井泉水と放哉  −井泉水日記「放哉を島へ送る時」 ー

             日本放哉学会 小 山 貴 子
井泉水日記「1」
1 はじめに
 井泉水の手元に保管されていた放哉の句稿が世に出てから久しい。句稿の公開にあたっては御子息の荻原海一氏に大変お世話になつた。それが筑摩書房による 『放哉全集』出版の機縁となったわけである。そして、同じ時に井泉水が書き記した膨大な量の日記も拝見させていただいた。その中から、一高時代から大学時代にかけてのものが、『井泉水日記 青春篇』上下 (筑摩書房 二〇〇三年十一、十二月刊) として出版され、井泉水の俳句にかける情熱や友人関係、学生生活を知る上で大変興味深い資料となっている。
 筆者が面白く思った箇所は俳句に関することばかりではない。一高といえば全寮制であると思っていたのだが、井泉水は寮生活をよしとせずに一人暮らしをはじめたところや現代人と変わらない食生活 パン・コーヒー・オムレツ等々−に目を見張った。井泉水の暮らしぶりは優雅で、地方から出て来て仕送りに頼る放哉のような学生ばかりでないことを知った。また、放哉が『俺の記』の中で快活に語っている「ストーム」なる寮の風習 (寮生が酔って徒党を組み、部屋のあちこちを急襲して、布団をはがすなど大暴れするいたずら)を井泉水が嫌でたまらなかったことを知った。そういえば同年の斎藤茂吉(当時守谷姓)も「ストーム」 にじっと耐えていたことを「第一高等学校思出断片」で読んだ記憶があり、それぞれの境遇や性格の相違など思い合わせながら興味深かった。日記は、手帖に書かれたものから大学ノートまで数々あったように思うが、それらは今横浜の神奈川県立近代文学館に寄贈されていると思う。
 この日記について、筑摩の編集者と御一緒の時ではなかったかと思うが、大学ノートに放哉と関連する題名を付けていたものを二冊見せていただき、コピーの許可をいただいて持ち帰ったものが我が家にある。その一つが「放哉を島へ送る時」と題したノートである。放哉の全集を作る際に何とか解読を試み、必要と思われる箇所は使わせていただいたが、全文を読むことは力不足のためできないままになっていた。ずっと気になっていたので今年になってもう一度試みたのであるが、やはり読めない字句が残っている。それは清書さたものではなく、日記であるが備忘録のようでもあって、井泉水自身が後で解ればいいと思っているような略字体で綴られているので、くずし字の苦手な筆者には本当に難しくて悔しい。しかし、日記は大正十四年八月六日から十六日の間のものであり、小浜の常高寺を去って京都に戻ってきていた放哉が小豆島に発つ八月十二日の前後である。井泉水と放哉との交流の詳しいところは是非知っておきたい。筆者は、井泉水と放哉が大正末期に濃密な関係を築いたことによって井泉水が放哉を深く理解することとなり、放哉の無一物生から生まれた俳句が自由律の到達した姿であることに着目し、世に送り出すことに繋がったのだと考えている。そして、放哉の俳句が俳句愛好者の領域を超えて受け入れられたことは、層雲史上重要な意義があると思っている。そこで、読めないところはお許しいただくことにして三度目の挑戦をしたいと思う。尤も、■量的に多く、放哉と直接関係のない箇所もあるため、所々を割愛させていただいた。掲載部分の不明箇所について、井泉水の御著書のどこかにヒントがあるやもしれず、気付かれた折にはご教授願えたら幸いである。尚、より詳しい内容は『放哉研究』 に掲載を予定している。

