・・・・・南郷庵安住・・・芽出度し芽出度し・・・・・・
放哉は大正14年8月20日から南郷庵での生活を始めましたが、押しかけた形の来島であったため、小豆島は"ひとまず"≠フ居場所でした。庵の収入は3月4月に来るお遍路さんからのお賽銭や米、豆など喜捨によるものが大半で、放哉が入庵したのは8月。来年の遍路シーズンまでをどう生活(経済的に)していくのか・・・。
それは、放哉自身が思うだけでなく、井上一二や杉本玄々子を困らせ、心配をかける事態でした。二人の援助を受けながら生活し、9月末、一二は荻原井泉水に放哉の今後を相談するため、京都へ向かいました。そして島に戻った一二から葉書が届き、話し合った結果を告げられます。
『先ずこの庵で安住する方針で、西光寺さんと相談したうえ、ことを運んでいきたい』と記されていました。
10月2日、西光寺で一二と玄々子と話し合い、正式に南郷庵安住が決定しました。井泉水からも、後援基金だけでなく、原稿の清書などを手伝う事と引き換えに支給してくれるとの申し出もあり、こうした周囲の人たちに支えられ、安心して暮らすことが出来ました。
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書簡 9月29日付 放哉から井上一二あて
啓、今朝おハガキ拝見、もう御帰りになつたのですか、御疲れでせう、小生の件、色々、井師とも御打合せ下され、マズ当庵安住の方針にて、西光寺さんと、御相談御運び下さる事と相成候由、只々感泣、先日、井師より大体通知ありしも、今朝の御ハガキによつて始めて大安心致し候わけに有之候・・・略・・・ |
入庵食記 10月2日付 西光寺サンデ井上氏ト三人議マトマル、井師ニ通知……可祝?、 |
書簡 10月2日付 放哉から荻原井泉水あて
啓、此手紙が、アナタが東京出発迄に間にあふかなと懸念しつゝ書きます、…と申すのは、只今西光寺の小僧サンが私を呼びにきまして早速行つて見ると、…西光寺サンハ昨日帰寺したといふ、座に井上氏あり、三人鼎座にて話す、…已ニ御両人の間には話出来て居たと見ゆ、…結局、…南郷庵安住…芽出度し?と云ふワケ之で、愈結末がつきました…づいぶん色々な経路を通つてきましたが、…難有う御座います、』・・・中略・・・只今、オ寺から庵ニ帰つて、スグ此手紙をかきまして、御安心の結末を乞ふ次第であります、・・・略・・・ |
書簡 10月(5〜8日頃) 放哉から杉本玄々子あて
拝啓、先日ハ失礼いたしました、色々御尽力様で、御厚志の結果、兎に角当庵に安住させていたゞく安心を得ましたので、マヅ落付いて今日を送らせていただきます事、全く、一に、あなたの御恩と更めて御礼申上げます、・・・略・・・ |