしたい、と感じて丁度縁がありましたので、智恩院の内のあるお寺の寺男になりました。
私が尋ねて行ったとき、彼は一灯園の制服のやうになってゐる紺の筒袖を著て、漬物桶を洗ってゐましたが、私が尋ねて行くことは前から解ってゐて、その日は暇を貰ふことを和尚さんから許されてゐたらしく、手拭で身体をはたいて、その手拭を又腰に挿して私と一諸に連れだって出て、一晩語りあかしたことがありました。その頃の句に

   人を誹る心を捨て豆の皮むく 放哉

といふのがあります。寺にゐた頃の心境を詠んだ句です。自分を叛いた人々、いかに酷い人であっても.それはそれである、酷い奴だと思ってゐたが、そのやうに思へば自分が一層苦しむばかりである。そんな心は捨てく自分は豆の皮を剥くーーといふのです。放哉の気持をよく表してゐます。

   板敷の夕銅の両膝を揃へる 放哉

寺でありますから畳などは敷いてない板敷です。そこに膝を揃へて一燈園風に合掌して箸をとって食ふ、御飯を与へられたのをいただくといふ気持、それから夕銅といふので一日働いてけふも安らかに終ったといふ気持もよく出てゐます。
斯ういふ句を見ると、人としてのつつましい純な気持が私達の気持に飛び込んできます。これ等の句は机の上で出来る物ではありません。身を持って写さなければ出来ないものです。これ等は在来の所謂俳句として変った形でありますが、俳句以上のより強き力をもって私達の心を打つものがあります。

   漬物桶に塩ふれと母は産んだか 放哉

自分は今寺男になって、漬物桶に塩をふることをしてゐる、自分は世間的な出世はしないで斯うしてゐるのだが、母はこのやうに目分になれと生んだのであろうか。亡き母がこの姿を見たらどんなに思ふであろうか、さぞ泣かれることであろう。しかし、自分が斯くあらねはならぬ気持を母に理解してもらひたいものだこの短い句のうちに彼の述懐がよく出でゐます。

      ※     ※

以上のあげました句は、皆それぞれ、立派な句でありますが、人間としての悟り切れない気持が出てゐます母は産んだかーと云ったのは、純な気持ではありますが、悔ひと一蚕ひますか、 一つの感傷が残ってゐます。身を以て自然に飛び込むといふ態度からいきますと、これは精算せねばならぬのではないでせうか

  板敷に夕駒の両膝を揃へる」  放哉

これこそ徽悔の気持があります。ざんげの気持があるうちは、カラリとした生活には這入りきれないと言へます。

  人を誹る心を捨て豆の皮むく  放哉

この句からは溜息のやうなものがきこへます。弱々しいある感慨が出てゐます。この気持が出ている間は悟り切れない物があるのではないでせうか。中途半端な気持であり、これらの句には未だ真実の放哉は現れてゐなくて、出来上る迄の中途にある句であります。そのうちにある事情で、その寺の和尚さんから放哉が勘当されまして、そのことは誤解から起きたことなので、放哉は気の毒な立場だったので和尚さんの息子さんの京都大学を出て十五銀行に勤めてゐた人が、放哉に同情してくれたのでしたが、とうとう他の寺へ行かねばならない事になって、神戸の須磨寺の大師堂の堂守になりました。

    ※      ※

放哉が亡くなって暫く経った頃、私、須磨寺へ行きましたら「みくじ二銭」だとか「ろうそく二銭」だとか、放哉の字の墨痕淋滴としたのが掲ってゐるのを見たのでした。お堂は三間四面ばかりの小さいものでしたが、しとみ風の格子もあり天蓋もあり、荘巌道具もあり、可成り整ってゐて、お堂の中には左手に机をひかえて、お爺さんが頬杖を突いて坐ってゐました。その場所こそ放哉の席だったのに違ひない・・・となつかしく見たのでしたが・・・彼はそのやうにして大師堂で、おろうそくをあげてゐたのでした。菖時の句に

   こんな好い月を一人で見て寝る  放哉

「この句にはー・・見て・に休止点があります」といふのがあります。
「こんな好い月」とは誰でも口では云へますが、ほんたうにこんな好い月を見た者は果して幾人ありませうか。「こんな好い月」を一人で見てゐて、さてどうしやうかといへばと寝てしまふょり他はない・・・その気持ちです。この句では寝るが無造作にとってつけてあって、寝るに放哉が横になるやうな無造作なリズムが出てゐます。

