鳥取一中時代の尾崎放哉 小山貴子
今年(2000年)三月、県立鳥取西高校を訪問し、有形無形の収穫を得ることができた。特に私にとって意味深いのは、今まで個々の資料が、いわば〃点〃として存在していたものが、線で結びついていきつつあることである。春雨の中、訪れた鳥取西高校は、久松山(きゆうしょうざん)の麓、鳥取城趾にあり二の丸と三の丸の間に正門を構えた美しくも厳かな佇まいの学校であった。訪問を申し込んだのが直前であったにもかかわらず快く迎えていただき、閲覧を願い出た校友会雑誌『鳥城』(とりしろ)の他に学校関係の資料も取り揃えて下さっていた。それらの資料の中に、直接なり間接なり中学時代の放哉の姿を彷彿とさせるものがあったのである。
同校の前身は、鳥取県第一中学校(但し、学校創設以来、現在の校名になるまで十一回も変更しており、これは放哉卒業当時の校名である)であり、放哉は明治三十年に第十四回生として入学している。従来、尾崎秀雄(放哉)の入学は六月とされてきたが、『鳥取県立鳥取西高等学校創立百二十周年記念百二十年史年表』によると、この年も前年に続き九月一日であったことがわかる(但し、翌年より六月から始まるように改められたため次の年の五月で終了した)。この時、放哉は十三歳であった。『春の烟』に春名成章氏(放哉と同期)が、
今の鳥取市長楠城嘉一君(当時西垣姓)と高等小学校が同級で、楠城君は三年級から一足飛びに中学校に入学した。尾崎君も同時にパッスしたが、年が足らないので入学は許可されなかつたように覚えて居る。
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と記しているが、実際は高等小学校二年で入学可能であった。『鳥取西高百年史本文編』の中に、たまたまこの年の入試状況が掲載されていた。それによると、受験者は百九十四名で合格者が九十四名、約二倍の競争率である。県下に唯一の中学校で、遠方から集まる生徒のために寮を備えた学校である。九十四名の中に入るには相当な学力を要したことであろうが、中でも興味深かったのは、春名氏の記憶にあった合格者の年齢であった。高等小学校二年は合格者の最小年齢であるが、合格者が四名である。高等小学三年が二十四名で、最も人数の多いのは高等小学四年終了の六十五名(十五歳)であった。つまり放哉はクラスメートのほとんどが年上で、その約三分の二が二才年長である少年達と机を並べていたということである。それで思い浮かぶのが、『放哉評伝』に掲載された一中時代の写真である。写真館で写したらしい背景があって、友人たちと三人で写った放哉の顔が、他の二人に比して実に幼いのが印象的だった。やや首をかしげたふっくらとした顔立ちがそう思わせるのかと見ていたのだったが、成長目覚ましい時期に数年の年の差が顔に出たということなのであろう。
中学校に入った放哉は、よく遊びよく学び、スポーツに文学に多彩に活躍する優秀な少年としてその姿を残している。ここでは主に文学活動に焦点をあてて述べてみたいと思う。当時、梅史と号して『鳥城』に俳句を寄せていたことは夙に知られたことだが、既に俳句一筋に傾倒していたのだろうか。概観したところ、必ずしもそうはいえないようである。当時の活動状況をみると、俳句の他にも短歌あり随想あり短編小説ありなのだ。つまり、放哉にとって中学校時代は、文学に目覚め様々な創作を試みた「試作の時期」であったのではなかろうかと思われる。
先ず、随想や短編小説等の散文をみると、『鳥城』第三号(明治三十三年十二月刊)には随想「面白き現象」が、また第四号(明治三十四年三月刊)には随想「山」が載っている。もっとも、「山」は授業で教師の目にとまったものが模範文として発表された類いではないかと思われる。また、短編小説については、雑誌に発表されたものが残っているわけではない。中学校を終えて上京する前に、従妹の芳衛に手渡していったという『夜汽車』が一遍あるだけである。しかし、放哉の中に散文を書くという行為があったことは事実であり、それが一高に入り三年後に『俺の記』という、ランタンを主人公に寮の生活を活写する創作に繋がっていったわけである。しかも、「面白き現象」はその思想傾向において『俺の記』に通じるものがあるように感じる点は注自すべきではなかろうか。
