梅花無蓋蔵
       小豆島の自由律俳人 杉本玄々子
                        井上 泰好 「放哉」南郷庵友の会
 はじめに  杉本玄々子の僧名は宥玄、西光寺(正式名称・真言宗大覚寺派寮生院末 王子山蓮華院西光寺) の住職である。玄々子は、自由律俳人尾崎放哉との関わりにおいて、また、明治四十四年に自由律俳句誌『層雲』を創刊した荻原井泉水や井泉水の門下である井上一二(1)との交流においても欠かせない人物である。自身も自由律俳人として数々の句を残している。本稿では、玄々子がどのような経歴をもち、また放哉とどのようにかかわったのかを中心に記述していきたい。(なお、本文中に多用する引用文は、原則として旧字体を新字体に改めている。)

1 玄々子 (僧名・宥玄) の略歴、役職及び徒弟教育(2)
先ず、玄々子の略歴を記し、職、徒弟の育成等から僧侶としての玄々子の人物像を述べてみたいと思う。
  略歴
明治二十四年十月二十四日 (一才)
 岡山県川上郡成羽町大字下日名、杉本良太郎・ウメの 次男として出生 (幼名・柳二)。
明治二十八年(五才)
 五月、父 良太郎逝去(享年三十三才)。
明治三十一年(八才)
 小豆島霊場第五十八番 王子山蓮華院西光寺に入寺。 三好深玄の徒弟となる。
明治三十三年(十才)
 二月十八日、深玄により得度。この頃より小僧として 法事、葬儀に参列する。
明治三十八年(十五才)
 二月、加行(けぎょう)に入る。十月、結願。二百五十日問の練行 満了する。
 十二月、高野山小学林入学。十巻章の素読に明け暮れる。
明治三十九年(十六才)
 高野山中学林入学。
明治四十四年(二十一才)
 三月、高野山中学林卒業。
大正五年(二十六才)
 三月、京都 東寺大学(現種智院大学)卒業。
 九月十二日、西光寺副住職に就任。
大正六年(二十七才)
 十二月、大択村 円満寺住職に就任。
大正十一年(三十二才)
 三月二十三日、土庄町鹿島 岡嘉次郎三女フミヱと結婚。
 同月二十八日、 西光寺第二十五世 深玄遷化(五十六才)。
大正十二年(三十三才)
 五月一日、母うめ逝去(五十六才)。
 同月同日、第二十六世西光寺住職に就任。深玄の志を継ぎ、本堂改築を再発願する(3)
大正十三年(三十四才)
 『層雲』一月号に初めて俳句が掲載される。
 五月、荻原井泉水、井上一二に同行し、小豆島八十八ヶ所を遍路する。
大正十四年(三十五才)
 八月、尾崎放哉を西光寺奥の院「南郷庵」に付属する。
大正十五年(三十六才)  四月七日、尾崎放哉入滅。ねんごろに葬る。
昭和二年(三十七才)
 四月、放哉一周忌を営む。馨(妻)、並(姉)水田由蔵等参列。
昭和三年(三十八才)
 七月、種田山頭火来寺し、放哉墓参。
昭和四年(三十九才)
 小豆島霊場第六十番「江洞窟」外大師堂、庫裡各一棟改築建立。
昭和七年(四十二才)
 八月、河本縁石、放哉取材のため来訪し放哉を語る。
昭和八年(四十三才)
 四月十一日、西光寺本堂完成。落慶法要。
昭和九年(四十四才)
 十一月、南郷庵改築着手(十年二月入仏式)。
昭和十三年(四十八才)
 四月二日、放哉十三回忌を営む。荻原井泉水、井上一二等参列。
 六月、伊東俊二、南郷庵人庵。
 七月、「放哉とわたくし」執筆。
昭和十四年(四十九才)
  十月二十一日、種田山頭火来訪し放哉墓参。井上一と三人で夜を深くして語る。(山頭火は、  二十二日神懸行、二十三日帰寺一泊、二十四日朝出立。)
昭和十七年(五十二才)
  一月、志賀白鷹放哉取材のため来訪し放哉を語る。氏に放哉書簡一通呈上する。
昭和二十七年(六十二才)
  九月、土庄町豊島「眼明寺」住職の辞令来る。
昭和三十三年(六十八才)
   四月六日、放哉三十三回忌を営む。参会者、井上一二、井出逸郎外雲の会同人。
   四月二十日、京都妙心寺にて層雲大会、井上一二と同行する。
昭和三十五年(七十才)
 三月二十三日 胃癌のため入院手術、五月九日退院。
昭和三十九年(七十四才)
   一月二十日、土庄町立中央病院入院。
   二月二十四日、示寂。二月二十五日密葬。三月二日本葬。戒名「阿閣梨宥玄和尚」、高野山より大僧正を贈補される。

  役職
大正十四年六月〜 高野山香川支所副管理
大正十五年四月〜 高野山香川支所地方管事
昭和四年六月〜  香川県真言宗地方管事
昭和十三年十一月〜香川県自治布教団担任布教師
昭和十四年六月〜 四国真言宗護国団評議員
昭和十六年三月〜 香川県自治布教団理事
昭和十六年八月〜 香川県宗務支所第十組長
昭和十七年三月〜 小豆郡翼賛壮年団長
昭和二十七年四月〜高野山真言宗審査委員
昭和三十八年〜  小豆島霊場開創一一五〇年記念法要 総裁

  徒弟教育
門弟達の僧名と役職(入門順)
横山玄浄(俳号・木星)(4) 小豆島霊場第五十三番本覚寺住職
宮本宥中(俳号・赤木吽亭)岡山市長泉寺、玉野市中蔵院住職
石井玄妙 御室仁和寺宗務総長、丸亀市大善院住職
浜本宥研(第二次世界大戦にて戦死)
杉本宥尚 長男・西光寺住職
瀬尾哲命 西光寺住職

玄々子は、大正末期より昭和の初頭にかけて徒弟の育成に力を注いでいたようだ。玄々子の教育法は 弟子達に直接指導する事より「言わぬは言うにまさる」という古人の敬を堅持したようで「温厚で謙遜、郡内山主の中で、ひときわ人徳仏心を兼ね備われた方と敬慕しました」と、かつての弟子達が語っている。

 以上、経歴や役職、門弟等を概観するに、玄々子は真言僧として力を尽くし生涯を全うした人物であったことが窺われる。『海も暮れきる』 の著者 吉村昭は、玄々子の子息宥尚師に宛てた昭和五十四年の賀状(5)に「宥玄」いう方の偉さが、書き進むうちにあらためて感じられます」としたため、「凛乎」と書いた色紙を贈っている。
 土庄町誌によると、「土庄町内諸寺院中の最長老で円満高徳の聞こえ高い僧であり、郡内随一の大金堂を改築し西光寺中興の祖といわれた。」 (『多くを語らず』所収)と記述されており、また高野山中学以来の無二の親友であったという北垣祐真(兵庫県養父郡 福王寺住職)の追悼文「杉本宥玄僧正を偲ぶ」 (『多くを語らず』所収)に、

僧正は小豆島霊場会々長として多年東奔西走、巡拝の同行今日後を絶たないのも蓋し僧正の功績と云うべきか、

 と書かれていることから、地域への貢献度も極めて高い僧侶であったことがわかる。
 放哉の来島と重ねてみると、大正十四年は玄々子三十 五才、玄浄、宥中、玄妙を薫育しっつ、本堂改築に力を注いでいた時である。僧侶として信念に燃え、心身共に力の横溢した時期ではなかったろうか。

2 玄々子と自由律俳句
(1) 自由律俳句との出会い

 平成十四年、西光寺から便箋や原稿用紙に書かれた年月不詳の玄々子のメモ書らしきものが発見された(6)。それには

 私は、大正十三年頃から、俳友のみちびきによって、井泉水師の主唱する自由律俳句へ入門した。中学の三年頃から俳句が好きで勿論定型俳句であるが東京から発刊される万朝報″と云ふ新聞に俳句欄が設けてあって盛んに投句したものである。内藤鳴雪先生などの選で句風は
 ○大彿の落花にむせびたまひけり
 ○京の水右京左京に流れけり
と云ふ風のものであつた。−東寺の学校を卆へて帰つてから、寺が忙しいので、句作には遠ざかりすごしてゐたが 隣村の村長であり県会議員でもある井上文八郎氏とジツ懇になり、或る時、私が、井上さん、俳句を教しへて下さい、と云ふと、ー氏曰く、俳句は教しえるものではありません、が御手引丈けは致しませう、そのかわり私に、宗教を教しへて下さい、ツマリ、私からは俳句を上げますから貴下は私に宗教を下さい 勿論弘法大師の宗教でよろしい、−と云ふわけで自由律俳句の句作が始まつたわけである。井上さんから、自由律俳人野村朱鱗洞氏(7)の句集「祀讃」を与えられて、これをよく読んで、貴下の、感じた事をそのまゝ句にまとめて下さい。と云ふのであつた。私は「檀讃」を開いて見ると、先ず扉にコロタイプ版で次の二句が写し出されてゐた
 ○風ひそひそ柿の葉落しゆく月夜
 ○雲ひえびえと野の四方にありし
 私はすつかり此の句にミせられて仕舞った。なんと云ふすばらしい句である事か、それと同時に定型ではトテモ謡ひ出せない、世界、情景がうたはれてゐる事にも気づいた。私の自由律俳句はここから初まったのである。
 私と云ふ人間は、性来(生れつきか)怒りぽい性格をもつてゐた、時たま、友と囲碁などをかこむで、敗けると無性に腹がたつ 時にはくやしくてくやしくて泣けて来る事もシバでシバ あつた。
 私は考へた。之は自分の欠点であり短所である、怒らぬ様にせねばナラヌしたゝき直さねばならヌと思ひつゝ何時しか怒つてゐる自分を見出して、なさけなく思ふ事が度ゝであった。(怒りと云ふ事についての失敗談は沢山あるがこゝではやめる)そこで、私は、勝負事の一切をせぬ事に決意を堅めると共に、起こらぬといふ事よりも積極的に人間は丸くならねばナラヌと、円くなると方向に自ら努力を重ねて来た。そして自分自身を円くするその修養の方便の一として好きな自由律俳句にすがったのであつた。
 かくて私は、井師主幹の俳句雑誌層雲を読ませてもらい、井師個人雑誌随″を読ませてもらって各俳人の句を味はゝせてもらつて、自分の句の糧としてゐるのであるが、(後略)

