せきをしてもひとリ 故石井玄妙師遺稿
大正十四年。
ここ小豆島の夏は殊に暑かった。「瀬戸の夕凪」とか「島の夕凪」とかいわれて、日没と共に、それまで吹いていた風も、ぱたりと止まって、そよりともせず、むしむしと寝苦しい。
もう夜中も近い頃、顔青白く、やせて背の高い貴公子然たる一人の男が、色黒くずんぐりとした、十三、四才の子供とからみ合って、島の町土庄「とのしょう」の東浜を歩いていた。
左側は漁船の溜り場、湛甫「たんぽ」であり、右側は低く古い家並みの漁師町。湛甫の泥、捨てた藻や小魚の干からびた臭気が鼻をついた。
子供、それは寺の小僧であった。今しがた出て来た西光寺の、三人の弟子のうちの一人であった。
「放哉さんを南郷(みなんご)まで送っていけ。」といわれて、この、したたか呑んで、ぐでんぐでんのお客を、一キロばかり離れた南郷庵まで送り届けるところだった。
小僧は、鉢の開いた頭をふり立てて、しまりのない口元をくいしばって言葉もなく、ひたすら師命にこれ従っていた。
放哉さんがからむのは手や足ばかりでなかった。口である。つまり、この小僧を脅かすのである。「幽霊が出るぞー」と。
ふつうならば、寺の小僧が幽霊だと脅かされて怖れていては、小僧はつとまらない。しかし、この場は別である。この小僧、四年ばかり前に、もっと小さな島から弟子入りしてきたが、その少し前から、この町では六つの部落の、六つの墓地を、一せいに移転しかかっていた。つい最近まで、無縁墓からおびただしい人骨を掘り起こし、かますに入れて、永い間野ざらしにしていたし、赤い髪の毛をつけた女の頭がい骨らしいものが転がっていた。
近所の腕白どもが、それらのがい骨から、歯を一本一本抜き取ったり、「ガイコツを叩いてみい。ワワーンとうなるぞー」といっては、小さい子供達の逃げるのを見て手をたたいて笑うということもあった。
その場所である。大方は新墓地に移したが、まだ未整理の墓石がごろごろ転がる町はずれの砂地である。
それらの記憶の生々しい十三才の小僧には、闇に浮き出る青白くはげ上った顔とともに、「幽霊が出るぞー」といわれて、気味よいはずがなかった。
「呑んだくれって、どうしてこんなに嫌なんだろうか」と小僧は思いながら、古墓の砂原を、目をつむるように、相手を押しやりながら、駈け過ぎていった。
南郷庵は、西光寺の別院で、新墓地の手前にあった。仏間ともに三部屋あるなしの、小さないおりであった。古く大きい松が、崩れかけの土塀にのしかかるようにそびえていた。
放哉さんは、そこの庵主で、もちろん、ひとり暮らしであった。小僧は、南郷庵へ放哉さんを放りこむと、一目散に、近道を走って、寺まで帰った。
そんなことは一度や二度ではなかった。
その放哉さんという人は、四十才くらいで、何でもえらい俳句の名人だとのことであったが、小僧には、とてもそんなに見えなかった。善い人らしいことと、すばらしく筆跡が立派なので、内心尊敬していたが、酒癖が悪いのには閉口であった。
時々師匠の使いで、手紙や食べ物を届けると、よく雑誌をくれた。当時大へんな売れ行きだった「キング」というのと、「幼年倶楽部」などであった。両誌とも、大日本雄弁会講談社という長い名の会社から出ていた。それには、「贈呈」という紫スタンプが押されていた。何でも、キング文芸欄の選者であるらしい。小僧が欲しかったのは、「少年倶楽部」であったが、なぜか、もらうことはなかった。
聞くところでは、放哉さんは、当時自由律俳句というのをはじめた荻原井泉水という人の雑誌「層雲」にあり、荻原先生と東大の同窓で、一つちがいの後輩であり、逸材だとか。
荻原先生は、五、七、五という十七字や、春、夏、秋、冬、新年という季にとらわれず、自由に短詩をつくればよいという主義であった。ほかにも、種田山頭火、河東碧梧桐などという人達が、自由律俳句を唱道し、それぞれに結社をもって雑誌を出していた。
師匠は、玄々子という俳号で、兄でしたちも、木星とか、件亭とかの号をつけて句を作っていた。
大正十五年になると、放哉さんは、あまり寺へは来なくなった。日頃の不摂生が災いして、病気だとか聞こえた。そういえば、如何にも肺病持ちらしく思えた。
そして、春たけなわの四月七日、とうとう亡くなった。夜中にたたき起こされて、東京からの客人を何度も南郷庵に案内した。放哉さんの妹さんというふれ込みで、実は奥さんであった人や、荻原先生の顔もその中にあった。
戒名は、師匠が、はじめに「大空院心月放哉居士」とつけて、共同墓地に埋葬したが、翌年改めて火葬にし、戒名も「大空放哉居士」として、寺有墓地に葬って五輪塔を建てた。
京都一灯園の西田天香さんをはじめ、有名人が相ついで墓参りに来たので、小僧は、やっぱり放哉さんはえらかったんだなあと感じた。
小僧というのは、実は筆者である。だから記述に嘘はない。
放哉は鳥取市の人。明治十八年(1885)尾崎家に生まれ、本名は秀雄。 一高、東大と、秀才コ−スを進み、某保険会社の支配人にまでなったが、家庭の破たんや、その他の事情で、世捨て人となり、京都ー灯園での下座行、須磨寺の寺男などを経て、ここ小豆島の小庵に安住の地を得て、むしばまれた肉体にも拘らず、医薬を拒みつづけ、ここに大往生を遂げた。四十一才であったが、この人の名を高くしたのは、むしろその死後である。句集、書簡集など十指に余るものがある。
いま、潮文社発行の、上田都史著「人間尾崎放哉」「放哉の秀句」の中から、少しばかり借用してみよう。
足のうら洗えば白くなる
淋しがりやの彼にとっては、目にふれるほどのものが、すべて、自己への愛情の対象となる。足のうらという非情なものにさえ愛情をおぼえている。
入れものがない両手でうける
草庵の生活に満足しきっている放哉の姿。有名な句で、現在南郷庵の松の下に、井泉水筆の句碑がある。
壁の新聞の女はいつも泣いている
南郷庵の荒壁に張った、古新聞の小説のさし絵の女は、いつ見ても泣いている。
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
雀等いちどきにいんでしまった
畳を歩く雀の足音を知っている
昭和の一茶といわれるほどの雀ずき、それはどこから来たのであろうか。
さっさと大根の種まいて行ってしまった
道を教えてくれる煙管から煙が出ている
爪切った指が十本ある
わかり切ったことがわからない人もある、それがわかるのは天衣無縫の放哉だからか。
淋しいぞ五本のゆびを開いて見る
せきをしても一人
この絶唱に対して誰が如何なる言葉をさしはさみ得るか。
墓のうらに廻る
さながら研ぎ澄まされた刃のような純粋透明な虚無は、放哉四十年の遍歴なくしては得られまい。
春の山のうしろか烟が出だした
枕頭の紙切れに書かれていた最後の句。この煙は、自らの荼毘の煙「火葬の煙」をいうのであろうか。この句は、放哉の生誕地に句碑として建っている。
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