   師走の夜の釣鐘ならすとなりて 放哉

寺の釣鐘を大晦日に百八つく、こんな身にならうとは一年前には考へてもゐなかった・まして大学時代には・・・・思ひもよらぬ事なのに、たうとうこんな身の上になってしまった。師走は一年のドン底であるが、鐘を撞く我が身ももうこれょり落ちゃうもないドン底であり、上に居ればゐる程、例へば知事なども外見は華ゃかではあるが、内容はぐらぐらであって不安定である。
今の自分の位置程落付いた安全な位置はないーと云ふのです。この気持には安心もあり感傷もあります。しかし、捨てたと云ひながらも何か捨て切れない物があるやふな、この世に執着があるやうなところもあります。「ーー身となりて」と、てで止めたのも未練があるやうなリズムです。
そのうちに須磨寺の内部にゴタ,ごた、が起りまして、その葛藤のまきぞへを食ったわけで、放哉はまたそこにも居られなくなりました。仕方なく京都に戻ってゐましたが、若狭の小浜の、ある禅寺に人が要るといふので、兎に角そこへ行かうーーと行きました。そこでは和尚さんの借金の言い訳係りをしてゐましたが、お寺そのものが経済的に破綻してしまって、とうとう居たたまれないで、また京都へ戻ってきて私の寓居に暫くごろごろしてゐました。
放哉はやっぱりお寺の下男がいいと、龍岸寺といふ寺へ行きましたが、そこでは、和尚さんとは全く性格的に合はないので居ることができず、又、飛び出して来ました。
その頃から病気が悪くなりかけてゐたのかもしれませんが、どこか暖い所へ行きたい・と願ふやうになり、台湾に一灯園時代の友人がゐまして「小針嘉朗といふ」台湾が凌ぎよいことや果物の安いことや云って、台湾へ来ないか、と奨めてきましたので、なるほど台湾は暖かさうだ「笑」と台湾行きの気持になったのでした。
しかし、まあ台湾落ちまでしなくても、内地でも四国あたりならかなり暖かいだろう。冬の小豆島は私知らないが島の春は住み良かった。
小豆島はどうだろう、そこには、遍路の詣る澤山の寺や庵があるので、堂守りをするやうな所がなかろうかと私が云ひますとそれそれそれがいいといふことになりました。

             ※     ※

島には私達知り合ひの井上君や西光寺さんがありますので、放哉が這入れるやうな庵があるかないか、ききあはせてその返事を待ってゐるうちに、放哉は「自分は三界に家がないのだ、来ては不可ないといふ返事だったら困る、自分から押しかけて行こうか」と急に京都を発って島へ来てしまひました。
突然やって来たので井上君も驚いたやうでしたが、幸ひに西光寺さんの配慮で、たまたま明いてゐた南郷庵へ入ることになったのです。
その頃から放哉の句は落ち付きが出来て、メキメキと良くなりました。
南郷庵を死に場所と考へて庵を一歩も出ないと固く決めて俳句三昧に入った為でせう。

    翌は元日が来る仏とわたくし 放哉

去年の師走には釣鐘撞く身となって、と歎じてゐたのがこの句にはそれがありません。 今年の総勘定日である大晦日だといふて、世間の人は忙がしがって新年の支度をしてゐるが、自分の所へは掛取りが来るでなし、庵だから百八ツの鐘も撞かなくてもいいしただ仏を清め、仏と二人きりの落ついた気持であるといふのです。
この気持が同行二人の気持であります。
同行二人とは、遍路するのに弘法大師と自分と同行二人であるといふ意味で、遍路行願の中心となっている心持なのですが、その気持にはいった安らかさ、又、その淋しさ本当の出来た人間の気持になりきってゐます。
一茶に「ともかくもあなた任せの年のくれ」といふ句があります。これは「おらが春」の終りの句であります。
地獄なりとも、極楽なりとも、あなた様のおはからひ次第にしてください、と其身を阿弥陀様に任せた他力信心、他力本願の一茶の気持を出した句であります。