 と書かれており 自由律の句作を開始するいきさつがわかる(8)
 また、「我が趣味を語る」(9)の中では次のように述べている。

私は知らずくの内に文芸に趣味を抱く様になったのだが、サテと自分を省みると、創作も出来ず、一平凡な人間でしかあり得なかった。小説も書けず、ただ文芸の中でも、俳句が一番私には好もしいものの様に思われて、学生時代は駄句を作っていたのだが、学校を卒えて島の寺へ帰って来ると、隣村の村長をしておられた井上二一さんと心安くなり、同氏との交友から今の層雲即ち自由律俳句に興味を覚え、入門して自由律俳句の同人となった。
 これは私自身にとって大きな変化であり、文芸又は詩の世界への視野の深さと広さが、井泉水先生の指導主張によって自ら開けて釆て大いに自信を持つ様になった。  思うに、祖師高祖大師は御在世当時に於て詩文をよくされ、宗教家であると共に芸術人であり、そして又一大詩人であられましたことば、三教指帰と(さんごうしいき)か性霊集(しょうりょうしゅう)を拝読することに、ありがたく尊きものを感ずるものであるが……私は平生思う。
 大師を祖師と仰ぐ真言宗のお坊さんは、詩心を持ってもらいたい。心の内に何時も豊かな、そして、和やかな文芸的な良識を養ってもらいたいと。
         (昭和三十年春・豊島眼明寺住職時代)

 玄々子は「大正十三年頃」に「層雲」に入門したと記しているが、玄々子の『層雲』初出句が大正十三年一月号「心律」井泉水選の一句であることから推測すると、大正十二年の末頃には入門していたと思われる。井上一二は、「遍路日記」(10)(大正十三年五月井泉水・玄々子の三人で小豆島八十八ケ所巡拝の記録)に
「とうとう新しく私たちの道に加えられた土庄の西光寺の杉本さん」と記している。

ところで、井泉水の「鎌倉だより」に(11) よれば

(前略)因縁をたどれば、大正十三年、私が高野山に夏篭りをしたとき親王院の水原尭栄師(のち、高野山管長)と玄々子君とが甘岡矧封笥における同級の親友ということから紹介を受けたのにはじまる、十四年、私が小豆島八十八ケ所の遍路をしたときは、井上一二君と玄々子君との同行三人で、私の遍路紀行(12)にGという名で出ているのが玄々子君である。

とある。この文によると親王院の水原師より玄々子を紹介されたように読めるが、井泉水が高野山に夏籠りしたのは大正十三年の夏だが、小豆島八十八ケ所の遍路行は、同年の五月であるから、遍路行の折に玄々子から親王院の水原師を紹介されたものと思われる。「十四年」というのは「十三年」 の誤りである。「層雲」 に入門したばかりの玄々子が、井泉水の遍路行に案内役として同行したことになる。
 ちなみに、玄々子は小学校・中学校は高野山であるが大学は、京都の東寺大学であり、これも井泉水の記憶違いと思われる。
 小豆島八十八ケ所の遍路行についてだが、井泉水は大正十二年十月に桂子夫人を亡くされ、十三年一月には相次いでご母堂も亡くされており、その菩薩を弔うため遍路の話を一二にしたのは十三年の二月末であった。これを受けて一二は島八十八ケ所の事であるからこの事を玄々子に相談し、五月七日から十四日まで三人で徒歩で巡拝した。遍路の身につけるものは玄々子が指示して整え、井泉水の頭陀袋には「南無大師遍照金剛」と玄々子が書いた。井泉水は十五日に帰京するが、一二は見送りをした時のことを「遍路日記」に、

六時の高松行の汽船に乗られた先生に対して桟橋の私と西光寺さんは
「こん夜は連絡船の月がいゝでせうな」
凪いだ海を見い見いそんな会話をかはすのであつた。

 と書いている。この来島を含め、井泉水は小豆島に八回来ているが、玄々子との出会いはこの遍路行が初めてと考えるのが妥当であろう。八日間の小豆島遍路を通して、世話になった玄々子や一二の人柄と島の人々との触れ合いが、井泉水が放哉を小豆島に導くきっかけとなったものと思われる。玄々子が井泉水を迎えるのは、大正三年と九年及び昭和四十一年を除く都合五回である。

(2)『層雲』誌上にみる玄々子の俳句
 さきに述べたように 初出句は大正十三年一月号である。本項では、『層雲』各号に掲載された作品を年代順に列挙したい。なお『層雲』各号は、香川県立図書館蔵の井上一二文庫(13)より借出し、調査したが、ミスで洩れた句がある可能性もある。その場合は後日追加していきたい。(下欄 大は大正、昭は昭和の略)

温泉つぼ淋しくも夜をこめてわく         大・13・1月号
山の小駅に汽車とまり夜となつて        大・13・4月号
旅は秋雨がこの川にそそぎ柳にそそぎ    同号
あらし遍路の笠あはり河原の波まで吹いて  大・13・8月号
ここのお寺の桜ちりこむ水を湯にこめ      同号
杉の黒さの夕立夕立おつかけてゐる      (放哉選)大・14・12月号
杉の青さの夕立つなかの一本一本       (放哉選)大・14・12月号
みんな冷たい汗の山籠で走る          (放哉選)大・14・12月号
児の背掻いてやる肥えてゐる          (小豆島通信)大・15・2月号
かれ草かれ草と鳴る                (放哉氏追悼)大・15・8月号
死なれた後の長いキセル一本          同号
松の落葉はく人がない               同号
一つの足音がいんで仕舞つた          大・15・10月号
畠の芋づるがのびて満潮             同号
忌日の草ぬく                     (放哉百ケ日執行)同号
放してやる脚で虫飛んだ             大・15・11月号
朝のぬれた舟からさかな買うて戻る      同号
夕顔咲かせて庵主さまはとしより        大・15・12月号
葉が落ちる風に湯ざめしてゐる         昭・2・2月号
柿の葉落つる残る柿の葉             同号
秋風の島に戻つてゐる               同号
杖にも笠にも法句書いてしんぜる         (関西層雲誌友俳句大会主催みなとの会)
大きな一本松の村に来た             昭・2・3月号
橙うれてゐるふしんしてゐる            同号
寒月の戸に戻る                   (雲の会)同号
雪かきがたてかけてある訪ねる         (光石路居)昭・2・4月号
雪あかりの橋に来て別れる            同号
明け来る波へ渚はなれる             (雲の会)同号
枯草の中の親すずめ子ずめ            (京阪合同号句会)昭・2・5月号
薄月、濱の家が寝てゐる             昭・2・8月号
びつしり芽ぶく家の併事に釆た          同号
胡瓜も茄子もうまくなつたとぎしぎしかつぐ   同号
夕焼から舟が呼び戻された            昭・2・9月号
児と戯れんよき一日のつかれ           同号
杉すくすく雫して朝や                (高野山にて)昭・2・10月号
秋の石垣がある風呂にはいる           昭・2・11月号
あの星この星の夜をすずんでいる         同号
暗さ線香花火消えたり                (雲の会)昭・3・11月号
草枯るる径の夕月なりし               昭・4・4月号
ここまでは自動車の川かれてゐる         (雲の会)昭・4・12月号
麦の芽雲が影おとし行く                昭・11・2月号
薮も紅葉もしぐれてゐる君の家も          (緑石の家を訪ふ)同号
よい娘もらうて秋晴れてゐる             (雲の会)昭・13・12月号
庵はしめたままの松の葉こぼれるだけこぼれ   昭・15・11月号
萩なら咲いて鐘一つついてやる           同号
めくら一人になつてへちま咲きすがらせてゐる  同号
海の見える方へ桜一本植ゑまして         同号
秋陽を掘ればあなたのゆりや球根や        同号
かろく全治(いえ)て冬、陽のあたるところ      (年賀)昭・26・1月号
枯枝ぽきく折ってたばねて冬というもの       昭・28・3月号
椿ややぶこうじやうちの竹薮はいるによろしく    同号
ひとにぎりはどの白魚ざるにあつて透明な、春   (春季大会句評)昭・29・8月号
杖や笠やわらぢの紐は少しゆるめて遍路とて    (雲の会)昭・32・7月号
まなび舎は暗く雪明りして小学林というところ     (高野山追悼)昭・33・2月号
あなたの傘を私がもち肩よせてゆく雪          同号
海も空も春のいろ君の忌日にて           (雲の会 放哉州三回忌句会)昭・33・6月号
君の好きな桃の花ここにお酒もよ             同号
これはマアきいろい蝶で木の葉がふる          昭・34・1月号
人生の余白の落葉掃きためる               (雲の会)昭・34・2月号
落葉は林火いてこのさくらおつきうなつた         (層雲社新年句会)昭・34・4月号
老木の柿が銭になつてじいさんばあさん          昭・36・3月号
八ツ手の花の月が明るくてお十夜              同号
燃えて火の形の棟である燃えおつるとき          同号
桃の花あさやかに魔睡からさめている            昭・36・4・5月合併号
冬の日だまりの病人ではない病人でいる          同号