2 二人の交流

 ここで採り上げる日記には、放哉が井泉水の京都の仮寓「橋畔亭」に転がり込んでから井上一二を頼って小豆島に行く間のことが書かれているのだが、その時点に至る前に井泉水と放哉の二人にどのような交流があったのか。ここでは日記を中心に述べさせていただきたいので、二人の関係を掻い摘んで書かせていただきたいと思う。
 二人の交流は一高時代にまで遡る。一高には井泉水が明治三十四年に、放哉が翌明治三十五年に共に法科に入学している。二人の接点は、井泉水が明治三十六年に再興した一高俳句会に放哉が出席したことにあると思われる。 尤も、幹事であった井泉水にとって放哉は特に印象に残る人物でもなくその頃二人の問に深い付き合いはなかったようである (『随』 昭和四十七年三月号「八十八番日記」(十五)参照)。二人が東京帝国大学の学生になると、井泉水が碧梧桐の新傾向俳句に熱意を示すようになり、虚子系の一高俳句会にあまり出てこなくなる。寧ろ放哉の方が出席率は高く、放哉は虚子選(後に松根東洋城選) の「国民俳壇」 (『国民新開』 の俳句欄)にも盛んに投句していた。
 そんな二人が再び結びつくのは、井泉水の創刊した 『層雲』 に放哉が投句を始める大正四年の秋であったと考えられる。『層雲』 は、東京に新傾向の俳句雑誌がなかった明治末期に碧梧桐の応援を得て創刊した雑誌であったが、放哉が入った時には、碧梧桐一門は 『層雲』 から離れて中塚一碧楼と 『海紅』を創刊していた。放哉が俳句を始めるのは中学時代であるから、句歴は長いけれども、新傾向の流れに馴染んで来なかった放哉にとっては一からの出発であり、以後長く習作欄(初心者欄) 時代が続くのであるが、毎号の掲載状況から推測して放哉はかなり熱心だったと推測される。井泉水が自宅で開く層雲社の句会にも、当時東洋生命保険会社に勤務の忙しい合間を縫って出席している。欠席は仕事の都合によるもので、出たくても出られないのが実情であったのではないかと思う。句会に出て顔を合わせながらの旬評や俳談は親密度を深くするものである。井泉水の自宅で催した句会であったから、放哉は俳人でもあった井泉水の最初の妻桂子とも面識はあった。この時期の二人の関係を簡単に言えば、井泉水は碧梧桐とも訣別し、俳句が真に文学であるための俳句運動を更に推し進めようとする若きリーダーであり、一方の放哉は、保険会社に勤務する会社員であり、井泉水を慕って集まった俳人の一人であったとい、つところではなかろうか。しかし、東洋生命を辞める前後の大正九年頃より投句が途切れがちになる。
 その後、放哉が俄然俳句に打ちこみ出した時は、東洋生命辞職後に就いた朝鮮火災海上保険会社の支配人も一年そこそこにして職を失い、病に倒れ、妻とも別居して京都一燈園に身を寄せ托鉢生活に入っていた。一方の井泉水も関東大震災の雁災はかろうじて免れたものの、第一子の死産、妻桂子の突然の死の上に間を空けずして母の死という家庭の悲しみに打ちのめされていた。この二人の置かれた環境が二人を深く結びつけてゆく。井泉水が出家したいと思うほどに苦しい心を癒すべく、長年住み続けた東京を離れて京都に来たのは、一つは放哉が居たからである。大正十三年四月三日、托鉢先で和尚と懇意になった知恩院の塔頭常称院で寺男をしていた放哉と、身延山にて母の納骨供養を済ませ、東福寺天得院に落ち着くことに決めた井泉水は久万ぶりに会う。二人が一高時代に出会ってから二十数年の月日が経っていた。同じ空気を吸った青春時代があり、また、互いが歩いてきた道程を知っていればこそ、現在の孤独な境遇を深く理解し合える間柄となっていったのであろう。だが、この日の痛飲がもとで放哉は、常称院を追い出され、その後は、須磨寺、小浜常高寺に行くことになる。
 放哉が須磨寺や常高寺で寺男として働いている問、井泉水は実に精力的に活動している。層雲社は東京にあるため、東京と京都の往復が欠かせない上に、孟蘭盆や一周忌法要の度にも上京しているがその他に、五月には小豆島遍路、八月には高野山、翌大正十四年二月から三月にかけて別府に逗留、六月には西国三十三ケ所巡礼等の長旅ばかりではない。京都・伊賀・奈良へと芭蕉の跡をたどり、実作者と研究者の両視点から芭蕉の精神を追求していく。
 大正十四年八月六日から始まる井泉水の日記は、井泉水が七月二十日に京都での住まいを天得院から下京区今熊野剣宮町十六にある橋畔亭と名付けた小さな一軒家に移して十七日目、放哉が常高寺破産のため一燈園に戻ってほぼ一ケ月ほど後にあたる。また、井泉水が八月十人日東京発の、「奥の細道」 の跡を辿る旅に出る直前であった。

3 八月六日

 目記帳の最初は、八月六日に「R」という女性を京都駅で迎えるところから始まっている。(引用した日記文には「」を付した。また、文中の□は判読不能箇所を示している。)
 「Rか来たらば私の此の淋しい生活かいくらか明るくまきらはされる事と考へてゐた、然し、夫は全然反対だつた事がわかつた。Rか来た事によつて私の生活は一層深酷に淋しいものになつた。けふ六時にRが来た時、私は恋人をまちとつたやうな気持でゐた。尤も彼かどんな気持で私の所に飛込んで来たのか夫か彼に会つてみない中は解らなかつたのであるが、とも角、彼は私を愛してゐるが故に、私の許に走つて来たには違ひないと思つてゐた。彼は亀の井はすつかり暇をとつて来たといつた。而して、私さへ好ければこゝへ置いてもらひたい、もつとも「いつぞや話した事」(青年の事)もあるし、其相談をしたく、其人の方がこゝ二三ケ月は独立出来ないから・・・・といふのだ。つまり其人か独立出来たらは其人と一緒になりたいといふのだつた。其青年の事は彼が前から私に打明けていて、私もそれは好からうといつたのだが、彼は次の手紙で、其青年も少し不安な事があるから・・・などとも云ふて来たし、其恋がそれほどに進んてゐるといふ事はいま初めてしつた。けれども其もいゝと思つた、Rはどうせ私と一緒になりきれるものでもないのだから、さういふ落付く先のきまつてゐる事は、二人の間を紛きらさせぬ為めに好からうと思つてゐた、それだけまた共時は二人の臥(私達二人の間)といふ事を私は意識してゐた、青年との間に、彼の新しい恋があるとしても私達の古い恋もやはり其問にあり得ると信してゐたのであつた。」
 このように実はこの日記帳は、この 「R」 (「りう」 の頭文字) と呼ぶ女性への悶々たる思いから始まって、それが解消するところで終わっているので、この女性に関する記述が多い。管見では、この女性について具体的に書かれた著作を見たことがないのだが、彼女の存在を匂わすものは 『層雲』 の俳句の中にあって、井泉水と親しい同人の人達はほぼ知っていたと思われる。筆者も平成十九年に層雲大会が大分の別府で開かれた折に、大会会場となった亀の井ホテルで井泉水が長逗留されたことと親しくなった女中さんがいたことを旧い同人に聞かされたことがある。どうやらその女性のことであるようだ。前掲部分のように、井泉水は、「R」が井泉水を愛するがゆえに飛び込んできたのではないと開かされて一層の淋しさを深めていくのだが、客観的にみれば、女性の言い分はかなり疑わしいように思う。別の男性との結婚の相談をする為に、別府での仕事を辞め、独り身の男性の所へ行くだろうか。しかし、本人にそう言われればそれを受け止める井泉水であった。「R」は離れに寝起きして井泉水の食事の世話等を始める。彼女に関することは必要な箇所で触れることにして、本論では放哉に関係する部分を中心に述べていきたいと思う。
井泉水日記「2」

