足 跡 井上康好(放哉南郷庵友の会会員)

さて昭和三年四月七日、南郷庵の庭先に、放哉の句碑が建った。施主は一二である。

小豆島へ
大正十四年八月十二日水曜日夜、尾崎放哉は、萩原井泉水の仮寓だった京都今熊野の橋畔亭を出て、京都駅から小豆島へ向かっている。「春の姻」の井泉水の序には「彼はいよいよ小豆島へ行く事と決めて、九時何分かの京都発で立つといふ」とある。
ところが放哉の「入庵雑記」によると、氷水でお別れして、京都を十時半の夜行でズーとやって来たのですとあり、両者の間には約1時間半の差がある。
そこで、大正十四年四月一日鉄道省発行の時間表を調へてみると、該当する汽車として午後九時十分、九時四十三分、最終の四九便十時三十五分発がある。
この終列車は、岡山で宇野行一○一便、午前六時四十分宇野着の汽車に接続しているが、京都九時十分発では、岡山に午前二時三十八分着で、接続時間までかなりある。(ちなみに停車駅は、大阪ー神戸ー姫路ー菖富ー瀬戸ー西大寺ー岡山)
さて仮説を立ててみると、放哉は京都の駅前で井泉水と氷水を食べて別れた後、再び引き返して酒を飲み?汽車を二本遅らせて、十時三十五分に乗ったと予想される。
岡山駅から土庄行の船便の出る京橋(あるいは三幡・九幡ー地名)までは、歩くとかなりの距離があるが、宇野駅だと見える位置にあり、宇野から来島したのではないか。
当時の船は貨客船で「第十豊島丸」、宇野ー土庄間を一日二往復していた。ただ岡山説も捨ててきれないものの、時間的にみて、宇野説が採用出来る。当時の船便は次のとおり。
・宇野発七時と一時二十分。土庄着は九時三十分と二時三十分。
いずれも豊島経由で船賃は六十銭であった。
(京都ー岡山間は三等二円九十三銭、二等五円八十六銭ブラス通行料一銭ー五十銭)
さて、これまでを整理してみると、京都発午後十時三十五分_宇野着翌午前六時四十一分で、宇野駅から土庄行の船付場まで徒歩約十分、勝手がわからず聞きながらブラブラ歩いていたのでは、七時発に間に合わない。
(あるいは朝食を食べた?) そうなると午後一時二十分発、土庄着三時三十分が正解となる。その理由として、八月十三日放哉が井上二一宅を訪れた際、最初に応対した井上朝栄氏は(現九十二才一二の実弟四郎氏の奥さんで、当時行儀見習に本家に来ていたー四朗氏宅は新屋)
「八月十三日の午後、来客があり玄関に出てみると、帽子もかぶらず杖(ステッキ)も持たないで、浅黄色の風呂敷包み一つを小脇に抱え、扇子一本を持った、一重で黒地の筒袖姿の男が玄関の式台に腰を下ろしていた。
服装はあまり見すぼらしい様子ではなく、暫くの間は式台に腰かけたままで一二と話されていたが、お姉さん(一二の妻)を呼んで座敷に通ってもらい、風呂に入れて夕食を出した際、ビールを所望されたー」と証言しており、土庄港から一二宅まで道を聞きながら歩くと、放哉の足で約三十五分から四十分位と推定され(私の足で二十五分) 午後四時過ぎに一二宅に着くようになり、前述の入浴や夕食が時間的にも合うがいずれにしても真実は不明である。

 土庄町かいわい
放哉終焉の地南郷庵から、北の土庄本町周辺に1歩足を踏み人れると、どこに出るのかわからない程細い道の迷路になっている
島の古老に聞くと、昔海賊の住家で何処から攻められてもいいように作った、と言ふ。
そんな細い道の一部を放哉は歩いている。
南郷庵を起点にすると、西光寺まで三分。当時の小豆島で一番よく手紙を出した郵便局までは五分。(当時切手三銭)



放哉が木下医院へと通った小路
この石塀は当時の面影を残している。
薬を買った三枝薬局(一二と私の母方実家)と三日月湯(当時湯銭三銭)は西光寺の門前にある。(三日月湯の壁の一部は、放哉記念館に掲示されている)、木下医院は西光寺から一分、玄関の戸を開け板の台を上がると、六畳程の待合室があり、正面に薬を出す小窓があった。
 木下医師は痩身小柄で、口数の少ない温厚な方であったと記憶している。