 以上、『層雲』誌上に見られる玄々子の句を列挙したが (調査もれがあるかも知れない)年代別に見ると、多少のバラつきはあるが、目立つのは昭和四年から十年頃までと、昭和十五年から二十五年頃まで句作がとぎれている。これを年譜で見ると、前者は本堂建立に力をそそいだ時期で、句作どころではなかったのではないだろうか。昭和十年八月の記録によると「税務署より差押え、ラジオを渡す」とあり、資金面でも相当苦労した様子がうかがえる。一方、後者は太平洋戦争の直前から終戦、また戦後の二十五年には長男宥尚師の客殿開放による保育所の開設等雑事に追われ、心理的にも句作する余裕がなかったのでは、と思われる。更に昭和三十六年五月から以降死去するまで句は『層雲』誌上に見られないが、これは昭和三十五年三月から岡山医大に一ケ月あまり入院・手術、これ以降病勢は一進一退、昭和三十八年頃から次第に体調を崩していったためと思われる。

(3) 『層雲』誌掲載以外の句
 『多くを語らず−玄々子の世界−』より抜粋したが年月不詳のため、記載された頁の若い順に列挙した。(送り仮名が施されているものはそのまま付した。但し、色紙等直筆の写真のあるものは直筆に従った。)
(月)
梅花無尽蔵十方月の光なり
月出でゝより今ふの勤行の鐘うちおはり
一羽飛んでまた一羽なく仏法となく
(虫)
虫放ちやる両脚揃へて飛んた
夜を戻るむしに鳴きすかられる
虫等のよるに歩を入れる
(遍路)
杖よ笠よ枕に近く置いて水音
遍路こぼすもの拾ふうちの雀のいつも二三ば
みたらしは手にうけてひるの静かなるお扉
お堂を閉めてからの巡礼に径をおしへる
わらぢのまゝ舟に入れば喋くる
お遍路すんで帰るみちまつすぐに夕陽
(豊島にて)
ひとりあれば一人はたぬし若葉する
蔓草つる草赤い実さゝげたるまゝ
心なにやら楽しく山鳩の鳴く便りをかく

(自由律俳句 その一)
   「老友大原智乗師の検校法印職 昇進を祝して諷吟す」
         (『六大新報』昭和三十三年三月五日号)
まなび舎は暗く雪明りして小学林といふところ
先生の羽織色あせていて叱られてばかり
雪ゆたかすっぽりとおさないえくぼの顔もいま
あなたの傘を私がもち肩よせてゆく雪
雨の日風の日追憶は祖師の道につゞき
草や樹や君の春咲き盛り咲きたゝえ
緋衣の袖晴れくと祖師につゞくこの道
ともし火(法燈)一つ両の手にうけつぐときの一念
萬灯萬華おん前に閼(あか)をさゝげ玉う
一すじのこゝろ一すじのお香たちのぼる

(自由律俳句 その二)
杉の黒さの夕立夕立をおつかけている
山焼く煙ほのかに見て港を出る
夜汽車の窓に顔よせて別れた(14)
山せまり瀧かゝれば石不動(いしふどう )たゝします
藤の花こぼす雨の併の軒をかり
観音のいらか見やりつ花の雲
石楠花さかりの宵ハ僧にかしづかれ
杉すくすく雫して朝や
三宝の声一鳥に在り杉の梢の薄明り
ふうはり竹の雪散らして朝の雀ら
水の昔梅ひらく
自分で焚いてはいる風呂窓の梅咲いた
雨の一日は備にこもり雨がえるに鳴かれる
しまを離れて島の明るく旅に出る
山焼くけむりの見えてゐてしまを離れる
夕日かへる島のふところに舟をおり
少し生きすぎたなと思ひ杖のよろしきを思い
その橋に釆てふるさとの土に下り立つ
朝飼の膳に顔おのおのの光をつゝみ
いてふ若葉に静かな雨の観音妙智力祈りつづける
「入院闘病七ケ月」
            (『六大新報』昭和三十六年正月号)  
いたづらに、生命長かれとねがふものはかなし 然れども自然に随ひていきるものはなお尊し 病床のつれづれなるままに陳公多少の歳を読む おのずから生きてゆくもの亦楽 さあるべし 私流に書き下して敢て自然の士にさゝぐ他山の石たらば幸甚なり

小飲酒多飲多粥
  酒はほどほどがよろしく粥はすこしたつぷりと
多茄菜小食肉
 茄菜を多くとりて肉食を少なくすべし
小開口多閉目
 口は開けど多くを語らずまなこは閉じて思を致す
小群居多独宿
 群居をさけて独り寝を楽しむべし

骨で戻ろう桃の咲くころの家を離れる
入院かべ白うして七日になる
己を脱ぎすてた裸身を手術台にじつとおく
麻酔から醒めてももの花
人生細ぼそとつらなりてベットの枕
つき添ふて湯タンポかへるばかり妻は板に寝る
窓ビツシリ芽ぶく入院も二十日
見舞いくれてむらさきの花紅はそへずもがな
これは桜の蕾里からの便りとて
癒えて水うてる程な夕顔にもやる

 以上である(15)。中に「入院闘病七ケ月」と題した句群があるが、病名は胃癌である。玄々子が確知していたかどうかは定かではないが、当時の事とて手術には不安と相当の覚悟があった事は「骨で戻ろう」という句からも窺える。「麻酔から」以下七句は手術を終えてホッとした安堵の様子が見える。玄々子は、闘病の果てに、昭和三十九年亡くなるのだが、大正十三年玄々子の元に修行に行く事になった清水法淳(後豊島十輪寺住職) は、「宥玄大和尚の想い出(16)の中で次のように述べている。

 私が最初、和尚にお遇いいたしましたのは、大正十年、明光寺十夜法会の時でした。私の師匠、法心師が「うちの小僧です。」と紹介してくれますと、私ににっこり、やさしく会釈されました。その時、私はこの方は温厚でなんとなく、重味のある和尚さんだと直感しました。
 その後、法心師匠のすすめで、大正十三年西光寺宥玄和尚のもとへ修行に行くことになり、希望を持ち、勇気を出して踏み込みました。
  当時のお弟子さんは、玄浄(げんじょう)、宥中(ゆうちゅう)、玄妙(げんみょう)の三人さんで、私と共に四人になり、何をするにも仲よく行動を共にしました。
 (中略)
 昭和廿四年、和尚さまは眼明寺住職として、豊島へ移住され、お逢いする度に、文盲の私に、荻原さんの著書である『俳句の手』とか『源泉』『礼讃』『尾崎放哉集』等をいただ きました。 (中略) 昭和三十六年、宥玄和尚は岡山医大に、思いがけなく入院されていることを知り、お見舞いに病室に伺いますと、和尚は元気よく、笑顔で「これからマナ板に乗りに行く。」と言われ、おどろきました。
 病室には八人の患者さんがいて、となりのベッドの人が「そのおじいさん(和尚のこと)の度胸には感動した。」と感心していました。和尚から潜みでる人徳に、同室の患者さんも一様に、お慕いしていたようです。間もなく、看護婦さんが来て、老僧さんは車に乗せられ、奥さんと拙僧はおともをして手術室前に行き、ドアが開くとさみしく微笑され、ドア が閉り もう仕方なく、ひたすら無事に手術の成功を祈るばかりでした。
 昭和三十八年、仲秋の頃でしたか、別宅へ御見舞いに伺いましたところ、しばらくして玄関に出られ、お立ちになったまま軽く会釈され、右手を肩にあて「両肩、両手、全身が痛むので、もう死んだほうがよい。」と言われたので何ともお慰めすることも叶わず、ご加養を祈念して、おうちを去りましたのが、残念ながら悲しい最後のお別れになりました。

(4)『層雲』誌句会報にみる玄々子関連記事
 ここでは句誌『層雲』に掲載された句会報より玄々子に関係する記事を抜粋した。(但し、同欄に掲載された俳句は省略している。)

@ 小豆島通信 井上一二  大正十五年二月号

「ホクロウキタ三〇ヒアサタツ」大阪の宿で島からの電報を見て、(中略) 二十九日の朝の汽船で帰島するとすぐ放哉庵に使を馳せた、万一自分の留守中でも北朗君が見えたら宅でお泊めするやうに云ひつけてあつたのであるが遠慮深い君は放哉庵の気易さを選んで西光寺の借夜具で不自由な一トニ夕夜を過ごされつゝ待たれたのであつた。(中略) その夜放哉君も玄々子君も見えた。放哉君は旧友一燈園同人の人が之も親友其の遺骨を擁して訪はれたとかで早く中座されたのであるがー清宵は句話に微笑に時たまホンの口些かの盃に更汁た、「やはり島の一二がほんとの一二だよ」北朗はこういつて丸亀へ渡つて行つた、 十一月三十日