      ※        ※

放哉の句もそれによく似た気持であります。
しかし一茶の句には瓢軽なとぼけたところがあって.放哉の真実味がなく、放哉の句には一段の真剣味が表現されてゐます。

  入れものが無い両手で受ける 放哉

近所の人がいろいろと持ってきてくれるが、入れ物がないので両手でいただく、この気持大変嬉しい気持であります。物を蓄へるべき器さへも持たない無一物の生活をしてゐて、それ故に限りなく恵まれるのを、その受ける物が多すぎて、両手からこぼれ落ちさうな感じがします。
全身の感謝をもっていただく気持であります。
人間の暖い心に、大自然の大きな慈愛を感じ、その感じから、大自然の美しさをも、本当に彼自身のものとしてゐます。
 この句は、型の有る無しにか公はらず、私達の心に強くうったへてきます。
 型があっては自然の美しさがキャッチできません。
 「入れ物がない」、その気持になって始めて、句としての作用が出来るのです。
この句は碑に刻まれて南郷庵に残ってゐます。放哉がいつも松鯖に耳を楽しませた松の下に建ってゐます。
南郷庵の生活はどん愈ものであったかと一エひますと、お経を調し、おろーそくをあげることの他は、方々の友人に手紙を書くことを仕事にしてゐました。
手紙は面白いもので、放哉書簡集として一冊にまとめられて、東京の春秋社から出版されてゐますが放哉はこのやうな書き方をしました。「大空 二百一頁」

 ここ一週間程は、私は自分の生活状態を変更してみました つまりーー断食への中間方法をとってみたのです。
 それから、そこですっかり死を覚悟してゐまして
 今日で一週間位になりますが、これなら・・・何しろ急にやらずにぼつぼつやってゆく考へであります。


 ここにいろいろ金の要ることを書いています。
 二百四頁三行目それから甚た申上かねる次第ですが・・・六行目から九行目迄
 着る物を私からいろいろ送ったのでしたが、次の手紙は「小包みの中から何が出るかあてて見よ」と、私から云ってやったその返事です。
 大空 二百十一頁全文
 猿又が無くて困るだらうと思ってーー従軍の慰問品のやうにして
 門外不出を庵則にして一歩も庵から出ないーー時にはアルコールを摂取して脱線したこともあったやうですが風呂へも行かないーーかういふやうな生活をしてゐたのです。或る日、 一度風呂へ行きました。その時の句に

  足のうら洗へば白くなる 放哉

 といふのがあります。自分の足の裏が黒いものだと思ってゐたが、洗ってみたら白くなった。自分の足も洗へば白くなる命脈もあるのか、と感じ入った気持であります。

     ※     ※

  とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた 放哉

 これは一茶風の気持が出てゐる句です。

  畳を歩く雀の足音を知って居る 放哉

その頃の南郷庵は、大師様のまつってある仏間の横に三畳のせまい部屋があって、其処に万年床を敷いて、丁度雀の巣のやうにしてゐたのです。
放哉自身が雀のやうなものでありましたがーー雀が大師様の前の畳に下りてきてゐる、自分は床から雀を思ってゐる、いかにも庵らしいしづかな気持が出てゐます。
夏から秋になると、庵の囲にいろいろの虫が鳴き出しました。虫の中でも鉦たたきが大変好きでした。入庵雑記といふのを放哉は書いてゐますが、これは芭蕉の幻住庵の記にも匹敵するといはれる程のいい文章です。
その中に鉦たたきのことを書いてゐます。これには放哉の気持がよく表はされてゐます。
  大空 百五十二頁
  鉦たたき 全 文
この気持で冬を迎へました。小豆島は暖いと思って来たのでしたが、その年は特別に寒い冬だったので、これには放哉も参ってしまひました。
焼米と水とばかりで、栄養らしいものを摂らないで、身体が衰弱して寒さが尚酷くこたへたのでせう。
とにかく蛋白を摂らねばならないといふので豆腐を買ってきて醤油かけて食べたりもしてゐました。
そんなにして元来病気であるのに栄養が足らないのですから だんだん身体は弱っていきました。

  咳をしても一人 放哉

これはレコード破りに短かい句ですが、気持、状況がよく出てゐます。
咳をしてゐても問ふ者もない、咳をしなくても一人なのではあるがーーそんな気持を出してゐます。いかにも淋しい気持です。
しかし、以前とは異って、悟り切ったところがあります。

       ※      ※

内藤丈草の句に「虫の音にひとり咳出す寝覚かな」といふのがあります。
放哉は恐らく丈草の句には気が付いてゐなかったのでせう。丈草の句を切りつめて放哉の句が出来たのではありません。丈草と放哉が同じやうな境涯に生きて、同じやうに病身であったことが、同じやうな句作の動機を生ぜしめたのですが、其表現は放哉の方が徹底してゐます。つけた味なのです。
俳句は必ずしも十七字でなければならないといふことはなく、一層端的に表現することによって、俳句の骨髄に徹することが出来るのです。
正宗の刀でズバリと切り、はだかになるといふのがそれなのです。