井上一二宅は、南郷庵からは西光寺の西側の白い土塀添いに総門に出、三日月湯の裏口の道から木下医院の前を通り、永代橋を渡って左に折れ、土渕海峡添いの道か塩田(現東洋紡績測崎工場)の中を通ると、十五分もかからないところにある。なお山際にあった一二の別荘(大正九年四月、井泉水夫妻が新婚旅行で滞在し「宝樹荘」と名付けたもので、井泉水の直筆を私が確認している)は、大正十三年火災で消失したが、十四年にもし残っていれば、放哉の疲れをいやす最適の場所であったろう。(現在は同じ場所に新築されて「宝樹荘」と名付けられている。)
南郷庵から西光寺の西側辺、木下医院のあったあたりや、土庄港からの道は、今は新道が走っているが、旧道はわずかに昔の面影を残し、土庄港から旧道に入って歩くと自然に西光寺の総門に出るようになっている。南郷庵跡に平成六年四月、「尾崎放哉記念館」が竣工、大松も昭和五十四年に松くい虫の被害で切られて無いが、門前の井戸はそのままで、今でも多くの人が利用している。
人や物は滅びゆくものと言えばそれまでだが、長い年月を経ても昔のたたずまいは、私の頭の中に断片的に残っている。

 一二のことども
手元に未発表の放哉書簡のコピ−がある。
これは大正十四年九月三十日付、萩原井泉水宛のもので、便菱四枚にびっしり書かれている。内容は、四十一才の放哉が、三十一才の井上二一の態度を腹にすえかねての愚痴である。この手紙が書簡集に採られなかったのは、井泉水の愛弟子一二)への配慮からであろう。その事はさておき、一二と言ふ人は謹厳実直、律儀で真面目な人であった。
風水学に心酔、後に南朝の武将、佐々木信胤の物語を上梓する。昭和四年より十四年まで渕崎村長、県議会議員も歴任、私財を投げ打って東洋紡績渕崎工場を昭和八年に誘致する。(井上一二著「秘録東洋紡招致私記」昭和六年八月十五日の記述に「放哉の妻かほる女史が東洋紡三軒家工場で舎監をしていた事があると聞いた。放哉の伝記にはかほる女史をよく云はないで書いてある本もあるが、欠陥はむしろ放哉側にあったと見るのが妥当である。東紡秘史は始めから一種の因縁で、放哉までが登場する」と書かれている)
その一二の母方(三枝薬局)の父が竹亭(三枝)節水。本名重太郎。天保十二年五月、土庄に生まれ、十八才で俳句を京都の金沙宗匠の指導を受ける。
長じて村長、県議会議員等を務めた。
大正三年一月、七十四才で没。辞世の句に
「ひたすらに念仏ばかり冬ごもり」がある。
一二は十才位で俳句を始め、その才能を節水に見出され、二代目節水号をついでいる。 一二が井泉水門下に加わってからは、一二の父の兄の子、三木双浦(医師)が、四代目はその子、三木ニ三(医師)がついでいる。
五代目は私にしようという話もあったが、当時花鳥風詠にあき足らず句作を中止していたので、そのままになっている。
なお三代目三木双浦の弟は、ホトトギス同人の三木朱城で、「時雨るるやふるさとに居て旅ごころ」という句碑が寒霞渓にある。
一二の家と私の家は隣同志。あまり話する事は無かったが、進学、就職の時など、大事な話の時は必らず呼ばれている。
時々朗々とした声で、謡曲「鞍馬天狗」をうなっていた。「花咲かば 告げんと云いし山里の……」という冒頭の科白を今でも覚えている。
晩年の一二は好々爺になった感じて、よく話しをするようになったが、俳句の事は一切教えてくれなかった。今考えると「自分で勉強しろ」という事であったのかも知れない。
    いれものが無い両手で受ける

 同じ日、西光寺裏の土山に、もう一つの句碑が建った。これも施主は一二。

    南無大師遍照金剛春の風

 作句者は三枝節水。一二の母方祖父である。
南郷庵からは土山が、土山からは南郷庵がよく見える。句碑の向きこそ違え、節水の句碑は、放哉の霊をなぐさめているかのような大らかさを感じる。
放哉と一二と節水奇しき因縁と言おうか、一本の糸で結ばれているような気がする。 追記
一二が晩年に高松に隠棲したある日、人に逢う事を極端にきらっていた一二に、親戚の紹介で、ある記者が訪問した。
「井上さん、放哉のお世話は大変ご迷惑だったでしょうね」と、問いかけると、あの温厚な一二が顔色を変えて「あなたのような若い者に、なんで放哉の気持ちがわかるか!」と、一喝したというエピソードが残っている。
平成十年、放哉の生の痕跡は見事に消し去られているが、流浪に身を任せざるを得なかった一人の男の姿が、この一言によって鮮明に浮かんでくるのは、私だけの感傷であろうか。

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