(注記)これは北朗歓迎のための一二宅での句会で北朗、放哉、一二、玄々子が句を残している。

みかん畑みかんをたべ行く   北朗
ひどい風だどこ迄も青空    放哉
児の背掻いてやる肥えてゐる  玄々子
竹に月の真角な庭       一二

放哉の中座について、放哉年譜(17)によると、十一月二十八日に一燈園同人の住田蓮車より平岡七郎の訃報が届いた (四国遍路の途中汽車に轢かれ死亡) ようだ。蓮車が平岡の遺骨を抱いて来庵したために中座したようである。大正十四年十一月三十日付  玄々子より井泉水に出した葉書(18)には、

  宝樹荘にて
鍵を持つ人と行く山風   北朗
竹ニ月の真角な庭    一二
放哉一燈園の旧友来り中座す(花押)
     井上さんの宅にて
              玄々子

 とある (※)。北朗句「鍵を持つ人」は一二と思われる。宝樹荘は焼失後も塀で囲い、入口に鍵をしていたのかも知れない。(ちなみに宝樹荘の再建は平成七年である)

※編者注 『尾崎放哉資料調査報告書』には、一二の句が  「竹の月の真角は庭」となっているが、再調査の上、上掲 のように訂正する。

A 大空放哉居士百ケ日忌執行 一二記 大正十五年十月号

□西光寺玄々子若から使ひが見えた、それはけふは丁度故放 哉居士の百ケ日忌だから心ばかりの法会をする、丁度鳥取 から水田由蔵氏も来合はせてゐるし、幸にひまが作れれば午後四時までにお寺まで来るやうにといふのである、(後略)
□読経が済んで墓参をする、汐が引いて墓のまはりの芋畑に 夕日が澄んでゐる。
□寺へ帰つて三人でオトキのお膳につく、つめたいビールの 杯を挙げるにつけても話は居士の酒の逸話に落ちるのである、(中略)西光寺へ幾度も幾度も釆て話した中、酒の気 のなかつたのは只一度丁哉君の画を持つて釆た正月一回きりといふ話、等、等、等。
□その後の又の逸話。
 居士の名声が土庄でも大いに認められかけた五月頃のこと、一日土庄警察の人が西光寺に現れ、尾崎さんの遺産の処分はどうしたとの質問、西光寺君大いに面喰ひ南郷庵のお寒 銭銅銭若干は当寺に保管、衣服及世帯道具は近所の世話になつた婆サン連中に分配書物古雑誌は甥御の秀明君持帰りと報告に及ぶとナンダそんなものかとの言に、西光寺君更に奇異の思に一体何の調査かと聞くと実は尾崎氏は非常な大家の長男で大した遺産があつた、の事で庵にゐる人にも似ず金遣ひが荒かつた、その遺産を一人の婆さんが大部分せしめてゐるといふ風聞があつたので一寸調べて見たのだとのこと、死せる放哉生ける土庄警察を騒がす乎、それにしてもあの無一物の居士が死後一ヤク大長者と喧伝せらるゝも一興ではないか。
□十六日、水田君と玄々子君、宝樹荘跡の句碑(19)を見に来る

B 雲の会第一小集   昭和二年三月号
於小豆島土庄西光寺 昭和二年一月二日
(前略)「雲の会」復活の話しとなつて毎月二日を例会日と定めて、一は放哉居士在島永久の記念の意味も込め又吾が層雲をより益々発展せしむるの意味に於て、「雲の会」はふたたび生れて来ました。どうぞ可愛がつて下さい。その第一例会日を一二さんのお宅で開く筈だつたのでしたが突然の御支障の為めに玄々子宅に開催させていたゞきました。(後 略)

C 雲の会二月例会(小豆島土庄) 昭和二年四月号 二月五日夜、玄々子居に例会を開く。(中略)陰暦のお正月だつたので盃をかたむけながら開催した。(中略)玄々子が山陰に旅行して緑石、由蔵、両兄から句をいたゞいて釆たので中々にぎやかだつた。(後略)

D 偶会(小豆島)一二記 昭和二年八月号
 (前略)私の足は自然に灯のはうへ、橋のほうへ向く、誰かにふと出過つた。それは吽亭であつた、こんな晩には誰にも詩を思はすらしい、開けば主僧玄々子の文使ひとして雲の 小集のことを計りに小庵に来る途中といふ、電話に応じて石悌(信)が来る、玄々子は晩酌佳境中。今日の偶会はあしからずと使の返事、依如伴

E 雲の会怪集 吽亭記 昭和二年十一月号
(前略)丁度昼食時、我が寺門をトランク一ツ、怪僧がくゞり込むで来た。 そは画界の新進にて前途有望の青年僧池内水也氏也、法師玄々子とは一度、その昔御面会ありし由、放哉師の話よりお互に作句してゐることを知られしよし、水也氏は海紅を重にやられるとのこと、半日書画に付いて懇談ありし模様、夜に入つて句延を開催、如斯。(後略)九月七日。

F 雲の全通信 立石信一記 昭和二年十一月号

水田さんがたづねて来て下さつた。お国を出て大阪へ、それから小豆島へお越しになつた由。 土庄西光寺におとまりで、そこの玄々子氏吽亭氏が御一緒に、ついて来られる。(後略)

G 雲の偶会 吽亭記    昭和三年十一月号
 (前略)鳥取の水田由蔵さんがひよつこり訪ねて下すつたのでした、(中略)皆に計り早速句延をしくことになつた。(八月八日、)

H 雲の会報(香川県) 幹事記 昭和四年十二月号
 (前略)今回は西光寺に於て句蓮を開くに、石彿氏の不得止不参加は何時も乍ら淋しく、併し一二、玄々子、吽亭の古狐は元より、旧俳句の人で凡々子、漁舟、島内、光一路等四民の御入会は千人力、(中略)散会十時半頃。

R 雲の会小集(香川県小豆島) 一二記  昭和十三年十二月号

十月十二日の夜、玄々子、俊二(20)、一二の三人で宝樹林に参集、(中略)いろいろ談し合ひ折柄放送芭蕉忌のラヂオを聞いたりして夜の更くるを知らず。俊二日く「コゝ、は南郷庵より飴程静ですよ、庵はトテモ市井でしてナ」

(注記)玄々子、俊二、一二の句があるが、文中「宝樹林に参集」は理解できるとしても「ラヂオを聞いたりして云々」はどうであろうか、宝樹荘は大正十一年末に焼失しており、何も無かった筈である。ラヂオを聞くとすれば当然電源が必要であるが、この時期は未だ再建されておらず疑問が残る。句を作っているところから宝樹荘で作句した後、ラヂオと句会は一二宅で開いたと見るのが適当であろう。なお後日の解明を待ちたい。

J 雲の会(小豆島)−逸郎氏受賞祝賀会− 一二報 昭和三十二年七月号

 五月十四日、うちの層雲文庫の書物を借りに見えた逸郎氏を迎えて「雲の会」の復活句会をひらいた。

K 雲の会(小豆島)―放哉三十三回忌法要句会―明記   昭和三十三年六月号

 春雨梱る四月六日午前十一時より、放哉安住安眠の地南郷庵に於て、第州三回忌法要句会を催す。各新聞社はもとより、NHK録音班も見え、御備前には井泉水先生の電報御供句、北朗先生の短冊、一二先生の色紙、名酒灘の生一本、桃の花、玄々子さんの美声の読経、逸郎先生の名祭文等々盛大に行われました。席上放哉生前の業績、逸話も賑やかに故人を偲び散会。さぞかし大空居士も名酒灘の生一本に、御満悦の微笑を浮べられたことでしょう。

L 雲の会(讃岐小豆島)玄々子記 昭和三十四年二月号
十一月十六日午後二時から、井上一二老「井泉水賞」受賞祝賀会を催した。(後略)

3 玄々子と尾崎放哉
(1) 尾崎放哉と出会いの頃

 放哉が来島するに当っては、大正十四年七月に当時京都に居た荻原井泉水より一二あて依頼状を出している。井泉水が、前年五月の小豆島八十八ケ所巡拝の経験から一二に頼めば何とかなると思ったのは容易に推測される。しかし、それを受けて一二は困惑し、玄々子をたずねて相談している。その様子を玄々子は「放哉さんと私」(21)で次のように書いている。