4 八月八日


 第一回では、大正十四年七月二十日、井泉水が京都での住まいを天得院から下京区今熊野剣宮町十六にある橋畔亭と名付けた小さな一軒家に移してきたこと。本誌で採り上げる日記は、八月六日から始まっており、大分別府温泉で働いていた女性「R」を京都駅で出迎えたことが書かれていることを述べた。別府の旅館「亀の井」には、二月から三月にかけて井泉水が長逗留していたのである。「R」という女性は、放哉の書簡の中では「れうちやん」として登場する。
 さて、その放哉が橋畔亭に転がり込むのは二日後の八月八日のことである。当日、放哉が来ることを知らない二人は京極に買物に出ていた。次は、二人が戻ってきたところからの日記である。
 「二人は十時頃戻って来た、すると卓の上にバナナの大きな一かたまりと置手紙がおいてあつた、初め北朗かと思ってみたがそれは放哉だった、出もどりだと書いてある、彼は龍岸寺の労役にたえきれなくて私の処へもどって来たのだった。封筒に金三円とかいて封が切てつかひかけにしたものが置いてあつた。私はRに放哉といふ人はかういふ人だといふ事を話しておいた。
 十一時になっても置手紙の主の放哉は来ないので多分、北朗居に行ってゐるのだらう、而して私の内に女か来てゐたことをそこできいて遠慮して戻って来ないのではないか、と思はれたので迎へに行ってやらうと門を出ようとした時、彼はかへつて来た。而して、Rがそこの□のこんろの前でお茶をわかしてゐる後姿を見てはいつて来た…こんな話をした。彼は私の留守としるとうどんやへ行ってビールをのんで私のかへりを待つてゐたのださうな。
 うどんやのかみさんがね…奥さんがいらっしやるというのだら、、…
 そんな筈はないといふたのだが、いやたしかに奥さんです、すばらしいべつぴんさんだといふのだ、何かの間違えたかと思つてゐたのだが…
 然し、あんたのまへのワイフによく似てゐるぢやないか…おどろいたね こりや…私はRを先に寝かした、それから放哉と話したが、Rが別府にゐた女で鉢花のモデルだといふ事を云つて、彼と私の干係(ママ)、彼に恋人がある事、などを話してきかした、彼はうなづいてゐた。」
 放哉は龍岸寺という寺で働いていたのだが、寺での労働に身体が続かず、寺を出た足で井泉水の住む橋畔亭にやって来たのであった。放哉が小浜の常高寺から京都に戻ってきたのはいつかははっきりしないが、七月十四日付の小沢武二宛葉書(『放哉全集』 第二巻) が京都から出されているので、十四日には京都に戻っていることがわかる。葉書の冒頭に、「井氏に面会して渡台したいと思ひます。」と書かれているので、放哉は井泉水に一日でも早く会いたかったようだが、井泉水は二度目の盆を迎える仏のために上京しており、京都に帰ったのが七月二十日であった。
 『層雲』 大正十四年九月号「京都より」によると、井泉水は二十日に帰洛し、新しい寓居である橋畔亭に移ったところへ早速放哉が訪れている。話が前後するが、この七月二十日から日記に見える八月八日までの二人の交流を『層雲』で見える範囲で整理しておきたい。記述したように先ず、井泉水の元に今後の相談に来たのが七月二十日である。翌日、二人で常称院に詫びをいれ再就職を頼みに行く。十四日に京都にいたのなら我が事ではあり放哉が先に一人で行けばいいようなものだが、詫びを入れたり頼んだりすることがひどく気がひけてできないのが放哉なのである。常称院の和尚と井泉水が知った仲であったことを心強く思ったこともあったと思われる。訪ねたところ、和尚は放哉の酒の上の失態を怒ってはいなかったが寺には人手が足りているからとて、その折に紹介されたのが龍岸寺であった。
 龍岸寺に行った放哉からはきつい仕事を嘆く葉書が幾度も来たようであるが、それでも暇が取れたのだろうか放哉は七月二十六日に橋畔亭で開かれた俳談会と句会に出席している。出席者は、京都の内島北朗を始めとして能勢より木戸夢郎、大阪より田中井児、澤田亨、それに米子の野阪青也、岡崎の酒井仙酔楼の他に、正雄、永井鬼太郎、漏(正雄・溝の名字不明)の名が見える。『層雲』十月号の北朗の一句会報の内容から推すと、正雄等三名が京都の俳人であろうか、この三名については詳しいことはわからないが、他はいずれも層雲の実力俳人である。当日は放哉と井泉水を入れて十一名の参加である。この俳談会は 『層雲』十二月号に掲載されている (「京都俳談」)。また、十月号北朗の句会報には、俳談後に行われた句会から九名の作品が掲載されている。放哉と井泉水の句は次のようなものであった。