  肉が清せてくる太い骨である 放哉

放哉はがっしりした男でした。東京にゐた時もでっぷりと肥って、むしろ糖尿体質といってもいい身体つきでした。
以前を知ってゐる者には彼が胸を痛んだといふことは不思議に思へる程でした。
この句は彼が病気になってから、だんだん痩せていく自分の骨の太さに、自分で驚いた気持として、一個の人間の突きつめた心がよく出されてゐます。
 こんな手紙があります。
  大空 二百十四頁
  入庵以来ーーより終迄
  書簡集、百三十七頁

啓島の風は実にひどいより 寒風をそれで凌いでおります
寒い寒いと云ひながら年を越して、好きであった桃の花の咲くのも待たないで、島の漁師のおばさん「お内儀さん」の手に抱かれて、放哉は死にました。
 「死んだら土をかけに来てくれ」と、亡くなる前から放哉は私に云ってゐましたので西光寺さんからの報せをうけて、私は直ぐに島へ来てお葬ひをしました。
 南郷庵の後の丘の西光寺の墓所に埋葬しました。


私が南郷庵へ来てみると、彼の居間は雀の巣のやうで、遺物とては別に何もありませんでしたが、机の上の俳句をいっぱい書きつけた粗末な手帳がありました。一番終りにこんな句が書いてありました。

  春の山のうしろから煙が出だした 放哉

咳をしながら春になるのを待ってゐました。
その頃は、花が咲くにはまだ四、五日間があるという頃でした。山のうしろから何の煙か立っている。ああ春になったなアーーと感じてゐる、その気持の句です。
病苦の世界の向ふにある世界を見てゐるやうな気持があります。
この句は放哉の辞世ともいふべき最后の句で、放哉の郷里の菩提寺である、鳥取市の興禅寺に句碑として建てられてあります。

      ※     ※

この句に因って俳句を考へてみませう。
初め云ひましたやうに、物と心とが一つになった同じ物であるといふ気持にはいってゐる句であると思います。
幾度も云ふやうに、俳句は物心一如のものであります。物を重くみたのは子規の写生主義であり、心を重く見たのは芭蕉の心境主義であります。俳句にはこの二タ筋がありますが、この二ツをしっかり見極めて打出してこそ.真実の俳句なのであります。
物即ち自然を本当に見極めて出した句も、心即ち自己を深く掘りさげて出した句も立派な俳句ではありますが.ここで特に申したいのは、小我なセンチメンタルに堕しては不可ないといふことです。
大我になってこそ自己であり、その自己たるや自然と一枚になった自己でなければならないのです。
自己の表現には、それを通して大きな自然が出てゐます。紙、筆でない、カメラでない、身を投げ出し裸になって自然を掴んだ気持こそ、割り切れない精神に至った本当の俳句と云へるのです。

  風凪いでより落つる松の葉 放哉

私の好きな句です。庵には大きな松が一本あります。
放哉は庵に座ってこの松をいつも眺めて喜んでゐたのです。さうして松を詠んだ句も澤山あります。

  烈しい風が冬は毎日吹く 放哉

ある日風が無くて静かな気持であるとき、ふっと松の葉が落ちてくる、風の烈しい時には松の葉の吹き散らされるのを少しも感じなかったが動中静ありといふ言葉がありますが、静かな中にほろりほろり落ちるのが、いかにも今の境涯を表してゐるやうな、という自然の気持のよく出た句であります。
放哉の生活がさうでした。
放哉の一生は大きな風が凪いだやうなものでした。
吹き荒れた風が止んだときの静けさに、ほろりほろり落ちる松の葉は、波澗重畳たる放哉の生涯にして始めて味へる気持であります。

  久し振りの雨の雨だれの音 放哉

雨だれが軒先から落ちる音を聞いてゐるのです。雨垂れには美しさも何もない詰まらないものとして、皆は気にも止めませんが、その音たるや自然の愛のやうな、両手で受けたいやうな、なんとも云へないリズミカルな音であります。聞いてゐると、自分の心臓の音と静かに響きあってゐます。この感じが自然と自分と一枚になった、裸になって飛びこんだ俳句の姿であります。

      ※    ※

放哉の一生のみでなく、私達の俳句も.このやうな生き方でなければなりません。しかし、誤解があってはいけません。
かう云ひましても皆か皆、世捨人の気持にならなければ俳句が出来ない、と云ふのではありません。
皆さんは皆さんの生活から出来るのが、真の俳句なのです。自分の生活一つに気持を突きつめて、始めて俳句は出来るのであります。
島は早魅の為に雨を待ってゐますが、早く雨が降って、「ひさしぶりの雨の 雨だれの音」を聴いて、放哉の俳句を、放哉の気持をしみじみ味はっていただきたいと思ひます。 この句を以て、雨乞ひの意味ともして、私の談しを終ります。
         八月二十五日 俊

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