 彼が島に来ると云ふ井先生からの便りをもたらして井上一二さんが私を訪ねて下すったのは大正十四年の七月頃の暑い日であつた様に覚えてゐる。井先生のお便りの始終を聴いて私は一二さんに云ふたものだ。
 サア、急に庵をと云はれても、庵には それぞれ留守番がゐて心当りもないし、特に放哉さんが自活してゆける庵とこふと一寸六ケしい事だと思はれますがー庵は八十八ケ所の内寺院を除くと六十幾ツの庵はあるにはあるが、その中でも自活して行ける庵と云ふと数へる程しかないのであります…‥困った事ですね−と迷惑そうに私が云ふと一二さんも非常に恐縮された様子で、実は先生からのお手紙なんですがコノ庵の事は私ども門外漢には一向に様子がわからないので、まして自活してゆけるとかなんとかと云ふと実際困るんです、ふれに放哉君はお酒が好きなんだそうで、今迄、何処でもコノお酒で失敗したとか云ふ事なので真実にどうかと思ふのです、がマア霊場の事は貴僧がお詳しいので御相談やらお願ひやらと云ふ訳けなのです。
 サア、お酒が止められんと云ふ人も困つたものですね−庵はマアゆるく探す事にして…ですが 酒呑み″ と云ふ事が一枚加はる事になると、島へ来てもらってお世話をしても招来が案ぜられますねー
 それなんです、どうしたものでせう−と当惑の面もちであつた。  その内に適当な庵が見つかつたらお知らせするから、それまで島へ来る事は見合す様に返事を出すより仕方がありませんですねと云ふと、一二さんもーさうするより外すべがありません、では左様に先生にお返事をいたしませう。その内貴僧も御迷惑でせうがよい庵を探して見て下さい。と云ふ事で辞去されたのであった。

 この後、一二は井泉水あて 「適当な庵が無いので来るのを待て」と電報を打つが、入れ違いに放哉は「八月十二日付放哉君持参」と書いた井泉水の添書を持って、八月十三日の午後来島したのである。この事について玄々子は前文の続きとして、

 コノお返事、と彼が島へ来るのと丁度入れちがつてー間もなく彼は島の一二さんの宅に落ついて (中略) こうした不用意の内に島へ釆て仕舞つた彼をどうしたらよいかに就て一二さんは色々と心をいためられた事であつた。南郷庵の提供も…兎にも角にも、殆ど無収入に等しい庵である為に…是から自活してゆかねばならん放哉さんに対して、ココヱお住ひなさいとは、どうしても自信が無くて申上げられなかつたので一応庵を御覧になつて、自分で住んでみようと云ふ気持におなりの様なれば−と云ふ事で兎も角も此の南郷庵に一先づ落つく事になつた。

とある。尤も、これは昭和二十五年に書かれたものであり、多少の記憶違いがあるかもしれない。ここでは南郷庵の空くいきさつ、連絡などは省略して、玄々子が放哉とはじめて逢った日のことを考察してみたい。
 放哉は一二のすすめにより八月十四日朝、国分寺の童銅和尚をたずね、その足で丸亀の内藤寸栗子宅におもむき、同人一同と句会をし酒で失敗している。
 余談になるが放哉の酒癖の悪さは東洋生命時代から続いており、来島する際にも井泉水が「翌からは禁酒の酒がこぼれる」と書いた扇子を持たせた位であるが、一二は放哉の百ケ日の法要の際にも玄々子と水田由蔵との(22)話の中で、前述の扇子を持って井泉水の添書を持って来島した時「スデにぶんとにはわして」いたことを述壊している。
 さて土庄から高松に渡る船が出るのは、現在の土庄港からと佛崎からとあったが、一二宅からは佛崎の方が近いため、丸亀行に際しては一二からその行き方を教えられていたと思われる。この道は西光寺の東側に添っている。行きは兎も角として、八月十五日丸亀からの帰途西光寺に寄ったと考えるのは自然である。既に庵が空く見込との連絡を受けており、放哉の心情からすると期待と一抹の不安が交錯していた事は想像できる。せめてあいさつ″位はと考えるのが人情であろう。『放哉全集』第三巻の年譜にも、「八月十五日、西光寺に杉本宥玄(玄々子)を訪れる」となっており、この説で考察すると、八月十五日丸亀の内藤寸菓子宅からの帰途か、あるいは一旦一二宅に帰り、いずれも一二の指示により訪問したことになる。しかし、実際は十六日であったという有力な調査が森克允によってなされている(23)。そのヒントに」なったのが玄々子の「放哉忌」(24)である。次は、「放哉忌」の一部である。

 そしてある夏の夜、私を訪ねてくれたのであるが(井上一二さんからあらかじめ話しがあって)、憶へばもうあれから三十四年、私も齢七十近くなって、そろく老禄の域に入ろうとして記憶も大分薄らいできた。私の古い句帖を取り出して見ると
 放哉先生をお迎えして、と云う頭書で
 外はあらし先生のコップのビールの泡
と句が書きつけてある。真夏の事で、初対面の放哉を遇するにビールを出してもてなしたらしい。
 身の上の話し、学歴、職業、放浪流転、等々話しはつきなかったが、放哉は云うのである。私とアナタは古くからの友人であると、今度南郷庵に入れている風来坊放哉は、東京の震災に焼け出されて行くところがなく旧友としてたよって来たので庵へ入れてやつたのだ。ぐらいの処であまり身の上を詳しく発表なさらぬ様に願います。との事であった。折柄、外はにはかに雷鳴、イナズマ、あらしを交えた猛烈な夕立がやって来て…放哉氏にツイダ、コップの泡と、外のあらしとの交響は、私に、何か知ら彼れの流転の宿命とでも云った風なものを私の心に感じさせたのが前掲の私の駄句である。
 キレ長の大きな眼に、黒く澄んだ瞳を輝かせた、ふっくらとした面長の顔をニコニコさせながら、その当時の短詩文学、特に自由律俳句の特異性に就て、熱烈に論ずる彼の態度は、真実そのもので、畏敬、崇高とでも云う様な思いを、私の心に与えて呉れた様にも思われる。
  佛をまかす頭きれいに剃っていられる
と句帖に書きつけている。あすから、この人に南郷庵の佛のお寺をまかすのだが、此の人ならば、無条件で佛をまかしても大丈夫で、おそらく間違いはあるまいと云う私の信頼の念が、私の心に湧いて来たのであろう。
 文中、初対面の 「ある夏の夜」 に 「猛烈な夕立がやって来」たことが記されているのである。この記述から、森が香川県の気象状況を調査した結果、台風の影響による天候悪化があったのは十六日であったことがわかった。従って玄々子に放哉が初めて会ったのは十六日と考えるのが正解であろう。
 ともあれ、この当時の放哉は「…ふっくらとした面長の顔…」とあり、体調は比較的良かったのではないかと思われる。酒については、放哉の酒癖の悪さは十分承知ししており、玄々子の頭の中には 酒を呑ませてその様子をみる″ という気持があったのではないだろうか。玄々子の酒は普段で三日で一升 (二級酒ばかり)、近所の子どもに小使いをやって買いにゆかせ、おかずは油揚の焼いたものが好物だったようで(25)、酒量は放哉と十分対抗出来る状況であったと思われる。
 さて放哉は、八月二十日に終の栖となる西光寺奥の院「南郷庵」に入庵する。前述の 「放哉さんと私」 の続きを引用すると、

 主食から味噌、醤油、薪炭なぞなぞ明日からの彼が糧は一二さんが調へて運んで下さるし、蒲団、蚊帳、鍋釜など簡単な生活調度品は西光寺の古いもので辛抱してもらった。(中略)彼の望んだ文字通りの心身一切−全く無一物の生き方に無条件にヒタル事が出来た。
 彼は無性にうれしかったにちがいない。

とある。この日から放哉の明日のない生活がはじまるわけだが、他からの制約から解放された事による放哉の無上の喜びを玄々子は推し測っている。実際、放哉自身からも感謝の気持が記されており、例えば、入庵直後放哉が書き出した「入庵雑記」 の 「灯」にはランプから電灯をつけてもらったことは「一に西光寺さんの御親切の賜」と書き、「入庵以来どのくらい西光寺さんの御親切、母の如き御慈悲に俗したことか解りません。」と最大の謝辞で綴っている。一二にもお礼の手紙を出しているが、角ばった内容で味噌、味噌の実、納豆、ムギの粉、炭などを無心している。井上一二は当時渕崎村村会議員で三十才、放哉より十才年下で、性格は謹言実直、酒もたしなむ程度で放哉とは正反対。互いに内面的には相入れぬところがあったものと思われる。ひるがえって玄々子は当時三十五才、苦労人で酒も好き、大らかな性格で包容力もあり、そうした点から放哉も胸襟を開いたのではなかろうか。
 なお、八月二十日の入庵を裏付けるものとして、放哉から玄々子に出した手紙があるので次に掲載する (筑摩書房『放哉全集』第二巻より引用)。

大正十四年八月二十日 杉本玄々子あて (封書)
 啓、色々お世話になりまして感謝の辞ありません どうか将来、不肖私のいつまでも盟兄として御厚誼御願申上ます
奥様御帰りになりましたかよろしく御願申します
○私一人で、小生「晋山式」を一人で喜びつゝ(ビール一本祝申候) 珂々
『西瓜の青さごろ?と見て庵に入る』  御批評下さいませ
此の西瓜は、御徒弟様方へ差出します
 御住職玄々子楊下
           買物ノ出サキニテ 尾崎生

(2)書簡にみる玄々子と放哉の交流
 南郷庵に入った放哉は、以後玄々子の厚い庇護を受けていくことになる。西光寺と南郷庵は徒歩五分はどの距離でありながら放哉は頻繁に書状を書いているので、放哉が玄々子に寄せる深い信頼とそれに応える玄々子の厚意等二人の心の交流を窺うことができる。ここでは、代表的なものに限って掲載してみたいと思う(筑摩書房『放哉全集』第二巻より引用)。

