吉村 昭
吉村昭は昭和二十二年、旧制学習院高等科に入学し、句作を始めた。翌年一月に喀血し、入院生活を始めた。八ヵ月後に手術を受け、左肋骨五本を切除された。入院中に尾崎放哉を知った。放哉に対して「同病相哀れむ」という安っぽい言葉では表現できない何か深遠なものを感じた。放哉の句「肉がやせて来る太い骨である」は実感を伴って読むことができた。
昭和四十三年、ある雑誌社から小豆島に関する紀行文を依頼され、初めて来島した。多くの人たちに会い、放哉関連の資料に接した。
昭和五十一年、講談社の冊子『本』に放哉の小豆島での八ヶ月を連載するようになった。ほぼ並行するように、仲間八人で句会を立ち上げ、熱心に句作をした。放哉をもっとよく知るためだった。連載は二十九回続き、昭和五十五年三月に「海も暮れきる」と題する単行本として出版された。
平成五年に四回目の来島をし、放哉忌の四月七日に土庄町で「尾崎放哉と小豆島」と題する講演をした。放哉との出会い、放哉の最期、島の人たち、放哉の俳句、自分の俳句などについて語った。ちなみに、吉村は平成六年に設立された小豆島尾崎放哉記念館駐車場の句板「障子開けておく海も暮れ切る」の刻字文を揮毫した。
吉村は自分と同じ病歴を持つ放哉に親近感を抱き、放哉を研究した。のちに放哉研究家として一家をなした。放哉を全国的に有名にした功労者の一人である。
渥美 清
渥美清はコミカルな演技、シリアスな演技ともに卓越した名優だった。特に映画「男はつらいよ」の車寅次郎役で国民的俳優となった。渥美は他に「風天」という俳号を持つ俳人でもあった。昭和四十八年以来、「話の特集句会」「盗りの会」「アエラ句会」などに所属して句作をした。三年近く参加したアエラ句会での作「お遍路が一列に行く虹の中」は、講談社の『カラー版新日本大歳時記』春の巻一四五頁に掲載されて話題を呼んだ。
昭和六十年始めごろ、渥美は知己の脚本家・早坂暁に放哉の役をしたいと申し出た。その理由を訊かれると、「放哉に『咳をしても一人』という句がある。この役には自信がある。結核患者の咳は普通の咳ではない。特殊な咳だ」と答えた。渥美は昭和二十九年に肺結核になり、右肺を全摘出し、二年間療養生活を送った。その経験から、結核に苦しみ、死を見つめていた放哉を自分自身に置き換えるようになっていた。
早坂は吉村昭の『海も暮れきる』に基づく渥美主演のNHK全国放送ドラマを企画した。小豆島でシナリオハンティングもした。ところが、NHK松山放送局が橋爪功主演の放送ドラマを制作中であることが分かった。惜しいことに、早坂の企画は中止となった。
橋爪が主演し、地元の人も多く出演したドラマは昭和六十一年一月に放映され、好評を博した。もし渥美が放哉を演じていたならば、橋爪とはかなり違った放哉が見られたであろうことは想像に難くない。
平成五年に公開された「男はつらいよ」第四十六作「寅次郎の縁談」は、香川県が舞台となり、渕崎富丘八幡神社でもロケされた。渥美は放哉ゆかりの土庄町でロケできたことをことのほか喜んでいたという。
片岡鶴太郎
片岡鶴太郎は個性溢れる現役タレントで華やかで多様な経歴の持ち主で。昭和六十一年に「プッツン」という言葉を流行らせ、その年の流行語大賞を受賞した。昭和六十三年にプロボクサーテストに合格した。年齢の関係で試合に出ることはなく、マネージャとして現役ボクサーを支えた。サスペンスドラマでは推理鋭い敏腕刑事を好演し、多くのファンを得てきた。最近では芸術方面での活躍が目覚しい。ほぼ独学で学んだ書・画・染色の腕前は超一流で、何度も個展を開いてきた。
平成八年、ドラマの役作りのために会った医師を通して放哉のことを知った。その後一年をかけて放哉の句・書簡・随筆などに接した。特に、俳句に興味を抱いた。片岡にとって放哉の句はまさしく絵になる句だった。
平成十年、サンマーク出版から『いれものがない両手で受ける』と題する放哉句の書画集を出版した。そこには書だけ、また書画による五十句が掲載されている。
同書の「はじめにー拝啓尾崎放哉さま」で次のように書いている。「あなたは、死を感じて生きていた。その生と死のせめぎあい、はざまがあなたに句を詠ませていたんだ。あなたは、生もまた見つめていたに違いない。そう、一瞬に悟ったんです」と。この解釈は正しく、その見事さに脱帽しないではおれない。片岡鶴太郎も吉村昭、渥美清と同様熱烈な放哉ファンとなった。
三人の東京下町出身の熱烈な放哉ファンについて書いてきた。もちろん放哉ファンは他にもたくさんいる。しかし、最多最高の放哉ファンは小豆島に住む私たちである。私たちこそ真の「ほうさいさん」ファンである。
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