  洋服の白い足折り曲げて話し込んでゐる  放哉

  橋脚高く梅雨晴るゝ水音       井泉水

 話は日記に戻るが、井泉水が京都に来た経緯を知っている放哉であったから、当然井泉水が一人住まいだと思い込んでいた放哉は、井泉水の元に女性がいると知ってさぞ驚いたことであろう。「R」について、放哉は亡くなった井泉水の妻桂子に似ているといい、また近所のうどん屋の女将は「すばらしいべつぴんさん」と評しているという。井泉水の日記にも美しいという言葉があるので「R」という女性は端麗な顔立ちであったのだろう。驚いている放哉に井泉水は「R」のことを「鉢花のモデル」だと説明しているが、これは、同年五月号に井泉水が書いた「別府竹枝」と題する作品の中にある、

 机に鉢花がある私は知らない

を指している。この句ばかりでなく、「別府竹枝」十三句には全て親密な女性の存在が暗示される。幾つかを挙げると、

 をんな身の上話して木の芽ほぐれる

 はっきり鷺鳴く日となつて別れる

 別れひもが春風の強さでは切れない

 潮に濡れてたぐりとつたる別れ紐だ

 のような句群である。また、八月号の「層雲社俳談」では「別府竹枝」の句を採り上げ、「鉢花」の句について二項に及ぶ自解を掲載している。特にこの句について井泉水は、「俳句の味は如何に人間の感情に切り込んで行つても、結局は自然にかへるべきものだといふ事をおさへてゐる点で、これは出発点であると共に帰着点だといふ気もする」という自然との一体化が芸術の極致であって、この句はそこから生まれた試みであり、新しい傾向を表現し得た作品として自信があったようだ。自解の中で、机に花を置いたのは「彼」 (R) ではないかと思い、そこに「愛や人情」を感じると述べている。更に、九月号の「関西俳談」の末尾にも「鉢花」の句を、

  恋  
  机に鉢花がある
   私はしらない

と二行詩にしてみて、全てを説明し尽くさずして暗示されるものがある点において、「恋」という題名は不要であり、(二行詩ではなく)これはやっぱり俳句であるという考察を行っている。こうした井泉水の試みは同人の注目を集めたであろう。一方で、傷心の師井泉水の心に火を灯した女性がいることを同人は読みとったであろうから、「鉢花のモデル」といえば放哉にもピンと来たものと思われる。
 その夜、放哉は橋畔亭に泊る。放哉の『入庵雑記』の「島に来るまで」にも「京都の井師の新居に同居して居りました事」が書かれているので御存じの方が多いと思うが、井泉水は日記にどのように記しているのかを見たいと思う。
 「それから、今夜は放哉とRの事から、Rが果してどんな気持をもつて私の所へ来てゐるのだらふといふやうな事から、女といふものゝ心理、女に就て、妻君に就て、性的生活に就てはなした。今夜はほんとうに今夜はほんとうに用意なく話した、学生時分にはよく話しに夢中になつて夜更かしするのを忘れる事もあつたが、今夜は丁度さういふ気持だつた、時計を見ると一時すぎてゐた。寝やうかといつたが陸たくはなく、又話して三時になり、それでも眠たくはなくて、なほ話して、とうとう布団を引いた時は四時だつた。全く時間を忘れてゐた、然し、時間を忘れるほどに話したといふ事はめづらしくて実にうれしかつた。此様な□会は人生のうちに数件もない事だらうと思つた。
 放哉は自分の妻君の事、それから彼が嘗て恋してゐた頃の話などもした。彼は自分の好きな女であつても、自分からあなたにほれましたなどゝいふ不見識な事をするのはいやだ、向ふからほれましてどうぞ私にほれて下さいといふて来れば、ほれてやるといふ事にしゐたといふ話をした。いかにも彼らしかつた。而して、お互にそれは悪い癖だね、つくづくと其非を知つたよ、然し、其非を知つた事が既に四十にしてはおそすぎたね、とも私は云つた。」
         (つづく)
井泉水日記「3」
放哉が龍岸寺の寺男を辞めて井泉水のもとに転がりこんだ大正十四年八月八日の日記の続きを掲載したい。