大正十四年八月一二十日 (書簡種類不明)
 啓、御手紙、一字、一句、涙を以て拝涌、私の如き感情にもろい男は、全く御親切に泣かされました、よろしく御願申します、一二氏の話に大に驚いた結果が、ヤケ酒となり、まあ之が私のワルイくせ、今後は絶対ヤメます、そして御親切に感泣して朝から木魚を叩いて句作する放哉に帰ります、御安心をねがひます、朝ばんのオ光りは必ずたやしません (中略) アタマも、ヒゲもそつて、明日頃から、オ風呂をいたゞきにまゐります。(後略)

(注記) 一二氏の話というのは「一年の収入が五十円ぐらい」と言われた庵の経済の事である。安住の地でないことに落胆した放哉はヤケ酒の後、漁師の子供に佛崎から舟を出させて泣いた。玄々子からは「心配しなくても食べる事ぐらい面倒をみます」と言われ、ホッとした心境と、酒で失敗した反省の念をこめた何ともしおらしい内容である。

十一月(日付不明)  (封書)

  啓、 ナントモ申上方アリマセン、…今回丈御ユルシ下サイマセ只、…コレカラ愈、呑ミマセン、…今一度御ユルシ下サイマセ、御目ニカゝル事モ面目次第ナシ、此次ニコンナ、シクヂリヲヤツタラ、私カラ身ヲ引キマス (後略)

十一月十二日 (簡易封筒)

(前略)御教示の庵則必厳守…将来、破れば…御言葉の無いうちに、放哉、直二消滅するか、島を去ります(中略)先便の副として、此手紙かきそへ置きます(後略)

(注記)  日付不明の文は十二日付の文中に 先便の副″とあるから一〜二日前と思われる。内容は、一二宅から料理と肉が届けられ、それで酒を呑み、その勢いで木下医院に行ってからんだ。その後四軒の店を無銭で飲み歩いたが、店の者が「類のないほどの悪態を吐き続けられた」と西光寺に苦情を持ちこんだ事に対するあやまり状で、文中「御ユルシ下サイ」が四回も出てくる。

十一月十六日 (簡易封筒)

(前略)◎庵則、死ス共実行◎ ホントニ、此ノ亡者、放哉ヲ、最后迄御導キ下サイマセ、御願申シマス (中略) アナタニハ勿論、めん目ナシ、奥サンニモスマズ…当分、出来得ル丈、人サマニ逢ハズニ居ル考二候(中略)
◎庵則死ス共実行◎

十一月十七日 (書簡種類不明)

 啓、只今、長文の御手紙いただき感謝の辞無之候…一々御尤、放哉…文句なしであります、今日の御長文通り、○庵則死ストモ実行○、よく御話わかりました、…スミマセン? (矛盾ノ点…正二凡夫放哉ノナス処、今後は全く…世捨人として、乞御許容)(中略)「去る者は追はず、来るものは、こばまず」…御言葉通り…井上サンにも参ります、オ宅にも伺ひます、今暫く、時日を、かして下さいませ…御願…奥サンにも相すまぬ次第ありがたい事に候。(後略)

(注記) 禰生書房刊の『放哉全集』(井上三喜夫編 四十七年六月)には、転載元の『放哉書簡集』(荻原井泉水編春秋社 昭和二年十月)に次の一文が付されているとして「編註」がある。

(玄々子附記)一日、放哉例のクセを出し盛に飲む、二日間に三四軒の料亭より小寺へシリをもち来る、詮方なくて長文をものし、庵則をたて、厳重にいましむ。即ち「放哉の淋しさを慰むるものは酒なるべし、敢て禁酒を強ゆるものに非ず、自今庵内の痛飲は之を問はず、料亭の飲酒極少量といへどもこれを禁ずるもの也」云々と。其以後は庵則を破らず。また門を出でざりき、今にして思えば小智憾悦にたへず、敢て放哉仏の許しを乞ふものなり。

大正十五年四月五日 (書簡種類不明)

 啓、御尤千万ノ次第
 小生マサカノ時ノ御通知先キハ
  (中略)
ヒヨットシタラ御通知下サイ、役場関係ナラ之デ大丈夫、只名残り惜ムトカ云フ意味デ早ク通知シテモラツテハ実ハ私モ右本人モ非常二困リマスノデ、之ハ是非御許シ願ヒタシ、ヒヨットシテカラデヨロシク候(中略)井師ハ此事ヲヨク知ツテ居タカラ死ンダラウメテ下サイ、ヨロシイ…デ二人ノ間ニハ話ガスンデヰタノデスヨ…親類ナンカ、況ンヤ、ナゴリヲ惜ム事ナンド、テンデ問題デハアリマセンノデスヨ、右イソギ
   四月五日
    玄々子様                       放哉生

(注記) 放哉が亡くなる二日前の、最後の手紙である。死期を悟ったのか、まさかの時の連絡先、大阪の小倉康政あての住所を書いている。、覚悟を決めて、死んだら埋めてくれと淡々と書いているが、なんとも悲憤な文である。

 以上、六通を掲載した。放哉から玄々子に宛てた書簡は、大正十四年八月来島から十二月末までに十六通、十五年一月から四月に亡くなるまでに十四通あり合計三十通に及ぶ。(別に夫人あて一通、徒弟あて一通有)内容はあやまり状と金品の無心、借用、感謝の念が主であり、これらの手紙は郵送でなく、はとんどが託送したものと思われる。南郷庵から西光寺まで裏道を歩けば五分位、体調のせいもあったであろうが、訪問したのはごく わずかである。
 ちなみに井上一二あての無心の書簡類は二十四通であるが念彼観音力」の中に六回、「入庵食記」の中に十一回無心の事を書いている。他の層雲同人への無心も限りなく多く、酒で失敗もしくは金品の無心、借用の場合、玄々子には平身低頭の文が多いが、井泉水、一二をはじめ多くの層雲同号人には、体調不良を感じさせない極めて明るくふるまった文が多い。
 それにしても、あれだけの文を書く精力はどこから来たのだろうか。−多くの友人に迷惑をかけ、時には非社会的でありながらなおかつ許されていただけでなく、多くの支援者、後援者を得ていたのは、自由律俳句という文学形式の中で、健康に生き続ける事が出来たからではないだろうか。  

(3) 放哉入滅の頃
 放哉が亡くなったのは大正十五年四月七日である。時間等は後述するとして、亡くなる一週間位前から病状がかなり悪化していた事はいなめない。玄々子は放哉が亡くなる四、五日前に病床を見舞ってなぐさめると共に、誰か近親の者を呼びよせる事は出来ないか、また知らせるところがあれば遠慮なく申し出てはしいと話している。以下『層雲』昭和二十五年四月号「放哉特輯号」の「放哉さんと私」より引用する。

−彼れはすでに声も出なくなつてゐたが、御言葉は身にしみてうれしい訳けだが、自分は今更近親を呼びよせて別れをおしむと云ふ風な事はしたくない。(中略)たゞ心にか〜る事は、自分をこゝまで庇護して導いて下すつた井師の高恩である、この高恩に報ひずして没する事は誠に残念であるが致方も無い事である。だから自分が万一の場合は井師丈けには通知してはしい。(中略)繰りかへして申上げるが、自分のもとめるものを−大ヰなるものをコノ胸一パイに得て満足して死んで行く。どうか自分の死後はソコラお墓の片角に穴を掘つて埋めていたゞければそれで満足であるー私は此の言葉に黙つてうなづくより外にすべは無かつた。
 諸法無我をこのよにあるものひとりあらずとは、若い頃から教へられたものではあるが、−この放哉の言葉によつてハツキリと教えられた事ではある。
 放哉は私を恩師の様に書きたて〜はゐるが、それは返つて反対で、私こそ彼の無一物の生活から捏襲寂静(おのれなきものにやすらひあり)と云ふおしへをハツキリと身につける事を得た (後略)

 このような状況から玄々子は一二と共に、四月七日の朝再び見舞い、午後には木下医師と一二の叔父(内科医)にも診察してもらっており、その様子を井泉水に次のように書き送っている。(26)

拝復
放哉様御容態先日打電以来重篤となりましたトテモ恢腹の見込ハありません 本日も井上様も御こしを願ひまして医師も従来の方と今一人井上様の親族の方々を迎えて充分みてい たゞきましたが三日乃至五日位の余日しか無いと宣告されました誠に悲しみの極みです、(中略) 今日では二人の看護人をツケテゐます(今日マデ一人)(中略)もう食事もとる 事が出来ませず(咽頭の為に)眼もよく見えないと申されます然し意識ハまだハッキリしてお話しになります (後略)
  四月七日午後三時玄々子
  井先生様御史

 なお同内容の手紙は一二からも井泉水に送られており、玄々子、二一ともに放哉の病状を心配しながら回復は望めないというあきらめの気持が文中にあらわれている。それにしても玄々子の放哉に対する舶桝身な対応は井泉水からの預り者″という意識があったにせよ、また同じ俳句仲間という結びつきの強さを差し引いても、宗教人としての信念、人間としての愛情の深さを感じずにはいられない。
 さて放哉が亡くなった時間については、午後四時頃とも言われているが、玄々子が土庄町役場に提出した死亡届には「大正拾五年四月七日午後八時香川県小豆郡土庄町甲千八拾弐番地二於テ死亡家屋管理人杉本宥玄届出−」となって受理されているので、午後八時が正しい。なお七日深夜に放哉の姉婿 尾崎秀美氏に玄々子より打電(27)している。
 放哉の戒名について、井泉水は「放哉を葬る」(『層雲』大正十五年六月号)の中で、

