入庵食記・10月20日より】
西光寺サンヲ煩ワシ(オイシヤ)ニ行ク、二ケ月、ガマンシタ ケレ共苦シクテ、死ヌノハ、ナントモナイガ、苦シクテ、手
紙モカケナイニ一番コマル、酒ヲノンデ、元気ヲツケテ、手 紙ヲカイテル有様也、シカタ無シ
〇明日……(井師ニ(祭ノ句)ヲ送ル事)
愈、西光寺サンニタノンデ医者ニ行ク 木下氏――左肋まく、 ユチヤク、呵々
不時ノ熱ヲ如何セン
木下氏曰ク、アンタハ、ガマン強イ、ソレガイカヌ、――今 后、午前二時間位、休ム可シト……
俺ハ、(ルンゲ)?……死ンダ方ガヨイ、(寝テオラレルモン カ、ボンヤリシテ)呵々
※この中に出てくる「医者ニ行ク 木下氏」は木下医院、114 銀行の駐車場の場所にあったそうです。 |
風鈴に使用した自由律俳句は76句。これは、小豆島で作られた約2,700句中、『層雲』に掲載された216句から選んだものです。俳句を鑑賞するためには放哉を知ることも必要です。そのために、書簡を読んでみることもひとつの手段かと思います。
放哉は入庵から亡くなる直前まで多くの書簡を書き送っています。放( )哉全集第2巻書簡集(筑摩書房)に掲( )載されているだけでも、約8ヶ月の間に457通?
ほぼ毎日封書や葉書を書き、1日に2通3通。さらには、同日同じ人に宛てて封書と葉書を書く日もあったようです。内容も、お互い理解し合っている相手には口語体であったり、かしこまった表現だったり、文語体の時もあったりと、相手との関係性も見えてきます。放哉自身を読み解く手掛かりとなります。また、左の【入庵食記】には病気で一番困るのは手紙を書けないこと≠ニあり、さらに句も作っていた訳ですから…。南郷庵での放哉を知るヒントにもなると思います( )。 |