短歌は、岩田勝市氏によると友人間で「斤齊会」という会を結成していたというが、現存しているのは、『鳥城』第三号に二首、「幼な友達」(『春の烟』所収)に岩田氏によって記録された七首にすぎない(但し、『鳥城』掲載の二首は岩田氏の記録と重なっている)。私の手元のコピーが不十分なため、わかる範囲でいえば「斤齊会」は第四号にも発表されているが梅の舎というペンネームの放哉の作品は掲載されていない。こういうことから、どの程度短歌の創作に意欲を燃やしていたのかはあくまで推測の域を出ないが、さほどに熱心でもなかったといえようか。しかし、少なくとも岩田氏(閑雲軒)の他、三浦俊彦(岩田氏と共に放哉より一級上)や山崎甚八らと共に創作活動をしていたことは疑いないところなのである。村尾草樹氏の年譜によると、明治三十四年に福光美規や山崎甚八、西谷繁蔵らと単行本『白薔薇』を発行したとあるが、それを書いた西谷氏の文章も『白薔薇』も未見のため詳しいことはわからない。それが短歌集であれば前述の推測は覆るのではあるが………。
俳句は、残された作品の数からいっても発表回数からいっても最も多いし、その後一高に入ると、校友会雑誌に二つの随想(『俺の記』と『非同色』ー瓜生鉄二氏の発見)を著してはいるが、目に見えて句作熱が旺盛になっている。その一高以後については他の機会に譲るとして、何故この時期俳句の創作が活発なのであろうか。その実態を調べると、放哉(当時の俳号は梅史)の句は、第二号が坂本四方太選で、第三、四号が「卯の花会」より、第五号が中川四明選によって、『鳥城』に毎号掲載されており、併せて二十一句になる。また、中学の校友会雑誌以外に、瓜生氏の調査によって、高木謙造氏によって発行された雑誌『木菟』(みみずく)にも、併せて五句が掲載されていることがわかっている。これらをみると、確かに短歌や散文より力が入っているようにみえる。が、この要因を私は当峙の鳥取の文芸活動の流れから捉えるべさではないかと考えている。
『市史 鳥取市七十年』の中の明治期の芸術運動を総括した箇所に、次のような記述がある。
鳥取における郷土文芸運動の発端は先づ指を「卯の花会」に屈すべきであろう。正岡子規によって点じられた明治維新の巨火は、坂本四方太によって鳥取にもたらされたといってよい。坂本四方太は当峙、東京帝大の文科に学んでいたのであるが、いまの鳥取市東町長田神社付近に家があって夏休みには帰省した。それが卯の花の香る時である。
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坂本四方太は虚子や碧梧桐と並んで全国に名が通っていたから、鳥取中学の学生をはじめ、これを迎えて俳句の指導を乞う者が多かった。
ここでは、明治期に鳥取に新しくもたらされた文学は、短歌でも近代詩でもなく俳句であったこと坂本四方太のもとに鳥取一中の学生が集まったことが記されている。同様な内容が、『ふるさと文学館第37巻』にもみられる。著者竹内道夫氏は、鳥取の近代文学は明治三十年前後に勃興したという定説をふまえ、卯の花会は「明治三十四五年が最も盛んであった」と著し、また、それ以前の鳥取を「文学不毛の地」と述べておられる。竹内氏の指摘によれば、卯の花会の盛会の時期が放哉の中学四、五年生の頃となり、『鳥城』に句が発表された時期と重なっている。当時のことを、入沢春光(本名武冶、放哉より一級下、後に『層雲』俳人として活躍した)は、彼の遺作集の中で、
六七前余が鳥取にありし頃は鳥取俳壇の隆盛時なりと思惟す。子規先生未だ逝かれず。碧梧桐氏も調を発して天明下を風靡したりし時に属せり。数多の俳会中卯の花会之が牛耳を取る。会員に故桂堂、寒楼、瓜弾、紫溟郎、の四天王あり。時雨、披酔(筆者注 披酔か)、二桐、素琴(今の翠明子か)の副将あり。以下将卒星の如く、御役人に士官に、教員に、はた若旦那に商人に学生に殆んどあらゆる階級の人を集めて会員五十有余名或は樗漢に伊咲草園に会員の宅に月次会を開きて句を作り俳を談ずるを常としたりき。(「大絃小絃」より) |