「彼は私に結婚した方がいゝと云つた。むづかしく考へる事はない、いやならば別れるといふ風でいゝではないか、とも云つた。一体、女といふものを余り重く見るのはいけない、それはだらくした考えかもしれないが…それが本当のやうだとも彼は云つた。それから色魔といふものがあるが、それは今まで避難してゐたのは誤りだつた。色魔といふものはそんな悪人ではない、たゞ、ごく自然に恋をしてゐるので、それで向ふの女の方でもだまされたといふ意識はなくて、却って感謝してゐたりするといふ事実は、彼がたくみにだましたのではなくて、二人の間の干係が自然だからだ、然しその自然さを私達はなかなかこえられない、女といふものを理解する力が足りない、それから女を其の急所において掴むといふ術をしらない、女を女としての本然の形においていかす道をしらない、だから、こだはつてしまふのだ、さういふ意味で色魔の自然、その自由といふものは実に尊敬にすら値するものだ、こんな事も話した。

放哉は近頃□□口をよんだといつて□川の荘子評の事を話した、私も□□□をよんで今忘れてしまつたが、荘子評の処はよく覚えてゐる。
 荘子の自由は□人の□□ゆく自由の如し
それで話が非常にふしぎに□つた。放哉は荘子ではいけないかと思ふけれども自分は如何に行つても荘子以上には出られない、墨子や列子には行かれないといふのだ。私は云つた、列子は荘子より以上とか、何とかいふ事はない、一つの球の上の指点がどちらが上かといふ事はない如く、それぐに球体の上に□してゐる点で(それが彼等の価値なのであるから) 其の各がある処にあつて光つてゐるのだーー、是は其の各々があるべき処にあればこそ光つてゐる、彼等が其の場所をはなれる時は流れて消えるべき時なのだ。
妻があり、子供があり、ケンカをし、仲直りをし、笑ひ、泣く、それはくだらぬやうだが其こそ本当の人生なのだ、と放哉は云ふのだ。放哉の放浪生活に就て、私は彼がその為めにいつも家庭のテン入着になるのは考へねばならぬ事だといつてやつた。北朗とか誰とか同人の親しい人の処にとまるにしても、その同人は喜んで接待するのであらうが、其妻君は同様の気持ちではありえない、で、一人の客がとまるといふ事が家庭に対して一種の石を投じた事になる、それは考へねばならぬ事だといつてやつた。彼自身も其れを意識してゐた、括文君の処にとまつた時に彼はこれを考へさせられたといつてゐた。

彼が龍岸寺に托鉢するのに就て、まるで金なしではゐられない事だから、私は先日の会(二日) の時、彼に金三円とはぶらし、手紙、用箋、ハガキなどを一把にして渡した。それを其会のときチラリと見た井児が私宛として放哉に送つてくれと金を十円送つて来た。その話は放哉には内しよで私の金として渡してくれといふ事であつたが、やはり彼に話した。彼はまじめな顔をしてゐた。まだ世は末でないよ、とも私は云つてやつた。

さて、彼は龍岸寺の労働にたえないといつて出て来たが、さし当り行く処はない、私は、一二、ユメ郎、井児、清文などの処に依頼を出しておいたが返事がない、で、彼は一二の処へ行つて直接に話してみょうかといふのだが、彼としてもこれはちと押しがつよいやうでもあり、どうだらうかと心配してゐるのだつた。私はあした北朗にも相談して見ようといつて、それは其事として寝たのは四時だつたのである。(八日)」

 井泉水と放哉が心から打ち解けて話し合った様子が記されている。井泉水は妻桂子が病で若い命を散らしたことに激しい自責の念を持っていた。放哉もまた、恋人であった澤芳衛や妻馨を幸せにしたとは言い難い。放哉がしきりに井泉水に結婚をすすめ、妻や子のいる平凡な生活を送る事を望んでいるところに、井泉水と落塊の己が身との違いを悟っていることを感じる。一方で、平穏な家庭を揺るがすような振る舞いをする放哉に苦言を呈する井泉水であった。日記中にある「括文君」とは、本名は芳造、.別に、括林、括山人とも称していた。鳥取の興禅寺(放哉没後に尾崎家の菩提寺となるで修行の後住職となつた人物で、当時は京都で仏教新聞『中外日報』に関係していたといわれる。輿禅寺修行時代に「卯の花会」に参加していた関係もあって放哉と知己であったのではなかろうか。筆者の推測にすぎないが、明治四十二年十二月、碧梧桐が「続三千里」の旅中、鳥取にて尾崎破酔等新傾向俳人に歓迎された記念写真がある(『鳥取の俳人尾崎破酔』収載)のだが、写真の最前列に僧形の若い人物が腕組みをして映っている。清文は明治二十二年生まれだから当時二十歳頃であるので、これが清文ではなかろうかと考えられる。その他の人物は、「層雲」 の同人で「一二」 は小豆島の井上一二、ゆめ郎は大阪府能勢の木戸夢郎、井児は大阪市内の田中井児で、井泉水が放哉の身の振り方について心当たりを当たっていることがわかる。
 また、この日記から放哉がまだ龍岸寺で働いていた八月二日にも句会があったこともわかる。その折に、大阪港の会の田中井児も放哉にそっと支援の手を差し伸べている。井児は 『短律時代』 (昭和四年十二月月刊) の「本欄作家一覧」には次のように記されている。