放哉の戒名をつける事は、彼の家の宗旨が明らかでない為に困つたさうだが、(中略)南郷庵主として 真言宗の式に従つて、大空庵××放哉清居士と玄々子が名付けてくれたとの事だつた。まことに堂々とした立派な名である。但し、無一物の放哉には少し過ぎた感がなくもない。私は××と清の三字とを削つて−彼の俳句を添冊するのと同号じ気持で悪いやうでもあるが−「大空放哉居士」 で結構ではないだらうか。此方が簡潔にして飾りがなく、如何にも彼らしい名だと思はれると云つた。之も私の説が容れられて、さう定められた (中略)尤も、「大空」といふのは真言宗で云ふ所の諸法空相の義から引かれたものであらうが(中略)「大空」とは玄々子が住い字を選んでくれたものだと思った。

と書いている。今では「放哉大空居士」ですっかり親しまれているが、当初は玄々子が立派な戒名を付けていたことがわかる。それでは××清居士とは何か。釈正信『多くを語らずー玄々子の世界−』 の中で 宮本光研師(赤木吽亭師のご長男)の「玄々子を偲ぶ」 の文の中で、「玄々子−宥玄は放哉の入滅を見とどけ、戒名・大空院心月放哉居士と贈った。」とあり、××は「心月」である事がわかる。
 放哉句集『大空』は井泉水の編集により、亡くなった二カ月後の六月に異例の早さで出版されている。玄々子は放哉の四十九日を営んだ事と『大空』を贈って貰った お礼を兼ね「土庄より」という題で『俳壇春秋』(28)に次のように書き送っている。

土庄より 杉本玄々子

「大空」御恵送に預り有難ふ存じます、すぐ霊前にお供へしてお経を上げました定めし地下で例の「フ、ン出たな」位の独特の笑ひ方ではゝゑんでゐらつしゃること〜存じます 島「殊に土庄」ではなくなられてからの放哉様が非常に光つて釆ました、アノ呑んだくれの様な人が、ソンナヱライ人であつたのかと之れも常に学士とか学問とか云ふものを又は御自身の素性を秘してゐられたので何んにも知らなかった島人が…(私も極めて秘してありました)先生の朝日新聞の記事(29)から有名な人であつたことがわかりまして新聞がアチコチと持ちまわられた風で…大空を買求める人もボツ/\あると云ふ様なわけ、実にうれしい事であります、自分の事の様に…去る五月廿五日葬式の時の御供をして呉れました人々で放哉さんの御友人であった、バアさん連中を六七人よびまして心丈けの四十九日を営みました。

 さて、放哉没後の状況は、「『層雲』誌句会報にみる玄々子関連記事」の項で掲載したように、百ケ日、三十三回忌を催したことが報告されているが、句会報欄には十三回忌の報が掲載されていないので、次に井泉水が記した文を掲載する(30)

 四月二日 私は一二と連立つて、小豆島に渡つて、放哉の亡き跡を弔うた。数へてみると、今年は放哉の第十三回忌に当るのである。私が小豆島に行つたのは、放哉の埋葬の折であつて、十三年ぶりになることかと、歳月の過ぐることの早さに驚かれる切だ。小豆島もずいぶん変つた。その頃、塩焼く煙がのどかに立ちのぼつてゐた塩田は、東洋紡績会社の近代的の建物が立ち、橋梁は立派になり、自動車は殖えてゐた。だが、放哉を世話してくれた西光寺の玄々子をはじめ、放哉と遊び友達であつた吽亭 木星も健在だつた。放哉の正当忌日は七日ではあるが、練上げて、西光寺の本堂に於て、回向供養をした。玄々子が導師となり吽亭、木星が共に読経してくれたことは、地下の放哉もさぞ満足したことと思ふ。玄々子が心づくしの黄金の液一瓶と、筍なども供へられてゐたことも、放哉を微笑せしめたに違ひない。(中略)彼が起臥してゐた本堂につゞく居間は、本堂から引き離して改築されて、小ざつばりとした六畳になつてゐた。それから、彼の墓は、これも彼の墓を建てる為の後援会に依つて出来たものだが、五輪のりつばなものが建てられてゐるのを、私は始めて見て彼に寄せられた大方の友情を今さら涙ぐましきまでに感じたことである。(中略)
 ことしは凡て花が早かつた。途中でも、小豆島でも桃が散つてゐた。放哉の没した年には、桃の好きな彼が桃の咲くのを待ちくたびれてゐたことなども憶ひ起された。(後略)

 放哉の死に対しては『層雲』誌上で多くの同人がその死を惜しんで追悼文を書き、誌上では放哉特集号も編集されているはか、数多くの著書も発行されている。また各地の結社で追悼句会や法要が適宜行なわれている。その死を惜しまれた放哉だが、特に小豆島での生活は、師である井泉水のたゆまざる庇護と裏切られても裏切られても援助を惜しまなかった玄々子、一二に支えられたことが大きいといえよう。そうした支えがあったからこそ孤独の中で感受性がとぎすまされ、放哉の俳句はやりきれない思いや後悔、ぼう漠たる淋しさをさらりと表現できたのではなかろうか。
現在、放哉が亡くなった四月七日には、玄々子の遺志を継いで、「放哉」南郷庵友の会が中心となり、毎年西光寺で法要を行ない、墓参の後放哉ゆかりの講演などを実施しているほか、土庄町ではかつて放哉が住んだ南郷庵を「小豆島尾崎放哉記念館」として復元、また別に 「尾崎放哉資料館」を開館し、遺品、資料等を展示して多くの放哉ファンを迎えている。

4 玄々子遷化
 昭和三十九年二日二十四日、西光寺住職杉本玄々子は七+四年の生涯を閉じた。荻原井泉水は 「鎌倉だより(31)」 に次のような追悼文を寄せた。

 それにつけて、私を長大息せしめたのは今日、小豆島の杉本玄々子君の訃報に接した事である。放哉がいちばん世話になつたのは恐らく玄々子君であろう。(中略)放哉終焉の地、南郷庵は玄々子君の西光寺に属するもの。放哉がそこに安住したのも、まつたく玄々子の好意(物質的にも精神的にも) に依るものだつたのである。玄々子君はじつに好き人柄の住職であつて、昭和十三年、放哉十三回忌を西光寺で営んだときにも、非常な盛儀であつたこと、その法会に参会したかたは今も記憶にあらわれるであろう。惜しいかたをなくしたこと、まことに哀悼に堪えない。(二月廿八日)

 そして、後に 「空は是空如月の水の色にて」という色紙ともう一枚次のような色紙を贈っている。

三世諸彿依般若
波羅密多故得
阿蒋多羅三褒
三菩提  
昭和三十九年二月二十四日 井泉水拝書

 井上一二は、次のような弔辞をしたため、また追悼文「玄々子のこと(32)」を寄せている。

※編者注 省略写真

昭和十四年七月三十日 小豆島西光寺に於いて層雲物故誌友追悼法要を開催。写真左端玄々子、二人目井上−ニ、前列左端荻原井泉水、他全国より集まった層雲同号人。中央は放哉の墓

     弔   辞(33)
本日小豆島に於ける俳壇の英傑西光寺老師杉本玄々子さんの葬儀に際し最も故人の俳句生活を辱知する一人として弔辞を申上ます大正初年我が敬愛する故人は高野山大学終了後円満寺住職として活躍その頃から従来の型に這入った旧派の俳句にあきたらず巨匠荻原井泉水先生の提唱される新しい俳句に開眼されその道に入られました大正十三年先生の島八十八ケ所お遍路にその案内役として随行あの先生の有名な文章になりました、その頃の中等学校の国文教科書に取り入れられました 御遍路の意義と小豆島霊場の紹介の事は全く故人の法施とも云うべき一大事業で御座います 特にこの御遍路が機縁になりまして十五年八月これ亦日本的大作家尾崎放哉の南郷庵入りとなったのであります 当時の放哉ハ天涯孤独 地の寺々を追はれまして全くの無一物 万一此地に安住の場が得られない時ハ台湾落ちを決心していました 親戚友人一人としてその窮況を助う人なき放哉を暖く包容して南郷庵を提供されました大度量は今日より考へますると葺に頑が下がる思ひで一杯であります「明日から禁酒の酒がこぼれる」という井師の戒を破って放逸の行を改めない放哉を老師玄々子さんはこれを善導して最後までその法衣の下に包まれて病中は勿論葬儀万端まで尽力されました 今日放哉の芸術が俳壇文壇に高く評価され 芭蕉一茶と並んで後世に残る筈でありますが、それは玄々子さんの宗教的人間愛がかくの如くあらしめたので あなたの名は日本俳句史の上に永く残ると思ひます 「花びらの風呂のふたとり泊めていただく」層雲作品選にこんなよい句を残されました あなたは寒風の中に咲く白梅の句境です いま七十四年の生涯●終るときひとりの道友として感無量です、謹んで一句