と、その盛んであった様を追懐している。文よりは武を尊しとする風土があったとすれば尚更のこと、明治に入り、新文明にぶれた一部知識人にとって、新しい文化への渇望は激しいものがあったであろう。しかし、いくら新しい文学を求める気風で満ち満ちてはいても、自分違だけで気勢を上げるには限界がある。高い理想から導いてくれる指導者を求めるのは当然のことである。そんな時、都から真っ先に受け入れられたのが、正岡子規が提唱した俳句革新の主要メンバーであった同郷の俳人坂本四方太であったということなのか。そうだとすれば、放哉もそうした動きの中にいた一人だったと考えるのが自然であろう。四方太は夏休みしか帰れなかったとしても、『ホトトギス』創刊当初から会員であった窪田桂堂が松山から鳥取裁判所の判事として帰郷しており、たびたび句会を開き卯の花会を支えていたという。放哉も直接に指導を受けるべく卯の花会に参加し、学生仲問と互いに研鍍に励みつつ習作を重ねたのではなかろうか。その結果が『鳥城』毎号の収載となったと思われる。ただ、俳句にあっても放哉は主要メンバーではなかったようだ。前述の竹内道夫氏にお話をうかがった腺も放哉は卯の花会のメンバーではなかったのではとお聞きしたし、春光の回想にしても、四天王の一人紫溟郎とは太中梅三(後の放哉の妻馨の姉みどりの夫)のことで放哉より二級上の学生、副将として二桐(山元寛之輔)・披酔(尾崎楕三)。素琴(吉村欣二)ら一級上の学生をあげても放哉の名はない。もっとも、放哉については、印象に残っているとみえて「其他にも読書文学に趣味を有せる友甚だ多かりき」中に、「英語のうまかりし尾崎梅史君」と記している。そうしたことからいっても、中学時代の放哉は、俳句一筋に熱中するというよりも、様々な分野で創作を試みつつ、文学に親しんでいたのではないかと思うのである。ただ、放哉が十八歳のある日、芳衛に「芳さんも俳句をするとよい 歌よりよいぜ」(日付不明、伊東俊二宛沢芳衛書簡)といったというから、中学卒業の前後は模索の峙期は過ぎていたのかもしれない。
最後に、放哉の文学活動における実力は当時の学生の中で認められる存在であったことを証明する記事を付しておきたい。それは『鳥城』第五号の会報欄に、放哉が文芸部の理事に選ばれたことが報告されていることである。この時、入沢武治ら三名と共に選ばれているが、『鳥取西高百年史』によれば、「通常会員の中より公選し、半年毎に改選」されるとある。組には一人ずつ文芸部委員がおり、委員を通じて意見並びに投稿する組織のようであるが、そのまとめ役として選ばれたのであるから、文学を趣味とする学生の中で一際目立った存在であったといえよう。
文学における活動状況と題したものの、概観ばかりになってしまって、作品に踏み込んでいく勇気がないのはひとえに勉強不足によるものだが、何分未開発の分野のせいもあって、資料の収集や整理、中学同窓生とのつながりの把握等に時を費やしてしまったことを御理解いただきたいと思う。晩年の放哉ばかりみていると、鳥取はいかにも遠い過去の地という印象を受ける。しかし、彼が数えで十八歳までの幼少年期を過ごした故郷なのだ。彼の嫌う言葉とは裏腹に、実は故郷への熱い思いがある。、小立品で件った次の句である。
故郷の冬空にもどつて来た
思えば、彼の辿った人生の航路も文学の創作も鳥取から出発しているのだ。私も鳥取を何度か訪れるうちに、ようやく地形もおぼろげながら頭の中に入り、親しみを感じ始めるようになった。それと共に、放哉にとって鳥取はどんなところなのか考えるようになった。そうした考察の一環として読んでいただけると幸いである。
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