本名清治、年齢三九、職業写真機商、住所大阪市浪速区恵美須町四丁目四一
 放哉が一燈園に入ってからの写真は、須磨寺時代のものが一枚あるだけだが、それが残っていたのは写真業であった井児に頼んで焼き増してもらったからである。この八月二日の句会は、『層雲』には記載されていないが、井泉水と放哉が共に出席した最後の句会となつたことになる。尚、荘子云々の部分は判読不能の箇所が多く言わんとすることが掴みにくいが省略せず掲載させていただいた。コピーは筆者の元にあるので、読みをご教授願えたら有り難いと思う。

5 八月九日

 日記の内容は連続しているので、九日は八日の日記の続きとして次を読んでいただきたい。

「ゆうべ寝てから、どうだ僕等の生活は面白いだらう、私を好きな女が来てゐて、それはむかふの二階で寝てゐるといふのは、而して何等の干係なしに、又、きらひではなくて生活してゐるといふのはーーまさに現代の奇蹟だねなどとも云つて笑つた。放哉はRの事をシェーンといつて、シェーンはお二階でーーか、いゝな、といつか。私は又、どうだ山科の閑居よりもいゝだらうといふと、彼はシェーンは二階でのべかゞみかなどと云つて笑つた。(九日)」

 この八月九日に、放哉は大阪に出かけている。『層雲』十月号によると、井児居にて「みなとの会八月例会」があったようで、北朗と二人で出席している。出席者は、三人の他に、束松八洲雄(父露香は長野の人で定型俳人、小林一茶の研究者である。『短律時代』「本欄作家一覧」によると、当時八洲雄は白木屋勤務で大阪市堺筋に住んでいた。)、山地南泉子、濱口弥十郎、溝、津田亨、陣隋鎗史郎であり、遅れて青木此君楼が来たようで、東京の大橋裸木から句が寄せられている。(句会報の作品には、もう一人黒一郎という名が出ている。) 掲載されている中から放哉、北朗、裸木の俳句を次に掲げておきたい。

打水落ちつく馬の長い顔だ             放哉

朝風に歩く青田連らなり            裸木

山の匂ひ蚊帳に蚊のゐる             北朗

 尚、この一旬会は「大阪俳談 会」として 『俳壇春秋』十、 十一月号に掲載されている。 俳談会は会話体で記録されて いるので、放哉の話ぶりを窺 うことができて興味深い。な かなかの毒舌家である。

6 八月十日

 放哉と北朗、九日に出かけ て十日に帰っている。その辺 りの事情を井泉水の日記では 次のように書かれている。

「きのふ、北朗と共に大阪に 行つた放哉が二人してとまつ てけふ戻つて来たどうしてと まつたのかといふ事に就て放 は斯んな話をした。句会がす ぎて、放がかへらうといふと 北はとまつてついてもいゝの だがといふ風に云ひ出した、 故に宿屋を案内しようか自分 は親戚にとまる処かあるから といふ、放は宿やにとまる金 があるならば酒をのんだ方が いゝといふとではと此君楼が 自分のうちに放哉をつれて行 つてとまらせる事にした。翌 日北朗はむかへに来た、その 時の北の話に実はもとの妻君 のうちでとまつたので、北は たびぐそこへ来たいのだが 今の妻君がやかましいので因 つてゐるらしい然し、今は孟 ら盆、彼は御墓参りに来てや つたのだ、彼は前から計画し てゐたに違いないのだが、ど うも云ひ出しにくゝて、ぐぢ やぐのうちに宿をおそくし て泊まる事にしてしまつたら しい。然し妻君のごきげんも 考へねばならないので、此君 楼には事情を明かして放哉と 二人がそこに泊まつた事にし て此君から妻君に宛てゝ手紙 を出して貰った、で、放にも それを打明けざるを得なくな つたのだが…放哉はそんなら さう云へばいゝのに、それを 云ひ出しかねてゐるのがしほ らしかつたといふのだつた。 彼は大阪の店で金をとる用事 もあつたのだ、翌月の九月一 日ではまにあはず、十日は殊 に白木屋の支払日でもあるの で、其方でも一泊は理由づけ られる筈であつたが…(十日)

放哉は大阪の句会の話をいろ くした。私の処にRが来た 事がきつと話題になつたらう と思つたが、それはちつとも 話しに上らなかつたとの事だ つた、上つたとしてやましい 事ではないが、悪く誤解せし めぬ為めに話し出さぬといふ 二人の気持ちはうれしかつ た。」

 放哉は、北朗の計画に散っ て大阪で一泊したように話し ているが、筆者には井泉水に なるべく負担をかけまいとす る気遣いもあったのではない かという気がする。また、井 泉水の女性についての身辺状 況に一切触れないところ等、 男女の伸については結構粋な 計らいをするところが放哉に はあると思う。