 海ハ遠くここの梅ちりおへしとき(34)

御冥福を祈ります、
  昭和三十九年三月二日
        俳友
          井上一二

   「玄々子のこと」
玄々子が死んだ。 大分病気がわるいと夫人の伝言を聞いて中央病院の特別室に行くと一見そんなに悪化している様子もない。「人間死ぬるのにこんな苦労をするものかなあ」など云うてはいるもののそんなに早く逝かれやうとは思はなかつた。(中略)高野本山から二階級特進で大僧正が追贈された、欲のないよい人であつた、私を宗旨に目覚さしめたのは故人であり、故人はま た私から俳句に開眼されたやうである。井師との小豆島八十八ケ所遍路と放哉来島は今更筆にすることもない。その後二人で枕を並べたのは日外妙心寺の霊雲院で催された放哉の三十三回忌を兼ねた京都大会であつた。
 葬儀は檀徒葬で純然行古式、大原智乗前管長を迎へて盛大を極めた、私は特に左の弔辞を読ませて貰つた。
 数の少ない俳友を亡くしたことば淋しい限りである。

 井上一二の弔辞には。淡々とした字句の中に、一二が持ち得なかった玄々子の大らかな人柄と包容力が語られている。  玄々子が亡くなった昭和三十九年、放哉の生の痕跡は見事に消し去られていた時代であったが、この弔辞を読むとき、放哉という流浪に身を任せざるを得なかった一人の俳人の姿が鮮明に浮かんでくるのは筆者だけの感傷であろうか。筆者には、玄々子という人物がいたからこそ放哉は小豆島に病める身を寄せることができ、「咳をしても一人」以下多くの名句を世に送ることができたのだと思えてならない。今、玄々子と放哉の墓石は、南郷 庵の上にある西光寺の墓地に仲良く並んでいる。
                       (俳人)

※本稿は、長年に亘り放哉を中心に小豆島における自由律俳人の顕彰に努められた故井上泰好氏の功績に敬意を表し、『放哉研究』誌に掲載させていただくため、井上氏の遺作『研究紀要 梅花無蓋蔵 小豆島の自由律俳人(4)〜杉本玄々子〜』(平成二六年六月「放哉」南郷庵友の会発行)を日本放哉学会が再編集したものである。尚、井上氏の遺作では、玄々子と種田山頭火及び他の層雲俳人との関わりについても言及しているが本文掲載にあたり割愛させていただいた。
                   (文責 小山貴子)



(1)井上一二−明治二十八年小豆島生れ。渕崎村長・香川県議会議員等を歴任。大正三年「層雲」入門。尾崎放哉の来島から死去まで、杉本玄々子と共に面倒を見た。昭和五十二年八月死去。八十三才。
(2)参考文献  ・『明治百年讃岐の高僧』大真言宗香川県連盟 (昭和四十六年六月)  ・『多くを語らずー玄々子の世界−』釈正信(平成七年六月)
(3)大学卒業後大陸(今の中国) に渡り生涯布教活動をしたいと思っていたようであるが、深玄師に「西光寺本堂建立」の悲願を託されたという。
(4)横山玄浄、宮本宥中の ( )内は俳号でいずれも尾崎放哉が命名。二人共「層雲」 に入門し、荻原井泉水に師事した。放哉来島時、二人共小僧をしており、放哉と交流を持つが、横山玄浄は一番の年長で、来島中は京都へ修行に行っており、木星の号で井泉水師の句会にも出ている。なお、瀬尾哲命師を除きいずれも他界。
(5)釈正信「多くを語らず1玄々子の世界−」所収。
(6)封筒は、畢吉宗学術・宗政研究・報道の権威「六大新報社」(京都市)「六大新報」在中とあるから、定期的に購入していたと思われる。上書きは筆字で、「香川県小豆郡土庄町豊島 眼明寺殿」とあり、「眼明寺殿」を消して「◎一会の会◎俳句原稿」と書かれている。
(7)野村朱鱗洞1明治二十八年松山生まれ。俳句革新の旗をかかげ「層雲」に参加。また海南新聞の選者としても活躍、井泉水も「層雲」 の将来を託すつもりでいたようであるが、大正七年没。句集『祀讃』は大正八年五月初版発行(昭和十三年八月改訂版)編集兼発行者荻原井泉水、発行所大泉園。本文句は次が正しい。    ○風ひそひそ柿の葉落としゆく月夜    ○月夜の雲ひえびえと野の四方にありし
(8) この後半には 俳席の提″として「層雲社中 壁書」を表装したとしているはか、壁書の解説をしているが、途中で切れている。このはか別のメモ書や原稿用紙には添削されたと思われるもの、自作の句、自作の解説、さらに「雲の会(サヌキ小豆島)井上二一老井泉水賞受賞祝賀会−十一月十六日」として、一二の句集『遍路笠』(昭和三十三年十月私家版)出版記念を兼ねての雲の会の集会のメモ書があるところから、昭和三十三年秋頃に書かれたものと思われる。
(9)釈正信『多くを語らず1玄々子の世界−』所収。
(10)「遍路日記」『層雲』大正十三年八月号・九月号
(11) 「鎌倉だより」『層雲』昭和三十九年四月号、玄々子追悼文より抜粋。
(12)井泉水著『遍路と巡頑』(昭和九年三月創元社刊)の中の「遍路となりて」
(13)井上一二文庫 昭和五十二年一二死亡後その蔵書が香川県立図書館に寄贈された。その中に創刊号よりの 『層雲』各号が含まれている。
(14)「夜汽車」 の句は、『多くを語らず』では『層雲』大正十五年十二月号となっているが、十二月号に掲載されていないのでここに収録する。
(15)遍者注 その他に、(9) でも触れているが、西光寺には句稿と思われるものが四枚保存されている。その中の二枚は、層雲俳句用箋に書かれたもので、井泉水に依ると思われる批点と添削が施されているので、『層雲』 に投句したものと推定されるが年月日不明である。後の二枚は便箋に書かれたものであるが、一枚は前述の二枚と同号様に批点と添削がなされており、『層雲』昭和二八年三月号に掲載されている二句があるので、『層雲』に送って井泉水に選を受けたものとわかる。もう一枚は、「俳句」と題して十句書かれており推敲の跡もある。本文に記載されている句誌や宗教誌での発表句以外にも四十句近くあることに触れておきたい。
(16)釈正信『多くを語らずー玄々子の世界−』所収。
(17)放哉年譜 筑摩書房(二〇〇二年四月)刊『放哉全集』第三巻所収。
(18) 日本放哉学会『尾崎放哉資料調査報告』(平成十四年三月二十九日)所収。
(19)桂子夫人の句碑。大正九年四月宝樹荘に滞在した時に詠んだ句。
   「夕となれば風が出る山荘よともしび」   
この句碑は大正十三年五月井泉水が遍路行で来島した時に彫った。昭和四十三年五月。本覚寺に移転。

(20)伊東俊二 (層雲同号人・後に層雲事務室) は放哉亡き後の南郷庵に昭和十三年六月十三日入庵している。
(21)昭和二十五年『層雲』四月号(放哉特輯号)
(22)大正十五年十月号『層雲』通信欄「大空放哉居士百ケ日忌執行」一部
(23)『放哉研究』第四号′「放哉の釆た道」森克允・日本放哉学会
(24)釈正信『多くを語らず−玄々子の世界−』所収。
(25)元西光寺住職瀬尾哲命談
(26)『尾崎放哉資料調査報告』平成十四年三月・日本放哉学会
(27)打電は四月七日午後十一時二分、「ヲザ キヒデ ヲシ   ケフビ ヨウシシタヲコシマツ」 ショウド シマサイコウジ」 とあり、西光寺より放哉の姉婿尾崎秀美氏あてである。−鳥取県立図書館蔵
(28)『俳壇春秋』第二・放哉追悼号 大正十五年七月号
(29)「一俳人」大正十五年六月十五日『大阪朝日新聞』
(30) 昭和十三年『層雲』五月号「私信」   なお、本文中「−彼が起臥してゐた本堂につゞく居間は、本堂から引き離して改築されて」云々は、昭和九年の室戸台風により建物が崩壊し、その後建てられたものである。
(31)『層雲』昭和三十九年四月号
(32)『層雲』昭和三十九年五月号
(33)弔辞は、『層雲』昭和三十九年五月号の 「玄々子のこと」の後半に書かれているが、巻紙に書かれた直筆の文と小し違うので、直筆の文を採用した。なお直筆は西光寺前有。レプリカ額装し放哉記念館に展示している。
(34) 「海は遠く」 の句を「玄々子追悼」と前書きして色紙に書いて贈っているが「梅咲きおはるとき」となっている。

《主な参考文献》 『俳壇春秋』第二・放哉追悼号 大正十五年七月号
『多くを語らず−玄々子の世界』釈正信編 平成七年六月刊
自由律俳句誌『層雲』各号
『放哉全集』全三巻 筑摩書房 二〇〇一年十一月〜二〇〇二年四月
『明治百年讃岐の高僧』大真言宗香川県連盟 昭和四十六年六月
『尾崎放哉資料調査柵報告』日本放哉学会(平成十四年三月二十九日)
『放哉研究』第四号 日本放哉学会 二〇〇五年十二月
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「放哉」南郷庵友の会
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