第102号 2020年2月5日発行
放哉講話
尾崎放哉は、明治18年1月20日に鳥取市で生まれ、大正15年4月7日小豆島でその生涯を終えました。 その生誕日を記念し、1月18日(土)、土庄中央公民館で放哉講話を開催しました。講師には『吉村昭記念文学館』から、学芸員の深見美希さんをお招きしました。
吉村昭が見つめた尾崎放哉-小説『海も暮れきる』に描かれた生と死-
吉村昭さんは放哉と同じ肺結核を患い、昭和23年に病状が悪化し手術を受けました。好きな読書ができなくなった時、短い俳句ならと句集を手に取り、放哉句に出会いました。放哉の肉がやせてくる太い骨である∞咳をしても一人∞入れものが無い両手で受ける≠ネどの句から、死に対する心情に深く共感したといいます。 そして、句の中に「生とはなにか死とはなにかという問い」を見出したことが『海も暮れきる』誕生のきっかけになりました。執筆し始めたのは昭和52年、出版されたのは昭和55年でした。
執筆前は勿論、執筆中も資料調査を続けられていたそうです。講演ではその手書きの原稿や放哉全集への書き込みなど、大変貴重な資料も披露してくださいました。特に病状の描写については、病人の心情や闘病中にご自身が感じた葛藤などの経験の基しっかりと推敲のあとが見られました。小説の中には放哉句も48句あり、「生と死を表現するのはどの句であるか」と、句が生まれた背景を入念に調べ上げ選ばれたそうです。 その後、ラジオドラマになり、テレビドラマとして映像化されました。橋爪功さんが放哉を演じ、小豆島の皆さんが出演した『海も暮れきる』は平成4年、再上映もされています。
完成した時には「小説の放哉が映像でしっかりと描き出されていた」と、吉村氏はお話をされたそうです。深見さんは「出演者が真摯に取り組み、協力してくださったこと・真心での取り組みだったことがしっかりと映し出され、ドラマが完成できたのだと思います」と述べられました。 講演には、当時ドラマに出演されていた方や関係者も多くご出席くださり、当時を振り返りながら耳を傾け、吉村先生の放哉に対する想いや、ドラマ化においての島の人たちに対する想いを知り、大変嬉しかったとの感想をいただきました。 尾崎放哉∞自由律俳句≠継承していく立場として、尾崎放哉≠ニ関わり支えた人たちの重みを、改めて実感しました。
※『吉村昭記念文学館』のパンフレットおよび友の会の案内チラシが小豆島尾崎放哉記念館にありますので、興味のある方はお立ち寄りください。
※会場に展示していたテレビドラマロケ写真は記念館に展示していますので、いつでもご覧いただけます。
 
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紫色字 記念館休館日
茶色字 図書館休館日

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