 さて、放哉と行動を共にし、 小豆島へも訪ねて来た北朗と いう人物は、井泉水の日記に しばしば登場する。後に井泉 水の義弟の関係となり、終 生井泉水の傍にいて支えた 人物である。「全国自由律俳 人書誌」 (藤律滋生編) よる と、明治二十六年八月一日、 富山県高岡市に生まれる。本 名喜太郎、陶工で橋畔亭近く に住んでいた。随筆にも健筆 をふるい、・句集随筆合わせて 二十二冊の作品集を出版して いる。また、青木此君楼は、 明治二十年四月十三日、福井 市に生まれる。本名茂雄。「層 雲」短律時代の代表作家とな るが、昭和十五年には「層 雲」を離れていく。どれほど の活躍ぶりであったかは、 『層雲自由律90年作品史』 (伊 藤完吾編 二〇〇四年一二月 発行) によれば、層雲選集の 第一句集から第十句集までの 此君楼の収録総句数が、大橋 裸木、芹田鳳車に次ぐ三位で あったことからも窺い知れよ う。当時は、大阪市天王寺区 に住んでいた。
 以上、述べてきたような俳 人達の他に濱口弥十郎や阡陌餘史郎がおり、いずれも『層 雲』 で活躍している俳人達で ある。港の会は、京都に心の 平安を求めて移り住み、俳句 革新運動に邁進しようとする 井泉水を支える地盤であっ た。そして、彼等が何度かの 句会を通して放哉と直接に接 する機会を持つことで、放哉 の生き方や作品に対する理解 が深まり、小豆島での放哉の 生活を支える柱になっていっ たことを思わせられる。『層 雲』 十月号に句会報を寄せた のは余史郎であるが、彼の言 にも放哉に対する敬意が籠め られている。
 こうして、放哉は九日の晩 は此君楼宅に泊ったのであっ た。井泉水が出した手紙の返 事が一二から来ないままに小 豆島に出立するのが十二日で あるから、残りはあと二日と なる。    (つづく)

7 八月十一日

 十一日は放哉が小豆島へ発つ前日である。日記には次のように記されている。
「Rはけふ放哉の汚れ物などを洗濯してゐモ、夕、放哉の為めに送別会をしようといふので、北朗の処へそれを通じた。Rにビールをとらし、又、仕出しやに走らした。放哉は二三日のうちに小豆しまへ行かうといふのだつた。(十一日)
放哉はRに就て、こんな事を云つた−彼は家庭的の女ではない、まめ〈しくやつてゐるやうだが、家庭にあきか来る時があらう、それになかなか強い女だ、御亭主がしっかりしてゐればいゝがさもないと尻にしいてしまふだらう又、咽に短刀を□する事をしかねない女だ「あれはあんたには向かない、あんたにはあゝいふのと別のタイプの、人を要する」
夜になつてから北朗も来て、食卓(ゆふべ買つて来た) に就いた。此時、放哉は初めから馬鹿にいゝきげんをしてゐたが…あとで其訳がわかった、ビールを二本明けて、もう一本ある筈だと思って、下へおりてみると云ふと、その一本は空になつてゐた、それは彼が私が風呂へ行つて戻らない中にやつてゐたのだつた。Rは風呂に行つてゐたが、放哉はとうとう自白した、こんな風にやつたさうだ。 龍ちやん、あなたに折入ておたのみしたい事があるのですが私に出来ます事あらば… では、そのビールを一本先生がかへらない中に・・・Rはそれからその補充を買ひに行つて来たのださうだ。放哉はいゝきげんになつて北朗もいゝきげんになつて、北は□[]用のしょうげん口の与作の娘、目元ばかりが五両がものなどいふのをうたひ、放は チ、ヨ、ロ、リ、ト、サ、ガツタ、フ、ジ、ノ、ハ、ナ、などをうたつた。さうした間にも彼はさつき作つた句を出して評を乞ふたり自分の説をいつたりした。
 昔の友人が記事になつてゐたりすると一寸ハカリこたえたがね、なに、俺の俳句の境 地がわかるか…
といふ気持になる事もあるといつた。彼の句が光つてゐるのも、彼の句作態度が全人的であるからだといふ事も解った。  彼は無一物でありながら非常にいゝ気持なのである、翌の事を思はずといふ風なのである、北朗はその事を云つて、自分は翌の事を思はすしてもいゝ生活にと頭にはいつてゐながら、彼のやうにいゝ気持にはなれないといふ事を云つてゐた。
此夜はずいふんいろいろの事を話した、放哉はいゝ気になると昔を出してRにsitzen Sieherin (筆者注‥「ここに来て座りなさい」 の意か。) などゝ独乙語をつかつたり、又、一高時分に林家正造の処へいうれい話の研究に入った話をしたりした。幽霊の話になつたが、それはこちらに持ち合せがなかつたので幽霊のやうに立消えになつた。
 彼が今夜見せた句、 墓石のかけらで漬物おしてる
すばらしい乳房だ蚊がゐる
行すり子供の葬式に夏帽とる我なとし
山の和尚の酒の友とし丸い月ある (十一日)

 『層雲』九月号「京都より」に、放哉が京都に発つ前後を井泉水が書いている。こうした執筆をするためにこのノートのような備忘録的な日記が必要であったのだろうから、当然日記の方が詳しいわけだが、明らかに井泉水が 『層雲』に省いていることが二点ある。一つは、放哉が「R」について話した部分である。放哉は「R」に会った最初は、井泉水のもとに女性がいることにただ驚き、その経緯に頷いただけであったが、数日共に過ごした後、「R」 が井泉水の妻としてふさわしくないと明言している。井泉水の将来を案ずる友人としての忠告であったといえよう。もう一つは、放哉の俳句である。これらは『層雲』十一月号に「足のうら」と題して掲載されるのであるが、「墓石のかけらで」 の俳句は

漬物石になりすまし墓のかけ である

となつている。「行すりの」は掲載されていないが、「すばらしい」、「山の和尚の」は異同がないから、『層雲』 誌上の 「漬物石」 の句は井泉水の添削による可能性がある。

8 八月十二日

「放はけふ小豆しまに立つといふ、北朗が来て・・・いろいろ話した。小豆しまがいけなければ台湾にゆく事にきめたといふ。これが長の別れになるかもしれない、そんな事を北がいひ出した。いや、斯ういふ事は予感があるものだから・・・放もさう云つて、一寸しめつぼい顔をした。それから彼は昼寝をしにねた、顔に新聞を載せて

「放が云つた、北朗は私にetwas (筆者注‥ドイツ語で「何か」「あるもの」 の意味、ここでは、「感じさせる何か」くらいの意か。) があると‥・私は云つた、北朗もラヂオみたいな事をいふね・・・其前にRが伸子(筆者注‥大内伸子か、東京在住の層雲俳人)の事をきいたので、放は女には一種の微妙な神経といふか、電気から感するやうなふしぎな感覚があるねといつた事からラヂオみたいなものだらう、さういへば伸子もRの事を感ずいてゐたといふ事も私は話した。 放哉は一切句帖ももたない、作つた句などを覚えてゐない、前進あるのみだといつた。そこに彼の句の進境もある所以だらう。(十二日)」

 以上は、放哉が小豆島に発つ十二日の日記である。この部分は『層雲』の「京都より」の方が寧ろ詳しい。「京都より」によれば、放哉は後援会用の短冊を買いに七条まで行き、帰りに土産に林檎を買ってきたという。日記には、これが永の別れになるかもしれないというしんみりとした情景が簡潔に書かれているが、「京都より」には、夕べ何をいったかもケロリと忘れたような顔をした放哉が、買ってきた短冊に句を書いてしまうと新聞を顔に当てて昼寝をしたと淡々と善かれている。筆者には、別れの悲しさに堪え切れぬ放哉が、顔を隠すために新聞を載せる姿を記した日記の方がいかにも放哉らしいと思う。嘗て恋人の澤芳衛や姉並との別れの場面で涙を目に溜めていた放哉と重なつてみえるからだ。  そして放哉は井泉水とRに見送られて、夜の十時半の汽車で京都を発つのである。

 今回の目標は、放哉が小豆島にゆく直前の五日間、即ち八月八日から十二日までの間に具体的にどのようなことがあったのか、井泉水の日記を通して二人の交流を明らかにすることにあった。大正十三年四月に久闊を叙してから一年余の問に井泉水と放哉は格別に親しい関係になるのだが、特に二人が共に橋畔亭で過ごした間が更に互いの心を通わせる結果になつたことを読みとることができたと思う。井泉水の側からの記録であったが、放哉も小豆島に渡ってから書いた「入庵雑記」で橋畔亭でのことに触れ、井泉水の人柄に対する敬意や感謝を記している。今後はより一層正確な解読に努めていきたいと考えている。また、筆者の手元には井泉水の「放哉を葬る」と題したノートもあるので、別の機会に紹介させていただきたいと考えている。

 尚、筆者の手元にある日記は十六日まで書かれているので、放哉が去ってからのことも若干付け加えておきたい。その後、「R」から恋人の話は嘘で、井泉水に特別な女性がいるのではと疑ったためについたものであると打ち明けられる。「R」 が、伸子のことを井泉水に質し、井泉水が誤解を解くことによって二人の心が通うようになり、胸の支えが取れたところで終わっている。
 更に付け加えると、「R」という女性の存在は当時孤独であった井泉水を癒したことであろうが、その後二人は別れている。「R」と井泉水の暮らしがいつまで続いたのかはわからないが、井泉水は昭和三年十月には京都を引き揚げて鎌倉に移っており、翌昭和四年六月に芹沢若寿(寿子)と結婚しているから、その間に二人の関係は解消したものと思われる。この 「R」という女性について管見するところでは井泉水の著書に見られないままであったが、思いがけぬところで読むことを得た。それは井泉水の御長男故荻原海一氏の著書『私、八十五歳の残照』 の八十七頁から八十人頁にかけて、海一氏が抜き出した井泉水の日記 の部分に「龍」として出てくるのである。海一氏が産まれる直前、出産間近を知って闖入者として押しかけて来る場面である。井泉水、寿子夫人、「龍」 の三者の在り様が推し測られるのでお読みいただけたらと思う。
 井泉水は御長命で、晩年は妻や子供達に看取られながらこの世を去っている。放哉と井泉水の最期を較べてみると、両者には余りにも大きな隔たりがあるけれども、井泉水の後半生は、彼の幸せな結婚を望んだ放哉にとっても喜ばしいことであったに違いない。
            完
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